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第61話 残してはいけなかったもの

 南宿に戻るころ、昼は少し過ぎていた。


 誰も大きな怪我はしていない。


 それだけなら、昨日よりましだった。


 だが、足取りは重い。


 主の縄は守った。


 囮の縄は二本失った。


 残り一本。


 伊織は左手で、その軽い縄を持っていた。


 軽い。


 戻るための縄ではない。


 噛ませるための縄だ。


 同じ縄でも、役目が違う。


 その違いを、もう身体が覚えていた。


 宿の前に、黒い外套の男が立っていた。


 ドレイス・オルガ。


 外縁管理局長代理。


 杖を持ち、昨日と同じように背筋を伸ばしている。


 護衛はいない。


 少し離れた場所に、番所長ミルダが立っていた。


 帳面を抱え、面倒そうな顔をしている。


 店主は入口の横で、落ち着かない様子だった。


 リナがアリアの前に出た。


 クロが低く唸る。


 ヴォルフは骨刃の柄に触れた。


 ドレイスは一歩も動かなかった。


「お帰りなさいませ」


 責める声ではなかった。


 待っていた者の声だった。


 伊織は返事をしない。


 アリアが口を開く。


「なぜ、ここに」


「知らせを受けました」


「誰からですか」


「山水路の入口から」


 アリアの顔が変わった。


 石の門。


 崩れた柱。


 濡れていた、ドレイスの印。


 伊織はドレイスを見る。


「見ていたのか」


「いいえ」


「なら、どうやって知った」


 ドレイスは杖の先を石畳に置いた。


 細い音がした。


「印が濡れました」


 風が一度、宿の前を抜ける。


 水の匂いが混じっていた。


「あなた方が山水路に入れば、入口の印に水が上がるようにしてあります」


「警報か」


「見張りです」


「同じだ」


「そうかもしれません」


 否定しなかった。


 アリアが一歩前へ出る。


 リナが支えようとして、止めた。


 アリアは自分で立った。


「あなたは、私たちが入ったことを知っていた」


「はい」


「止めに来なかった」


「止めれば、別の入口を探されたでしょう」


 ヴォルフが低く笑った。


「分かってるじゃねえか」


「アルド様も、そういう方でした」


 その名が出た瞬間、アリアの左手がわずかに動いた。


 握ろうとして、やめた。


「父の名を、便利に使わないでください」


 声は硬かった。


 ドレイスは頭を下げる。


「失礼しました」


 謝罪の形をしていた。


 だが、伊織には分かった。


 ドレイスは謝ることに慣れている。


 謝りながら、必要なものを通すことに慣れている。


 ミルダが口を挟んだ。


「表でやる話か」


「中で」


 リナが言った。


「アリアさんは座らせます。伊織さんも」


「俺はいい」


「よくありません」


 リナは即答した。


 ドレイスが伊織の右手を見る。


 固定具。


 わずかに強張った指。


「右手も、反応したのですね」


 伊織はドレイスを見た。


「今、何と言った」


「印を見たのでしょう」


「触れていない」


「見た」


 ドレイスは短く言った。


「それだけで、十分なことがあります」


 宿の入口で話す内容ではなかった。


 伊織は扉を見る。


「中だ」


 ミルダが鼻を鳴らした。


「最初からそうしろ」



 宿の広間には、まだ昼の匂いが残っていた。


 煮込みの匂い。


 湯の匂い。


 濡れた外套の匂い。


 店主が茶を出した。


 誰もすぐには飲まなかった。


 アリアは椅子に座らされている。


 リナが右手の熱を確認する。


 ヴォルフは壁際。


 クロはアリアの足元。


 ミルダは卓の端に座り、帳面を開いた。


「町の中で話すなら、記録に残す。嫌なら外でやれ」


「記録に残してください」


 アリアが言った。


 ドレイスは一瞬だけ目を伏せた。


「構いません」


 ミルダの筆が動く。


 ドレイスはアリアを見る。


「印を見ましたか」


「見ました」


「取らなかった」


「はい」


「賢明です」


 リナの目が険しくなる。


「なぜですか」


「取れば、戻る線が切れます」


 広間の音が薄くなった。


 伊織は卓の上に左手を置く。


 右手は膝の上。


 固定具の中で、中指がまだ痛んでいる。


「説明しろ」


 ドレイスは頷いた。


「アルド様が残した印は、封印ではありません」


 アリアは黙って聞いている。


「鍵でもない。道標でもない」


「では、何ですか」


「楔です」


 ドレイスの声は揺れなかった。


「流れの中に、戻るための線を固定する楔です」


 伊織は山水路の奥を思い出す。


 銀色の線。


 欠け。


 壁の溝。


 黒い鉄の印。


 三つが並んだ瞬間、水が逆流した。


「取れば、どうなる」


「線が外れます」


「外れると」


「水路が、奥へ引き込みます」


「人をか」


「名前を」


 リナが息を止めた。


 アリアは目を閉じた。


 読もうとしたのではない。


 聞いた言葉を、飲み込むための顔だった。


「名前を引き込む水路、ということですか」


 リナが聞く。


「本来は、違います」


 ドレイスは言った。


「本来は、土地の名、人の名、流れの名を分け、戻すための制御路です」


 本来は。


 その一語で、十分だった。


 今は、違う。


 伊織はドレイスを見る。


「奥に何がある」


 ドレイスは少しだけ間を置いた。


「黒い歯車です」


 アリアの肩がわずかに動く。


 リナがすぐに支える。


 ヴォルフは骨刃の柄から手を離さない。


 黒い歯車。


 リュード旧水制御陣。


 名を削る鎖。


 ゼクト。


 父の印。


 全部が、同じ場所へ近づいている。


「どこまで分かっている」


 伊織が聞く。


「外側だけです」


「中は」


「アルド様が降りました」


 アリアが顔を上げる。


「降りた?」


「山水路の奥には、縦の点検孔があります」


「縦穴か」


 伊織が言った。


「はい。古い管理路へ降りるためのものです」


「深さは」


「音では測れません」


「水音が返らないからか」


「はい」


 そこで、ドレイスは言葉を止めた。


 ミルダの筆が止まる。


「続きは」


 アリアが言った。


「報告書があります」


 ドレイスは答えた。


「アルド様が残したものです」


 アリアの唇が動いた。


 声はすぐには出なかった。


「父の報告書が、あるのですか」


「あります」


「なぜ、今まで黙っていたのですか」


 静かな声だった。


 静かすぎた。


 ドレイスは逃げなかった。


「読めば、あなたは行くと思ったからです」


「私はもう行きました」


「だから、話しています」


「遅いです」


「はい」


 それ以上は、言わなかった。


 アリアは立ち上がろうとした。


 リナが止める。


「座ってください」


「でも」


「座ってください」


 アリアは座った。


 その代わり、目を逸らさなかった。


「報告書を見せてください」


「写しを用意します」


「原本でなくて構いません」


「明日の朝、番所へ届けます」


「私のところにも」


「はい」


 ミルダが帳面に書きつける。


「聞いたな。明日の朝だ。持ってこなければ、こっちから取りに行く」


 ドレイスは頷いた。


「承知しています」


 伊織はドレイスを見る。


「縦穴のことをもっと話せ」


「上から下へ、旧管理路へ落ちるように伸びています。人が通れる幅はあります。ただし、壁に古い鉄の輪があります」


「固定用か」


「おそらく」


「使えるか」


「分かりません」


「分からないものは使わない」


 伊織は短く言った。


 ドレイスの目が少し動いた。


「経験があるのですか」


「昔の仕事だ」


 それだけで止めた。


 SAT時代。


 降下訓練。


 ハーネス。


 カラビナ。


 壁面。


 ロープの擦れる音。


 下を見ないこと。


 上の人間を信じること。


 最後に降りる者が、一番孤独になること。


 身体は覚えている。


 使う場所がなかっただけだ。


 ヴォルフが伊織を見る。


「降りるなら、俺が先か」


「違う」


「じゃあ誰だ」


「荷を先に下ろす。次にクロ。次にアリア。リナ。お前。俺が最後だ」


「最後?」


 リナが聞く。


「降ろす側が必要だ。固定する側もいる。最後に残るのは俺でいい」


「いい、ではありません」


 リナがすぐに言った。


「最後の人が一番危険です」


「知っている」


「知っているから、やるんですか」


「そうだ」


 リナは納得していない顔をした。


 アリアも同じだった。


 だが、反論はしなかった。


 今の手では、自分が最後に残ることはできない。


 それを、アリア自身が一番分かっている。


 ドレイスが言った。


「道具が要ります」


「作る」


 伊織は立ち上がった。


 リナが眉を寄せる。


「今からですか」


「ああ」


「手は」


「左で足りる」


「足りません」


「見るだけだ。作るのは鍛冶屋だ」


 老人はまだ来ていない。


 だが、待っている時間はなかった。


 話を増やせば、足が止まる。


 足が止まれば、次に出す一歩が重くなる。


 伊織はそれを知っていた。


「鍛冶屋に行く」


 伊織は言った。


「必要なものを決める」


 ヴォルフが骨刃を腰に戻した。


「そういう話なら、俺も行く」


「私も行きます」


 アリアが言った。


 リナが即座に首を横に振る。


「歩くだけです」


「歩くだけでも熱が上がります」


「では、ゆっくり歩きます」


「そういう問題では」


「見ないと、分かりません」


 アリアの声は静かだった。


「父が降りた場所へ行く準備です。私は見ます」


 リナは少しだけ黙った。


 そして息を吐いた。


「私が横につきます」


「はい」


 ミルダが帳面を閉じた。


「私は番所に戻る。明日の朝、報告書の写しが来なければ、局へ行く」


「助かります」


 アリアが言った。


「町の厄介ごとを町の帳面に縛ってるだけだ」


 ミルダはそう言って、先に出ていった。


 ドレイスは立ち上がる。


「私は局に戻ります」


「逃げるなよ」


 ヴォルフが言った。


「逃げるつもりなら、ここへは来ませんでした」


 ドレイスはアリアを見る。


「印は取らないでください」


「理由は聞きました」


「もうひとつあります」


 ドレイスの視線が、伊織に向く。


「黒い歯車は、呼びます」


 伊織は黙った。


「名前を呼ばれても、振り返らないでください」


 南条の声が、遠くで鳴った気がした。


 あの店、また行こうな。


 伊織の左手の古傷が冷えた。


 南条の名前が、そこに触れた気がした。


 それ以上は追わなかった。


「分かった」


 伊織は言った。


 その返事が信用されていないことは、自分でも分かった。


 クロが足元に来て、鼻先を左手に押しつけた。


 温かかった。



 鍛冶屋は宿から二筋先にあった。


 水路職人の道具も扱う、小さな店だ。


 炉の熱。


 鉄粉の匂い。


 古い革の匂い。


 伊織は店に入る前に、右手を見た。


 固定具の中で中指が痛む。


 薬指は動かない。


 だが、さっき震えた。


 それだけで十分ではない。


 使える手ではない。


 リナに見られている。


 伊織は右手を下ろした。


 店主は髭の濃い男だった。


 ヴォルフを見ると、顔をしかめる。


「また厄介ごとか」


「今回は俺じゃない」


「お前が来た時点で厄介だ」


 ヴォルフは否定しなかった。


 伊織は卓の上に、残った囮縄を置いた。


「輪が欲しい」


 店主が縄を見る。


「輪?」


「人の体を固定する輪。腰と胸。荷にも使う。外す時に片手で外せる金具もいる」


「何に使う」


「縦穴を降りる」


 店主の顔が変わった。


 南宿の人間は、山水路の話になるとすぐに表情が変わる。


 この町は、知らないふりをしているだけだ。


 覚えている。


「山か」


「そうだ」


「やめろ」


「できない」


 店主は伊織を見た。


 次にアリアを見た。


 固定された右手。


 白い顔。


 それでも、立っている目。


 店主は舌打ちした。


「図を描け」


 伊織は左手で木片を引き寄せた。


 炭で線を引く。


 腰回り。


 胸の固定。


 肩にかかる補助線。


 腿の輪。


 締める位置。


 外す位置。


 金具の向き。


 手が一つ使えなくても外せる場所。


 アリア用。


 リナ用。


 ヴォルフ用。


 クロ用。


 最後に、自分用。


 線は雑だった。


 だが、必要なところは伝わる。


 店主は黙って見ていた。


 ヴォルフも黙っていた。


 リナは途中で口を挟む。


「アリアさんの右手では、この位置は無理です」


「なら左で外せるようにする」


「左も支えに使います」


「外すのはリナだ」


「それなら、この金具は前です」


「分かった」


 伊織は線を直す。


 アリアはその様子を見ていた。


 文字を読む目ではない。


 道具を見る目だった。


「クロは」


 アリアが言った。


「首だけでは駄目です」


「分かってる」


 伊織はクロを見る。


 クロは不満そうに耳を動かした。


「胴を通す。前足の後ろ。首は補助だ」


「苦しくならないように」


「分かってる」


 クロが鼻を鳴らす。


 店主が笑いかけて、やめた。


 伊織が見ていたからだ。


「金はかかるぞ」


 店主が言う。


「払う」


「今すぐは無理だ。夕方までかかる」


「急げるか」


「急がせるな。落ちる道具だろうが」


 伊織は少し黙った。


「戻る道具だ」


 店主は手を止めた。


 炉の音が鳴る。


「落ちるためじゃない。戻るためだ」


 店主は伊織を見た。


 しばらくして、鼻を鳴らした。


「なら、余計に雑には作れん」


「頼む」


「頼まれた」


 店主は奥へ向かった。


 鉄の輪を探す音がする。


 ヴォルフが伊織の隣に立った。


「お前、こういうのに慣れてるな」


「昔の仕事だ」


「便利な仕事だな」


「便利じゃない」


 ヴォルフは笑わなかった。


「そうだろうな」


 リナがアリアの手を確認する。


「熱が上がっています」


「少しです」


「戻ります」


「まだ見ていません」


「見ました」


「もう少しだけ」


「駄目です」


 アリアは不満そうにした。


 クロがアリアの足元に座った。


 そのまま、尻尾でアリアの足首を叩いた。


「……クロまで」


 クロは動かなかった。


 伊織は木片の図を見ていた。


 線。


 輪。


 固定具。


 縄。


 水に噛ませるもの。


 人を戻すもの。


 混ぜてはいけない。


 今は、何を持っていくかが分かっている。


 何を捨てるかも。



 夕方前、老人が鍛冶屋に現れた。


 誰かが呼んだのだろう。


 店に入るなり、伊織の描いた図を見た。


「雑だな」


「使えればいい」


「雑な図で作った道具は、人を落とす」


 老人は炭を取った。


 伊織の線の上に、別の線を足す。


 力がかかる場所。


 擦れる場所。


 水に触れさせない位置。


 切るべき場所。


 切ってはいけない場所。


「主の金具と、囮の金具を分けろ」


「分ける」


「色を変えろ」


「どうやって」


 老人は店主を見る。


「焼き色を変えろ。戻る金具は青く焼け。噛ませる金具は黒でいい」


「手間が増える」


「人が落ちるより安い」


 店主は文句を言わなかった。


 伊織は老人の線を見る。


 分かりやすい。


 現場の線だ。


 医者の線ではない。


 戻ってきた者の線だ。


「降りたことがあるのか」


 伊織が聞く。


 老人は答えない。


 炭を置いた。


「見送ったことならある」


 それだけだった。


 伊織は追わなかった。


 アリアも、聞かなかった。


 今、聞くことではない。


 店主が金具を並べ始めた。


 青く焼くもの。


 黒いままのもの。


 輪。


 留め具。


 外すための爪。


 捨てるための細い環。


 伊織はひとつずつ左手で持った。


 重さを確かめる。


 角を確かめる。


 擦れる場所を指でなぞる。


 右手ならもっと早い。


 今は左手でやるしかない。


 左手の古傷が、鉄に触れるたびに少し冷えた。


 南条の名前は、もう追わなかった。


「これ、角を落としてくれ」


 伊織が言う。


 店主が受け取る。


「ここも」


「細かいな」


「皮が切れる」


「落ちるよりはいいだろ」


「皮が切れると、落ちる」


 店主は黙った。


 削り直した。


 ヴォルフが横で見ている。


「お前、やっぱり嫌な場所に慣れてる」


「言われた」


「誰に」


「老人に」


「なら本当だ」


 クロ用の小さな胴輪が最後に置かれた。


 クロはそれを見るなり、一歩下がった。


 アリアがしゃがもうとして、リナに止められた。


「私が」


 リナが胴輪を手に取る。


 クロは嫌そうな顔をした。


「噛むなよ」


 伊織が言う。


 クロは伊織を見た。


 少し考えるように耳を動かした。


 それから、大人しく前足を通した。


 リナが留め具を締める。


 クロは固まった。


 ヴォルフが吹き出しかけた。


 クロが睨む。


 ヴォルフは咳払いした。


「似合うぞ」


 クロは尻尾で床を一度叩いた。


 アリアが口元を押さえる。


 笑ったわけではない。


 たぶん。


 伊織は見ないことにした。


 次にアリア用。


 リナが確認する。


 右手を使わずに装着できるか。


 左手だけで外せるか。


 リナが外せる位置か。


 アリアは黙って立っていた。


 顔色は悪い。


 それでも、目は折れていない。


 伊織はその目を見て、すぐに視線を戻した。


 最後に、自分用。


 伊織は左手で輪を通す。


 右手は使えない。


 店主が手を貸そうとした。


「いい」


 伊織は断った。


 左手だけで締める。


 時間がかかる。


 それでも締まった。


 老人が見る。


「最後に残る気か」


「ああ」


「馬鹿だな」


「知っている」


「知ってる馬鹿は、少しましだ」


 老人はそう言って、細い刃を一本、伊織に渡した。


 刃というより、縄を切るための小さな道具だった。


「噛まれたら切れ。惜しむな」


「主縄でもか」


「人が落ちるなら、切れ」


 伊織は小さな刃を見た。


 ガルドの縄。


 返すもの。


 だが、人が落ちるなら。


 伊織は刃を左の腰に入れた。


「分かった」


 老人は信用していない顔をした。


 それでも、それ以上は言わなかった。



 宿へ戻るころには、空が暗くなり始めていた。


 全員が、それぞれの金具を持っている。


 主の金具は青く焼かれている。


 囮の金具は黒いまま。


 分ける。


 間違えない。


 それだけで、生き残る確率が変わる。


 宿の広間では、店主が夕飯を用意していた。


 鍋の音。


 水路の音。


 クロの足音。


 今は、音が返ってくる。


 山の奥では返らない。


 そこへ降りる。


 声を信じず。


 名前に振り返らず。


 戻るための線を辿る。


 アリアは席についた。


 リナがすぐに右手の熱を確認する。


「上がっています」


「少しです」


「今日はもう何もしません」


「はい」


 今度は素直だった。


 ヴォルフが骨刃を壁に立てかける。


 老人は勝手に席に座った。


 伊織は卓の上に、青い金具を置く。


 軽くはない。


 いい重さだった。


 アリアがそれを見る。


「これで、降りられますか」


「降りるだけならな」


「戻るには」


「戻るために作った」


 アリアは少しだけ頷いた。


「父は、一人で降りたのですね」


 誰も答えなかった。


 今度は、沈黙だけでよかった。


 アリアは青い金具を見た。


「私は、一人では行きません」


 声は小さい。


 けれど、全員に届いた。


 伊織は頷いた。


「それでいい」


 クロがアリアの足元で丸くなる。


 胴輪をつけたままなのが気に入らないらしく、何度か体を揺すった。


 外れない。


 クロは諦めた。


 リナが少し笑った。


 ヴォルフも笑った。


 アリアは目を逸らした。


 伊織は見なかったことにした。


 店主が温かいものを運んできた。


 四人分。


 一匹分。


 老人の分もあった。


 ドレイスの分はなかった。


 それでよかった。


 今夜は、こちら側の食卓だった。


 伊織は左手で匙を取る。


 右手の固定具の中で、中指が痛む。


 薬指は動かない。


 だが、さっき震えた。


 少しずつ戻っている。


 それが良いことかどうかは、まだ分からない。


 鍋の湯気が上がる。


 水路の音が返る。


 明日は、音の返らない穴へ降りる。


 伊織は青い金具を一度だけ見た。


 落ちるためではない。


 戻るためだ。


 その重さだけを、手の中に残した。


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