第62話 縦穴
朝、番所から写しが届いた。
薄い木板に挟まれた紙束だった。
持ってきたのは、ミルダ本人ではない。
若い番卒だった。
だが、封には番所の印がある。
アリアはそれを見た。
すぐには手を伸ばさなかった。
右手は固定具の中。
左手は膝の上。
リナが横に立っている。
「読むなら、私が持ちます」
リナが言った。
「読みません」
アリアは答えた。
「見ます」
「その区別、今日は厳しくします」
「分かっています」
リナは少しだけ眉を寄せた。
それでも、紙束を卓の上に置いた。
伊織は左手で端を押さえる。
ヴォルフは壁際から覗き込む。
クロは椅子の下にいた。
胴輪はまだつけていない。
つけようとしたら逃げた。
今は、知らないふりをしている。
紙束の一枚目に、山水路の簡略図があった。
線は細い。
書いた者の手が震えていたのか、ところどころで墨が歪んでいる。
だが、必要なことは分かった。
石門。
合流点。
固定線。
壁の溝。
父の印。
その奥に、丸い穴の印。
縦の点検孔。
穴の横に、短い一文があった。
伊織には読めなかった。
古い言葉だった。
翻訳が詰まる。
頭の中で、意味が来ない。
アリアが目を細める。
読みそうになった。
リナがすぐに紙の端を伏せた。
「そこまでです」
「文字ではなく、形だけです」
「今のは文字でした」
「……はい」
アリアは認めた。
伊織は紙の穴の印だけを見る。
「そこに降りる」
「はい」
リナが紙を少しずらした。
文字を隠し、線だけを残す。
アリアは息を吐く。
「父の線です」
「読んだのか」
「覚えています」
前にも聞いた言葉だった。
だが、今回は少し違った。
アリアの声が、昨日より低い。
覚えていることが、嬉しいわけではない。
覚えているから、重い。
伊織は紙から手を離した。
「行くぞ」
老人が湯を飲みながら言った。
「飯を食ってからだ」
「食った」
「お前じゃない」
老人はアリアを見た。
アリアは少しだけ顔を逸らした。
皿には、半分残っていた。
リナが腕を組む。
「食べてください」
「……はい」
アリアは左手で匙を持った。
クロが椅子の下から鼻を出す。
アリアの皿を見た。
「これは駄目です」
クロは伊織を見る。
「見るな」
クロは尻尾を床に打った。
ヴォルフが笑った。
朝の宿には、まだ普通の音があった。
鍋。
水路。
匙。
人の息。
山の奥へ行けば、消える音だ。
伊織は青い金具を左手で確かめた。
戻るための金具。
黒い金具は、噛ませるため。
分ける。
間違えない。
それだけを、頭に入れた。
◆
山水路の入口は、昨日より濡れていた。
石門の柱。
崩れた縁。
ドレイスの印。
そこに細い水が溜まっている。
雨はない。
空は白く晴れている。
印だけが濡れている。
アリアは見た。
触れなかった。
伊織も触れない。
クロが鼻を近づけようとして、伊織が左手で止めた。
「嗅ぐな」
クロは不満そうに鼻を鳴らす。
ヴォルフが先に入る。
骨刃は抜いていない。
だが、いつでも抜ける位置にある。
リナはアリアの横。
アリアの左前腕には主縄。
伊織の左手にはガルドの縄。
腰には青い金具。
囮の黒い金具は二つ。
囮縄は一本。
昨日より、持ち物の種類が増えた。
重さも増えた。
その分、判断を間違えれば遅れる。
「一度は確認」
リナが言った。
「二度は戻れ」
ヴォルフが続ける。
「三度目を待つな」
アリアが言った。
伊織は頷いた。
老人は来ていない。
宿の前で「帰ってこなければ迎えには行かん」と言った。
嘘だろうと伊織は思った。
あの老人は、たぶん来る。
そういう顔をしていた。
狭い通路に入る。
水音が一つ減る。
昨日と同じ。
だが、足元の石の濡れ方が違う。
水が少し高い。
ヴォルフが足を止めた。
「昨日より増えてる」
「ああ」
「急いだ方がいいか」
「急がない」
伊織は言った。
「急ぐ場所ほど、ゆっくり行く」
「昔の仕事か」
「そうだ」
ヴォルフは少し笑った。
「いい仕事だな」
「いい仕事じゃない」
「だろうな」
合流点に着く。
黒い水。
壁の金属輪。
銀色の線。
今日は、線の光が弱い。
眠っているようにも見える。
だが、水は眠っていない。
伊織には分かった。
こちらを待っている。
昨日、囮縄を二本飲んだ場所。
水が、覚えている。
伊織は黒い金具を一つ、囮縄につけた。
左手だけで結ぶ。
時間がかかる。
リナが手伝おうとした。
「いい」
「遅れます」
「遅くていい」
伊織は結び目を締めた。
爪先で縄を押さえ、左手で引く。
右手なら一瞬だった。
今は、そうはいかない。
それでも、結べた。
結び目を歯で噛んで、最後に締めた。
アリアが見ている。
「痛みは」
「まだ肘の下だ」
「言い切りましたね」
「本当だ」
リナが横から見る。
顔は厳しい。
「私が見ています」
「見てろ」
伊織は囮縄を投げた。
黒い金具が、水面に触れる。
沈まない。
一瞬だけ浮く。
次に、黒い水が細く立ち上がった。
金具を舐めるように触れた。
そして噛んだ。
囮縄が重くなる。
伊織はすぐに端を離さない。
少しだけ持たせる。
水が、こちらの重さを探る。
伊織は主縄を左手首に巻き、囮縄を指先で押さえた。
二つの縄。
戻るもの。
噛ませるもの。
混ぜるな。
身体にそう言わせる。
「今です」
アリアが言った。
声は小さい。
だが、返ってきた。
まだ、音はある。
ヴォルフが金属輪に主縄をかける。
リナがアリアを支える。
クロは胴輪の金具を鳴らしながら、低く進む。
囮縄がさらに沈む。
伊織は端を離した。
黒い金具ごと、水に消える。
残りの囮縄は、もうない。
黒い囮金具も、あと一つ。
伊織は何も言わない。
言えば、手が鈍る。
前へ進む。
◆
父の印は、昨日と同じ場所にあった。
壁の溝の奥。
鈍い黒の鉄。
銀色の線の欠けと同じ高さ。
水は、まだ逆流していない。
アリアは目を細める。
読まない。
形だけを見る。
「残っています」
「取らない」
伊織が言う。
「はい」
アリアはすぐ答えた。
その声に、少しだけ悔しさが混じっていた。
取りたいのではない。
確かめたい。
父の手に触れたい。
だが、触れれば水が来る。
伊織にも分かった。
分かったから、何も言わない。
ヴォルフが奥を指す。
「穴はどこだ」
アリアは布で覆った写しを見た。
リナが穴の印だけを見せる。
「この先です。線は、奥へ向かっていません」
「じゃあ」
「下へ向かっています」
声が沈んだ。
銀色の線は、水の底をまっすぐ進んでいない。
途中で、壁際に寄る。
欠けの先。
溝の奥。
父の印。
そこから、下へ落ちている。
伊織は灯りを低くした。
水面が暗い。
黒い水の下に、丸い影がある。
穴だ。
石床が丸く抜けている。
水はそこへ落ちている。
音はない。
落ちる水に、音がない。
それだけで、足の裏が冷えた。
ヴォルフが低く言う。
「深いな」
「音では分からん」
伊織は膝をつき、灯りを近づける。
穴の縁に古い鉄の輪が三つあった。
錆びている。
だが、完全には死んでいない。
使えるようにも見える。
使えないようにも見える。
伊織は触らない。
「自前で固定する」
ヴォルフが頷く。
「壁に打ち込むか」
「打ち込まない。響く」
「じゃあ」
「輪に通す。だが、重さは預けない」
伊織は青い金具を取り出す。
ガルドの縄を通す。
もう一つ、鍛冶屋で作った補助縄をつなぐ。
結ぶ。
締める。
左手だけでは遅い。
だが、雑にはしない。
水の音が消えていく。
一つ。
また一つ。
遠くなる。
リナがアリアの肩を支える。
「顔色が悪いです」
「まだ立てます」
「その返事で通すのは、今日で終わりにしてください」
「……はい」
アリアは少しだけ唇を結んだ。
その時、穴の底から声がした。
小さな声だった。
水音に混じらない。
水音がないから、余計にはっきり届く。
「アリア」
父の声だった。
アリアの身体が止まった。
リナが即座に肩を掴む。
伊織は主縄を一度引いた。
確認。
ヴォルフ。
リナ。
アリア。
クロ。
返る。
だが、アリアの返りが遅い。
穴の底から、もう一度。
「アリア」
優しい声だった。
たぶん、そうなのだろう。
伊織は知らない。
だが、アリアの顔を見れば分かった。
この声は、アリアが知っている。
リナが耳元で言う。
「聞いても、返さないで」
「分かっています」
「目を下げて。穴ではなく、私を見て」
「……はい」
アリアの声は震えていた。
だが、返事はしていない。
伊織は穴を見る。
黒い。
底は見えない。
そこから、父の声がする。
次に聞こえたのは、別の声だった。
「あの店、また行こうな」
伊織の左手が冷えた。
古傷が、鉄に触れたように痛む。
南条の声。
軽い声。
何でもない約束をする声。
伊織は目を伏せない。
穴を見る。
声の方は見ない。
声の方など、どこにもない。
クロが低く唸った。
伊織の足元に身体を押しつける。
重い。
温かい。
今ここにいる身体だった。
伊織は主縄を二度引いた。
戻れ。
全員が一斉に反応する。
ヴォルフが振り返る。
リナがアリアを引く。
アリアは足を動かした。
遅い。
だが、動いた。
穴の底から、声が増える。
アルド。
南条。
知らない声。
名前を呼ぶ声。
呼ばれた名前の意味は、翻訳されない。
ただ、呼んでいることだけが分かる。
伊織は最後の黒い金具を取り出した。
穴の縁へ投げる。
水がそれを噛む。
声が一瞬、歪んだ。
その隙に、全員が固定線の手前まで戻る。
音が少しだけ返る。
水の落ちる音は、まだない。
アリアの息が荒い。
リナが顔を確認する。
「戻ります」
アリアは首を横に振りかけた。
伊織が言う。
「今日は降りない」
アリアは伊織を見た。
目が揺れていた。
「でも」
「穴を見た。声も聞いた。道具も試した」
「父の声が」
「声だ」
伊織は短く言った。
「父親じゃない」
きつい言い方だった。
だが、必要だった。
アリアは唇を噛んだ。
リナがアリアの肩を支える。
ヴォルフが静かに言った。
「戻るぞ」
クロが一度、短く吠えた。
今度は音が返った。
細く、遅れて。
それで決まった。
伊織は主縄を引く。
二度ではない。
一度。
確認。
全員が返す。
穴の底から、まだ声がする。
だが、遠い。
名前を呼ぶものは、こちらまで上がってこない。
今はまだ。
◆
戻り道で、誰も話さなかった。
合流点を過ぎる。
狭い通路へ入る。
水音が一つ戻る。
もう一つ戻る。
石門が見える。
外の光が細く差している。
そこまで来て、アリアが膝をついた。
リナがすぐに支える。
「熱が上がっています」
「……すみません」
「謝るなら、次に黙って耐えないでください」
「はい」
アリアは素直に頷いた。
伊織は右手を見る。
痛みは肘の少し上。
肩までは来ていない。
だが、昨日より長く残っている。
薬指は動かない。
中指だけが、固定具の中で小さく震えていた。
ヴォルフが穴の方を見る。
「降りなかったな」
「ああ」
「正解か」
「分からん」
「俺は正解だと思う」
伊織はヴォルフを見た。
ヴォルフは肩をすくめる。
「穴は逃げない。こっちは逃げられる時に逃げた。悪くない」
悪くない。
そう言いかけて、伊織はやめた。
代わりに、主縄を左手で握り直した。
ガルドの縄は濡れていない。
だが、指に残る感触が変わっていた。
水ではない。
泥でもない。
声が近くを通ったあとに残る、嫌な震え。
伊織はそれを振り払わなかった。
覚えておく。
石門を出る。
外の風が顔に当たった。
音が戻る。
鳥の声。
木の葉。
遠くの町。
クロの息。
アリアは目を閉じていた。
リナに支えられながら、それでも自分の足で立っている。
「聞こえました」
アリアが言った。
「はい」
リナが答える。
「返事はしていません」
「知っています」
アリアは目を開けた。
伊織を見る。
「東さんも」
「ああ」
「聞こえたのですね」
「ああ」
「返事は」
「していない」
アリアは小さく頷いた。
「なら、戻れました」
それだけ言った。
伊織は返さなかった。
石門のドレイスの印は、また濡れていた。
今度はさっきより濃い。
その水が、細く下へ垂れている。
誰かがこちらを見ている。
それは分かった。
だが、今は追わない。
追えば、戻る足が鈍る。
戻る。
今日はそれだけでいい。
◆
南宿へ戻ると、老人が宿の前にいた。
迎えには行かないと言った男が、杖も持たずに立っていた。
伊織を見るなり、老人は言った。
「降りたか」
「降りていない」
「声は」
「聞いた」
「返事は」
「していない」
老人はアリアを見る。
「お前もか」
「はい」
「なら、今日は勝ちだ」
勝ち。
その言葉は、山水路には似合わなかった。
だが、老人が言うと少しだけ本当に聞こえた。
リナがアリアを座らせる。
すぐに手を見る。
老人も横から診る。
「熱は上がってる。だが、焼けてはいない」
「明日は」
アリアが聞いた。
リナが即座に言う。
「行きません」
「まだ何も」
「行きません」
老人も頷いた。
「明日は道具を見る。穴へ降りるなら、もう一組、戻る金具がいる」
「囮は」
伊織が聞く。
「残っていない」
「作る」
「作るだけじゃ足りん。あの穴は声で噛む」
老人は青い金具を見る。
「水に噛ませるものだけじゃない。声に噛ませるものが要る」
「どういうものだ」
「知らん」
老人は即答した。
「だから考える」
リナが疲れた顔をした。
「今日はもう終わりです」
誰も反論しなかった。
アリアも。
伊織も。
ヴォルフも。
クロだけが、胴輪を外せと床に転がった。
リナがようやく外すと、クロは大きく身体を振った。
金具が外れた音が、床に落ちる。
乾いた音だった。
ちゃんと返ってきた。
伊織はその音を聞いた。
返る音。
今はまだ、ここにある。
店主が遅い昼飯を出してくれた。
温かい汁。
固いパン。
クロ用の小さな皿。
アリアは左手で匙を持った。
少しこぼした。
リナが布を出す。
アリアは自分で拭いた。
伊織は青い金具を卓の端に置いた。
穴には降りなかった。
だが、穴は見た。
声も聞いた。
底はまだ見えない。
父の声も、南条の声も、本物ではない。
そう言い切るには、まだ何かが足りない。
だが、返事はしなかった。
それだけは残った。
伊織は左手の古傷を一度だけ見た。
冷えは、もう引いていた。
かわりに、縄の跡が皮膚に残っている。
戻れた跡。
穴の底から、まだ名前を呼ぶ声がしている気がした。
伊織は匙を取った。
食う。
戻ったら、食う。
それも、身体が覚えればいい。
外の水路が鳴っていた。
音は返ってくる。
明日はまだ、降りない。
次に降りるために、戻ってきた。




