第50話 読まない者たち
核の前に、水音があった。
普通の水音だった。
石に当たり、細く流れ、どこか遠くで跳ねる。
街道沿いの小川に似ている。
食堂の裏手で聞いた雨樋の音にも似ている。
何にでも似ていた。
だから、誰も信じなかった。
伊織は左手で縄を握っていた。
ガルドの縄。
軋んでいる。
何度も重さを受け、何度も引かれ、それでも切れていない。
右手は、まだ完全には戻らない。
指先が動く。
握ろうとすると、痛みが走る。
冷えではない。
痛み。
悪くない。
だが、武器を出せるほどではない。
アリアはリナに支えられていた。
手は動かない。
指先も動かない。
それでも目は前を見ている。
ゼクトは鎖を肩にかけ、壁に寄りかかるように立っていた。
輪郭は薄い。
先ほどより少し戻った。
だが、まだ薄い。
ヴォルフは欠けた骨刃を構えている。
クロは低く身を沈め、リナはその横で息を整えていた。
奥に、核があった。
歯車ではなかった。
水門でもなかった。
黒い球のようにも見えた。
穴のようにも見えた。
そこにあるのに、そこにない。
見れば見るほど、形が変わる。
核の表面に、文字が浮かんだ。
伊織は読まなかった。
読めなかったのではない。
読まない。
その横で、アリアの息が止まる。
文字が、彼女を呼んでいた。
父。
シルヴェイン。
帰路。
記録。
読めば分かる。
読めば止められる。
そう言っているようだった。
「見るな」
伊織が言った。
アリアは答えなかった。
目を逸らさない。
リナが支える手に力を込める。
「アリアさん」
名前が出た。
その瞬間、核の表面がわずかに揺れた。
リナが息を呑む。
「すみません」
「謝るな」
伊織は核を見る。
核は、今の名前を拾った。
小さく。
だが、拾った。
名前は餌になる。
まだ終わっていない。
ゼクトが鎖を鳴らした。
がしゃん。
水音が少し遠のく。
「呼ぶな。読むな。返事すんな。ここまで来てまだ同じだ」
「簡単に言うな」
伊織が言う。
「簡単じゃねえから言ってんだよ」
ゼクトの声は掠れていた。
それでも届く。
削られながら、まだ届く。
アリアが口を開いた。
「読めば、核の構造が分かります」
「読むな」
伊織は即座に言った。
「分かっています」
アリアは小さく息を吸う。
「だから、読みません」
伊織はアリアを見る。
アリアは核を見ていた。
だが、文字を追ってはいない。
目は開いている。
それでも、読んでいない。
見ることと、読むことを切り離している。
その顔は苦しそうだった。
だが、決めた顔だった。
「読まないで、どう止める」
ヴォルフが言う。
アリアは核ではなく、床を見た。
「核は、名を食べて動くものです。ですが今は、名前を奪えないから重さを奪おうとしている」
「読まずに分かるのか」
伊織が聞く。
「ここまで見てきました」
アリアは短く答えた。
「もう、読まなくても分かることがあります」
ゼクトが笑った。
掠れた笑いだった。
「いいな。読める奴が読まねえってのは」
「笑うところですか」
「胸糞悪い仕掛けには、効くだろ」
アリアは答えなかった。
核の表面に、また文字が浮かぶ。
アルド。
父の名だった。
アリアの肩が揺れる。
伊織は一歩前に出る。
「偽物だ」
「分かっています」
「本物でも読むな」
アリアは唇を噛んだ。
「はい」
その返事は、遅れなかった。
◆
核が動いた。
音はなかった。
ただ、重さが抜けた。
足元が消える。
床はある。
だが、踏めない。
リナの身体がふわりと浮きかけた。
クロが革紐を噛んで引く。
リナが戻る。
ヴォルフの骨刃が床を擦った。
支点にしようとして、刃先が滑る。
骨刃の欠けた先では、深く噛まない。
ゼクトの鎖が天井へ走る。
がしゃん。
古い鎖に絡もうとして、すり抜ける。
「軽いな」
ゼクトが言った。
自分のことだった。
鎖のことでもあった。
伊織は縄を握る。
左手に全員の重さが来ない。
重さが奪われている。
縄だけが張っている。
中身がない。
嫌な感触だった。
「重さを戻すんじゃない」
アリアが言った。
声は細い。
だが、届いた。
「奪われる前に、固定します」
「何で」
伊織が聞く。
「名前ではなく、繋がりで」
「分かりやすく言え」
「縄と鎖を、支点にしてください」
「支点はどこだ」
アリアは一瞬、伊織を見た。
それから、彼の右手を見た。
伊織は黙った。
右手。
まだ動かない。
だが、指先は震えている。
鋼鉄は出せない。
警棒も、銃も、アイギスも無理だ。
だが、支点なら。
武器ではない。
攻撃ではない。
ただ、そこにある一点。
伊織は右手を見た。
「出せると思うか」
「分かりません」
アリアは言った。
「でも、あなたなら、武器ではないものを出せます」
「便利に言うな」
「便利ではありません」
アリアは少し息を吸った。
「必要です」
その言葉は、ずっとアリアのものだった。
必要だから読む。
必要だから無理をする。
必要だから進む。
だが、今は違う。
必要だから、読まない。
必要だから、伊織に預ける。
伊織は右手を開いた。
痛みが走る。
冷えはない。
動かない指を、無理に動かす。
黒鋼警棒ではない。
銃ではない。
盾でもない。
ただの杭。
短い鋼鉄の杭。
縄と鎖を通すための一点。
伊織は息を止めた。
右手の奥が軋む。
何かが、ほんの少し形を持つ。
黒い。
小さい。
手の中ではなく、床に。
指先から落ちるように、黒鋼の杭が石床へ現れた。
長さは腕ほどもない。
太さも足りない。
輪郭は揺れている。
だが、そこにある。
伊織は左手で縄を杭へ回した。
ゼクトが鎖を投げる。
鎖も杭へ絡む。
がしゃん。
鉄の音が鳴った。
水音が割れる。
核の表面が揺れた。
「出たな」
ゼクトが言う。
「これだけだ」
伊織は答えた。
「十分だろ」
「足りるかは、これからだ」
ゼクトは笑った。
「そういう言い方は嫌いじゃねえ」
「褒めるな」
「気持ち悪いか」
「ああ」
リナの息が、かすかに漏れた。
笑いにはならなかった。
だが、戻ってきた呼吸だった。
◆
核が名前を吐いた。
リナ。
クロ。
ヴォルフ。
アリア。
伊織。
ゼクト。
呼ばれてはいけない名が、次々に浮かぶ。
ゼクトの名が出た瞬間、彼の輪郭が薄くなった。
「呼ぶなって言ってんだろうが」
ゼクトが鎖を叩きつけた。
がしゃん。
名が割れる。
だが、核はすぐに別の名を出す。
鎖刃。
鉄鎖団。
昔の名。
知らない名。
ゼクトの顔が一瞬だけ歪んだ。
伊織は見た。
見なかったことにはできない。
だが、呼ばない。
ここでは呼ばない。
アリアが低く言う。
「核は、残っている名を探しています」
「読んでないな」
伊織が聞く。
「読んでいません」
「ならいい」
「見ています」
「それもほどほどにしろ」
「はい」
今度は反論しなかった。
リナがクロの胴を押さえる。
「次、どうしますか」
「押し返す」
伊織が言う。
「名前でなく、重さで?」
「ああ」
ヴォルフが骨刃を杭の横へ打ち込む。
欠けた刃先が、石に噛む。
深くはない。
だが、止まる。
「支点は二つだ」
「足りるか」
伊織が聞く。
「足らせる」
「それ、俺の台詞だ」
「借りた」
ヴォルフは短く答えた。
リナが縄を握る。
クロも体を低くした。
アリアはリナに支えられたまま、杭と核の位置を見る。
手は動かない。
指も動かない。
それでも、声は出る。
「核の下ではありません。少し右。黒い影が薄いところ」
「右だ!」
伊織が言う。
全員が縄と鎖を引く。
いや、押す。
体の重さを杭へ預け、杭から核へ返す。
重さは見えない。
だが、縄が軋む。
鎖が鳴る。
骨刃が石を噛む。
クロの爪が床を掻く。
リナの靴が滑る。
ヴォルフが支える。
ゼクトの鎖が核の影を裂く。
伊織の右手から、鋼鉄の杭へ痛みが伝わる。
杭が揺れる。
消えそうになる。
「持たせろ、鋼鉄」
ゼクトが叫ぶ。
「分かってる」
「分かってねえ顔だ」
「顔の話はもういい」
「読まれやすいんだよ」
伊織は歯を噛んだ。
右手の痛みが肩まで上がる。
杭が床に沈む。
沈むな。
そこにいろ。
武器じゃなくていい。
撃たなくていい。
守るための一点でいい。
伊織は右手を握ろうとした。
動かない。
それでも、指先が杭に繋がっている感覚だけはあった。
アリアが言う。
「今です」
「何を」
「核の影が、杭に寄っています」
「寄せていいのか」
「いいです。そこに全員の重さがあります」
伊織は左手で縄を引いた。
「押せ!」
全員が動いた。
核が震える。
表面に、南条の声が浮いた。
「あの店、また行こうな」
伊織の腕が止まりかけた。
それは、名前ではない。
約束だった。
この場所は、そこまで使う。
声ではない。
記憶の形を真似ている。
伊織は歯を噛んだ。
止まるな。
それは南条ではない。
南条の言葉を使った核だ。
だが、言葉は本物だ。
約束は本物だった。
だから、余計にきつい。
伊織の左手から力が抜けかける。
その時、アリアが言った。
「読まないでください」
伊織は息を止めた。
アリアは核を見ていない。
伊織を見ていた。
「それも、読ませる罠です」
伊織は目を閉じた。
一拍。
それから、開いた。
「ああ」
縄を引く。
約束は、核に返さない。
南条の言葉は、ここに置かない。
自分の中に持ったまま進む。
伊織は左手に力を戻した。
ゼクトが笑った。
「いい顔してんじゃねえか」
「黙れ」
「今のは褒めてねえ」
「ならいい」
核の影が杭に絡みついた。
黒鋼の杭が軋む。
消えかける。
だが、まだある。
◆
核は次に、アリアを狙った。
アルド=シルヴェイン。
その名が浮かんだ。
父の名。
アリアの身体が強張る。
リナが支える手に力を込める。
「見ないで」
リナが言う。
アリアは首を横に振らなかった。
見ない。
読まない。
ただ、息をする。
核の表面に、文字が増える。
帰れなかった者。
帰らなかった者。
父の記録。
最後の水路。
読めば分かる。
読めば、父に近づける。
アリアの目が揺れる。
伊織は言った。
「読むな」
「読みません」
返事は早かった。
だが、声は細い。
「読まなくても、残ります」
伊織は言った。
アリアが伊織を見る。
「何が」
「お前が、ここで読まなかったことだ」
アリアの目が少しだけ開く。
「父の記録じゃない。今のお前の判断だ」
アリアは黙った。
核の文字が揺れる。
アルドの名が滲む。
アリアは目を閉じた。
「読みません」
今度は、はっきり言った。
核が軋む。
名を食えない。
読ませられない。
だから、重さを奪おうとする。
全員の体が浮く。
杭が抜けかける。
ヴォルフの骨刃が石を削る。
リナが縄を離しかける。
クロが体ごと縄に乗る。
ゼクトの鎖が核へ伸びる。
伊織は左手で縄を引く。
右手の杭が消えかける。
あと少し。
あと一拍。
「持て」
伊織は自分の右手に言った。
右手は答えない。
だが、痛みが返ってくる。
悪くない。
痛いなら、まだ繋がっている。
杭が、もう一度だけ床に食い込んだ。
がん。
小さな音。
鉄の音。
それで十分だった。
ゼクトが鎖を振るった。
核の外側を裂く。
ヴォルフが骨刃を支点ごと押す。
リナがアリアを支えたまま縄を引く。
クロが爪を立てる。
アリアは読まないまま、核の影の薄い場所だけを見た。
「今。中央ではなく、外へ」
「外だ!」
伊織が叫ぶ。
全員の重さが、核の外側へ流れた。
黒い球が歪む。
名を食う口が、外へ向いて開いた。
そこへ、重さが入る。
名前ではない。
声でもない。
読まれた意味でもない。
ここにいる者たちの、ただの重さ。
核が、それを噛めなかった。
黒い表面にひびが入る。
歯車の音が乱れる。
かちり。
がきん。
かちり。
がきん。
ゼクトが吠えた。
「今だ、鋼鉄!」
「何を」
「杭を抜け!」
伊織は右手を見る。
杭は核に食われかけている。
抜くには、右手を使うしかない。
動かない右手。
だが、指先は繋がっている。
伊織は右手を握った。
完全には握れない。
それでも、杭を掴む感覚だけがあった。
抜く。
攻撃ではない。
引き戻す。
自分の鋼鉄を、核に渡さない。
伊織は歯を食いしばった。
右手に痛みが走る。
鋼鉄の杭が、床から抜けた。
黒い影が一緒に引き剥がされる。
ゼクトの鎖が、その影を叩いた。
ヴォルフの骨刃が支点を押し込む。
リナが縄を引く。
クロが体を沈める。
アリアが言う。
「離して!」
全員が一斉に縄を離した。
重さが核の外側へ抜ける。
支点を失った核が、内側へ潰れた。
黒い球が縮む。
歯車の音が一つ、砕けた。
がきん。
今度は、はっきり聞こえた。
核が割れた。
◆
水音が戻った。
普通の水音だった。
誰かを呼んでいない。
何かを真似ていない。
ただ、流れている。
伊織はしばらく動けなかった。
右手は床に落ちている。
杭は消えていた。
指は動かない。
だが、手はそこにある。
左手には縄の感触が残っている。
ガルドの縄は切れていなかった。
かなり擦れている。
だが、繋がっている。
リナは座り込んでいた。
クロも隣に伏せている。
ヴォルフは欠けた骨刃を見ている。
「また削るところが増えた」
「使えたか」
伊織が聞く。
「使った」
短い答えだった。
アリアはリナに支えられていた。
手は動かない。
指も動かない。
だが、意識はある。
目も開いている。
伊織は聞いた。
「読んだか」
アリアは首を横に振った。
「読みませんでした」
「そうか」
「読みたかったです」
「そうか」
「でも、読みませんでした」
「ああ」
それ以上は言わなかった。
それで十分だった。
ゼクトは壁にもたれていた。
輪郭は薄い。
さっきより、さらに薄い。
だが、消えてはいない。
鎖も残っている。
音もある。
がしゃん。
ゼクトは鎖を一度だけ鳴らした。
「止まったか」
伊織が聞く。
「ああ。少なくとも、ここの核はな」
「完全か」
「完全なんて言葉、信用するな」
「便利だな」
「便利じゃねえ。嫌なだけだ」
ゼクトは笑った。
その笑いは薄かったが、残っていた。
アリアがゼクトを見る。
「名は」
「戻ってねえ」
「でも、少し重くなっています」
「余計なこと見てんじゃねえ」
「読んでいません」
「見てるだろ」
「見ています」
「屁理屈が増えたな」
「あなたほどではありません」
ゼクトは黙った。
それから、喉の奥で笑った。
「言うじゃねえか」
伊織はゼクトを見る。
「消えるのか」
「今はな」
「今は?」
「消えねえって意味だ」
「分かりにくい」
「分かりやすく言う義理がねえ」
ゼクトは鎖を肩にかける。
立ち上がろうとして、失敗した。
鎖を支えにして、もう一度立つ。
今度は立った。
「軽くなっただけだ」
伊織は縄を持ち上げた。
「軽いなら、繋げばいい」
ゼクトが伊織を見る。
一瞬、何か言い返そうとした顔をした。
だが、言わなかった。
「気色悪いこと言うな」
「褒めてない」
「ならいい」
ゼクトは笑った。
リナが小さく息を吐く。
クロが鼻を鳴らす。
水音は、ただ流れている。
核のあった場所には、黒い欠片が残っていた。
歯車の形ではない。
ただの割れた石のようにも見える。
アリアがそれを見ようとして、目を伏せた。
読まない。
今は。
伊織はそれを見た。
止めなかった。
止める前に、アリアが自分で止まった。
それでよかった。
◆
帰路は、すぐには開かなかった。
だが、道は消えなかった。
壁の文字は薄れ、床の影は水路へ戻っていく。
名を呼ぶ声はない。
歯車の音もない。
ただ、水が流れる音がする。
ヴォルフが壁に骨刃を当てた。
「戻れる」
「根拠は」
伊織が聞く。
「水が同じ方向へ流れている」
「今度は信用していいのか」
「半分だけだ」
「十分だ」
リナがアリアを支える。
アリアは歩ける。
手は動かない。
それでも歩ける。
伊織は右手を見る。
まだ動かない。
だが、今度は焦らなかった。
痛みがある。
戻る可能性もある。
それだけでいい。
割れた木片は内ポケットにある。
鳴らせない。
だが、返す。
ガルドの縄も返す。
擦れている。
だが、切れていない。
返せる。
ゼクトが先へ歩こうとした。
伊織は言った。
「どこへ行く」
「帰る」
「どこへ」
「俺の道だ」
「迷うぞ」
「慣れてる」
「戻れと言った奴が、それか」
「戻れと言ったから、戻るんだよ」
ゼクトは振り返らない。
だが、少しだけ足を止めた。
「鋼鉄」
「ああ」
「借りは、まだ残ってる」
「取り切れてないんだろ」
「分かってんならいい」
「生きてる奴から取るんだったな」
ゼクトは笑った。
「ああ」
それだけ言って、歩き出す。
名前は呼ばなかった。
呼ぶ場所ではない。
だが、誰が去るのかは分かった。
鎖の音が遠ざかる。
がしゃん。
がしゃん。
水音に混じらない。
歯車にもならない。
鎖の音だった。
リナが小さく言う。
「行っちゃうんですか」
「今はな」
伊織が答えた。
「また来ますか」
「借りが残ってるらしい」
「なら、来ますね」
「面倒だな」
クロが鼻を鳴らした。
今度は、少しだけ同意に聞こえた。
アリアが静かに言う。
「戻りましょう」
伊織は頷いた。
戻る。
読むためではない。
名を呼ぶためでもない。
返すものがある。
道は、まだ切れていなかった。




