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第57話 残してはいけなかったもの

 ドレイスが去ったあとも、部屋には杖の音が残っていた。


 こつ。


 こつ。


 廊下を下りる音は、すぐに消えた。


 それでも、耳の奥に残る。


 水音ではない。


 歯車でもない。


 ただの杖の音。


 だから、余計に残った。


 アリアは寝台の上に座ったままだった。


 右手は固定されている。


 左手は膝の上。


 薄く残った朱の跡が、夕方の光でくすんで見える。


 リナがそっと肩に手を置いた。


「横になってください」


「少しだけ」


「少しだけ、は駄目です」


「考えたいんです」


「横になっても考えられます」


 アリアは反論しようとした。


 だが、言葉にする前に肩が落ちた。


「……はい」


 リナが支える。


 アリアはゆっくり横になった。


 動かない手を胸の上に置こうとして、途中でやめる。


 リナが枕の横に布を丸めて置いた。


「ここに」


「ありがとうございます」


「礼より睡眠です」


「はい」


 声は素直だった。


 素直すぎて、リナの顔が少し不安になる。


 伊織は扉の近くに立っていた。


 右手は固定具の中。


 左手は空いている。


 空いているだけだ。


 何かを掴む予定はない。


 だが、開いたままにしている。


 ドレイスの残した言葉が、部屋の中をまだ動いていた。


 残したもの。


 残してはいけなかったもの。


 帰る場所を間違えた。


 どれも、形がない。


 形がないものほど、始末が悪い。


 ヴォルフは窓際で骨刃を見ていた。


 研ぎ直された刃の先を、何度も親指の腹で確かめる。


 クロは扉の前に伏せている。


 耳は立っていない。


 だが、眠ってはいなかった。


 ミルダはまだ部屋にいた。


 壁に背を預け、腕を組んでいる。


「面倒な男だね」


 ミルダが言った。


「ドレイスか」


 伊織が聞く。


「他に誰がいる」


「何人かいる」


「それはそうだ」


 ミルダは短く笑った。


 それからアリアを見る。


「今の話、帳面に残すかい」


 アリアは目を開けた。


「今の話、とは」


「ドレイスが命令を認めたこと。東の山水路に何かあると言ったこと。あんたを止めると言ったこと」


 アリアは少し黙った。


「残した方がいいですか」


「後で揉めるなら、残っていた方が強い」


「残してください」


 リナが口を挟む。


「でも、今は書けません」


「代筆する」


 ミルダが言った。


「ただし、簡単にだ。全部書くと、紙が足りない」


「お願いします」


 ミルダは腰の帳面を開いた。


 立ったまま書き始める。


 筆ではなく、細い炭筆だった。


 紙の上を走る音が小さい。


 ドレイス・オルガ。


 命令を認める。


 東の山水路。


 アルドの残したもの。


 残してはいけなかったもの。


 ミルダはそこで手を止めた。


「この言葉、厄介だね」


「そうですね」


 アリアが答える。


「残してはいけなかったもの、ってのは、残っているから言う言葉だ」


 誰も返事をしなかった。


 その通りだった。


 ミルダは続きを書いた。


「最後に、帰る場所を間違えた、か」


 アリアの目が動いた。


「そこも、残しますか」


「残す。言った方が悪い」


 ミルダは淡々と言った。


 アリアは目を閉じた。


 それ以上は言わなかった。


 ミルダは帳面を閉じる。


「明日の朝、写しを作らせる。必要なら持っていけ」


「ありがとうございます」


「礼はいい。町の帳面が仕事をしただけだ」


 ミルダは扉へ向かう。


 出る前に、伊織を見た。


「右手は」


「飾りだ」


「邪魔な飾りだね」


「同感だ」


「外すなよ。あの薬師、怒ると面倒だ」


「知っている」


「ならいい」


 ミルダは出ていった。


 扉が閉まる。


 部屋が少し狭くなったように感じた。


 外の水音が戻る。


 細く、一定に。



 夕方、薬師の老人が来た。


 予告通りだった。


 扉を叩きもせず、店主を押しのけるようにして入ってきた。


 手には鞄。


 顔は朝より不機嫌だった。


「寝ていない顔だ」


 老人は伊織を見るなり言った。


「目は閉じた」


「寝ていないな」


「似たようなものだ」


「似ていない」


 リナが小さく頷いた。


 老人はアリアを見る。


「手」


 アリアは素直に右手を差し出そうとして、固定具に阻まれた。


 リナが布を外す。


 老人は熱を確かめる。


 眉間に皺が寄った。


「増えてはいない」


 リナが息を吐く。


「よかった」


「減ってもいない」


「駄目ですか」


「駄目ではない。だが、まだ使うな」


 アリアは頷いた。


「はい」


「本当に分かっている顔か」


「分かっています」


「分かっている顔ではない」


 老人は次に伊織の右手を見た。


 固定具を外さず、指先だけに触れる。


 痛みが遅れて来る。


 伊織は眉を動かさなかった。


「痛むか」


「遅れて来る」


「昨日より早いか」


 伊織は少し考えた。


「少し」


「なら悪くない」


「使えるか」


「使うな」


 早かった。


 伊織は返事をしなかった。


 老人は鼻を鳴らす。


「聞く前から答えは分かっていただろう」


「確認だ」


「面倒な患者だ」


「よく言われる」


 リナが伊織を見る。


 伊織は視線を逸らした。


 老人は鞄を開ける。


 中から、小さな紙包みを二つ出した。


「痛み止め。眠れる薬。使う順番を間違えるな」


 リナがすぐ受け取る。


「ありがとうございます」


「礼より管理だ」


「はい」


 老人はさらに、布に包まれたものを出した。


 ヴォルフの骨刃ではない。


 薄い板の束だった。


 古い紙を木板で挟み、紐で結んである。


 端が湿気で波打っている。


「これは」


 アリアが言う。


「東の山水路の写しだ」


 部屋の空気が止まった。


 伊織は老人を見る。


「なぜ持っている」


「昔、置いていった奴がいる」


「アルドか」


「違う」


 老人は短く言った。


「アルドは、持っていった側だ。これは持って帰れなかった奴の写しだ」


 アリアの顔がわずかに強張る。


「誰ですか」


「若い技師。手を焼かれ、目をやられ、名前をしばらく言えなかった奴だ」


 薬師の店で聞いた男。


 アルドが背負って来たという技師。


 老人は板束を机に置く。


「読むな」


 アリアの視線が止まる。


 老人は続けた。


「地図として見ろ。文字として読むな。線だけ追え」


「できます」


「できると言う奴ほど、やる」


 リナがすぐ言う。


「私が持ちます」


「そうしろ」


 老人は板束をリナに渡した。


 リナは両手で受け取る。


 重くはない。


 だが、慎重に持った。


 アリアはそれを見ていた。


 見ているだけだった。


 読んではいない。


 老人は机の上に一枚だけ紙を広げた。


 地図だった。


 線が幾重にも走っている。


 山。


 水路。


 古い補修路。


 いくつかの印。


 文字もある。


 だが、老人はその上に小さな布片を置いた。


 文字の部分だけを隠す。


「ここが南宿」


 老人は指で一点を叩く。


「ここが東の山水路の入口」


 少し上の線。


「ここから先は、道じゃない。水の腹だ」


「水の腹?」


 リナが聞く。


「水が通るための穴だ。人間が歩くためじゃない」


 ヴォルフが覗き込む。


「古い管理道は」


「ある。途中までだ」


「途中からは」


「水路の縁を行く。足を滑らせたら終わりだ」


「終わりとは」


 リナが聞く。


「濡れる」


「それだけですか」


「冷える」


「それだけ」


「流される」


 リナは黙った。


 老人は続ける。


「それと、音が狂う場所がある」


 伊織は顔を上げる。


「リュードと同じか」


「似ている。だが、あそこほど親切じゃない」


「親切?」


「リュードは、まだ戻れと言ってくれた」


 老人は地図の奥を指した。


「山水路は、何も言わん。ただ、音を返さなくなる」


 部屋が静かになる。


 クロが小さく鼻を鳴らした。


 アリアが言う。


「音が返らない」


「そうだ。足音も声も、水音も、そこでは置いていかれる」


「名は」


 伊織が聞いた。


「名?」


「削られるのか」


 老人は伊織を見る。


「知らん。だが、名前を呼んで戻ってきた奴はいない」


 リナの顔が固まる。


 ヴォルフは地図を見たまま言う。


「つまり、声で探すな」


「そうだ」


 老人が頷く。


「縄で探せ。光で探せ。手で探せ。声を信用するな」


 伊織はガルドの縄を思い出した。


 擦れた縄。


 返すもの。


 まだ使えるもの。


「縄はある」


「いい縄か」


「いい縄だ」


「なら、雑に使うな」


 老人は即座に言った。


 伊織は返事をしなかった。


 リナが少しだけ伊織を見る。


 何か言いたそうだったが、言わなかった。


 老人は地図のさらに奥を指した。


 布で隠した文字の下に、黒い点がある。


「ここに、印がある」


「何の印だ」


 伊織が聞く。


「分からん」


「写しだろう」


「写した奴も分からなかった」


 アリアが静かに言う。


「父が向かった場所ですか」


 老人は答えなかった。


 かわりに、地図の端を指で押さえた。


「アルドはこの地図を見た。見て、持っていった。そして最後に、この町で薬を買った」


「その後、この印へ向かった」


「たぶんな」


 アリアは目を伏せた。


 読みたそうにはしなかった。


 ただ、遠いものを見る顔だった。


 老人は地図を畳む。


「行くなら、明日でも早い」


「明日は駄目です」


 リナが即座に言った。


 老人は頷く。


「正しい」


「明後日でも駄目です」


「それも正しい」


 アリアが少し困った顔をした。


「では、いつなら」


「手が熱を持たなくなってからだ」


 老人は言った。


「指が少しでも自分で曲がるようになってから。こいつの右手も、せめて物を落とさず持てるようになってから」


 老人は伊織を見る。


「二人とも、今は荷物だ」


 リナが言いにくそうに頷いた。


「はい」


 アリアは何も言わなかった。


 伊織も言わなかった。


 荷物。


 否定したい言葉だった。


 だが、否定しても手は動かない。


 老人は地図をリナに戻す。


「読むな。読むなよ」


「二回言いましたね」


 リナが言う。


「三回目も言う。読むな」


 アリアは小さく息を吐いた。


「分かっています」


「分かっている奴は、目を逸らせる」


 老人は言った。


 アリアは地図から目を逸らした。


 遅くはなかった。


 それを見て、老人は何も言わなかった。



 老人が去ったあと、部屋には地図が残った。


 リナが布で包み直し、薬袋とは別に置く。


 クロが近づこうとすると、リナが止めた。


「駄目です」


 クロは鼻を鳴らした。


「あなたも駄目です」


 アリアが言う。


 クロはアリアを見た。


 自分だけではないと分かったらしく、少しだけ不満が薄れた。


 ヴォルフは窓際で、骨刃を膝に置いていた。


「音が返らない場所か」


「知っているのか」


 伊織が聞く。


「似た場所ならある。森でも谷でも、声が死ぬ場所はある」


「水路にも」


「あるだろうな。特に古いものなら」


 ヴォルフは骨刃の背を撫でる。


「音に頼るな。声に頼るな。なら、触れるものを増やすしかない」


「縄か」


「ああ」


 伊織はガルドの縄を取り出した。


 毛羽立ち。


 黒ずみ。


 擦れた跡。


 まだ切れていない。


 だが、山水路で使えば、さらに傷む。


 返すものだ。


 使わなければ、返せる。


 使えば、もっと傷む。


 使わなければ、誰かが戻れないかもしれない。


 伊織は縄を見た。


 しばらく見てから、しまった。


「使うのですね」


 アリアが言った。


 伊織は彼女を見ない。


「必要なら」


「ガルドさんに怒られます」


「怒るだろうな」


「トトにも、木片のことを怒られます」


「怒るだろうな」


「怒られるものが増えますね」


「増えたな」


 アリアは小さく笑いかけた。


 痛みを思い出して、すぐにやめた。


 リナがじっと見る。


「笑わないでください」


「はい」


 ヴォルフが低く言う。


「怒られるために戻るなら、いい理由だ」


 誰もすぐには返さなかった。


 クロが尾を一度だけ動かした。


 伊織は右手を見た。


 固定具の中。


 指先は動かない。


 だが、熱はある。


 痛みもある。


 戻るかどうかは分からない。


 戻すしかない。


 アリアが目を閉じた。


「父は、何を残したのでしょう」


 声は小さい。


 誰に聞いたわけでもない。


 リナは答えなかった。


 ヴォルフも答えない。


 伊織も答えなかった。


 答えは山水路にある。


 だが、そこへ行くには、まだ手が足りない。


 沈黙の中で、外の水音だけが聞こえた。


 返ってくる音だった。



 夜になって、伊織は目を覚ました。


 今度は少し眠っていた。


 短い眠りだった。


 それでも、眠った。


 部屋の中は暗い。


 リナは椅子にもたれて眠っている。


 アリアは寝台で眠っていた。


 クロは扉の前。


 ヴォルフは窓際。


 外の水音は静かだった。


 伊織は右手を見る。


 固定具の中で、指先が熱い。


 昨日よりはっきりしている。


 痛みもある。


 伊織は左手で固定具の端を押さえた。


 外さない。


 外すなと言われている。


 面倒だが、今は従う。


 そのまま、右手の指を少しだけ曲げようとした。


 親指は動かない。


 人差し指も動かない。


 中指。


 わずかに、動いた。


 ほんの少し。


 布の中で、爪の先が固定具の内側に触れた。


 痛みが走る。


 伊織は息を止めた。


 声は出さない。


 誰も起こさない。


 痛みは遅れて、手首へ来た。


 肘へ。


 肩へ。


 それでも、指は戻った。


 少しだけ。


 伊織は右手を見た。


 黒鋼は出ない。


 警棒も杭もない。


 ただ、自分の指が、少し動いた。


 扉の前で、クロが目を開ける。


 伊織を見る。


 鼻を鳴らす。


 小さく。


 伊織は左手の人差し指を唇に当てた。


 クロはもう一度だけ鼻を鳴らし、目を閉じた。


 伊織は天井を見た。


 水漏れの染み。


 薄い月明かり。


 固定具の中の痛み。


 東の山水路。


 残したもの。


 残してはいけなかったもの。


 全部、まだ遠い。


 だが、手は少し戻った。


 伊織は目を閉じた。


 今度は、眠るために。


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