第54話 領境の使者
煮込みは、思ったより悪くなかった。
肉は硬い。
豆は崩れている。
塩は少し強い。
だが、温かかった。
それだけで十分だった。
伊織は左手で匙を持ち、ゆっくり口に運んだ。
右手は固定具の中にある。
木と革で固められた手は、膝の上に置いてあるだけだった。
使おうとすると痛む。
使わなくても邪魔だった。
老人の性格が悪い、という感想は変わらない。
向かいで、アリアも匙を持っていた。
左手で。
慣れない手つきだった。
何度か豆を落とす。
そのたびに、リナが手を出しかけて止めた。
アリアは落とした豆を見た。
少し考えてから、もう一度すくう。
今度は口まで運べた。
リナがほっと息を吐く。
「見すぎです」
アリアが言った。
「見ます」
「食べにくいです」
「食べてください」
「見られていると」
「食べてください」
リナは譲らなかった。
アリアは小さく息を吐く。
それでも、匙を置かなかった。
ヴォルフは壁際の席で黙って食べている。
器を持つ手に無駄がない。
クロは卓の下で、湯気の立つ小皿に鼻を近づけていた。
熱いらしい。
一度舐めて、すぐに顔を引いた。
伊織はそれを見た。
「待て」
クロは伊織を見上げる。
分かっている、という顔ではない。
納得していない顔だった。
だが、待った。
宿の中は騒がしい。
荷運びの男たち。
水路の補修職人。
商人らしき二人組。
町の女たち。
それぞれが食い、飲み、喋っている。
水制御陣の奥にあった沈黙とは違う。
人の声は、時々うるさい。
だが、今は悪くなかった。
アリアが薬を飲む。
顔をしかめる。
「苦いです」
リナが水を差し出す。
「効く薬は苦いです」
「誰が決めたんですか」
「薬師さんです」
「あの人なら言いそうですね」
伊織は匙を置いた。
腹に温かいものが入ると、身体が少し遅れて反応する。
疲れていたのだと分かる。
分かったからといって、寝られるわけではない。
店の扉が開いた。
冷たい風が入る。
声が少し低くなった。
入ってきたのは、三人だった。
一人は細身の男。
濃い灰色の外套。
胸元に、風車に似た紋章。
シルヴェインの外縁標にあったものと同じ形だった。
残り二人は護衛らしい。
革鎧。
腰に剣。
足運びは悪くない。
だが、戦場の人間ではない。
伊織は匙を持ったまま、見るのをやめた。
見続ける必要はない。
見た分で足りる。
細身の男は店内を見回した。
視線が、アリアで止まる。
次に、伊織。
ヴォルフ。
クロ。
最後にリナ。
男は迷わずこちらへ歩いてきた。
店の中の会話が少し落ちる。
ヴォルフは器を置かなかった。
食べ続けている。
クロだけが顔を上げた。
男は卓のそばで足を止める。
「アリア=シルヴェイン様でいらっしゃいますか」
様。
その一文字で、宿の空気が変わった。
客たちの視線が集まる。
アリアは匙を置いた。
左手で。
動かない右手を卓の下に隠すことはしなかった。
「そうです」
男は浅く頭を下げた。
「シルヴェイン領外縁管理局の者です。お迎えに参りました」
「迎え?」
「はい。リュード旧水制御陣に異変があったと報告が入りました。領内へお入りになる前に、こちらで安全を確保いたします」
言葉は丁寧だった。
だが、伊織は男の足元を見た。
靴の向き。
立つ位置。
護衛二人の間合い。
安全を確保する者の立ち方ではない。
連れて行く者の立ち方だった。
リナが小さく眉を寄せる。
ヴォルフはまだ食べている。
アリアは男を見た。
「報告が早いですね」
「領境の異変は、すぐ本局へ上がります」
「誰が報告を」
「現地の巡視隊です」
「リュードに巡視隊はいませんでした」
男の顔は変わらなかった。
「入れ違いかと」
「そうですか」
アリアはそれ以上言わなかった。
だが、空気は変わっていた。
男は一歩だけ近づく。
「お疲れでしょう。馬車を用意しております。すぐに」
伊織は左手で器を持ち上げた。
煮込みを一口飲む。
熱い。
舌が少し痛む。
器を置く音が、卓に響いた。
男の視線が伊織に向く。
「失礼ですが、あなたは」
「食事中だ」
伊織は言った。
男がわずかに固まった。
宿の奥で、誰かが息を呑む。
「こちらは領内の」
「食事中だ」
同じ言葉を、同じ声で返す。
男の護衛の一人が眉を動かした。
手が腰の剣に近づく。
伊織は見ていない。
見る必要がなかった。
クロが卓の下で、低く唸った。
短い音だった。
護衛の手が止まる。
ヴォルフがようやく器を置いた。
「飯が冷める」
それだけ言った。
声は低い。
脅してはいない。
だが、壁際の空気が重くなった。
男は笑顔を作る。
「もちろん、お食事の後でも構いません。ただ、アリア様のお身体を考えれば」
「身体を考えるなら、今は動かさない」
リナが言った。
男がリナを見る。
リナは薬袋を抱えたまま立っていた。
小柄だ。
戦う人間には見えない。
だが、声は揺れなかった。
「薬師から、三日固定と言われています。長距離移動は駄目です。馬車でも揺れます」
「医療の手配は領内で」
「この町の薬師が処置しました」
「領の医師の方が」
「今動かす方が悪くなります」
リナは言い切った。
宿の中が静かになる。
男は少しだけ目を細めた。
「あなたは?」
「リナです。今、この人の手を見る役です」
「資格は」
「今止める理由ならあります」
男の笑顔が薄くなった。
アリアが口を開く。
「私は今夜、この宿に泊まります」
「しかし」
「明日以降のことは、朝に決めます」
「本局からの指示では」
「私は、まだ本局の指示を受ける立場ではありません」
静かな声だった。
だが、宿の空気がまた変わった。
シルヴェインの名を持つ者の声。
アリアは普段、それを使わない。
今は使った。
男は言葉を選ぶ顔をした。
「……領内の安全のためです」
「なら、報告書を置いてください。読める状態になったら読みます」
リナがすぐに言う。
「今は読みません」
アリアは少しだけ口元を動かした。
「では、読める者に読ませます」
男の眉が動いた。
「機密を含みます」
「なら、明日で構いません」
アリアは左手で水の椀を持った。
少しこぼれる。
それでも、自分で飲んだ。
男は黙った。
伊織はその顔を見た。
丁寧な人間が、丁寧なまま追い詰められている顔だった。
悪くない。
だが、まだ終わらない。
護衛の一人が、半歩動いた。
伊織は左手で匙を取った。
その動きと同時に、卓の下からクロが前に出た。
音はほとんどなかった。
護衛の足元で止まる。
見上げる。
唸らない。
牙も見せない。
ただ、そこにいる。
護衛は足を止めた。
ヴォルフが言う。
「その獣は、噛む前は静かだ」
「噛んだことあるんですか」
リナが聞いた。
「知らん」
「知らないんですか」
「だから怖い」
宿のどこかで、誰かが小さく笑った。
緊張が、少しだけ崩れる。
男はその笑いを嫌ったようだった。
だが、怒ることもできない。
伊織は左手で匙を置いた。
「用があるなら、朝に来い」
「あなたに決定権は」
「ない」
伊織は言った。
「だから、本人が言った」
男はアリアを見る。
アリアは逃げなかった。
「朝に来てください」
男は数拍、黙った。
それから、浅く頭を下げる。
「承知しました。ですが、領境に不穏な動きがあります。夜間の外出はお控えください」
「忠告として受け取ります」
「忠告です」
男はそう言った。
少しだけ、声が硬かった。
護衛二人を連れて、男は扉へ向かう。
出ていく直前、伊織を一度見た。
伊織は器を持っていた。
何もしていない。
右手も使っていない。
それでも、男は視線をすぐ外した。
扉が閉まる。
宿に音が戻った。
誰かが大きく息を吐く。
店の女が、伊織たちの卓に近づいてきた。
「あの、追加の煮込み、いります?」
伊織は器を見た。
まだ半分残っている。
だが、冷めていた。
「頼む」
「四人分?」
「四人分と、一匹分」
女は少し笑った。
「はいよ」
クロが卓の下で鼻を鳴らした。
◆
追加の煮込みは、最初のものより少し肉が多かった。
宿の女が何も言わずに置いていった。
サービスなのか、面倒を避けたいのかは分からない。
どちらでもいい。
温かいものは温かいうちに食べる。
リナはアリアの薬の時間を確認していた。
アリアはさっきより少しだけ疲れた顔をしている。
だが、食べていた。
左手で。
落とす量は減っている。
「さっきの人」
リナが小さく言った。
「迎えという感じではありませんでした」
「だろうな」
伊織は答えた。
「連れて行く感じでした」
「だろうな」
「だろうな、ばっかりです」
伊織は煮込みを口に運んだ。
熱い。
「分かっているなら、聞くな」
「確認です」
リナは真面目だった。
ヴォルフが水を飲む。
「あの紋は本物だ」
「なら領の人間か」
「ああ。ただし、領の人間が全部同じ向きを見ているとは限らん」
アリアが顔を上げる。
「外縁管理局は、本来なら水路と街道の管理をする部署です」
「人を連れて行く部署ではない」
伊織が言う。
「はい」
アリアは固定された手を見る。
「ですが、領境で何かあれば動く権限はあります」
「便利だな」
「便利です。だから、使い方を間違えると厄介です」
ヴォルフが短く笑った。
「シルヴェインの娘が言うと重いな」
アリアは何も言わなかった。
リナが薬を差し出す。
「次、飲んでください」
「またですか」
「またです」
「苦いです」
「分かっています」
アリアは薬を飲んだ。
顔をしかめる。
クロがその顔を見て、鼻を鳴らした。
「笑われました」
「たぶんな」
伊織が言う。
アリアはクロを見る。
「あなたも薬を飲む時は、同じ顔になります」
クロは目を逸らした。
リナが小さく笑った。
その笑いは、すぐ消えた。
「朝まで大丈夫でしょうか」
「来るなら夜だ」
ヴォルフが言った。
リナの顔が固まる。
「来るんですか」
「来ないかもしれん。だが、来ると思っておけ」
伊織は宿の扉を見る。
錠は古い。
窓は二つ。
裏口がある。
客は多い。
見張る場所は限られる。
右手は使えない。
アリアの手も使えない。
リナは治療役。
ヴォルフは戦える。
クロも動ける。
伊織は左手で椀を置いた。
「部屋は一つでいい」
リナが目を丸くする。
「一つですか」
「二つに分けると守りにくい」
「それは、そうですけど」
「アリアは奥。リナはその横。クロは扉。ヴォルフは窓。俺は入口側」
リナは少し黙った。
「……分かりました」
アリアは反論しなかった。
そのことに、リナが少し驚いた顔をした。
アリアは気づいているのかいないのか、椀を置いた。
「今は、その方がいいです」
自分で言った。
伊織は頷かなかった。
ただ、椅子を引いた。
「部屋を取る」
◆
部屋は二階の奥だった。
広くはない。
寝台が二つ。
床に敷ける毛布が三枚。
窓は一つ。
扉は厚いが、蝶番は古い。
伊織は部屋に入ると、まず窓を見た。
次に床。
次に壁。
右手が使えない分、見る回数が増える。
左手で窓枠を押す。
軋む。
外は細い路地だった。
人一人なら通れる。
逃げ道にもなる。
侵入口にもなる。
「窓、駄目か」
リナが聞いた。
「駄目ではない。面倒だ」
「それは駄目ということでは」
「まだ使える」
ヴォルフが窓の外を見た。
「下に樽がある。降りるなら使える」
「入るにも使える」
「ああ」
ヴォルフは骨刃を外し、窓の横に立てかけた。
「俺はここでいい」
クロは扉の前に伏せた。
すでに場所を決めている。
リナは寝台の一つに荷を置き、薬袋を開いた。
「アリアさんは先に横になってください」
「まだ眠れません」
「横になるだけです」
「それなら」
アリアは寝台に腰を下ろした。
手を使えないため、身体を横にするのにも時間がかかる。
リナが手を貸す。
今度は、アリアは拒まなかった。
それを見て、伊織は視線を外した。
人が助けを受ける瞬間は、あまり見ない方がいい。
見られる方が疲れる。
伊織は扉の近くに座る。
固定具の右手を膝に置く。
左手で、腰の装備を確かめた。
使えるものは少ない。
ナイフ。
縄。
短い金属片。
黒鋼は出ない。
出せたとしても、今は出さない方がいい。
老人の顔が浮かぶ。
性格の悪い薬師だった。
だが、嘘は言わない。
リナが小声で言う。
「伊織さんも寝てください」
「起きている」
「治りません」
「寝てもすぐには治らない」
「でも、治る方に向かいます」
リナは薬師の真似をするように言った。
伊織は返事をしなかった。
リナはため息をつく。
「二人とも、手がかかります」
「二人?」
アリアが寝台から言う。
「はい。二人です」
「私は言うことを聞いています」
「今は、です」
アリアは黙った。
ヴォルフが窓際で笑いを噛み殺した。
クロが扉の前で鼻を鳴らす。
伊織は左手で縄を取り出した。
ガルドの縄。
擦れた部分を確認する。
窓と扉に結ぶには短い。
だが、合図には使える。
伊織は縄の端を扉の取っ手に結び、もう一方を自分の左手首に軽く巻いた。
強くは結ばない。
動けば分かる程度でいい。
リナがそれを見る。
「寝る気、ないですね」
「目を閉じる気はある」
「それは寝るとは違います」
「似ている」
「似ていません」
アリアが寝台で小さく笑った。
痛みで、すぐに顔をしかめる。
リナが慌てて近づく。
「笑うのも控えてください」
「そこまでですか」
「そこまでです」
アリアは目を閉じた。
口元だけ、まだ少し緩んでいた。
外から町の音がする。
荷車。
人の声。
遠い水音。
鐘は鳴らない。
伊織は扉を見る。
来るなら夜。
来ないなら朝。
どちらでもいい。
こちらは食った。
薬も飲ませた。
寝る場所も決めた。
守る位置も決めた。
それだけで、昼よりはましだった。
◆
夜半、縄が動いた。
わずかに。
伊織は目を開けた。
眠ってはいなかった。
クロも起きている。
扉の前で、耳だけが立っていた。
ヴォルフは窓際で動かない。
だが、目は開いている。
リナは寝台の横で眠っている。
アリアも眠っていた。
浅い眠りだ。
痛みがあるのだろう。
扉の向こうで、何かが触れた。
金属ではない。
木でもない。
細い針のようなもの。
錠を探っている。
伊織は左手首の縄を外した。
音を立てずに立つ。
右手は使わない。
扉の横に立つ。
クロが低く構える。
窓際で、ヴォルフが骨刃を持った。
扉の外の気配は二つ。
廊下の奥にもう一つ。
三人。
昼の護衛と同じ数。
錠が小さく鳴った。
かち。
伊織は扉を開けた。
向こうの男が、針を持ったまま固まっていた。
昼の護衛ではない。
宿の従業員でもない。
黒い布で口元を隠している。
目だけが見える。
伊織は左手で男の手首を掴んだ。
右手は使わない。
掴んだまま、半歩引く。
男の体勢が崩れる。
伊織は膝を入れた。
腹。
声が詰まる。
そのまま扉の内側へ引き込む。
クロがもう一人へ飛んだ。
噛んだ。
短く、深く。
男が剣を抜く前に、手首から力が抜ける。
ヴォルフが窓を開けた。
外から入ろうとしていた影の首元に、骨刃の背を当てる。
「入るなら、頭から落とす」
低い声だった。
影は動かなかった。
廊下の奥の一人が逃げようとする。
伊織は床に落ちた針を拾い、左手で投げた。
刺すつもりはない。
足元。
針が床板に突き立つ。
逃げた男の足が止まる。
その一瞬で、クロが廊下へ出た。
唸り声。
男は両手を上げた。
早かった。
正しい判断だった。
部屋の中で、リナが目を覚ます。
「何ですか」
「客だ」
伊織は言った。
アリアも身を起こしかける。
「動くな」
伊織が言う。
アリアは止まった。
リナがすぐ横に行く。
「起きないでください」
「でも」
「起きないでください」
リナの声が勝った。
アリアは寝台に戻る。
伊織は引き込んだ男を床に伏せさせた。
左手だけで。
右手が使えない分、少し雑になる。
男の肩が変な音を立てた。
折れてはいない。
たぶん。
「誰の指示だ」
伊織は聞いた。
男は答えない。
ヴォルフが窓の影を押さえたまま言う。
「答えなくても、外縁管理局だろう」
男の目が少し動いた。
それで十分だった。
伊織は男の首元を探る。
小さな金属札が出てきた。
風車に似た紋。
昼の男と同じ。
リナが顔を強張らせる。
「本当に来たんですね」
「来たな」
伊織は金属札を卓に投げた。
軽い音がした。
アリアはそれを見る。
顔色は悪い。
だが、目は逸らさなかった。
「目的は」
アリアが聞いた。
男は答えない。
伊織は男の懐から布を引き出した。
白い布。
薬の匂いがする。
眠らせるためのものか。
リナがすぐに言う。
「触らないでください」
「もう触った」
「あとで洗います」
「分かった」
リナは布を見て、顔を歪めた。
「連れて行くつもりだったんですね」
誰も否定しなかった。
窓の影が小さく言う。
「命令だ」
ヴォルフの骨刃が少し沈む。
「誰の」
影は黙る。
伊織は昼の男の顔を思い出した。
丁寧な声。
硬い笑顔。
忠告です、と言った声。
「朝に聞く」
伊織は言った。
「生きたまま渡すのか」
ヴォルフが聞く。
「その方が面倒が少ない」
「相手にとってか」
「こっちにとってだ」
伊織は男を縛る。
ガルドの縄は使わない。
宿の毛布を裂き、即席の紐にする。
ガルドの縄は返すものだ。
こんな連中に使う気はなかった。
クロが廊下から戻る。
逃げようとした男も、手を上げたまま立っていた。
顔が青い。
噛まれてはいない。
噛まれる前に諦めたらしい。
賢い。
伊織はその男を見る。
「座れ」
男はすぐ座った。
宿の他の部屋から、人が顔を出し始める。
店主が階段を上がってきた。
寝間着の上に上着を羽織っている。
「な、何が」
「夜這いだ」
ヴォルフが言った。
店主の顔が引きつる。
リナが即座に言う。
「違います。不法侵入です」
「同じようなものだ」
「違います」
こんな時でも、リナは訂正した。
伊織は少しだけ息を吐いた。
悪くない。
男たち三人は、廊下に座らされた。
武器は取り上げた。
眠り薬の布も。
金属札も。
伊織は左手だけで、それを卓に並べた。
右手は一度も使っていない。
アリアがこちらを見る。
伊織は視線を返さなかった。
部屋の外で、町の誰かが囁く。
「シルヴェインの使者が、夜中に襲ったのか」
「違うだろ。あれは外縁局だ」
「同じじゃないのか」
「同じじゃないから厄介なんだ」
噂は早い。
水より早い時がある。
朝まで待たなくても、もう流れ始めていた。
◆
夜明け前、昼の男が宿に来た。
顔色は、昨日より悪かった。
外套はきちんとしている。
髪も乱れていない。
だが、目の下が少し落ちている。
宿の広間には、すでに何人も起きていた。
野次馬。
店主。
荷運びの男たち。
水路職人。
そして、縛られた三人。
伊織たちは卓に座っていた。
アリアは寝台から起きてきたばかりだった。
リナに怒られながら、それでも座っている。
ヴォルフは壁際。
クロは卓の下。
昼の男は縛られた三人を見た。
次に、卓の上の金属札を見る。
顔から笑顔が消えた。
「これは」
「そちらの忘れ物だ」
伊織は言った。
男は黙る。
アリアが口を開いた。
「朝に来てくださいと言いました」
「……はい」
「夜に来た理由を聞きます」
男はアリアを見る。
昨日より、明らかに言葉を選んでいた。
「私の指示ではありません」
宿の中がざわつく。
アリアは表情を変えない。
「では、誰の指示ですか」
「確認中です」
「確認してから来るべきでした」
声は荒くない。
だが、強かった。
男は頭を下げた。
「申し訳ありません」
「謝罪は受け取ります。ですが、説明は別です」
男はさらに頭を下げる。
伊織はそれを見ていた。
アリアは立っていない。
手も使えない。
右手は固定され、顔色も悪い。
それでも、男は逆らえない。
血筋の力ではない。
今ここで、襲われた側として、言葉の位置を取っている。
それが効いていた。
リナも黙っている。
ヴォルフも口を出さない。
クロも唸らない。
今はアリアの場だった。
「この三人は町の番所に渡します」
アリアが言った。
男の顔が動く。
「領の内部で処理を」
「町の番所に渡します」
「しかし」
「宿で起きた不法侵入です。町の者も見ています」
アリアは店主を見る。
店主は背筋を伸ばした。
「見ました」
荷運びの男も言う。
「俺も見た」
水路職人が続く。
「俺もだ」
声が増える。
男はそれを止められなかった。
アリアは言う。
「領の問題にするなら、その後です」
男は沈黙した。
伊織は少しだけ、左手の指を開いた。
だが、今の空気は悪くなかった。
伊織は右手を使わずに、夜を越えた。
男は静かに言った。
「本局へ報告します」
「してください」
アリアは答えた。
「私も、私の名で報告します」
その言葉に、男が顔を上げた。
アリア=シルヴェイン。
その名を、アリアが自分で使った。
読まされるためではない。
連れて行かれるためでもない。
その場に立つために。
宿の外で、朝の鐘が鳴った。
遅れない。
水音ではない。
歯車でもない。
人が鳴らした音だった。
伊織は固定された右手を見た。
まだ動かない。
だが、問題はなかった。
今朝は、左手だけで足りた。




