第55話 私の名で
朝の宿場は、夜より騒がしかった。
寝不足の顔。
早起きの顔。
何かを見たくて起きてきた顔。
そのどれもが、同じ卓の周囲に集まっている。
縛られた三人の男は、広間の端に座らされていた。
武器は取り上げてある。
眠り薬の布も。
金属札も。
伊織はそれらを卓の上に並べた。
左手だけで。
右手は固定具の中にある。
まだ重い。
だが、今は邪魔なだけで済んでいる。
アリアは椅子に座っていた。
顔色はよくない。
右手は固定され、膝の上に置かれている。
それでも、背筋は伸びていた。
リナが横に立っている。
薬袋を抱えたまま。
ヴォルフは壁際。
クロは卓の下。
外縁管理局の男は、昨日よりも低い声で話していた。
「番所に渡す前に、本局で確認すべきです」
「確認は番所でしてください」
アリアが言った。
「領内の者です」
「ここは町です」
「シルヴェイン領の外縁町です」
「だからこそ、町の番所へ渡します」
言葉は静かだった。
だが、譲らなかった。
男は唇を結ぶ。
昨日は丁寧な男だった。
今朝は、丁寧でいる余裕が少し減っていた。
伊織は金属札を見た。
風車に似た紋。
外縁管理局のもの。
三人の首元にあったものと同じだ。
それを隠して夜に入ってきた。
それだけで、十分だった。
店主が奥から出てくる。
丸い腹に帯を巻き、寝癖の残った髪を撫でつけている。
「番所の者、呼んできました」
声が少し震えていた。
無理もない。
領の人間と、シルヴェインの娘と、縛られた襲撃者。
宿屋の朝には重すぎる。
扉が開いた。
入ってきたのは、年配の女だった。
背は高くない。
革の外套。
腰に短剣。
髪は後ろで一つに縛っている。
目つきが鋭い。
後ろに若い番卒が二人ついていた。
女は広間を一度見回す。
縛られた男たち。
卓の上の札。
アリア。
外縁管理局の男。
伊織。
順番に見て、最後に店主へ言った。
「朝から面倒なものを呼ぶね」
「す、すみません」
「謝るな。仕事だ」
女は卓へ近づいた。
「南宿番所長、ミルダだ。事情を聞く」
声に飾りがなかった。
伊織はその声を悪くないと思った。
アリアが名乗る。
「アリア=シルヴェインです」
ミルダの眉がわずかに動いた。
だが、頭は下げなかった。
「それは聞いた。で、誰が襲われた」
「私たちです」
「誰に」
アリアは縛られた三人を見た。
「この三人に」
「理由は」
「眠らせて、連れて行こうとしたようです」
ミルダは三人の男を見た。
「ようです、か」
伊織は白い布を指で押した。
左手で。
「薬の匂いがする」
リナがすぐに言う。
「眠り薬です。触らない方がいいです」
ミルダはリナを見る。
「あんたは」
「リナです。手当てと薬の管理をしています」
「薬師か」
「薬師ではありません」
「なら、薬師に確認させる」
「お願いします」
リナはすぐに頷いた。
ミルダは卓の上の金属札を見る。
「これは外縁管理局の札だな」
外縁管理局の男が口を開く。
「その者たちが正規の指示で動いたかは、まだ確認が」
「聞いていない」
ミルダは短く遮った。
男の顔が強張る。
「番所長、これは領内行政の」
「ここで夜中に扉をこじ開けた。宿の中でだ。領内行政の前に、町の事件だ」
宿の客たちが少しざわつく。
ミルダは声を荒げなかった。
それがかえって効いた。
「こいつらは預かる」
「本局への引き渡しを」
「記録を取ってからだ」
「本局の権限で」
「番所の帳面に載せてからだ」
男は黙った。
ミルダは番卒に顎で示す。
「縛り直せ。宿の毛布じゃ見栄えが悪い」
「はい」
番卒たちが男たちを立たせる。
一人が痛みに顔を歪めた。
クロに噛まれた男だ。
リナがすぐに言った。
「噛まれた人は手当てが必要です」
ミルダはその男の手を見る。
「噛んだのは」
クロが卓の下から顔を出した。
ミルダはクロを見る。
クロもミルダを見る。
しばらく、どちらも動かなかった。
「賢そうだ」
ミルダが言う。
クロは鼻を鳴らした。
褒め言葉として受け取ったかは分からない。
ミルダは番卒に言った。
「薬師に連れていけ。噛まれるような真似をした理由も聞け」
番卒が頷いた。
外縁管理局の男が一歩出る。
「待ってください。彼らの身柄は」
「町で預かる」
「本局が」
「うるさい」
ミルダはようやく男を見た。
「朝飯前に三回も同じことを言わせるな」
宿のどこかで、小さく笑いが起きた。
男は顔を赤くしたが、何も言えなかった。
伊織は左手で椀を持った。
冷めた水を飲む。
悪くない。
番所長は使える。
少なくとも、今朝は。
◆
番所は宿から近かった。
石橋を渡った先。
低い建物。
入口には、古い木札がかかっている。
文字は読めない。
だが、剣と水瓶の印が彫られていた。
伊織たちはそこまで同行した。
アリアは歩くと言った。
リナが馬車を探すと言った。
結局、二人の間を取って、ゆっくり歩くことになった。
五分の道に、倍以上かかった。
アリアは文句を言わなかった。
それだけで、リナは少し満足そうだった。
番所の中は狭い。
机が二つ。
棚が一つ。
奥に鉄格子の部屋がある。
三人の男はそこで座らされた。
外縁管理局の男は、入口近くで立っている。
居心地が悪そうだった。
ミルダは帳面を開く。
「名前」
三人は黙る。
ミルダは顔を上げない。
「黙るなら、黙ったと書く。あとで困るのはそっちだ」
一人が小さく名を言った。
残り二人も続く。
伊織は聞いていた。
知らない名だ。
どうでもいい名ではない。
だが、今は道具の名だった。
誰かに使われた名。
ミルダは書く。
筆の音が、紙の上で乾いていた。
「所属」
「外縁管理局、巡視補佐」
「巡視補佐が夜中に宿の錠を開けるのか」
男は黙る。
「命令は」
沈黙。
ミルダは筆を止めた。
「誰の命令だ」
また沈黙。
外縁管理局の男が口を開きかける。
ミルダが先に言う。
「あんたは黙っていろ」
男は口を閉じた。
ミルダは三人の一人を見る。
クロに噛まれていない男。
逃げようとして、両手を上げた男だ。
顔が一番若い。
「お前は早かったな」
男は肩を揺らした。
「何が」
「降参が」
ヴォルフが低く笑った。
ミルダは続ける。
「早い奴は、死にたくない奴だ。死にたくない奴は、嘘が下手だ」
若い男の喉が動く。
「命令は誰だ」
「……局長代理です」
外縁管理局の男の顔が変わった。
ミルダは筆を動かす。
「名は」
「ドレイス・オルガ」
アリアが反応した。
わずかに。
ミルダはそれを見逃さなかった。
「知っている名か」
アリアは少し考えてから答えた。
「父の代からいる、外縁管理局の職員です。今は局長代理になっているはずです」
「父の代から」
ミルダは書きながら言う。
「古い人間だな」
「はい」
「古い人間は、面倒だ」
ヴォルフが壁際で頷いた。
「同感だ」
「お前も古そうだが」
「俺はまだ使える」
「古い道具ほど、そう言う」
ヴォルフは黙った。
宿の時より、少しだけ目が楽しそうだった。
ミルダは若い男に戻る。
「命令の内容」
「アリア様を保護し、本局へ移送すること」
「本人の同意は」
「不要と」
「理由は」
「……旧水制御陣の影響で、判断能力に問題がある可能性」
リナの顔が赤くなる。
「そんな」
伊織は左手を少し上げた。
リナは口を閉じた。
怒るのは分かる。
だが、今は書かせる方がいい。
アリアは動かなかった。
顔色は悪い。
だが、目は若い男を見ている。
「私を、判断できない者として扱う命令ですね」
若い男は目を伏せた。
「そう聞いています」
外縁管理局の男が言う。
「それは保護措置です。旧制御陣に接触した者は、認識障害を起こす場合が」
「夜中に眠らせて連れて行くのが保護か」
伊織が言った。
男は黙る。
「便利な言葉だな」
伊織はそれ以上言わなかった。
ミルダが筆を止める。
「保護措置。本人同意なし。夜間。眠り薬使用。宿へ無断侵入」
ひとつずつ、声に出して並べた。
「いい帳面になる」
外縁管理局の男の額に汗が浮かぶ。
アリアが口を開いた。
「その命令書はありますか」
若い男は首を横に振った。
「口頭です」
「誰から」
「ドレイス局長代理から」
「直接ですか」
「はい」
ミルダが書く。
筆の音が続く。
アリアは自分の固定された手を見た。
次に、机の上の帳面を見る。
文字を読もうとはしなかった。
「番所長」
「何だ」
「私の名で、証言を残します」
ミルダは顔を上げた。
「手は使えないだろう」
「代筆をお願いします」
「誰に」
アリアは少しだけ考えた。
リナが一歩出ようとする。
アリアはそれを見て、首を横に振った。
「番所長に」
ミルダの眉が動く。
「私か」
「はい。町の記録として残したいので」
ミルダは少し黙った。
それから、別の紙を出した。
「言え。余計な飾りは削る」
「お願いします」
アリアは息を整えた。
「私は、アリア=シルヴェインの名で証言します」
ミルダが書く。
「昨夜、リュード南宿の宿屋において、外縁管理局所属と思われる三名が、本人の同意なく部屋へ侵入しました」
筆が走る。
「彼らは眠り薬と思われる布を所持しており、私を本局へ移送する命令を受けていたと証言しました」
リナが拳を握っている。
クロが足元で静かにしている。
ヴォルフは壁にもたれたまま、目を細めている。
伊織はアリアを見た。
声は揺れていない。
急いでもいない。
読んでいる声ではない。
自分で言っている声だった。
「私は現在、治療中であり、薬師より移動を禁じられています。したがって、当該移送は私の身体を危険にさらす行為であると判断します」
ミルダの筆が止まる。
「判断します、でいいのか」
「はい」
「された、ではなく」
「はい。私が判断します」
ミルダはアリアを見た。
それから、続きを書いた。
外縁管理局の男は青い顔で立っていた。
アリアは最後に言った。
「この件について、私はシルヴェイン家の名ではなく、私自身の名で説明を求めます」
ミルダの筆が止まった。
宿場の朝の音が、窓の外から入ってくる。
水路。
荷車。
人の声。
ミルダはゆっくり書いた。
「……重い一文だな」
「削りますか」
「削らん」
ミルダは紙を乾かす。
「署名はどうする」
アリアは固定された右手を見た。
左手を出そうとして、少し止まる。
字を書くには、慣れない手だ。
リナがすぐに言う。
「無理しないでください」
「名前だけです」
「名前だけでも駄目です」
ミルダはインクを閉じた。
「なら、印でいい」
「印?」
「手形だ」
アリアは少し困った顔をした。
伊織はその顔を見た。
シルヴェインの娘が、町の番所で手形を押す。
悪くない。
ミルダは朱の入った小皿を出した。
「左手で押せ。これなら文字を読まん」
アリアは左手を見た。
ぎこちなく指を広げる。
リナが袖を支えた。
アリアは小皿に左手をつけ、紙の下に押した。
少しずれた。
綺麗な手形ではない。
指の一本が薄い。
掌の端は濃すぎる。
だが、そこに残った。
ミルダは紙を見る。
「十分だ」
アリアは手を引いた。
左の掌が赤い。
クロがそれを嗅ごうとして、リナに止められた。
「駄目です」
クロは不満そうに鼻を鳴らした。
伊織は少しだけ息を吐いた。
今朝も、右手は要らなかった。
◆
番所を出る頃には、南宿の噂は町中に回っていた。
外縁管理局が夜に動いた。
シルヴェインの娘が番所に証言を残した。
襲撃者は町の帳面に載った。
その三つだけで、空気は変わる。
外縁管理局の男は、一人で本局へ戻ることになった。
護衛は付けられなかった。
番所長ミルダが、そう決めた。
「護衛が必要なら、番所から出す」
ミルダが言うと、男は拒まなかった。
拒めなかった。
代わりについたのは、番卒一人だった。
見張りとして。
伊織はそれを見ていた。
手続きは、時に剣より厄介だ。
宿へ戻る道で、リナがアリアの手を見た。
「熱、上がってます」
「少しだけです」
「少しでも駄目です」
「番所まで歩いただけです」
「その番所が駄目です」
アリアは言い返せなかった。
左手には、赤い朱がまだ残っている。
それを見て、少しだけ笑った。
「手形なんて、初めて押しました」
「もう押さなくていいです」
「そうですね」
「本当にそう思っていますか」
「少しだけ、面白かったです」
「駄目です」
リナは即答した。
ヴォルフが後ろで笑った。
「手形で領の役人を縛る令嬢か」
「やめてください」
アリアが言う。
「語り草になる」
「やめてください」
「もう遅い」
ヴォルフは町の通りを見る。
すでに何人かがこちらを見ている。
昨日の視線とは違う。
怪我人を見る目ではない。
厄介ごとを見る目でもない。
何かが起きた後の目。
誰かが言う。
「あの人か」
「シルヴェインの」
「外縁局に逆らったって」
「逆らったんじゃない。番所に出したんだ」
声は小さい。
だが、届く。
アリアは聞こえないふりをした。
聞こえている。
伊織には分かった。
だが、アリアは歩いた。
左手に赤を残したまま。
クロが隣を歩く。
時々、周囲を見ている。
リナはアリアの歩調を見ている。
伊織は最後尾を歩いた。
右手はまだ動かない。
だが、固定具の中で指先に熱がある。
痛みもある。
宿の前まで戻ると、店主が待っていた。
「ええと、朝食、作り直しました」
「作り直した?」
伊織が聞く。
「さっきのは冷めたので」
店主は目を泳がせる。
「あと、昨夜の件で、その、宿代は」
「払う」
「いえ、そうではなく」
店主は小さく頭を下げた。
「部屋の毛布、破ったのはこっちの責任ということに」
「破ったのは俺だ」
「でも、襲われたのはお客さんなので」
伊織は店主を見る。
店主は気まずそうに笑った。
「うちは、夜中に客をさらわれる宿じゃない、と言いたいので」
伊織は少し黙った。
それから言った。
「朝食は食う」
「はい」
「毛布代は払う」
「でも」
「払う」
店主は困った顔をした。
ヴォルフが横から言う。
「諦めろ。こいつは面倒だ」
店主はさらに困った顔になった。
リナがため息をつく。
「では、半分でどうですか」
伊織と店主が同時にリナを見る。
リナは薬袋を抱え直した。
「揉める時間がもったいないです。アリアさんを休ませます」
伊織は店主を見る。
店主も伊織を見る。
「半分で」
店主が言った。
伊織は頷いた。
「それでいい」
リナが少し満足そうにした。
アリアは小さく笑って、すぐ痛みで顔をしかめた。
「笑わないでください」
「はい」
宿に入ると、温かい匂いがした。
焼いたパン。
豆の汁。
薬草茶。
昨日より、少し肉の匂いも強い。
店の女が卓を指した。
「奥、空けてます」
「助かる」
伊織は言った。
女は少しだけ目を丸くした。
それから、笑った。
伊織は席に座る。
右手は使わない。
左手で椅子を引き、アリアを座らせる。
リナがすぐ横に座る。
ヴォルフは壁際。
クロは卓の下。
昨日と同じ配置。
だが、空気は少し違った。
宿の人間が、こちらを見てもすぐ逸らさない。
怖がっているわけではない。
ただ、距離を測っている。
それでいい。
朝食が運ばれてくる。
湯気が立っている。
アリアは左手を見た。
朱がまだ残っている。
「落ちませんね」
リナが布を濡らす。
「食べた後で洗います」
「先に洗っても」
「食べてください」
「はい」
アリアは匙を取った。
昨日より少しだけ、動きがましだった。
伊織はすぐに目を逸らした。
クロが卓の下から伊織を見上げた。
鼻を鳴らす。
「何だ」
クロは返事をしない。
ただ、尻尾を一度だけ動かした。
伊織は汁を飲んだ。
温かい。
昨日と同じようで、違う朝だった。
◆
昼前、薬師の老人が宿に来た。
頼んではいない。
勝手に来た。
手には古い鞄。
顔には不機嫌そうな皺。
店に入るなり、老人は言った。
「動くなと言ったはずだ」
アリアは匙を止めた。
リナがすぐに頭を下げる。
「すみません。番所へ」
「聞いている」
「すみません」
「謝る相手は手だ」
老人はアリアの前に立つ。
「見せろ」
アリアは右手を差し出そうとして、固定されていることを思い出したように止まる。
老人は勝手に布を確かめた。
「熱が増えている」
リナの顔が曇る。
「やっぱり」
「悪化というほどではない。だが、次に同じことをしたら悪化だ」
「はい」
アリアは素直に答えた。
老人は伊織を見る。
「お前もだ」
「俺は番所で座っていた」
「歩いた」
「歩いたな」
「駄目だ」
「歩くなとは聞いてない」
「今言った」
伊織は返事をしなかった。
老人は伊織の固定具も確かめる。
「外してないな」
「外せと言われていない」
「珍しく言うことを聞く」
「外せない作りだろう」
「そのために作った」
老人は満足そうではなかった。
ただ、仕事を確認した顔だった。
リナが薬袋を出す。
「追加で何か必要ですか」
「休むことだ」
「薬は」
「薬より休みだ」
「分かりました」
「分かっていない顔だ」
リナは真剣に頷く。
「分かります」
「なら、二人を寝かせろ」
「はい」
アリアと伊織が同時に老人を見た。
老人は二人を見返す。
「何だ」
「今は朝だ」
伊織が言う。
「怪我に朝も夜もあるか」
「飯は」
「食ったら寝ろ」
「子どもみたいですね」
アリアが言った。
老人は鼻を鳴らす。
「子どもの方が治りは早い。見習え」
ヴォルフが笑った。
老人はヴォルフを見る。
「お前も骨刃を見せろ」
「俺は怪我をしていない」
「刃が怪我をしている」
ヴォルフの顔が一瞬止まった。
伊織は少しだけ口元を動かした。
ヴォルフは渋々、骨刃を出す。
老人は先端の欠けを見た。
「雑に使ったな」
「水路を割った」
「刃物にやらせる仕事ではない」
「他になかった」
「なら仕方ない」
老人は鞄から小さな砥石を出した。
「預かる」
「今か」
「今だ」
ヴォルフは骨刃を渡した。
少しだけ、不満そうだった。
リナがそれを見て、口元を押さえた。
アリアも笑いそうになって、すぐに耐えた。
老人は全員を見回す。
「お前らは全員、道具を雑に扱う」
誰も言い返さなかった。
否定できなかった。
「道具は、持ち主より長く残ることがある。雑にするな」
老人はそう言って、骨刃を鞄にしまった。
伊織は胸元の木片を思い出した。
トトの木片。
ガルドの縄。
返すもの。
まだ返せていないもの。
老人が出口へ向かう。
「夕方まで外に出るな」
「夕方ならいいのか」
伊織が聞く。
「駄目だ」
「ならなぜ夕方と」
「俺がまた見に来る。それまでだ」
老人は扉を開けた。
出ていく直前、振り返る。
「東の山水路へ行くつもりなら、せめて手が熱を持たなくなってからにしろ」
アリアが顔を上げる。
「知っているんですか」
「この町で知らん者の方が少ない」
「危険ですか」
「危険じゃない古い水路があるなら、俺が見たい」
老人はそう言って出ていった。
扉が閉まる。
リナが深く息を吐いた。
「寝ましょう」
アリアは何か言いかける。
リナが見る。
アリアは言葉を飲み込んだ。
「はい」
伊織は汁の椀を持った。
まだ半分残っている。
「食ってからだ」
「食べたら寝てください」
「分かった」
リナは疑うように見た。
伊織は左手で匙を持つ。
右手はまだ動かない。
だが、今朝はそれで足りた。
次も足りるとは限らない。
だから休む。
面倒だが、必要なら仕方ない。
窓の外で、水路の音がした。
昨日より、少しだけ強い。
東へ流れる水の音だった。




