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第60話 固定線

 東の山水路は、昨日と同じ顔をしていた。


 苔のついた階段。


 半分割れた石蓋。


 山肌に沿った細い補修路。


 暗い水。


 変わったものはない。


 だが、伊織には昨日より狭く見えた。


 一度入った場所は、もう知らない場所ではない。


 知らない場所ではない分、嫌なところが目につく。


 足を置けば滑る石。


 手をつけば崩れる壁。


 音を飲む水。


 そして、昨日より黒くなったガルドの縄。


 伊織は左手で縄を確かめた。


 主の縄。


 戻るための縄。


 その横に、古い荷縄を三本。


 囮の縄。


 水に噛ませるためのもの。


 ガルドの縄より軽い。


 頼りない。


 だが、噛ませるにはそれでいい。


 先頭はヴォルフ。


 その後ろにアリアとリナ。


 伊織は最後尾。


 クロは前後を行き来している。


 全員が昨日と同じ位置だった。


 違うのは、誰も無駄にしゃべらないことだけだ。


 アリアの右手は固定されている。


 熱は下がった。


 だが、動かない。


 リナが何度も確認した。


 老人も確認した。


 最後に、アリア自身が左手で固定具の端に触れた。


「大丈夫です」


 そう言った。


 リナは信じなかった。


 だが、止めなかった。


 それが、今日の答えだった。


 補修路の入口に着く。


 石の門。


 崩れた柱。


 古い文字。


 伊織は何も言わず、アリアと文字の間に立った。


 アリアは柱を見なかった。


 リナも地図を出さない。


 ヴォルフだけが、柱の下の傷を見た。


 風車に似た印。


 ドレイスの印。


 昨日と同じ場所にある。


 新しくはない。


 だが、薄く濡れていた。


 雨は降っていない。


「濡れている」


 ヴォルフが言った。


 伊織はしゃがまなかった。


 見れば分かる。


 印の溝に、水が残っている。


 柱の上でも下でもない。


 そこだけだ。


「水路の水か」


 リナが聞く。


「分からん」


 ヴォルフは骨刃の柄に触れた。


「だが、誰かが触った後だ」


「ドレイスか」


「本人か、部下か、別の誰かか」


 伊織は印を見る。


 触れない。


 触れば、向こうも覚える。


 老人の言葉が残っていた。


 水路は、一度触れたものを覚える。


 伊織は立ったまま言った。


「行くぞ」


 誰も反対しなかった。



 昨日戻れた場所までは、早かった。


 早く感じたのではない。


 本当に早かった。


 老人が地図に印をつけた。


 戻れた場所。


 水が噛んだ場所。


 銀色の線が見えた場所。


 その三つがあるだけで、道は変わった。


 アリアは地図を読まない。


 リナが布をめくる。


 線の一部だけを見せる。


 アリアが目で追う。


 すぐに布を戻す。


 その繰り返し。


 文字は見えない。


 見えそうになる前に、リナが閉じる。


「次、右です」


「右に隙間」


 ヴォルフが先に答える。


「昨日通った」


「はい」


「その先は」


「水音が一つ消えます」


 アリアは言った。


 リナが彼女を見る。


 アリアは続けない。


 説明しない。


 線だけを追う。


 それでいい。


 狭い通路に入った。


 水音が一つ消える。


 耳が少し遅れる。


 昨日より早く気づいた。


 伊織は縄を一度引いた。


 一回。


 確認。


 ヴォルフ。


 リナ。


 アリア。


 クロ。


 順に返ってくる。


 広い合流点が見えてきた。


 黒い水。


 天井の低い空間。


 壁の金属の輪。


 昨日、音が消えた場所。


 伊織は足を止める。


 右手は固定具の中。


 中指だけが、わずかに動く。


 今日は昨日より早い。


 痛みも早い。


 老人は、痛みが肩に来たら戻れと言った。


 まだ肘の下だ。


 伊織は囮縄を一本、左手に持った。


 結び目を確かめる。


 荒い。


 だが、噛ませるだけなら足りる。


「先に投げる」


 伊織が言った。


 ヴォルフが頷く。


「噛ませる場所は」


「昨日と同じ」


 リナが地図を出す。


 布を開く。


 黒い点。


 老人が足した印。


 水が噛んだ場所。


 アリアはそれを見て、すぐ視線を外した。


「水路の右端です」


「文字は」


「見ていません」


 伊織は囮縄を握った。


 息を止める。


 合流点の手前。


 黒い水が流れる溝。


 そこへ、囮縄を投げた。


 縄は音もなく落ちた。


 水音は返らない。


 囮縄は黒い水の上に浮いた。


 一瞬。


 次の瞬間、沈んだ。


 引かれたのではない。


 沈められた。


 伊織は囮縄の端を離さない。


 左手に重さが来る。


 水が、縄を探っている。


 昨日より早い。


 向こうも覚えている。


「噛んだ」


 ヴォルフが言った。


 声が遠い。


 伊織は囮縄を少しだけ緩めた。


 水がさらに食いつく。


 重さが増す。


 だが、主の縄は噛まれていない。


 ガルドの縄は、伊織の左手の中にある。


 まだ乾いている。


 まだ戻れる。


「今です」


 アリアが言った。


 声は小さい。


 だが、聞こえた。


「左の金属輪へ」


 ヴォルフが動く。


 骨刃を抜く。


 音はない。


 だが、刃があることは分かる。


 ヴォルフは補修路の端を渡り、昨日の左壁へ近づく。


 リナがアリアを支える。


 クロが先に低く走る。


 伊織は囮縄を持ったまま、主の縄を左手首で押さえた。


 二本の重さ。


 水に噛ませる縄。


 戻る縄。


 混ぜてはいけない。


 囮縄がまた重くなる。


 水が怒ったように引く。


 伊織の右手が痛んだ。


 使っていない。


 それでも痛む。


 中指が固定具の中で動く。


 爪が内側に当たる。


 痛みが肘へ来る。


 まだ肩ではない。


 伊織は囮縄をさらに緩めた。


 ヴォルフが金属輪に主縄をかける。


 その瞬間、リナが言った。


「戻る場所、確保」


 声が細く、遠い。


 だが聞こえた。


 伊織は囮縄から手を離した。


 水が一気に引き込んだ。


 音はしない。


 縄が黒い水に消えた。


 水面だけが、少し歪んだ。


 誰も動かなかった。


 クロが低く唸る。


 その唸りは途中で切れた。


「進む」


 伊織が言った。


「戻る場所までだ」


 アリアが頷いた。


 右手は使えない。


 左腕には主縄。


 リナの手が、そのすぐ横にある。


 アリアは地図を見ない。


 前を見る。


 水の底を見る。


 文字ではなく、線を探す。



 銀色の線は、昨日より近くに見えた。


 実際には、同じ場所だったのかもしれない。


 黒い水の底。


 流れの中に、動かない細い光。


 糸のように細い。


 刃のように硬い。


 水はその上を流れている。


 だが、線は揺れない。


 リナが灯りを持ち上げた。


 手元の灯り。


 もうひとつ、投げるための灯り。


 油壺の火は小さい。


 湿った空気の中でも、まだ死んでいない。


「投げます」


 リナが言う。


 伊織は頷いた。


 リナは小さな灯りを、銀色の線の少し手前へ投げた。


 火が弧を描く。


 音はない。


 落ちた火は、水面に触れた。


 消えなかった。


 水の上に、小さく浮いた。


 炎が横へ流れる。


 水とは別の動きだった。


 アリアが息を止めた。


「見えます」


「何が」


 伊織が聞く。


「線の向きが」


 アリアの目は、文字を見ていない。


 水の底の銀色だけを追っている。


「奥へ向かっていません」


 ヴォルフが顔を上げる。


「じゃあ、どこへ」


「戻っています」


 リナがアリアを見る。


「戻っている?」


「はい。奥から入口へ向かっています。水は奥へ流れているのに、線は逆です」


 伊織は水を見る。


 黒い流れ。


 奥へ。


 銀の線。


 入口へ。


 流れに逆らう道。


 戻るための線。


 アリアの言葉が、昨夜の広間に戻る。


 父は、進むための線ではなく、戻るための線を残したのかもしれません。


 伊織は主縄を引いた。


 一回。


 確認。


 全員から返る。


 まだ返る。


「線に近づく」


 リナが顔を強張らせた。


「近づくだけです」


 アリアが言う。


「触りません」


「信用しません」


「それでいいです」


 アリアは素直に答えた。


 リナは支える位置を変えた。


 ヴォルフが先に進む。


 骨刃を水へ入れる。


 黒い水が裂ける。


 昨日と同じ。


 だが、今日は水の逃げ方が違った。


 骨刃を嫌がっている。


 老人の言葉どおりだった。


 向こうも覚えている。


「今なら行ける」


 ヴォルフが言った。


 伊織は主縄を握る。


 ガルドの縄が重い。


 全員の重さが乗っている。


 いい重さだった。


 アリアが一歩進む。


 リナが支える。


 クロが前に出る。


 伊織は最後尾で、黒い水を見る。


 昨日、足を掴まれた場所。


 今日は囮縄が消えた場所。


 水面がまだ歪んでいる。


 何かが、そこに残っている。


 水ではない。


 形ではない。


 記憶。


 そう見えた。


 伊織は足を置いた。


 石が冷たい。


 滑る。


 だが、主縄がある。


 金属輪がある。


 戻れた場所がある。


 少しだけ前へ出る。


 銀色の線が近づいた。


 リナが灯りを下げる。


 アリアが目を細める。


「線の上に、欠けがあります」


「欠け?」


「はい。途中で、一か所だけ切れている」


 ヴォルフが水を裂いたまま言う。


「切れた線は使えるのか」


「分かりません」


「読め」


 ヴォルフが言いかけて、すぐ止めた。


 アリアは笑わなかった。


 リナも何も言わなかった。


 伊織は水を見る。


 銀色の線。


 その途中。


 小さな欠け。


 切れ目。


 水はそこだけ、少し濃い。


「そこが噛んだ場所か」


 伊織が言う。


 アリアは首を横に振った。


「違います。噛んだ場所は、もっと手前です」


「なら何だ」


 アリアは答えない。


 視線が水の底へ吸われかける。


 リナがすぐにアリアの肩を掴んだ。


「戻りますか」


 アリアは瞬きをした。


「まだ大丈夫です」


「その返事は信用しません」


「では、あと一つだけ」


「一つだけ?」


「線の欠けの向きだけ」


 リナは伊織を見る。


 伊織はアリアを見た。


 アリアの顔は青い。


 だが、目はまだ戻っている。


 読まれてはいない。


 見ている。


 ぎりぎりだ。


「一つだけだ」


 伊織が言った。


 リナは不満そうだったが、止めなかった。


 アリアは息を止める。


 銀色の線。


 切れ目。


 欠け。


 そこだけ、水が濃い。


 アリアの目が動く。


 文字ではなく、線を追う。


 長くはなかった。


「外へ向いています」


「外?」


「水路の外。壁の向こうです」


 ヴォルフが壁を見る。


 岩。


 苔。


 古い金属の輪。


 それだけに見える。


 伊織は灯りを向けた。


 壁の下。


 水面のすぐ上。


 苔の奥に、細い溝があった。


 人の指一本分。


 線の欠けが、その溝へ向いている。


「隠し水路か」


 ヴォルフが言う。


「人は通れない」


「水は通る」


 伊織は左手で壁を触ろうとして、止めた。


 触らない。


 代わりに、灯りを近づける。


 溝の奥で、何かが光った。


 銀色ではない。


 鈍い黒。


 鉄。


 伊織の右手が痛んだ。


 固定具の中で中指が動く。


 今度は、中指だけではなかった。


 薬指が、わずかに震えた。


 伊織は息を止めた。


 痛みは肘へ来る。


 まだ肩ではない。


 壁の奥の鉄は、小さかった。


 釘か。


 杭か。


 いや。


 印だ。


 鉄でできた、小さな印。


 アリアがそれを見た。


 今度は、読まなかった。


 読むものではなかった。


 形だった。


 折れた線。


 それに、短い横線。


 矢印にも似ている。


 戻るための印。


「父のものです」


 アリアが言った。


 声はかすれていた。


 リナが支える手に力を入れる。


「どうして分かるんですか」


「シルヴェインの記録印ではありません。でも、父が使っていた線の癖に似ています」


「読んだのか」


 伊織が聞く。


 アリアは首を横に振った。


「読んでいません」


 少し間を置いて、続けた。


「覚えています」


 その言葉で、空気が変わった。


 アリアは父を読んだのではない。


 覚えていた。


 子どもの頃に見たもの。


 家に残っていた紙。


 道具の端。


 誰かの手元。


 たぶん、そういうもの。


 伊織は何も聞かなかった。


 今、聞くことではない。


 ヴォルフが低く言う。


「取るか」


「取らない」


 伊織は即答した。


「今日は見るだけだ」


 アリアが頷いた。


 リナも頷いた。


 だが、その時だった。


 黒い水が動きを変えた。


 奥へ流れていた水が、一瞬だけ止まった。


 銀色の線が光る。


 欠けの部分。


 壁の溝。


 鉄の印。


 三つが、同じ高さで並んだ。


 そして、水が逆に流れた。


 入口へ。


 ほんの一息。


 だが、確かに逆流した。


 クロが吠えた。


 その声は聞こえなかった。


 口だけが開いていた。


 伊織は主縄を引いた。


 二度。


 戻れ。


 一度目。


 二度目。


 ヴォルフが即座に反応する。


 リナがアリアを引く。


 アリアは鉄の印から目を離した。


 今度は早かった。


 読まない。


 残らない。


 戻る。


 水が主縄へ伸びた。


 伊織にはそう見えた。


 黒い水が、細く立ち上がる。


 手ではない。


 鎖でもない。


 だが、掴もうとしている。


 伊織は二本目の囮縄を投げた。


 左手だけで。


 狙いは悪い。


 だが、足りた。


 囮縄が水に触れる。


 黒い水がそちらへ流れる。


 主縄の重さが軽くなった。


「今だ」


 ヴォルフが言った。


 声は半分しか返らない。


 それでも分かった。


 全員が戻る。


 昨日より早い。


 昨日より乱れない。


 戻れた場所を知っている。


 金属輪。


 左の細い通路。


 水音が戻るところ。


 リナがアリアを押し上げる。


 クロが先に飛ぶ。


 ヴォルフが骨刃で水を裂く。


 伊織は最後尾。


 右手の痛みが肘を越えかける。


 越える前に戻る。


 主縄を引く。


 二度。


 自分に。


 ヴォルフが引いた。


 リナも。


 アリアも。


 伊織の身体が持ち上がる。


 黒い水が足首をかすめる。


 冷たい。


 だが、昨日ほど深くない。


 戻れる。


 伊織は左の通路へ入った。


 水音が戻った。


 今度は、割れるようには鳴らなかった。


 細く、遅れて戻った。


 リナがすぐアリアの手を見る。


「熱が上がっています」


「戻りました」


「それは知っています」


「はい」


 アリアは息を整えている。


 顔は青い。


 だが、昨日より崩れていない。


 伊織は右手を見る。


 薬指はもう動かない。


 中指だけが、固定具の中で痛んでいる。


 それでいい。


 今日は持った。


 ヴォルフが水路の奥を見る。


「取らずに戻ったな」


「ああ」


「珍しい」


「今日は見るだけだ」


 伊織は言った。


 アリアが小さく頷く。


「父の印は、残っています」


「次に取るか」


 リナがすぐ言う。


「次があるとは言っていません」


 誰も返事をしなかった。


 水路の奥で、また銀色の線が光った。


 今度は弱い。


 灯りの反射かもしれない。


 アリアはもう一度だけ奥を見た。


 読まない目で。


「残したものが、ありました」


 声は小さい。


 けれど、戻ってきた。


 音は返った。


 伊織は縄を一度引いた。


 一回。


 確認。


 全員から返る。


 主縄はまだ切れていない。


 囮縄は二本失った。


 それで足りた。


 今日は、戻れた。


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