第52話 水の戻る道
朝になっても、右手は戻らなかった。
指先は動く。
少しだけなら、握れる。
だが、力を入れると肩まで痛みが走る。
黒鋼の感覚は遠い。
昨日、杭を出した場所にだけ、まだ熱が残っている。
冷えではない。
熱だった。
伊織は右手を開いて、閉じようとして、途中でやめた。
無理に動かして戻るなら、世話はない。
火はもう消えかけている。
灰の中に赤いものが少し残っていた。
リナが湯を沸かしている。
アリアはその横で座っていた。
両手は膝の上。
布を巻き直された手首は、昨日よりは落ち着いて見える。
だが、指は動いていない。
アリアは何度か指先を見て、それから目を逸らした。
動かないものを見続けるのは、動かすことより疲れる。
伊織はそれを知っていた。
何も言わなかった。
「朝食、簡単なものになります」
リナが言った。
「簡単でいい」
伊織は答えた。
「右手は?」
「飾りだ」
「飾りにしては怖いです」
伊織は返事をしなかった。
リナは鍋を混ぜている。
伊織は左手で椀を受け取った。
中身は薄い粥のようなものだった。
塩気がある。
温かい。
それだけで、体が食べ物だと分かった。
クロが横で鼻を動かす。
リナが小皿を置く。
「クロの分です」
クロは一度だけリナを見た。
それから食べ始めた。
ヴォルフは少し離れた場所で、水路の方角を見ている。
骨刃は腰に戻っていた。
先端は欠けたままだ。
研いだ跡だけが新しい。
「出るぞ」
ヴォルフが言った。
「水は」
伊織が聞く。
「夜の間に増えた。戻り道も読める」
「読める、か」
「俺の読むは、目と足だ」
ヴォルフは振り返らない。
「文字じゃない」
アリアが顔を上げた。
その言葉に、何かを受け取ったようだった。
「足で読む」
小さく言う。
ヴォルフは頷いた。
「道はそういうものだ。地図だけでは戻れん」
「覚えておきます」
「覚えすぎるな」
ヴォルフは短く言った。
「必要な時に、足元を見ろ」
アリアは少し黙った。
「はい」
返事は静かだった。
伊織は椀を置いた。
味は薄い。
だが、腹には入った。
それで歩ける。
荷をまとめる。
といっても、まとめるほどのものは少ない。
擦れた縄。
割れかけた木片。
欠けた骨刃。
動かない右手。
動かないアリアの手。
どれも荷物ではない。
だが、持っていくものだった。
◆
リュード外縁を離れる時、水路は静かだった。
昨日までの黒い影はほとんど消えている。
石に染み込んだ汚れだけが残っていた。
ヴォルフは水の流れを何度か確かめた。
上流へ一度。
下流へ一度。
戻ってきた時、顔には大きな変化がなかった。
それでも、声は少しだけ軽かった。
「暴走は止まっている」
「完全にか」
「七割だ」
「増えないな」
「残り三割は、人の仕事だ」
ヴォルフは水路を見る。
「掘る。塞ぐ。流す。時間をかける。古いものは、最後は人の手で直すしかない」
アリアがその言葉を聞いていた。
手は動かない。
だが、目は水を追っている。
読んではいない。
見ている。
今は、それでいい。
リナが荷袋を背負い直す。
「街まで戻ったら、ちゃんと治療しましょう」
「街まで?」
アリアが聞く。
「はい。ちゃんとした薬も、固定具も必要です」
「そこまででは」
「そこまでです」
リナの声は強かった。
アリアは言い返さなかった。
リナは続ける。
「手が動かないのに、そこまでではない、は駄目です」
「……はい」
「それと、文字を見るのも禁止です」
「全部ですか」
「危なそうなものは全部です」
「本も?」
「今は本も駄目です」
アリアが初めて、少し困った顔をした。
伊織はそれを見た。
昨日までより、少しだけ人の顔だった。
読めない研究者ではない。
本を取り上げられて困る女の顔だった。
リナは真剣だった。
「笑うところではありません」
「笑ってない」
伊織は言った。
「口元が動きました」
「気のせいだ」
「気のせいにしないでください」
リナは鍋を片付ける時と同じ顔で言った。
伊織は返事をしなかった。
クロが鼻を鳴らす。
今のは、リナの味方だった。
ヴォルフが歩き出す。
「南東へ抜ける。古い管理道がある」
「シルヴェイン領へ近いのか」
「近づく。だが、真っすぐは行かん」
「なぜ」
「水が戻ったことで、道も戻る。戻った道が安全とは限らん」
ヴォルフは外縁の石柱を指した。
その一本に、薄い線が残っている。
文字ではない。
水位の跡だ。
「古い水路が生きた。なら、沈む道もある」
「厄介だな」
「道はいつも厄介だ」
ヴォルフは歩いた。
クロが先に出る。
リナがアリアの横につく。
伊織は最後尾についた。
背後のリュードは静かだった。
静かすぎるほどではない。
水が流れ、風が抜け、石が冷えている。
普通の廃墟に戻りかけている。
それだけだった。
伊織は一度だけ振り返った。
鎖の音はしなかった。
声もない。
借りは残っている。
そう言った男は、もういない。
だが、あの声もまた、返すものの一つになったのかもしれない。
伊織は前を向いた。
足元の水が、南へ流れている。
◆
管理道は細かった。
片側は崩れた石壁。
もう片側は浅い水路。
水は濁っているが、流れは一定だった。
ところどころに、小さな木の杭が残っている。
古い補修跡だ。
誰かがかつて、ここを直した。
何度も。
直して、使って、また壊れて、また直した。
伊織はそれを見ながら歩いた。
古いものは、勝手には残らない。
誰かが直すから残る。
ヴォルフの言った通りだった。
アリアの歩みが少し遅れる。
リナがすぐ気づく。
「休みますか」
「まだ歩けます」
「休みます」
「まだ」
「休みます」
リナは譲らなかった。
アリアは一度、伊織を見た。
助けを求めたわけではない。
ただ、見ただけだった。
伊織は近くの石に腰を下ろした。
「休む」
それだけ言った。
アリアは少しだけ目を伏せた。
「……はい」
全員が止まった。
クロは水路の縁に座る。
ヴォルフは前方を見たまま立っている。
リナはアリアの手首を確かめる。
腫れは引いていない。
むしろ朝より少し熱を持っている。
アリアは痛みを顔に出さなかった。
それが余計に分かりやすい。
「今日は無理をしないでください」
リナが言う。
「していません」
「今のが無理です」
「……そうですか」
「そうです」
リナは薬草を取り出した。
手際はよくない。
だが、丁寧だった。
アリアの指は動かない。
リナが布を押さえ、結び直す。
その間、アリアは水路の向こうを見ていた。
「東部は、こういう水路が多いんですか」
リナが聞いた。
アリアは少し考えた。
「古い領地ほど、多いです。水は作物にも、街にも、工房にも必要ですから」
「シルヴェイン領も?」
「はい」
アリアはそこで言葉を止めた。
水路の音が、間に入る。
「父は、水の管理にも関わっていました」
伊織は顔を上げた。
アリアは続ける。
「正確には、古い水制御陣の調査です。領内のものだけではなく、周辺の遺構も」
「リュードもか」
「関わっていた可能性はあります」
「確定ではない」
「はい。だから、読みたかった」
リナの手が止まった。
アリアはその手元を見て、少しだけ首を横に振る。
「今は読みません」
「今は、ですか」
リナが聞いた。
「はい。いつかは読みます。でも、あの場所では読まない」
アリアは自分の手を見る。
「読まされるのと、読むのは違う。昨日、それが分かりました」
伊織は水路を見た。
流れは一定だった。
ヴォルフが前方から戻ってきた。
「先に崩れがある」
「通れるか」
「人は通れる。獣も通れる。荷が多いと無理だ」
リナが荷袋を見る。
「荷、あります」
「置いていけとは言わん」
ヴォルフはアリアを見る。
「手を使わず通れる道を探す」
「時間が」
「かかる」
「急いだ方が」
「昨日、急いで何が起きたか忘れたか」
アリアは黙った。
ヴォルフはそれ以上言わなかった。
伊織は立ち上がる。
左手で縄を持つ。
「迂回する」
アリアは何か言いかけた。
だが、止めた。
読まない。
無理をしない。
急がない。
どれも簡単ではない。
だが、今はそれを選んでいる。
◆
迂回路は、水路の上を渡る古い木橋だった。
橋と呼ぶには頼りない。
板は半分腐り、欄干はない。
下には浅い水が流れている。
落ちても死なない。
だが、濡れた足でこの先を歩くのは面倒だった。
ヴォルフが先に渡る。
板の強さを確かめ、一枚ずつ踏む位置を示す。
クロが続く。
軽い。
だが、途中で一度止まった。
板の隙間を嗅ぐ。
それから、右の板を避けた。
ヴォルフが目を細める。
「そこは腐っているか」
クロは答えない。
踏まない。
それで十分だった。
リナが渡る。
アリアはその後ろ。
手が使えないため、バランスが悪い。
リナが支えようとする。
アリアは一度だけ首を振った。
「自分で」
「落ちます」
「落ちません」
板が鳴った。
ぎし、と嫌な音。
アリアの身体が傾く。
リナがすぐに肩を支えた。
アリアは息を止める。
それから、小さく言った。
「……お願いします」
「はい」
リナは何も責めなかった。
伊織は最後に渡った。
左手に縄。
右手は使えない。
板の上で身体が少し傾く。
昔なら、右手で何かを掴んだ。
今はできない。
左足で踏み直す。
板が鳴る。
リナが向こう岸から見ている。
クロも見ている。
アリアも。
伊織は足元を見た。
落ちたら濡れる。
濡れたら冷える。
冷えたら動きが鈍る。
面倒なだけだ。
だから落ちない。
そう決めて、渡った。
向こう岸につくと、クロが鼻を鳴らした。
伊織は縄を持ち直す。
「笑うな」
クロはもう一度、鼻を鳴らした。
笑っているかどうかは分からなかった。
リナがアリアの手首を見直す。
橋を渡っただけで、額に汗が出ている。
アリアはそれを隠そうとしなかった。
「休みます」
自分から言った。
リナが驚いたように目を開く。
それから、すぐに頷いた。
「はい」
伊織は近くの石に座った。
休む理由が、誰か一人の限界だけではなくなった。
全員で止まる。
それで、先へ行ける。
管理道の向こうには、緩い丘が見えた。
その先に、東部の街道があるはずだった。
シルヴェイン領へ近づいている。
父の名へも近づいている。
だが、昨日と違って、急ぐ音はしなかった。
水路の音は、足元を流れている。
アリアはその音を聞いていた。
伊織も聞いた。
信じるわけではない。
だが、今は進む方角ぐらいは任せてもよさそうだった。
◆
夕方前、丘の上に出た。
視界が開ける。
赤い土の道。
低い石垣。
遠くに、風車の骨組みのような塔が見えた。
そのさらに奥に、灰色の屋根が並んでいる。
小さな町だ。
ヴォルフが目を細める。
「リュード南宿」
「宿場か」
「今は半分、倉庫町だ。シルヴェイン領へ入る前に寄れる」
「治療は」
リナが聞いた。
「薬師はいる。腕は知らん」
「いないよりいいです」
リナはアリアを見た。
アリアは頷いた。
「寄りましょう」
伊織は遠くの町を見た。
人の煙が上がっている。
食事の匂いはまだ届かない。
だが、火の色がある。
人のいる場所だ。
伊織は内ポケットの木片に触れた。
まだ返せていない。
縄も返せていない。
だが、壊れたものを持って戻るには、まず人のいる場所へ行かなければならない。
クロが先に歩き出す。
リナが続く。
アリアは少し遅れて歩いた。
その足取りは重い。
だが、自分で歩いている。
伊織は後ろにつく。
右手は動かない。
左手には縄。
前には町。
背後では、水が南へ流れている。
その途中で、アリアが足を止めた。
遠くの塔を見ている。
「どうした」
伊織が聞いた。
アリアは塔から目を離さない。
「あの塔」
「知っているのか」
「シルヴェイン領の外縁標です」
リナが顔を上げる。
「じゃあ、もう近いんですか」
「はい」
アリアの声は静かだった。
「ここから先は、父が歩いた土地です」
風が吹いた。
水路の匂いが薄れ、乾いた土の匂いが混じる。
伊織は塔を見た。
ただの古い塔に見える。
アリアは動かない手を見た。
それから、ゆっくり下ろした。
「行きます」
「休まないのか」
「休みます。町に着いたら」
リナがすぐに言う。
「着いたら、すぐ治療です」
「はい」
今度は、反論しなかった。
伊織は塔を見る。
父の名へ近づく道。
読まないと決めた後で、そこへ行く。
その方が、たぶん難しい。
伊織は胸元の木片を押さえた。
返すものがある。
知るものもある。
その順番を間違えないようにする。
言葉にはしなかった。
前方で、町の鐘が鳴った。
夕方を告げる音だった。
遅れない。
水音でもない。
歯車でもない。
人が鳴らした鐘の音だった。




