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第53話 南宿の薬師

 リュード南宿は、宿場というより倉庫町だった。


 道の両側に、低い石造りの建物が並んでいる。


 大きな扉。


 錆びた滑車。


 壁に残る水位の跡。


 かつて水運で栄えた名残が、町のあちこちにあった。


 だが、今は荷車の音の方が多い。


 水路は細くなり、石橋の下を静かに流れている。


 町の鐘は、丘の上から見えた塔に吊られていた。


 人が鳴らした鐘の音。


 それはまだ、耳に残っている。


 伊織は町の入口で足を止めた。


 門はない。


 代わりに、古い石柱が二本立っている。


 片方には消えかけた文字。


 もう片方には、風車に似た紋章。


 アリアはそれを見て、目を細めた。


 読もうとしたわけではない。


 それでも、視線がそこに留まった。


 リナがすぐに言う。


「文字、駄目です」


「紋章です」


「紋章も駄目です」


「そこまでですか」


「そこまでです」


 リナは真面目だった。


 アリアは少し困った顔をしたが、言い返さなかった。


 伊織は石柱を見た。


 紋章は欠けている。


 羽根のようにも、水車の羽根のようにも見える。


「シルヴェインのものか」


「外縁標に使われる簡易紋です」


 アリアが答える。


「古いものです。今はあまり使われません」


「読んでないな」


「見ただけです」


 アリアは小さく答えた。


 リナがじっと見る。


 アリアは視線を落とした。


「……すぐやめました」


「ならいいです」


 リナは頷いた。


 クロが町の匂いを嗅ぐ。


 尾は低い。


 だが、唸ってはいない。


 人の匂い。


 煙の匂い。


 干した穀物の匂い。


 遠くで焼いた肉の匂いもする。


 伊織は右手を軽く開こうとした。


 指先が少し動く。


 握るには遠い。


 それでも、昨日よりは感覚がある。


 無理はしない。


 右手を下ろす。


 左手には、畳んだ縄。


 胸には木片。


 返すものは、まだ返せない。


 だが、人のいる場所には着いた。


 それだけで、少し荷が下りた気がした。


「薬師は町の奥だ」


 ヴォルフが言った。


「知っているのか」


「昔はな」


「今は」


「看板が変わっていなければ、だ」


 ヴォルフは歩き出した。


 町の人間がこちらを見る。


 骨刃を下げた片目の男。


 手を布で巻いたアリア。


 右手を使わない伊織。


 リナとクロ。


 目立たない方が無理だった。


 だが、声をかける者はいない。


 旅人を見る目。


 怪我人を見る目。


 厄介ごとを見ないふりする目。


 その三つが混じっていた。


 伊織はその視線を受け流した。


 慣れている。


 いい慣れではない。


 だが、役には立つ。



 薬師の店は、町の奥にあった。


 石造りの小さな家。


 軒先に、乾いた草束がいくつも吊るされている。


 扉の横には、水色の布が結ばれていた。


 ヴォルフがそれを見て頷く。


「薬師だ」


「布で分かるのか」


「このあたりでは、水色は治療の印だ」


「看板より分かりやすいな」


「読めない者にも見える」


 アリアが少しだけ顔を上げた。


 その言葉を受け取ったらしい。


 ヴォルフは何も足さなかった。


 扉を開けると、薬草と苦い油の匂いがした。


 中は狭い。


 棚には瓶。


 壁には干した根。


 奥の机に、小柄な老人が座っていた。


 白い髭。


 丸い背中。


 片目にだけ、薄い硝子をはめた奇妙な眼鏡をかけている。


 老人は顔を上げた。


「怪我人か」


「見て分かるか」


 伊織が言う。


「見て分からん怪我人の方が面倒だ」


 老人は椅子を指した。


「座れ。手の女からだ」


 アリアが座る。


 リナが隣に立つ。


 老人は布を外そうとして、アリアの顔を見た。


「痛むぞ」


「はい」


「我慢するな。手は我慢で治らん」


 アリアは小さく頷いた。


 老人は布を外す。


 手首の赤みは引いていなかった。


 腫れがあり、指先は力なく垂れている。


 老人は眉をひそめた。


「焼いたのか」


「読んだんです」


 リナが言った。


 老人は手を止めた。


「読んだ?」


 アリアが答える。


「古い制御陣を」


 老人はアリアの顔を見た。


 次に、手を見る。


「なるほど。目で火傷した手か」


 伊織はその言い方を聞いた。


 奇妙だが、近い。


「治るのか」


 伊織が聞く。


「焦るな。焦った手から駄目になる」


「答えは」


「今すぐ動かすな。三日固定。七日は細かい作業禁止。十日で指が戻らなければ、また来い」


「戻る可能性は」


「ある。だが、戻す気で使うな。戻らんものとして休ませろ」


 リナが深く頷く。


「分かりました」


 アリアは自分の手を見る。


「三日……」


「短いと思ったか」


「長いと思いました」


「なら見込みがある」


 老人は淡々と言った。


「本当に駄目な奴は、短いと言う」


 リナが少しだけアリアを見た。


 アリアは何も言わなかった。


 老人は薬草をすり潰し、薄い布に塗る。


 匂いは強い。


 苦く、青い。


「手首の内側に熱が残っている。これは刃傷じゃない。魔力焼けでもない。古い文字に噛まれたな」


 アリアの肩がわずかに動く。


「分かるんですか」


「昔は多かった」


「このあたりで?」


「シルヴェインの古い調査隊が出入りしていた頃にな」


 店の空気が、わずかに沈んだ。


 リナの手が止まる。


 ヴォルフは壁際で黙っている。


 伊織は老人を見た。


 アリアは動かない手を膝に置いたまま、顔を上げる。


「シルヴェインの調査隊」


「知らんのか」


 老人が聞く。


 アリアは少し迷った。


「知っています」


 その声は静かだった。


「でも、詳しくはありません」


 老人は薬を巻きながら言う。


「古い水路、壊れた制御陣、読めん標識。そういうものを調べに来ていた。今の領主連中より、よほど泥にまみれていた」


「領主連中?」


 リナが小さく聞く。


 老人は鼻を鳴らした。


「今は紙と印の方が多い。昔は足で来た」


 ヴォルフが壁際で低く言う。


「アルドの頃か」


 アリアの手が動かなかった。


 だが、呼吸だけが止まった。


 老人はヴォルフを見る。


「その名を知っているのか」


「昔、遠目にな」


「なら、話は早い」


 老人はアリアの手を固定しながら続けた。


「アルド=シルヴェインは、ここにも来た。何度か」


 アリアは目を伏せなかった。


 老人を見たまま、静かに聞いた。


「父は、ここに」


 その言葉で、老人の手が止まった。


「父?」


 アリアは頷いた。


「アリア=シルヴェインです」


 老人はしばらく黙った。


 それから、眼鏡の位置を直した。


「似ているな」


 誰に、とは言わなかった。


 アリアも聞かなかった。


 老人は布を巻き終える。


「なら、なおさら動かすな。その手で古い文字を見るな。親と同じことをするな」


 アリアの目がわずかに揺れた。


「父も、手を」


「手だけで済めばよかったな」


 老人はそう言って、薬箱を閉じた。


 店の奥で、瓶が小さく鳴った。


 リナが息を呑む。


 伊織は老人を見る。


「どういう意味だ」


「そのままの意味だ」


「詳しく」


「薬代を払ってからだ」


 老人は顔色一つ変えずに言った。


 伊織は左手で袋を探った。


 右手は使えない。


 硬貨を出すのに少し手間取る。


 リナが手伝おうとしたが、伊織は左手だけで硬貨を置いた。


 老人はそれを見て、今度は伊織の右手を見た。


「次はそっちだ」


「俺はいい」


「よくない」


「飾りだ」


「飾りで飯を食う気か」


 伊織は返事をしなかった。


 老人は短く笑った。


「座れ」



 伊織の右手は、老人にとっても面倒なものだったらしい。


 触れた瞬間、老人は眉を寄せた。


「冷えていない」


「昨日までは冷えていた」


「今は熱が奥にある」


「アリアと同じか」


「似ているが違う。そっちは読まれた手だ。お前のは、何かを無理に通した手だ」


 伊織は杭を思い出した。


 短い黒鋼の杭。


 縄と鎖を通した一点。


「使うな」


 老人が言った。


「使えない」


「使えるようになっても、すぐ使うな」


「難しい注文だ」


「難しい怪我をしている」


 老人は薬を塗らなかった。


 かわりに、細い金属の棒で指先に触れる。


 痛みが遅れてくる。


 伊織は顔を動かさなかった。


「痛いか」


「遅れて来る」


「なら、まだ繋がっている」


 老人は棒を置いた。


「握力は戻る。たぶんな」


「たぶんか」


「俺は神官じゃない。嘘は言わん」


「信用できるな」


「疑っている顔で言うな」


 伊織は返事をしなかった。


 老人は薄い固定具を出した。


 木と革でできている。


「これを巻け」


「邪魔だ」


「邪魔になるように作っている。使わせないためだ」


「性格が悪い」


「長生きの秘訣だ」


 リナが少しだけ息を漏らした。


 アリアも口元を緩める。


 老人は伊織の右手に固定具を巻く。


 伊織は黙っていた。


 動かせない右手を、さらに動かせなくされる。


 気分はよくない。


 だが、必要なのは分かる。


 分かるから、余計に気に入らなかった。


「これで二日は外すな」


「二日」


「短いと思え」


「長い」


「なら見込みがある」


 老人はアリアに言った時と同じことを言った。


 アリアが少しだけ伊織を見る。


 伊織は視線を返さなかった。


 老人は椅子に座り直す。


「で、アルドの話だったな」


 アリアの背筋が伸びた。


 リナも真剣な顔になる。


 ヴォルフは壁に背を預けたまま、目を細めている。


 老人は棚から古い木札を取り出した。


 そこには、いくつかの名前が刻まれている。


 アリアは一瞬だけ目を向けた。


 すぐに逸らした。


 リナが頷く。


 老人はそれを見て言った。


「読まんのか」


「今は読みません」


 老人は木札を引いた。


「なら、俺が読む。これは治療記録だ。三十年近く前のものも混じっている」


「アルドの名があるんですか」


「ある。だが、患者としてじゃない」


 アリアの目が老人を見る。


「では」


「付き添いだ」


 老人は木札の一点を指で叩いた。


「制御陣に噛まれた若い技師を連れてきた。水路調査の帰りだった。手は焼け、目はしばらく見えず、名前を聞かれても答えられなかった」


「名前を」


 伊織が言う。


「今のリュードと同じか」


「似ている。昔の話だがな」


 老人は続ける。


「アルドは、その技師を置いていかなかった。領主家の人間にしては珍しく、自分で背負って来た」


 アリアは黙っていた。


 その沈黙は、読んでいる沈黙ではなかった。


 聞いている沈黙だった。


「父は、その時何を」


「謝っていた」


 老人は言った。


「自分のせいだと」


「父が?」


「そう聞こえた。俺は薬師だ。貴族の事情は知らん。だが、あの男はずっと言っていた。読むべきものと、読ませてはいけないものを間違えた、と」


 アリアの顔から色が引いた。


 伊織は机の上の木札を見た。


 読めない距離ではない。


 だが、読まない。


 アリアも読まない。


 老人の声だけがある。


「その後も、アルドは何度か来た。怪我人を連れてな。最後に来た時は、一人だった」


「いつですか」


 アリアが聞いた。


「正確な日付は、この札を見れば分かる」


 老人は木札をアリアの方へ押しかけて、止めた。


 リナがすぐ手を出す。


「駄目です」


「分かってる」


 老人は木札を引いた。


「今は読ません。知りたいなら、手が戻ってから来い」


「内容だけでも」


「最後に来た時、アルドは薬を買った」


「何の薬ですか」


「痛み止めと、眠らせる薬。それから、指の震えを抑える薬」


 アリアの手は動かない。


 だが、膝の上で布だけがわずかに揺れた。


「誰のために」


「言わなかった」


 老人は首を振る。


「ただ、急いでいた。ひどくな」


「行き先は」


「東だ」


 ヴォルフが顔を上げた。


「東?」


「ああ。シルヴェイン領の奥じゃない。もっと東。古い水路が山へ入る方だ」


 アリアは息を吸う。


「父は、領へ戻らなかった?」


「俺は見送っただけだ。戻ったかどうかまでは知らん」


 老人はアリアを見る。


「だが、その背中は、帰る者の背中には見えなかった」


 店の中が静かになった。


 外では荷車が通る音がした。


 木の車輪が石に当たる。


 ごとん。


 ごとん。


 普通の音だった。


 それが、妙に遠かった。



 店を出た時、空は赤くなっていた。


 リナは薬袋を抱えている。


 アリアの手は固定されている。


 伊織の右手も木と革で固められている。


 二人とも、片方ずつ使えない。


 そのせいで歩幅が少し遅くなる。


 クロは時々振り返った。


 ヴォルフは前を歩きながら、何かを考えている。


「東の山水路」


 ヴォルフが言った。


「知っているのか」


 伊織が聞く。


「聞いたことはある。道ではない。水の通り道だ」


「人は通れるのか」


「普通は通らん」


「普通じゃなければ」


「通る奴はいる」


 ヴォルフはアリアを見る。


「今すぐ行くな」


 アリアは答えなかった。


 リナが横から言う。


「行きません」


「本人に言っている」


「私も言っています」


 リナの声は強い。


 アリアは少し困った顔をした。


「今日は行きません」


「今日は、ではありません」


 リナが言う。


「しばらくです」


「しばらく」


「最低三日」


「長いですね」


「短いです」


 アリアは黙った。


 伊織は町の通りを見る。


 人がいる。


 宿がある。


 煙が上がっている。


 遠くで鍋の匂いがする。


 まずは食べる。


 休む。


 手を戻す。


 それから考える。


 そういう順番だった。


 アリアは歩きながら、左手ではない方の固定された手を見た。


「父は、帰る者の背中ではなかった」


 小さく言った。


 伊織は返事をしなかった。


 リナも何も言わない。


 ヴォルフは足を止めない。


 アリアは続けた。


「でも、まだ分かりません」


 その声は、昨日の水制御陣の中とは違った。


 読めば分かると急ぐ声ではない。


 分からないまま持つ声だった。


 伊織はその横顔を見た。


 アリアは前を見ている。


 塔の向こう。


 東の山水路。


 父が向かったかもしれない場所。


 そこへ行くには、まだ手が足りない。


 右手も。


 アリアの手も。


「宿を取る」


 伊織は言った。


「飯もだ」


 リナがすぐ頷いた。


「はい。薬を飲むには食べないと駄目です」


 アリアが少しだけ顔を上げる。


「食欲はあまり」


「食べます」


 リナが即答した。


 アリアは伊織を見た。


 伊織は近くの宿屋の看板を見ていた。


 文字は読めない。


 だが、湯気の絵が描いてある。


 鍋か、風呂か。


 どちらでもいい。


「入るぞ」


 伊織は言った。


 返事を待たずに歩く。


 クロが先に扉を嗅いだ。


 中から、煮込みの匂いがした。


 悪くない。


 扉を開けると、暖かい空気が流れ出た。


 人の声。


 食器の音。


 火の匂い。


 伊織は一歩入る。


 背後で、アリアも続いた。


 父の名は、まだ遠い。


 手を休ませる。


 飯を食う。


 眠る。


 それができなければ、誰の背中も追えない。


 伊織は空いた卓を見つけた。


 左手で椅子を引く。


 右手は使わない。


 アリアが座る。


 リナが薬袋を置く。


 ヴォルフが壁際に座る。


 クロが卓の下に伏せる。


 町の鐘が、もう一度鳴った。


 遅れない。


 水音ではない。


 歯車でもない。


 人が鳴らした音だった。


 伊織はそれを聞きながら、注文を取りに来た女に言った。


「温かいものを。四人分と、一匹分」


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