第59話 音のない水路
宿に戻るまで、誰も余計なことを言わなかった。
言えば、息が乱れる。
息が乱れれば、足が乱れる。
足が乱れれば、縄が乱れる。
縄が乱れれば、誰かが落ちる。
それだけは分かっていた。
南宿の石畳が見えた時、リナがようやく声を出した。
「座ってください」
宿の前だった。
まだ中にも入っていない。
アリアは反論しなかった。
店主が慌てて椅子を持ってくる。
アリアはそこに座った。
右手の布は熱を持っている。
額にも汗がある。
リナはすぐに固定具の端を確かめた。
「熱が上がっています」
「少しだけです」
「少しではありません」
リナの声は低かった。
怒鳴らない。
その分、強い。
アリアは黙った。
伊織はガルドの縄を外した。
濡れている。
黒ずみが増えていた。
毛羽立ちもある。
水の匂いがする。
水に濡れた縄の匂いではない。
もっと古い匂いだった。
石の中に閉じ込められていた水。
戻る場所を知らない水。
伊織は縄を絞ろうとして、やめた。
雑に扱うな。
老人の声が、まだ耳に残っている。
ヴォルフが骨刃を見る。
刃先に黒い水がついていた。
音もなく裂いた水。
水なのに、刃に残っている。
ヴォルフは布で拭った。
布に黒い筋が残る。
「嫌な水だ」
今度は誰も返さなかった。
クロは宿の入口で身体を震わせた。
水滴はほとんど飛ばない。
濡れているようで、濡れていない。
それでも、クロは不快そうに足を舐めた。
店主が顔を青くしている。
「中へ。すぐ火を」
「火より薬です」
リナが言った。
「あと、湯をお願いします。布も」
「はい」
店主が走る。
伊織はアリアを見る。
アリアは顔色が悪い。
だが、目は閉じていない。
山水路の方を見ていた。
見えるはずがない。
建物も、石橋も、水路もある。
それでも、目はそちらに向いていた。
「戻った」
伊織が言った。
アリアは視線を戻す。
「はい」
「今日はそれで終わりだ」
「……はい」
言い切るまでに、少し間があった。
リナがアリアを見る。
アリアは今度こそ、何も言わなかった。
◆
薬師の老人は、昼前に来た。
怒っていた。
朝よりも。
「早すぎると言った」
第一声だった。
アリアは寝台に座らされていた。
右手はほどかれている。
リナが冷やした布を当てている。
伊織は壁際。
右手は固定具の中。
痛みは肩まで来ていたが、今は肘の下に戻っている。
戻っただけで、消えたわけではない。
ヴォルフは骨刃を机に置いている。
クロは床に伏せている。
老人は全員を見る。
「戻ったのは褒めてやる」
誰も返事をしなかった。
「奥へ行かなかったのも、まあいい」
老人は机の上の縄を見た。
ガルドの縄。
濡れたまま広げてある。
リナが勝手に干そうとして、伊織が止めた。
先に老人に見せるためだった。
老人は縄に触れた。
指で毛羽立ちを撫でる。
「水に噛まれたな」
「噛まれた?」
リナが聞く。
「水が、縄を掴みました」
アリアが言った。
老人はアリアを見る。
「見たのか」
「見たというより、そう見えました」
「十分だ」
老人は縄を少し持ち上げる。
「ただ濡れた縄は、こうは傷まん。引かれた跡でもない。絡まった跡でもない」
「何だ」
伊織が聞く。
「覚えられた跡だ」
部屋が静かになった。
老人は縄を置いた。
「その水路は、一度触れたものを覚える。次に行けば、同じ縄を探す」
リナの顔が強張る。
「じゃあ、この縄はもう使えないんですか」
「使える」
「危ないのでは」
「危ない。だから使える」
リナは眉を寄せた。
老人は布で縄を拭く。
「向こうが覚えているなら、こちらも覚えられる。どこで掴まれたか。どの強さで引かれたか。何を嫌がったか」
ヴォルフが言う。
「嫌がったのは骨刃だ」
「だろうな」
老人は骨刃を見る。
「刃にもついたか」
ヴォルフが布を見せる。
黒い筋。
老人はそれを鼻先に近づけた。
顔をしかめる。
「古い鉄の匂いがする」
「水なのにか」
「水に溶けているんだろう」
「何が」
老人はすぐには答えなかった。
机の上の地図を見る。
リナが布で文字を隠したまま置いている。
老人は黒い点の位置を指した。
「たぶん、ここだ」
「今日の合流点ですか」
アリアが聞く。
「合流点の手前だ。まだ入口に近い」
「まだ入口」
リナの声が落ちた。
老人は頷く。
「本当に危ない場所は、その先だ」
伊織は右手を見る。
中指。
動いた。
だが、掴めない。
殴れない。
支えにもならない。
老人がその手を見る。
「痛みは」
「肘の下に戻った」
「肩まで来たな」
伊織は黙った。
「来た顔だ」
「顔を見るな」
「患者の顔を見るのが仕事だ」
老人は固定具を少し緩め、また締め直す。
「次に肩まで来たら、その場で戻れ」
「戻った」
「遅い」
「戻った」
「遅いと言った」
伊織は返事をしなかった。
リナが横から言う。
「次は私が二度引きます」
「そうしろ」
老人は即答した。
アリアが顔を上げる。
「私も」
「お前は引かれる側だ」
老人の声は容赦がなかった。
アリアは言葉を飲み込む。
「今日、何を見た」
老人が聞いた。
アリアは少しだけ息を整えた。
「銀色の線を見ました」
「文字か」
「いいえ。線です」
「読んだか」
「読んでいません」
「本当にか」
老人はリナを見る。
リナは頷いた。
「読んでいません。見そうにはなりました。でも、伊織さんが止めました」
「ならいい」
老人はアリアに戻る。
「線はどこにあった」
「水の底です。黒い水の奥に沈んでいました。けれど、線だけは光っていました」
「動いていたか」
アリアは目を閉じる。
思い出すためではない。
読み直さないための顔だった。
「動いていません。ただ、水が動いても、線は揺れませんでした」
老人の皺が深くなる。
「固定線だな」
「知っているんですか」
「言葉だけは」
「何ですか」
「水の中で道を止める線だ。流れを止めるんじゃない。流れの中に、動かない場所を作る」
リナが地図を見る。
「そこに縄をかけたら」
「戻れるかもしれん」
老人は言った。
「だが、触れれば向こうにも知られる」
「向こう?」
アリアが聞く。
「水路だ」
老人は短く答えた。
それ以上は言わなかった。
伊織はガルドの縄を見る。
水に覚えられた縄。
戻るための縄。
使うほど、向こうにも知られる。
悪くない。
嫌な条件ほど、分かりやすい。
「もう一度行く」
伊織が言った。
リナがすぐ振り返る。
「今日ではありません」
「今とは言っていない」
「明日でもありません」
「言っていない」
「本当に?」
「たぶんな」
「その返事は信用できません」
老人が頷く。
「信用するな」
伊織は老人を見る。
老人は無視した。
「次に行くなら、準備を変える」
老人は地図の黒い点を指で叩いた。
「縄は一本では足りない。主の縄と、捨てる縄を分けろ」
「捨てる縄?」
リナが聞く。
「水に噛ませる縄だ。戻る縄まで噛ませるな」
ヴォルフが頷く。
「囮か」
「そうだ」
「あるのか」
老人は店主を呼んだ。
店主は廊下から顔を出す。
聞いていたらしい。
「古い荷縄なら」
「持ってこい。切れてもいいやつだ」
「はい」
店主が走る。
クロが顔を上げた。
鼻を動かす。
縄の話だと分かっているのかもしれない。
老人は続ける。
「灯りも二つにしろ。ひとつは手元。ひとつは先へ投げる」
「投げる?」
「音が返らないなら、光を返せ」
伊織は油壺を見る。
昨日渡されたもの。
「光も消えるなら」
「戻れ」
老人は言った。
「それ以上は、今日はまだ無理だ」
◆
午後、宿の広間は作業場になった。
店主が持ってきた古い荷縄を、ヴォルフが切る。
長さを揃える。
端に結び目を作る。
水に噛ませるための囮。
それを三本。
リナは薬包を分け直す。
痛み止め。
冷えた時の薬。
眠れる薬。
使う順番を袋に書きつける。
アリアはその文字を見ないようにしている。
リナが気づいて、薬袋を裏返した。
「すみません」
「いえ」
アリアは首を振った。
「見ない練習になります」
「練習で熱を上げないでください」
「はい」
伊織はガルドの縄を膝に置いていた。
乾ききっていない。
黒ずみは残っている。
指で触れると、ところどころ硬い。
水が入り込んだ場所だ。
覚えられた跡。
伊織は縄の傷を数えた。
返すもの。
もっと傷む。
それでも、使う。
ヴォルフが囮縄を投げてくる。
一本。
伊織は左手で受け取った。
「結べるか」
「左手なら」
「右手は」
「飾りだ」
「邪魔な飾りか」
「今日は、少し動く飾りだ」
ヴォルフは短く笑った。
「なら、落とすな」
伊織は囮縄の結び目を確かめる。
粗い。
だが、使える。
リナがアリアの手を見る。
「熱、少し下がっています」
「少しですか」
「少しです」
「なら」
「駄目です」
早かった。
アリアは口を閉じる。
リナは布を替える。
「今日はもう、山水路の話だけです」
「話だけでも熱が上がりそうです」
「では寝ますか」
「話でお願いします」
リナはため息をついた。
アリアは小さく笑った。
今度は痛みで顔をしかめなかった。
老人は広間の隅で、板束の地図を見ていた。
文字の部分には布。
黒い点の周囲だけが見える。
老人はそこに、炭で小さな印を足した。
「何を」
アリアが聞く。
「今日、戻った場所だ」
「線の場所ではなく?」
「戻った場所の方が大事だ」
老人は言った。
「進んだ場所は、次に変わる。戻れた場所は、次も使える」
伊織はその言葉を聞いた。
戻れた場所。
金属の輪。
左の細い通路。
水音が戻った地点。
確かに、そこだけは残った。
老人はもう一つ印をつける。
「水が噛んだ場所」
「それも残すんですか」
リナが聞く。
「噛まれた場所は、次も噛まれる。分かっていれば、先に囮を投げられる」
ヴォルフが囮縄を持ち上げた。
「こいつの出番だな」
「そうだ」
老人は地図を閉じる。
「明日の朝、もう一度行け」
リナが顔を上げる。
「明日ですか」
「今日より遅く、明後日より早い」
「理由になっていません」
「手の熱が下がればだ。下がらなければ行くな」
リナはアリアの手を見る。
アリアも、自分の手を見た。
右手はまだ動かない。
熱は少し下がっている。
少しだけ。
「下がります」
アリアが言った。
「願望だな」
老人が言う。
「はい」
アリアは認めた。
老人は少しだけ目を細めた。
「願望を口にする余裕があるなら、まだいい」
それが褒め言葉かどうかは分からなかった。
だが、リナは少しだけ肩の力を抜いた。
◆
夜、伊織は一人で広間に降りた。
眠れなかったわけではない。
眠る前に、縄を見ておきたかった。
広間の灯りは落とされている。
竈の火だけが残っている。
店主はいない。
窓の外で、水路が細く鳴っている。
返ってくる音。
伊織は卓の上に置かれたガルドの縄を見た。
乾き始めている。
黒ずみは薄くならない。
傷も消えない。
当たり前だ。
使ったものは、戻らない。
だが、使ったから戻れた。
伊織は左手で縄を取った。
重さを確かめる。
昨日より重い。
水を含んでいるだけではない。
戻れの合図が残っている。
そんな気がした。
「寝ないのですか」
後ろから声がした。
アリアだった。
階段の途中に立っている。
リナはいない。
起こさないように抜けてきたのだろう。
右手は固定されている。
左手で手すりを掴んでいる。
「見つかるぞ」
伊織が言う。
「もう見つかりました」
「リナにだ」
「それは、まだです」
「戻れ」
「少しだけ」
同じ言葉だった。
伊織は縄を卓に戻した。
「座るな」
「はい」
アリアは階段の下まで来た。
立ったまま、縄を見る。
「傷みましたね」
「怒られる」
「はい」
「だが、戻れた」
「はい」
アリアは小さく息を吐いた。
「今日、線が見えました」
「見た」
「読まなかった」
「見ていた」
「でも、分かりました」
伊織はアリアを見る。
アリアは縄から目を離さない。
「線は、道ではありませんでした」
「なら何だ」
「止めるものです」
老人も似たことを言った。
固定線。
流れの中に、動かない場所を作る線。
アリアは続ける。
「父は、進むための線ではなく、戻るための線を残したのかもしれません」
伊織は黙った。
アリアも、それ以上言わなかった。
言い切ってしまえば、願望になる。
まだそこまでは言えない。
水路の音が聞こえる。
今は返ってくる。
階段の上で、板が鳴った。
リナだった。
寝間着の上に上着を羽織っている。
顔は笑っていない。
「アリアさん」
声は静かだった。
アリアの肩が小さく跳ねる。
「はい」
「寝台へ」
「はい」
「伊織さんも」
「俺もか」
「はい」
リナは階段を下りてくる。
アリアを支える。
そのついでに、伊織を見る。
「明日、行くつもりですね」
「手の熱が下がれば」
「下がらなければ」
「行かない」
「本当に?」
伊織は答えなかった。
リナの目が細くなる。
「本当に?」
「行かない」
リナはしばらく見ていた。
それから頷く。
「信じます。今は」
アリアが小さく笑いそうになった。
リナが見る。
アリアはすぐに真顔に戻した。
「寝ます」
「はい」
二人が階段を上がる。
伊織は少し遅れて、縄をもう一度見た。
戻るための線。
戻るための縄。
どちらも、傷む。
それでも使う。
伊織は灯りを消した。
◆
翌朝、アリアの手の熱は下がっていた。
完全ではない。
だが、昨日よりは低い。
リナは三度確かめた。
老人も確かめた。
最後に、伊織の右手を見た。
「中指」
老人が言う。
伊織は固定具の中で、少しだけ動かした。
昨日より、動く。
まだ物は持てない。
だが、動く。
「無理はするな」
「しない」
「する顔だ」
「見るな」
「患者の顔だ」
老人は固定具を締め直す。
それから、地図をリナへ渡した。
布はさらに増えている。
見える線は少ない。
だが、昨日より印が増えている。
戻れた場所。
噛まれた場所。
銀色の線があった場所。
アリアはそれを見た。
文字は見えない。
線だけが見える。
「行けるか」
老人が聞く。
アリアは少しだけ息を吸った。
「戻れます」
老人はアリアを見た。
伊織も見た。
ヴォルフが骨刃を腰に差す。
リナが薬袋を持つ。
クロが扉の前に立つ。
老人は鼻を鳴らした。
「なら行け」
外は朝だった。
昨日と同じ水の町。
だが、音の聞こえ方が少し違った。
伊織はガルドの縄を手に取る。
主の縄。
囮の縄。
二つの重さを確かめる。
今日も戻るために行く。
進むためではない。
扉を開けると、朝の水音が返ってきた。




