第58話 線だけ追え
翌朝、薬師の老人はまだ怒っていた。
「早い」
それが第一声だった。
宿の広間。
朝食の匂いが残る卓の横で、老人はアリアの手を見た。
次に、伊織の右手を見る。
固定具はまだ外されていない。
リナが薬袋を抱えている。
ヴォルフは壁際。
クロは扉の近く。
誰も座っていなかった。
座れば、行くなと言われる気がした。
「行くには早い」
老人は言った。
「だが、待てる顔でもない」
「止めますか」
アリアが聞いた。
「止めて止まるなら、昨日止めている」
老人は鼻を鳴らす。
「戻る前提で行け。進む前提で行くな」
広間の音が、少しだけ遠くなった。
リナが小さく頷く。
「戻る前提」
「そうだ。奥まで行くな。読めるものがあっても読むな。声が聞こえても追うな。水音が消えたら、そこで引け」
老人は指を一本ずつ折る。
「手が熱を持ったら引け。右手の痛みが肘より上へ来たら引け。縄が二度強く引かれたら引け」
「二度?」
リナが聞く。
「一度は確認。二度は戻れ。三度目を待つな」
伊織はガルドの縄を見た。
毛羽立ち。
黒ずみ。
まだ切れていない。
今日は、それを使う。
返すものだ。
だが、返すためにも使う。
老人はアリアを見る。
「お前は地図を見るな」
「線は追えと言いました」
「追うなとは言っていない。見るなと言った」
アリアは困った顔をした。
「どう違うんですか」
「見ると読む。追うだけにしろ」
「難しいです」
「だから行くには早いと言っている」
アリアは言い返さなかった。
リナが板束を取り出す。
昨日の地図の写し。
文字の部分には布がかけられている。
さらにリナが別の布で、印の周囲だけを残して覆った。
「これでいいですか」
老人は確認する。
「まだ広い」
リナはもう一枚布を重ねた。
「これでは線が見えません」
アリアが言う。
「見える分だけで進んでください」
リナは即答した。
アリアは少し黙った。
それから、小さく笑いそうになってやめた。
「はい」
「笑わないでください」
「まだ笑っていません」
「笑いそうでした」
「すみません」
老人は伊織の右手に触れた。
固定具の上から、指先だけを押す。
痛みが来る。
昨日より、少し早い。
「動くか」
「中指だけ」
「どれくらい」
「爪が当たるくらい」
「使えないな」
「分かっている」
「分かっている顔ではない」
伊織は返事をしなかった。
老人は布を巻き直す。
固定具の端をきつく締めた。
「外すな。黒い鉄を出そうとするな」
「出ない」
「出すなと言った」
「分かった」
「本当に分かっている顔か」
リナが横から言う。
「分かっていません」
「だろうな」
老人は鞄から薬包を三つ出した。
「痛み止め。冷えた時の薬。眠れる薬。順番を間違えるな」
リナがすぐ受け取る。
「ありがとうございます」
「礼より管理だ」
「はい」
老人は小さな油壺も出した。
「灯り用だ。山水路は湿っている。普通の火は死ぬ」
ヴォルフが受け取る。
「返すのは」
「壺だけでいい」
「細かいな」
「生きて戻る奴は、細かい」
老人は広間の出口を見る。
外には朝の光があった。
南宿の通り。
水路。
荷車。
人の声。
いつもの町の音。
「昼を過ぎる前に戻れ」
「奥に着かなくても?」
アリアが聞く。
「着かなくていい」
「でも」
「今日は道を確かめる日だ。答えを拾いに行く日じゃない」
アリアは唇を結んだ。
伊織はその横顔を見る。
すぐに目を逸らした。
老人はそれを見ていたが、何も言わなかった。
「ドレイスには」
リナが聞いた。
「知らせるんですか」
老人は顔をしかめる。
「知らせなくていい」
ヴォルフが少し笑う。
「いいのか」
「知らせれば止める。知らせなければ怒る。どちらも面倒なら、後で怒られろ」
「まともだな」
「お前よりは」
ヴォルフは黙った。
店主が奥から出てきた。
手に包みを持っている。
「これ、昼用に」
パンと干し肉。
小さな果物。
クロ用の乾いた肉もある。
クロがすぐに鼻を動かした。
「先に食べないでください」
リナが言う。
クロは聞こえないふりをした。
伊織は包みを受け取る。
「払う」
「戻ってからで」
店主は言った。
「朝から縁起でもないが、その方がいい気がするので」
伊織は少し黙った。
「戻って払う」
「はい」
店主は笑った。
アリアは左手で荷物の紐を確かめる。
右手は使えない。
それでも、自分で確かめようとした。
リナが見ている。
止めなかった。
ただ、危なければ支える位置にいた。
老人は最後に言った。
「線だけ追え」
アリアは顔を上げる。
「はい」
「線の先に文字があっても、読むな」
「はい」
「父の名があっても」
アリアの呼吸が少し止まった。
老人は続けない。
アリアは、ゆっくり答えた。
「読みません」
声は小さかった。
だが、届いた。
伊織は扉を開けた。
朝の光が入る。
水の町の匂いがした。
◆
東の山水路までは、半刻ほどの道だった。
南宿の外れを抜ける。
水路沿いの石畳。
低い倉庫。
干された網。
苔のついた橋。
町の音は、歩くたびに薄くなった。
荷車の音が消える。
人の声が消える。
代わりに、水の音が増える。
横を流れる細い水路。
石の下を走る暗い水。
遠くで落ちる水。
いくつもの音が重なっている。
リュードで聞いた水音とは違う。
こちらは、もっと古い。
手入れされていない音だった。
ヴォルフが先頭を歩く。
骨刃は出していない。
だが、左手はいつでも柄に届く位置にある。
その後ろにアリア。
リナが横。
伊織は少し後ろ。
クロは前後を行き来していた。
ガルドの縄は、すでに全員をつないでいる。
腰ではなく、手首に近い位置。
強く引けば、すぐ分かる。
アリアの右手は使えないため、左の前腕にゆるく結んだ。
リナが何度も確認した。
「きつくないですか」
「大丈夫です」
「痺れは」
「ありません」
「痛みは」
「手は痛いです」
「それは知っています」
「なら、大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
アリアは少し困った顔をした。
伊織は縄を一度引いた。
一回。
確認。
アリアが振り返る。
伊織は何も言わない。
アリアは小さく頷いた。
リナも頷く。
ヴォルフが前から言う。
「二度引いたら戻る。忘れるなよ」
「忘れません」
アリアが答える。
「読んでいる時の女は忘れる」
「読みません」
「ならいい」
ヴォルフは足を止めた。
道の先が狭くなっている。
石畳はそこで終わり、山の斜面に沿うように古い階段が伸びていた。
階段の横には水路。
水は細い。
だが、深い音がする。
上からではなく、下から鳴っている。
「ここから先だ」
ヴォルフが言った。
アリアが地図を取り出そうとする。
リナが先に出した。
布で覆われた板束。
見えるのは線の一部だけ。
アリアはそれを見る。
目が文字を探しかける。
すぐに、自分で視線を戻した。
線へ。
布の端へ。
水路の曲がりへ。
「この階段です」
アリアが言った。
「その先に、古い補修路があります」
「読んだか」
伊織が聞く。
「線です」
アリアは答えた。
「文字は見ていません」
リナが横から確認する。
「本当に?」
「本当に」
「目が少し動きました」
「線を追っただけです」
「信じます。今は」
リナは地図をしまう。
ヴォルフが階段を上がり始めた。
石は濡れている。
一段ずつ高さが違う。
苔が端に張りついている。
歩きにくい。
アリアの足が少し遅れる。
リナが支える。
アリアは一度だけ「大丈夫」と言いかけた。
言わなかった。
「お願いします」
リナは頷いた。
伊織は後ろから見ていた。
右手は使えない。
縄は左手で握っている。
指先にガルドの縄のざらつきがある。
この縄は強い。
だが、無理をすれば切れる。
人も同じだ。
上に進むほど、水音が変わる。
低くなる。
深くなる。
耳ではなく、骨で聞くような音になっていく。
クロが一度、足を止めた。
鼻先を水路へ向ける。
毛が少し逆立っていた。
「どうした」
伊織が聞く。
クロは答えない。
水路の暗い隙間を見ている。
何もいない。
少なくとも、見える範囲には。
ヴォルフが戻ってきた。
「獣が嫌がるなら、いい道じゃない」
「戻りますか」
リナが聞く。
クロが振り返った。
鼻を鳴らす。
一歩進む。
嫌がっている。
だが、行く。
「本人が行く気だ」
伊織が言う。
「本人?」
リナがクロを見る。
クロはもう一度鼻を鳴らした。
今度は少し強かった。
ヴォルフが笑う。
「本人らしい」
階段を上がりきると、山肌に沿った細い道があった。
古い補修路。
片側は岩。
片側は水路。
水路には石の蓋が半分だけ残っている。
割れた隙間から、暗い水が見えた。
風はない。
だが、湿った空気が流れている。
奥から来ている。
伊織は左手で縄を確かめた。
一回。
確認。
前からヴォルフが一回返す。
アリアの縄も小さく動いた。
リナも。
クロの首輪につないだ細い縄も、わずかに揺れた。
全員いる。
◆
補修路の入口には、石の門があった。
門というより、残骸だった。
上の半分は崩れている。
横の柱には文字が彫られていた。
かなり古い。
水で削られ、苔に埋もれている。
アリアの足が止まった。
リナがすぐ地図を胸に抱く。
「読まないでください」
「読んでいません」
アリアは柱を見ていた。
「ただ、形が」
「形も駄目です」
「線なら」
「これは文字です」
リナはきっぱり言った。
アリアは口を閉じた。
伊織は柱の前に立つ。
アリアと文字の間に入った。
右手は使えない。
左手だけで十分だった。
「見るな」
伊織が言う。
アリアは伊織の背中を見た。
「はい」
ヴォルフが柱の下を見ている。
「新しい傷がある」
「いつの」
「最近だ」
石の端に、削れた跡があった。
苔がない。
風車に似た小さな印が、薄く刻まれている。
外縁管理局のもの。
ドレイスの印。
伊織はしゃがんだ。
左手で触れようとして、やめる。
触らない。
見れば足りる。
「昨日か」
「それより前だろうな」
ヴォルフが言う。
「何度か来ている」
リナの顔が固くなる。
「ドレイスさんが?」
「本人か、部下か」
伊織は立ち上がる。
アリアは柱を見ないように、横を向いていた。
その横顔は硬い。
「彼は、ここを知っていると言いました」
「少しだけ、だ」
伊織が言う。
「少しだけ知っている人間は、何度も印をつけない」
アリアは答えなかった。
ヴォルフが前を見る。
「行くぞ。ここで考えると、文字に目が行く」
補修路に入る。
足元は狭い。
水路の蓋はところどころ割れている。
下の水は速い。
見た目より深い音がする。
縄が役に立った。
誰かが足を止めれば、全員に伝わる。
誰かが滑れば、全員が重さを感じる。
リナがアリアの横を歩く。
アリアは地図を見ない。
見たい時は、リナが出す。
布をめくる。
線だけ見せる。
すぐに隠す。
それを繰り返した。
「次、右です」
アリアが言う。
「右に道はない」
ヴォルフが前から返す。
「水路が曲がっています。道ではなく、線が右へ」
ヴォルフは立ち止まる。
岩壁の隙間を見る。
細い通路があった。
人一人がやっと通れる幅。
苔と水滴で隠れている。
「道じゃないな」
「線です」
アリアは言った。
ヴォルフが低く笑う。
「悪くない」
「褒められましたか」
「たぶんな」
伊織が答えた。
リナがアリアを見る。
「嬉しそうにしないでください。熱が上がります」
「嬉しそうでしたか」
「少し」
「気をつけます」
狭い通路に入る。
ここから、水音が一つ減った。
伊織はすぐ気づいた。
さっきまで左に聞こえていた細い流れがない。
水はある。
目の前にも、足元にも。
だが、音がない。
完全に消えたわけではない。
遠くに行ったように聞こえる。
クロが低く唸った。
ヴォルフが止まる。
全員が止まる。
縄が張る。
一回。
伊織が引く。
確認。
ヴォルフが一回返す。
リナが一回。
アリアが一回。
クロの縄が、小さく揺れる。
全員いる。
今は。
「ここからか」
ヴォルフが言った。
声が少し変だった。
声そのものではない。
返り方が違う。
壁に当たって戻るはずの音が、どこかで柔らかく消える。
伊織は自分の足元を見た。
石。
水。
苔。
変わりはない。
だが、耳が少し遅れる。
自分の呼吸も、少しだけ遠い。
アリアが口を開く。
「音が」
そこで止まった。
説明しようとしない。
それでよかった。
リナが小さく言う。
「戻りますか」
誰もすぐには答えなかった。
伊織は右手を見た。
固定具の中。
使えない手。
左手には縄。
ガルドの縄。
戻るためのもの。
進むためのものではない。
伊織は縄を一度引いた。
一回。
確認。
全員から一回ずつ返ってくる。
まだ返る。
「少しだけ進む」
伊織は言った。
「二度引いたら戻る」
アリアが頷く。
リナも。
ヴォルフは骨刃を抜いた。
音がしなかった。
刃が鞘を離れる音。
いつもなら、薄く鳴る。
今日は鳴らない。
ヴォルフの顔が変わる。
「嫌な場所だ」
伊織は答えなかった。
クロが先に進んだ。
一歩。
二歩。
水の匂いを嗅ぎながら。
補修路は、さらに狭くなる。
壁に手をつかなければ進めない場所があった。
伊織は左手で壁に触れる。
右手は使えない。
縄を離せない。
リナがアリアを先に通す。
アリアは何度か足を止めた。
そのたびに、リナが支える。
「大丈夫です」
アリアが言う。
「大丈夫ではなくても進む顔です」
「すみません」
「謝るなら、足元を見てください」
「はい」
アリアは足元を見る。
文字は見ない。
地図も見ない。
ただ、線の先にある道を歩く。
伊織はその後ろを歩いた。
右手の中指が、固定具の中でわずかに動いた。
痛みが来る。
だが、声は出さない。
水路の奥から、冷たい空気が流れた。
灯りが少し揺れる。
ヴォルフが止まった。
「広い場所に出る」
前方に、黒い空間があった。
補修路が急に開けている。
水路の合流点。
天井は低い。
壁には古い金属の輪がいくつも埋め込まれていた。
縄をかけるためのものか。
あるいは、何かを吊るすためのものか。
アリアが地図を求める。
リナは迷った。
だが、出した。
布を少しだけめくる。
線の交差。
黒い点。
今いる場所に近い。
「ここは」
アリアが息を止めた。
布の隙間から、文字の端が見えた。
ほんの一部。
線ではない。
文字だった。
アリアの目がそこに吸われかける。
伊織は縄を強く引いた。
一回。
アリアの身体がわずかに揺れた。
目が戻る。
リナがすぐに布を閉じる。
「すみません」
アリアが言った。
「まだ読んでいない」
伊織は答えた。
「はい」
「次は二度引く」
アリアは頷いた。
顔色が悪い。
手の熱が上がっているのかもしれない。
リナがすぐ右手に触れる。
眉を寄せた。
「熱が」
その時、水音が消えた。
完全に。
さっきまで、どこかで鳴っていたはずの水が止まった。
流れは見える。
黒い水が、足元の溝を走っている。
だが、音がない。
伊織は息を止めた。
ヴォルフも動かない。
クロが低く唸る。
その唸りも、途中で切れたように聞こえた。
リナの口が動く。
声は聞こえない。
アリアの顔が青ざめる。
伊織は縄を引いた。
二度。
強く。
一度目。
二度目。
戻れ。
ヴォルフがすぐ反応する。
リナも縄を引く。
アリアも左腕で返そうとした。
だが、縄が重い。
どこかで、余分な重さが増えている。
伊織は足元を見る。
黒い水の中。
何かが縄に触れていた。
手ではない。
鎖でもない。
水が、縄を掴んでいる。
そう見えた。
伊織は左手に力を込める。
右手は使えない。
だが、中指が固定具の中で動いた。
痛みが走る。
今度は早かった。
伊織は歯を噛む。
声は出さない。
縄を引く。
ガルドの縄が、濡れた音もなく軋んだ。
音は返らない。
だが、重さは返ってきた。
ヴォルフが骨刃を水に差し込む。
音はない。
黒い水が裂ける。
リナがアリアを引く。
クロが水路の縁に噛みつくように踏ん張る。
伊織はもう一度、縄を引いた。
二度。
戻れ。
その合図だけが、手の中で伝わった。
水路の奥で、何かが光った。
文字ではない。
歯車でもない。
細い線だった。
水の底に沈んだ、銀色の線。
アリアがそれを見た。
読もうとはしなかった。
ただ、線だけを追った。
「左です」
声は聞こえなかった。
だが、唇がそう動いた。
伊織は縄を左へ引く。
全員の重さが、少しずつ動く。
左の壁。
金属の輪。
ヴォルフがそこに縄をかけた。
リナがアリアを押し上げる。
クロが先に飛ぶ。
伊織は最後に残った。
黒い水が足元を掴む。
冷たい。
右手の痛みが肩まで来る。
老人の声が頭をよぎる。
肘より上へ来たら引け。
もう来ている。
伊織は縄をもう一度引いた。
二度。
戻れ。
今度は、自分に向けて。
ヴォルフが上から縄を引いた。
リナも。
アリアの左腕も、震えながら引いていた。
伊織の身体が持ち上がる。
水が離れる。
音はまだない。
何も返らない。
伊織は壁に肩からぶつかった。
痛みが来る。
声は出さなかった。
ヴォルフが襟を掴み、引き上げる。
全員、左の細い通路へ転がるように入った。
水音が戻った。
急に。
耳の中で、世界が割れたように鳴る。
リナが何か叫んでいる。
今度は聞こえる。
「戻ります! 今すぐ!」
誰も反対しなかった。
アリアは床に膝をついている。
右手の布が熱を持っている。
左手は縄を握ったまま。
顔は青い。
だが、目は開いていた。
「線は」
アリアが言った。
声は震えていた。
「見えました」
「戻る」
伊織は言った。
「はい」
アリアは頷いた。
補修路の奥。
黒い水の向こう。
銀色の線はもう見えない。
だが、伊織の手には残っていた。
縄の重さ。
戻れの合図。
音が返らない場所。
今日拾えたのは、それだけだった。
戻るための重さだけだった。




