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第56話 局長代理

 昼の眠りは、夜の眠りより浅かった。


 宿の音が近い。


 廊下を歩く足音。


 下の広間で器が重なる音。


 水路の音。


 誰かが声を落として話す音。


 伊織は目を閉じていた。


 眠ってはいない。


 眠るつもりはあった。


 だが、右手の固定具が邪魔だった。


 木と革が手首を押さえている。


 動かすなと言われている。


 動かせないから巻かれているのか、巻かれているから動かせないのか。


 どちらでも腹が立つ。


 アリアは隣の寝台で横になっていた。


 リナが無理やり寝かせた。


 本人は起きていると言い張ったが、薬が効いたのか、今は眠っている。


 眠りは浅い。


 時々、眉が動く。


 痛みがあるのだろう。


 リナは椅子に座ったまま、薬袋を膝に置いている。


 眠ってはいない。


 目の下に疲れが出ていた。


 ヴォルフは窓際にいない。


 骨刃を預けているせいで、落ち着かないらしい。


 さっきまで部屋にいたが、今は下の広間に降りている。


 クロは扉の前で伏せている。


 完全に寝ているようで、耳だけ動く。


 伊織は目を開けた。


 天井の染みを見る。


 古い水漏れの跡だ。


 ここも水の町だった。


 どこへ行っても、水がある。


 水が戻る道。


 水が隠す道。


 水が連れて行く道。


 伊織は息を吐いた。


 考えると面倒になる。


「起きてますよね」


 リナが小声で言った。


 伊織は天井を見たまま答える。


「目は閉じていた」


「起きてますね」


「似たようなものだ」


「似ていません」


 リナは小さく言った。


 アリアを起こさないためか、いつもより声が低い。


「伊織さんも、ちゃんと休んでください」


「休んでいる」


「考えている顔です」


「顔を見るな」


「見ます」


 伊織は返事をしなかった。


 リナは薬袋の紐を結び直す。


 何度も。


 結んで、解いて、また結ぶ。


 手が落ち着かないのだろう。


「東の山水路に行くんですよね」


 リナが言った。


「たぶんな」


「今ではないですよね」


「今ではない」


「本当に?」


 伊織はリナを見る。


 リナは真面目な顔だった。


 怒ってはいない。


 心配している顔でもない。


 止める役の顔だった。


「今は行かない」


 伊織は言った。


 リナは少しだけ肩を下ろした。


「よかったです」


「だが、向こうは止まらない」


「外縁管理局ですか」


「たぶんな」


 リナは薬袋を見た。


「ドレイス・オルガ」


「知っているのか」


「名前だけです。でも、嫌な感じです」


「理由は」


「理由がないからです」


 伊織は少しだけ目を細めた。


 リナは続ける。


「ちゃんと理由が分かる嫌な人なら、まだ考えられます。でも、何がしたいのか分からない人は怖いです」


「いい勘だ」


「褒められた気がしません」


「褒めた」


「本当ですか」


「たぶんな」


 リナは困った顔をした。


 その時、扉の外で足音が止まった。


 クロが目を開ける。


 リナも顔を上げる。


 伊織は身体を起こした。


 右手は使わない。


 左手だけで寝台から立つ。


 扉が叩かれた。


 二回。


 強くはない。


 だが、迷いはない。


「誰だ」


 伊織が聞く。


「宿の者です。番所の方が」


 店主の声だった。


 伊織はクロを見る。


 クロは唸らない。


 ただ、鼻を鳴らした。


 伊織は扉を開けた。


 店主の後ろに、若い番卒が立っている。


 昨日、番所でミルダについていた一人だ。


 手には封筒。


 水色の紐で留められている。


「番所長からです」


 番卒は言った。


「中身は」


「外縁管理局から届いた正式な呼び出し状です。番所長が先に見ました」


「開けたのか」


「はい。町の事件に関わるため、写しを取っています」


 番卒は少しだけ胸を張った。


 ミルダに言われた通りなのだろう。


 伊織は封筒を受け取らなかった。


「リナ」


「はい」


「アリアを起こすな」


「でも、本人宛では」


「今は起こすな」


 リナは迷った。


 番卒も困った顔をした。


 その時、寝台から声がした。


「起きています」


 アリアだった。


 目を開けている。


 顔色はまだ悪い。


 だが、声ははっきりしていた。


 リナがすぐ振り返る。


「起きないでください」


「まだ起き上がっていません」


「そういう問題では」


「内容だけ聞きます」


 アリアは寝台に横になったまま言った。


 伊織は封筒を受け取った。


 水色の紐。


 紋章。


 外縁管理局。


 文字は読めない。


 読めないことが、今は都合がよかった。


「読めるか」


 伊織が番卒に聞く。


「はい」


「読め」


 番卒は少し驚いた顔をした。


「私が、ですか」


「そうだ」


「アリア様に直接」


「今は読ませない」


 番卒はアリアを見た。


 アリアは小さく頷いた。


「お願いします」


 番卒は封を開けた。


 紙を広げる。


 緊張している。


 だが、声は出た。


「外縁管理局局長代理、ドレイス・オルガ名において通知する」


 部屋の空気が少し硬くなる。


 アリアは目を閉じなかった。


 番卒は続ける。


「リュード旧水制御陣に接触した者について、領境安全規定第七項に基づき、一時的な保護観察を実施する。対象者、アリア=シルヴェイン。同行者、東伊織、リナ、ヴォルフ、獣一体」


 クロが鼻を鳴らした。


 番卒の声が少し揺れた。


「本日夕刻までに、外縁管理局本局へ出頭されたし。従わない場合、領境安全保持のため、強制移送の手続きを開始する」


 リナの顔が強張る。


「まだそんなことを」


 番卒は紙から目を離さない。


「なお、昨日夜間の巡視補佐三名の行動については、本局命令ではなく、現場判断の可能性があるため、現在確認中である」


 ヴォルフの声が、いつの間にか廊下からした。


「便利な確認中だな」


 番卒が肩を跳ねさせた。


 ヴォルフは階段を上がってきていた。


 骨刃はまだ持っていない。


 そのせいで、余計に機嫌が悪そうだった。


 伊織は紙を見た。


 文字の形だけが並んでいる。


 読めない。


 だが、意味は十分聞いた。


「番所長は何と」


 伊織が聞く。


「急いで出頭する必要はない、と」


 番卒は答えた。


「ただ、返答はした方がいいそうです」


「返答」


「はい。番所長は、できれば町の記録に残る形で返すように、と」


 アリアが寝台の上で静かに息を吐いた。


「番所長らしいですね」


 リナが顔をしかめる。


「でも、出頭しないと強制移送って」


「それを書いた時点で、向こうは焦っている」


 伊織は言った。


 リナが伊織を見る。


「そうなんですか」


「昨日の件を消せなかった」


 伊織は紙を見る。


「だから、別の紙で上から覆う」


 ヴォルフが低く笑った。


「紙の上に紙か。湿った町らしい」


 アリアは目を開けたまま言う。


「返答します」


 リナがすぐ反応する。


「起き上がらないでください」


「口で言います」


「それなら」


「番卒さん、書いていただけますか」


 番卒は目を丸くした。


「私が?」


「はい。番所への提出用です。外縁管理局への返答は、その写しで十分でしょう」


 番卒は困った顔をした。


 だが、少しだけ嬉しそうでもあった。


 たぶん、ミルダに褒められたい顔だ。


「書きます」


 番卒は鞄から紙を出した。


 膝の上で書こうとして、リナが椅子を出した。


「座ってください」


「あ、はい」


 番卒は椅子に座る。


 紙を置く。


 アリアは寝台の上で言った。


「外縁管理局局長代理、ドレイス・オルガ殿」


 番卒が書く。


 筆の音が小さく響く。


「貴局より通知を受け取りました。しかし、私は現在、町の薬師より移動を禁じられており、昨夜の不法侵入について番所への証言を終えたばかりです」


 リナが頷いている。


 伊織は黙って聞いた。


「したがって、本日夕刻までの出頭は不可能です」


 番卒の筆が止まる。


 アリアは続けた。


「必要な説明がある場合は、南宿番所または現在滞在中の宿へ、正式な立会人を伴ってお越しください」


 ヴォルフが窓枠に背を預けた。


 口元が少し上がっている。


 アリアは最後に言った。


「なお、本人の同意なき移送、ならびに夜間の強制的接触については、昨日の証言と同様、私自身の名で拒否します」


 番卒の筆が止まった。


 部屋が静かになる。


 リナが小さく息を吐く。


 伊織はアリアを見た。


 横になったまま。


 手も動かない。


 紙も読んでいない。


 それでも、外縁管理局を一歩下がらせる文になっていた。


 番卒が言う。


「最後に、署名は」


「左手の印で」


 アリアが答えた。


 リナが布を持ってきた。


「また押すんですか」


「必要なら」


「本当に、もう」


 リナは困った顔で朱の小皿を用意した。


 番卒が持ってきていたらしい。


 アリアは起き上がろうとする。


 リナがすぐに支えた。


 伊織は見ない。


 見なくても、衣擦れと呼吸で分かる。


 アリアは左手を朱に付け、紙の端に押した。


 昨日より少しだけ、真っ直ぐだった。


 番卒はそれを見て、紙を乾かした。


「番所長に届けます」


「お願いします」


 番卒は立ち上がった。


 扉を出る前に、伊織の方を見る。


「その、番所長が」


「何だ」


「返答を出したら、たぶん向こうは来る、と」


「だろうな」


「それと」


 番卒は少し言いにくそうにした。


「来させればいい、と」


 伊織は少しだけ口元を動かした。


 ミルダらしい。


「伝わった」


 番卒は頭を下げて出ていった。


 扉が閉まる。


 リナがすぐアリアを寝台に戻す。


「これで本当に寝てください」


「はい」


「返事が素直すぎて怖いです」


「疲れました」


 アリアは小さく言った。


 リナの顔が少し変わる。


 怒る顔ではなくなった。


「寝てください」


「はい」


 アリアは目を閉じた。


 左手には、また赤い跡が残っている。


 今度は紙に残すための赤だった。



 夕方まで、宿は静かではなかった。


 静かにしようとしているのに、静かにならない。


 下の広間では、噂を抑えた声が飛ぶ。


 番所へ行った返答状。


 外縁管理局の呼び出し。


 ドレイス・オルガの名。


 その三つが、町の中を回っている。


 水路職人の一人が、宿の前で言った。


「あの局長代理、昔から紙ばかりだ」


 別の男が答える。


「アルド様が来てた頃は、後ろにいた奴だろ」


「前に出るようになってから、ろくなことがない」


 伊織は二階の窓から、その声を聞いていた。


 盗み聞きではない。


 聞こえてくる。


 町の声は、壁が薄いほどよく入る。


 ドレイス・オルガ。


 父の代からいた外縁管理局の職員。


 アルドの後ろにいた男。


 今は前に出ている男。


 分かりやすい。


 分かりやすいものほど、別のものを隠していることがある。


 伊織は窓から離れた。


 右手はまだ固定されている。


 指先の熱は引いていない。


 痛みもある。


 アリアは眠っている。


 リナも椅子に座ったまま、少しだけ眠っていた。


 クロは扉の前。


 ヴォルフは下の広間へ行っている。


 骨刃を取りに行く時間を、何度も気にしていた。


 そのヴォルフが戻ってきたのは、夕方前だった。


 手には骨刃。


 布に包まれている。


 顔は少し変だった。


 機嫌がいいのか悪いのか分からない。


「戻ったか」


 伊織が言う。


「刃はな」


「何か言われたか」


「道具を大事にしろと」


「言われそうだ」


「お前にも言えと言われた」


「聞いた」


「何度でも聞け、だそうだ」


 ヴォルフは布を開いた。


 骨刃の欠けは完全には消えていない。


 だが、先端は整っていた。


 以前より少し短い。


 そのかわり、厚みがある。


 雑に折れたものではなく、折れた後で使える形に戻したものだった。


「悪くない」


 伊織が言う。


「俺の刃だ」


「だから悪くないと言った」


 ヴォルフは不満そうに鼻を鳴らした。


 リナが目を覚ます。


「戻ったんですか」


「刃だけな」


「よかったです」


「俺より刃の心配か」


「どちらもです」


 ヴォルフは少し黙った。


 それから骨刃を腰に戻した。


 クロが鼻を近づける。


 ヴォルフは刃を少し遠ざけた。


「噛むな」


 クロは噛まなかった。


 匂いだけ嗅いだ。


 薬草と砥石の匂いがした。


 その時、下の広間が静かになった。


 伊織は扉を見る。


 足音。


 一人ではない。


 重い靴音が二つ。


 軽い足音が一つ。


 もう一つ、杖の音。


 こつ。


 こつ。


 ヴォルフが顔を上げる。


 クロの耳が立つ。


 リナがアリアを見る。


 アリアは目を開けていた。


 眠っていたはずなのに、もう起きている。


「来ましたね」


 アリアが言った。


 伊織は扉へ向かった。


 右手は使わない。


 左手で取っ手に触れる。


 その前に、扉が叩かれた。


 三回。


 今度は、丁寧だった。


「外縁管理局、局長代理ドレイス・オルガ」


 扉の向こうで声がした。


 老いた声だった。


 乾いている。


 だが、細くはない。


「アリア=シルヴェイン様に、正式な説明を求めに参りました」


 伊織は扉を開けた。


 廊下に、男が立っていた。


 年は六十を越えている。


 背は高い。


 細い。


 黒い外套。


 右手に杖。


 胸に、風車に似た紋章。


 白髪を後ろへ撫でつけている。


 目は濁っていない。


 その後ろに、護衛が二人。


 さらにその横に、ミルダが立っていた。


 腕を組んでいる。


「立会人だ」


 ミルダが言った。


 ドレイスは伊織を見た。


 固定具の右手。


 左手。


 目。


 順番に見る。


「あなたが、東伊織殿か」


 伊織は答えなかった。


 ドレイスはわずかに笑う。


「噂とは違う」


「噂を聞く相手を間違えたな」


 伊織は言った。


 ミルダが口元だけで笑った。


 ドレイスは怒らなかった。


 むしろ、楽しそうですらあった。


「入っても?」


 伊織は部屋の中を見る。


 アリアは寝台に起き上がっていた。


 リナがその横。


 ヴォルフは窓際。


 クロは扉の内側。


 全員、位置についている。


「一人なら」


 伊織は言った。


 護衛が反応する。


 ドレイスは杖を少し上げた。


「待て」


 護衛は止まった。


 ドレイスはミルダを見る。


「番所長も」


「私は入る」


 ミルダは言った。


「立会人だ」


 ドレイスは少しだけ頭を下げた。


「では、二人で」


 伊織は扉を開けた。


 ドレイスが入る。


 杖の音が、床に落ちる。


 こつ。


 こつ。


 その音に、水は混じらない。


 歯車の音でもない。


 ただの杖の音だった。


 だが、部屋の空気は変わった。


 アリアがドレイスを見る。


 ドレイスもアリアを見る。


 数秒、誰も話さなかった。


 やがて、ドレイスが深く頭を下げた。


「お久しぶりです、アリア様」


 アリアは静かに答えた。


「覚えていません」


「ええ。最後にお会いした時、あなたはまだ小さかった」


「父を知っていますね」


 ドレイスの杖が止まった。


「もちろんです」


「では、聞きます」


 アリアは動かない右手を膝に置いた。


 左手には赤い朱の跡がまだ薄く残っている。


「あなたは、父の後ろにいた人ですか」


 ドレイスは目を細めた。


 ほんの少しだけ。


 それだけだった。


「後ろにいたこともあります」


「今は、前に出ている」


 ミルダが壁際で腕を組み直した。


 伊織はドレイスを見た。


 老人は笑った。


 目は動かなかった。


「そのようですな」


 アリアは言った。


「なら、説明を聞きます」


 ドレイスは椅子を見た。


「座っても?」


「どうぞ」


 リナがすぐに言う。


「長くは駄目です。アリアさんは休む時間です」


 ドレイスはリナを見る。


「あなたが、手を見る役ですか」


「はい」


「よい役だ」


 リナは警戒したまま答える。


「褒めても時間は延びません」


 ミルダが小さく笑った。


 ドレイスは椅子に座る。


 杖を膝に置いた。


 そして、アリアに向かって言った。


「昨夜の件については、私の命令です」


 部屋が静かになった。


 リナの顔が強張る。


 ミルダの目が細くなる。


 ヴォルフの手が骨刃の柄に近づいた。


 伊織は動かなかった。


 アリアは目を逸らさない。


「理由を」


「あなたを守るためです」


 アリアはすぐには返さなかった。


 ドレイスは続けた。


「あなたの父上は、同じ言葉を嫌いました」


「守る、という言葉を?」


「ええ」


 ドレイスの声は乾いていた。


「守ると言って、人はよく檻を作る。アルド様は、そうおっしゃっていた」


 アリアの手は動かない。


 だが、左手の指が布を掴んだ。


 ドレイスはその手を見た。


「あなたは、よく似ている」


「誰にですか」


「困るほどに、父上に」


 伊織はドレイスの顔を見た。


 この男は、嘘を混ぜる。


 たぶん。


 全部ではない。


 全部嘘なら、もっと分かりやすい。


 真実の近くに嘘を置く人間の顔だった。


 アリアは言った。


「なら、もう一度聞きます。なぜ、夜に眠らせて連れて行こうとしたのですか」


 ドレイスの指が、杖の頭をなぞった。


「東の山水路へ、あなたを行かせないためです」


 部屋の外で、水路の音がした。


 誰も動かなかった。


 ドレイスは静かに続ける。


「あそこには、アルド様が残したものがあります」


 アリアの呼吸が浅くなる。


 リナがすぐに肩へ手を置いた。


 ドレイスは言った。


「そして、残してはいけなかったものもある」


 夕方の光が、窓から差している。


 骨刃の影が、床に細く伸びた。


 伊織は左手を開いた。


 今すぐ掴むものはない。


 だが、掴めるようにしておく。


 アリアは静かに聞いた。


「それを、私に読ませたくない」


 ドレイスは答えた。


「はい」


「それは、父の意思ですか」


 ドレイスは少しだけ黙った。


 その沈黙が、答えに近かった。


「私の判断です」


 アリアは目を伏せなかった。


「では、父の名を使わないでください」


 ドレイスの顔から、笑みが消えた。


 ミルダが小さく息を吐く。


 ヴォルフは骨刃から手を離した。


 リナは何も言わない。


 ドレイスはゆっくり頭を下げた。


「……失礼しました」


 アリアは続けた。


「私は今、行きません。手が動かないからです。仲間の手も戻っていません。薬師にも止められています」


 ドレイスは顔を上げる。


 アリアは言った。


「ですが、手が戻ったら行きます。東の山水路へ」


「止めます」


「止めるなら、理由を町の帳面に残してください」


 ミルダの口元が動いた。


 ドレイスはアリアを見た。


 やがて、老人は立ち上がった。


 杖を床につく。


 こつ。


「本当に、困るほど似ている」


「それは、理由になりません」


「ええ」


 ドレイスは頭を下げた。


「今日は引きます。ですが、山水路へ行くなら、私にも知らせていただきたい」


「なぜ」


「あそこを知っている者が、もう多くありません」


「あなたは知っている」


「少しだけ」


 ドレイスは扉へ向かう。


 ミルダも動く。


 出ていく直前、ドレイスは振り返った。


「アルド様は、最後まで帰るつもりでした」


 アリアの顔が変わった。


 ほんのわずかに。


 ドレイスは続けた。


「ただ、帰る場所を間違えた」


 それだけ言って、ドレイスは部屋を出た。


 杖の音が廊下に遠ざかる。


 こつ。


 こつ。


 水音は混じらない。


 だが、その音はしばらく耳に残った。


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