第51話 返すもの
帰り道は、行きよりも長く感じた。
足が重い。
目が疲れている。
誰も余計なことを言わない。
それだけで、道は伸びる。
リナがアリアの隣を歩いていた。
肩を貸しているわけではない。
ただ、すぐ手が届く距離にいる。
アリアの手はまだ動かなかった。
腕は上がる。
肘も動く。
だが、指先は眠ったように反応しない。
何度か動かそうとして、途中でやめている。
そのたびに、リナの視線が手首へ落ちた。
「痛みは」
リナが聞いた。
「あります」
「痺れは」
「あります」
「動かそうとすると」
「痛みます」
「なら、今は動かさないでください」
「はい」
アリアは素直に答えた。
いつもなら、もう少し言い返したかもしれない。
だが、今は言わなかった。
リナもそれ以上は言わない。
布を巻き直すだけにした。
赤く染まった布を外す時、アリアの指は動かなかった。
リナは眉を寄せた。
だが、声には出さなかった。
伊織はその横で見ていた。
言えることはあった。
言わない方がいいこともあった。
だから、左手の中の縄を見た。
ガルドの縄。
毛羽立っている。
何か所か黒く擦れている。
一本、細い繊維が切れていた。
それでも、縄は繋がっている。
戻ったら返す。
そう決めていた。
返せる状態かどうかは、分からない。
だが、返す。
それは変わらない。
ヴォルフが壁に手を当てる。
欠けた骨刃を石の溝に差し、短く押した。
水音が返る。
こつん。
今度は遅れなかった。
「流れは戻っている」
ヴォルフが言った。
「本当にか」
伊織が聞く。
「半分は」
「残り半分は」
「外に出てから見る」
ヴォルフは骨刃を抜いた。
先端が欠けている。
刃というより、削れた骨の棒に近くなっていた。
「使えるのか」
「研げばな」
「研げなければ」
「殴る」
伊織は返事をしなかった。
ヴォルフはそれで十分だという顔をした。
クロが少し先を歩いている。
耳は前。
尾は低い。
水音。
足音。
呼吸。
鎖の音は、もう聞こえない。
伊織は耳を澄ませた。
水だけが流れている。
そこで、声がした。
「鋼鉄」
全員が止まった。
声は遠い。
鎖の音はない。
だが、確かに声だった。
伊織は振り返った。
回廊の奥には誰もいない。
水路の影だけが揺れている。
「借りは残ってる」
声はそれだけだった。
次はなかった。
リナが息を止める。
クロが低く鳴く。
ヴォルフは骨刃を構えなかった。
アリアは目を伏せたまま言う。
「今のは」
「本人かどうか分からない」
伊織は言った。
「でも、核の声ではありません」
「なぜ分かる」
「読ませようとしていませんでした」
伊織は回廊の奥を見る。
水音だけがある。
名前は呼ばない。
呼ばなくても、誰のことかは分かる。
「なら、残しておく」
伊織はそう言って、前を向いた。
返事はなかった。
鎖の音もなかった。
◆
外縁へ戻ると、空気に土の匂いが混じった。
古い石の冷たさだけではない。
外の風が入っている。
リナが小さく息を吸った。
「外の匂いです」
クロが鼻を上げる。
短く鳴いた。
ヴォルフが水路の縁に膝をつく。
指を水に入れる。
水は流れている。
黒くない。
濁ってはいる。
だが、底が見える。
ヴォルフは指についた水を見た。
「戻っている」
「半分か」
伊織が聞く。
「七割」
「細かいな」
「昔の仕事だ」
ヴォルフは立ち上がる。
「完全に戻すには、上流と下流を見る必要がある。だが、暴走は止まった」
アリアが水を見る。
リナがそっと肩に手を置く。
「見ないでください」
「はい」
アリアはすぐに答えた。
早い返事だった。
伊織はそれを聞き、視線を水路へ戻した。
アリアは読まなかった。
今も、読んでいない。
それは勝利だった。
派手ではない。
誰も褒めない。
それでも、勝利だった。
伊織は内ポケットから木片を出した。
トトの木片。
二つに割れかけている。
完全には割れていない。
細い繊維が、まだつながっている。
音を鳴らすには使えない。
鳴らせば、おそらく折れる。
伊織は木片を掌に乗せた。
軽い。
小さなものだ。
だが、これも重かった。
リナが木片を見る。
「それ、戻ったら返すんですよね」
「そうだ」
「怒られますかね」
「たぶんな」
「謝ります?」
伊織は木片をしまった。
「返す」
「謝らないんですか」
「必要なら」
「必要だと思います」
リナは真面目な顔で言った。
伊織は返事をしなかった。
リナも、もう追わなかった。
クロが伊織の足元へ来る。
木片の入った胸元を嗅いだ。
それから、鼻を鳴らす。
伊織はクロを見下ろす。
「折れてない」
クロはもう一度、鼻を鳴らした。
それ以上は何もなかった。
獣は時々、人間より余計なことを言わない。
リュード外縁の広場に出た時、空は夕方に傾いていた。
どれだけ中にいたのか分からない。
この場所で時間を信用する気にはなれなかった。
水路の周囲には、古い石柱が並んでいる。
その根元に、黒い汚れが残っていた。
歯車の欠片のようなものはない。
ただ、湿った影だけが石に染み込んでいる。
ヴォルフがそれを見て、眉を動かした。
「後で封じる必要がある」
「今は」
「今は帰る」
その言葉で、全員が少し止まった。
帰る。
この言葉は、まだ少し重い。
だが、罠の声ではない。
自分たちで選んだ言葉だった。
アリアが言う。
「帰りましょう」
リナが頷く。
クロが歩き出す。
ヴォルフが最後に水路を見る。
伊織はその後ろで、足を止めた。
右手は動かない。
左手には縄。
胸には木片。
背後には、止まったはずの水制御陣。
前には、戻る道。
伊織は何も言わなかった。
言えば、何かが軽くなる気がした。
軽くしていいものではない。
だから黙って歩いた。
◆
宿場跡へ戻る頃には、日は落ちていた。
壊れた屋根の下に、火を起こす。
リナがアリアの手当てを始めた。
布を外し、傷を洗い、薬草を潰す。
アリアは黙って座っていた。
痛みが走るたび、肩だけが揺れる。
手は動かない。
それでも、顔を逸らさなかった。
「しばらく、細かい作業は駄目です」
リナが言った。
「どれくらいですか」
「分かりません」
「曖昧ですね」
「ちゃんと分からない時は、分からないと言います」
アリアは口元を緩めた。
「それは、正しいですね」
「はい」
リナは真面目に頷いた。
伊織は火の向こうで縄を見ていた。
火にかざすと、擦れた部分がよく見える。
切れていない。
だが、弱っている。
ガルドに何と言うか。
返す。
使った。
助かった。
その三つで足りるだろうか。
足りないだろうな、と思った。
ヴォルフは欠けた骨刃を研いでいる。
石でゆっくり削る。
しゃり。
しゃり。
音が夜に混じる。
クロは火のそばで丸くなっていた。
眠ってはいない。
耳だけが時々動く。
遠くで水の音がする。
普通の水音。
そう思って、伊織は一度だけ耳を澄ませた。
今度は誰も呼ばない。
南条の声もない。
ゼクトの鎖もない。
水が流れている。
伊織は息を吐いた。
「伊織さん」
リナが呼んだ。
伊織は顔を上げる。
「アリアさん、明日は馬車で移動した方がいいです」
「馬車はない」
「作ってください」
「無茶を言う」
「右手が戻ったら」
「戻らなければ」
「ヴォルフさんに引いてもらいます」
ヴォルフの手が止まった。
「俺は馬ではない」
「知っています」
「ならなぜ言った」
「頼れそうだったので」
ヴォルフはしばらくリナを見た。
それから骨刃を研ぐ作業に戻った。
「考えておく」
リナが少し満足そうに頷いた。
アリアも口元を緩める。
伊織は火を見た。
右手はまだ動かない。
だが、焦りはない。
右手が戻るより前に、戻ったものがある。
夜が深くなった頃、アリアが火のそばに座った。
リナは眠っている。
クロも丸くなっている。
ヴォルフは見張りに立っている。
伊織は縄を巻き直していた。
アリアはその手元を見た。
「返すものが多いですね」
伊織は縄を巻き終える。
それから、木片を出した。
「増えた」
「壊してしまいました」
「折れてはいない」
「でも、音は鳴らせません」
「鳴らすためだけのものじゃない」
アリアは木片を見る。
火の色が、その割れ目に入っている。
彼女の手は膝の上に置かれたまま動かない。
動かない手で、何かを掴もうとしているようにも見えた。
「私は、読みませんでした」
アリアが言った。
伊織は木片を見たまま、黙っていた。
「父の名が、見えました」
伊織は返事をしなかった。
「読めば、何か分かったかもしれません」
火が小さく鳴った。
「でも、父のためだけに、私を削るのは違う」
伊織は頷かなかった。
ただ、火を見ていた。
アリアの声が続く。
「そう思えたのは、初めてかもしれません」
夜の空気は冷えていた。
火の近くにいても、指先は冷たい。
伊織の右手は動かない。
アリアの手も動かない。
それでも、二人ともここにいる。
「戻ったら」
アリアが言った。
「トトに、木片を返しましょう」
「怒るだろうな」
「怒られましょう」
伊織は木片の入った胸元を押さえた。
「ガルドにも縄を返す」
「怒られますか」
「怒るだろうな」
「怒られましょう」
アリアは同じ言葉を繰り返した。
伊織は火を見たまま、口元だけを動かした。
笑いになったかどうかは、自分でも分からなかった。
水音が遠くで流れている。
今は、普通の水音だった。
伊織はそれを聞いた。
信じたわけではない。
だが、疑い続ける必要も、今だけはなかった。
返すものがある。
戻る場所もある。
そして、まだ読まないまま残したものがある。
それを抱えて、明日へ行く。
伊織は火に枝を足した。
炎が少し高くなる。
夜の中で、誰かの名を呼ぶ声はしなかった。




