第49話 重さを奪うもの
奥へ進むほど、足音が軽くなった。
最初に気づいたのは、クロだった。
爪が石を叩く音が、いつもより浅い。
かつ。
かつ。
音はある。
だが、石に食い込む感じがない。
クロは一度立ち止まり、自分の前足を見た。
リナも気づく。
「クロ?」
名前を呼びかけて、途中で口を閉じた。
この場所では、名前が餌になる。
それをもう覚えていた。
クロは鼻を鳴らした。
いつもの返事より、音が薄い。
伊織は足元を見る。
石床。
黒い影。
ところどころに残った水の跡。
足は床についている。
だが、体の重さが少し遠い。
足裏にあるはずの圧が薄い。
右手はまだ動かない。
指先がわずかに震えるだけだ。
左手にはガルドの縄。
腰には割れた木片。
手の届くものはある。
だが、どれも少し遠く感じた。
ゼクトが先頭で鎖を引きずる。
がら。
がら。
金属音はまだ出ている。
だが、その音にも厚みがない。
鎖そのものの重さが削られているようだった。
「始まってるな」
ゼクトが言った。
今はもう、誰もその名を呼ばなかった。
だが、そこにいる男が誰かは分かっている。
名を呼ばなくても、分かる。
今はそれで十分だった。
「重さか」
伊織が聞く。
「ああ。足、手、声。順に軽くなる」
「軽くなるなら楽そうだな」
「楽に死ねるぞ」
「笑えない」
「笑わせてねえ」
ゼクトは振り返らずに言った。
アリアは壁を見ないようにしながら歩いている。
だが、見ないまま進める場所ではない。
壁に浮かぶ文字の中から、危ないものだけを避けている。
そのたびに手首の布が動く。
もう白くはない。
赤く染まった布が、袖の下で重くなっていた。
リナが小声で言う。
「手首、痛いですよね」
アリアは少しだけ遅れて答えた。
「痛みはあります」
「動きますか」
「動きます」
「動かしていいんですか」
アリアは答えなかった。
リナはそれ以上言わなかった。
伊織も言わない。
アリアが黙った時点で、答えは出ている。
動く。
だが、動かしていいわけではない。
それでも、動かす。
そういう状態だった。
ヴォルフが骨刃を床に突く。
音が浅い。
刃が石に当たった感触も弱いのだろう。
片目が細くなる。
「床が遠い」
「沈んでいるのか」
伊織が聞く。
「逆だ。こちらが浮いている」
リナが足元を見た。
「浮いてる?」
「まだ、ほんの少しだ」
ヴォルフは骨刃を抜く。
「このまま進めば、踏ん張れなくなる」
ゼクトが鎖を鳴らした。
がら。
薄い金属音。
「だから急げって言った」
「急ぐと罠に落ちる」
「遅いと浮く」
「性格が悪いな」
「ここの持ち主に言え」
伊織は奥を見る。
回廊の先に、低い黒がある。
扉ではない。
影の塊。
その奥から、歯車の音がする。
かちり。
低く。
深く。
さっきの主制御室の歯車よりも遅い。
だが、一つ鳴るたびに、足元の重さが薄くなる。
あれが本体だ。
見なくても分かった。
◆
最初に浮いたのは、リナだった。
足が石床から離れたわけではない。
だが、踏み出した瞬間、身体が前へ流れすぎた。
クロがすぐに革紐を引く。
リナは体勢を戻した。
戻したが、顔が青い。
「今、足が」
「踏めなかったか」
伊織が聞く。
「はい。床があるのに、足が覚えてない感じです」
分かりにくい。
だが、分かる。
足の重さを奪われる。
踏むという感覚だけが薄くなる。
伊織はガルドの縄を解いた。
「全員、繋ぐ」
ゼクトが振り返る。
「お守りか」
「落ちた時に拾う」
「誰が落ちる前提だ」
「全員だ」
ゼクトは笑った。
「いい判断だ」
「褒めるな。気持ち悪い」
「気持ち悪がれ。今はそれでいい」
伊織は縄をリナの腰に回す。
次にアリア。
ヴォルフ。
自分。
ゼクトは最後に残った。
「お前もだ」
伊織が言う。
「俺は鎖がある」
「鎖ごと消えたら拾えない」
「拾う気か」
「借りを取るんだろ」
ゼクトの目が少しだけ動いた。
「生きてる奴から取るんだったな」
伊織は言った。
ゼクトは舌打ちした。
「面倒な覚え方しやがって」
「忘れるほど多くない」
「さっき聞いた」
「なら、二度言わせるな」
ゼクトは黙って縄を受けた。
腰には結ばない。
鎖に一度絡めた。
完全には繋がらない。
だが、線はできた。
それでいい。
リナがクロを見る。
「クロは」
クロが自分から縄の下へ入った。
首ではない。
胴に回せという位置に立つ。
リナが一瞬だけ目を丸くした。
それから、クロの胴へ縄を通した。
「えらい」
クロは鼻を鳴らした。
今のは、褒められるまでもない、という音だった。
伊織は縄を左手に持つ。
右手はまだ使えない。
だが、左手に重さが来る。
人の重さ。
獣の重さ。
鎖の重さ。
まだ残っている。
なら進める。
「行くぞ」
伊織が言った。
ゼクトが鼻で笑う。
「俺の台詞を取るな」
「名前を呼ばないなら、台詞ぐらい取る」
「減らず口は重いままだな」
「助かる」
誰も笑わなかった。
だが、少しだけ呼吸が戻った。
◆
黒い影の塊に近づくと、部屋が見えた。
主制御室の奥。
そこは、さらに小さな円形の空間だった。
中央に歯車はない。
代わりに、床そのものが回っていた。
石床に刻まれた円。
円の中に、無数の細い溝。
その溝に黒い影が流れている。
水路。
文字。
歯車。
すべての形を混ぜたような床だった。
天井からは、鎖がいくつも垂れている。
錆びた鎖。
黒い鎖。
水のように揺れる鎖。
その中に、鉄の鎖が一本あった。
ゼクトのものではない。
だが、似ている。
ゼクトがそれを見て、わずかに目を細めた。
「お前のか」
伊織が聞く。
「だったものだ」
「削られた名か」
「昔の鎖だ」
ゼクトは短く答えた。
「あれを使って、俺の名を縛ってやがる」
アリアが天井の鎖を見る。
「あなたの名を固定具にしている」
「そういうことだろうな」
「外せば」
「俺は軽くなる」
「戻るのではなく?」
「消える方に近いな」
アリアは黙った。
伊織は天井の鎖を見る。
外せばゼクトが消える。
外さなければ、本体は止まらない。
また、そういう選択だ。
「壊す場所は」
伊織が聞く。
ゼクトは部屋の中央を指した。
「床の円だ。三つ欠いた歯で流れは弱ってる。今なら、中央の流れをずらせる」
「どうやって」
「重さを戻す」
「戻せるのか」
「一時的にな」
ゼクトは鎖を持ち上げる。
「俺の鎖を、あの古い鎖に絡める。お前らは縄で踏ん張る。読める女が、流れの逆を読む。爺さんが支点を作る。獣と娘が、沈む前に足場を拾う」
「雑だな」
伊織が言う。
「細けえ説明がいるか」
「いらない」
「なら行ける」
アリアが床を見る。
目が引かれかける。
伊織はすぐに左手で縄を引いた。
アリアの身体が少し戻る。
「見るな」
「見ないと読めません」
「全部は見るな」
「分かっています」
「信用できない」
「分かっています」
その返しは早かった。
伊織は黙った。
アリアは息を吸う。
「中央の流れは、時計回りです。ただ、名の流れだけが逆に走っています」
「どこを止める」
「止めません。ずらします」
「どう違う」
「止めれば、奪った重さが散ります。ずらせば、戻る道ができます」
ゼクトが笑う。
「さすが読める奴は面倒に言う」
「あなたの説明が雑すぎます」
「言うようになったじゃねえか」
アリアは答えなかった。
手首を押さえる。
押さえた指にも力が入っていない。
伊織は見た。
「動けるか」
「動きます」
「動かしていいのか」
アリアは少し黙った。
「今は、動かします」
その答えなら、止められない。
伊織は左手の縄を握り直した。
右手の指が、ほんの少し震える。
まだ使えない。
だが、戻りかけている。
間に合うかは分からない。
間に合わせるしかない。
◆
ゼクトの鎖が天井へ走った。
金属が石を打つ音。
がしゃん。
その音が部屋に響いた瞬間、床の影が跳ねた。
全員の身体が軽くなる。
足が浮きかける。
伊織は縄を左手に巻き、床へ膝を落とした。
体重をかける。
だが、その体重が奪われる。
踏ん張っているのに、踏ん張りが薄い。
リナがクロの胴を押さえる。
クロも爪を立てる。
ヴォルフが骨刃を床の溝へ打ち込む。
支点。
骨刃が半分沈む。
だが、止まった。
アリアは床の円を見ている。
目が揺れる。
呼ばれている。
伊織は鎖を鳴らそうとした。
だが、今はゼクトの鎖が天井に伸びている。
手元には縄しかない。
鉄の音が足りない。
「鳴らせ!」
ゼクトが叫ぶ。
「何を」
「何でもいい!」
伊織は左手を見る。
縄。
木片。
右手。
鉄はない。
いや。
ヴォルフの骨刃。
骨刃は鉄ではない。
だが、音は出る。
伊織はヴォルフを見る。
「骨刃を鳴らせ」
「鉄じゃない」
「音がいる」
ヴォルフは即座に骨刃の柄を石床へ打った。
ごん。
鈍い音。
鉄ほど鋭くない。
だが、音は通った。
アリアの目が戻る。
「左へ三つ。中央の黒い溝を避けて、外側の線へ」
「分かった!」
ゼクトが鎖を引く。
天井の古い鎖と絡む。
古い鎖が震えた。
そこから、声が落ちた。
知らない名前。
古い名前。
誰かが捨てた名前。
誰かが捧げた名前。
それらが雨のように降る。
リナが耳を塞ぎかける。
クロが体をぶつけて止める。
リナは耳を塞がない。
涙が出ている。
だが、立っている。
「次!」
ゼクトが叫ぶ。
アリアが床を見る。
長い。
長すぎる。
伊織は右手を見た。
指が震えている。
握れるか。
握れ。
黒鋼警棒。
無理か。
無理でもいい。
音だけでいい。
伊織は右手を石床へ叩きつけた。
何も出ない。
痛みだけが走る。
だが、その痛みで右手がわずかに動いた。
もう一度。
伊織は右手を床へ打つ。
骨と石の音。
小さい。
だが、自分の音だった。
アリアの目が戻る。
「右。上ではなく、下です。重さが下に逃げています」
「意味分かんねえ!」
ゼクトが叫ぶ。
「鎖を下へ」
伊織が言った。
「天井に向けている鎖を、床へ落とせ」
「雑に言うんじゃねえ」
「お前に合わせた」
「気に入らねえな」
ゼクトは鎖を引き戻し、床へ叩きつけた。
がしゃん。
床の影が裂ける。
重さが一瞬戻った。
全員の身体が床へ沈む。
リナが膝をつく。
クロも体勢を落とす。
ヴォルフの骨刃がさらに深く刺さる。
伊織の左手に縄の重さが戻る。
重い。
痛い。
だが、重い。
いい。
重いなら、まだここにいる。
アリアが息を吐く。
「今です。中央の流れがずれています」
「何を壊す」
伊織が聞く。
「壊さないでください。押し戻します」
「何を」
「奪われた重さを」
ゼクトが天井の古い鎖を見る。
「俺の分もか」
アリアは一瞬だけ黙った。
「一部なら」
「余計なことするな」
「必要です」
「必要じゃねえ」
「あなたが軽すぎると、鎖が届きません」
ゼクトが黙った。
伊織は少しだけ口元を動かした。
笑いではない。
だが、悪くなかった。
「言われてるぞ」
「うるせえ」
ゼクトは鎖を握り直した。
その腕はさらに薄い。
だが、鎖はまだ重い。
◆
床の円が逆に回り始めた。
ゆっくり。
だが、確実に。
黒い影が外側へ流れる。
奪われた重さが、少しずつ戻る。
足が床を覚え始める。
リナが立ち上がる。
クロが爪を立て直す。
ヴォルフが骨刃を抜こうとして、抜けない。
「刺さりすぎた」
「いいことだろ」
伊織が言う。
「今はな」
ゼクトの鎖が古い鎖を引く。
天井の鎖が軋む。
そこに絡め取られていた何かが、細くほどける。
声。
ではない。
気配。
ゼクトの輪郭が、ほんの少し濃くなった。
リナが小さく息を呑む。
ゼクトが睨む。
「見るな」
「見てません」
「見てただろ」
「少しだけです」
「少しも見るな」
クロが鼻を鳴らした。
呆れたようだった。
アリアは床を見続けている。
伊織は気づいた。
手首ではない。
指先が動いていない。
アリアの手は、もう細かく動かない。
それでも目だけで読んでいる。
動かないのではない。
動かさないと読めないのに、動かせない。
その差が、ようやく見えた。
「アリア」
名前を呼びかけて、伊織は止まった。
危ない。
ここでは名前が餌になる。
アリアが振り向いた。
呼ばれなくても分かったらしい。
「何ですか」
「手」
「動きません」
早かった。
誤魔化さなかった。
伊織は息を止めた。
「いつから」
「少し前から」
「少し、か」
「はい」
リナが青ざめる。
ヴォルフも顔を動かした。
ゼクトだけが床を見たまま言う。
「読めるのか」
「読めます」
「手が動かねえのに?」
「目は動きます」
「根性論か」
「判断です」
「気に入った」
「気に入らなくていいです」
アリアは床を見る。
「あと一か所。そこをずらせば、重さは戻ります」
「その後は」
伊織が聞く。
「核への道が開きます」
「お前は」
「立てます」
「手は」
「動きません」
「読めるか」
「読みます」
伊織は言葉を探した。
止める言葉。
進める言葉。
どちらも嫌だった。
アリアはそれを待たなかった。
「これは私の領域です」
以前と同じ言葉だった。
だが、今は違った。
声に震えがない。
手が震えないからではない。
もう、震えるほど動かないからだ。
伊織は左手の縄を握った。
「なら、戻ってこい」
「はい」
「読んだら戻れ」
「はい」
「倒れる前に言うな。倒れる前に戻れ」
アリアは一瞬だけ目を伏せた。
それから、頷いた。
「はい」
ゼクトが舌打ちする。
「面倒くせえな、お前ら」
「黙れ」
伊織とアリアの声が重なった。
リナが少しだけ目を丸くした。
クロが鼻を鳴らした。
ヴォルフが骨刃を抜こうとして、まだ抜けなかった。
◆
最後の一か所は、床ではなかった。
天井でもない。
壁でもない。
空間の中央。
何もない場所に、黒い点があった。
点。
穴。
名前のない重さ。
そこから、全員の足元へ見えない糸が伸びている。
アリアがそれを見つけた。
「そこです」
「どこだ」
ゼクトが聞く。
「何もない場所」
「見えねえよ」
「見えないから、残っています」
伊織は目を凝らす。
見えない。
だが、足の重さがそこへ引かれているのは分かる。
リナも足元を見る。
「引っ張られてます」
クロが低く唸る。
ヴォルフが骨刃を抜くのを諦め、柄だけを握る。
「支点はここで固定する」
「動けないのか」
伊織が聞く。
「動かん方が役に立つ」
「便利だな」
「不便だ」
ゼクトが鎖を構える。
だが、鎖は黒い点をすり抜ける。
一度。
二度。
届かない。
そこには名前がない。
重さだけがある。
鎖では引っかからない。
伊織は右手を見る。
動かない。
まだ動かない。
だが、指先に感覚が戻り始めている。
痛み。
冷えではない。
痛み。
悪くない。
「鉄の音では無理か」
伊織が言う。
「音じゃない」
アリアが答えた。
「重さです」
「重さを当てるのか」
「はい」
「何の」
アリアは伊織を見る。
次に、ゼクトを見る。
それから、リナ、クロ、ヴォルフを見る。
「全員の重さです」
伊織は黙った。
アリアは続ける。
「縄を使ってください。全員の重さを一つにして、あの点に当てる。名前ではなく、ここにいる重さで押し返す」
ゼクトが笑った。
「また面倒なことを言う」
「あなたが雑すぎます」
「気に入ったって言っただろ」
「忘れてください」
「忘れねえよ」
伊織はガルドの縄を見る。
古い縄。
手入れされた縄。
戻ったら返せ。
ここで使う。
伊織は縄を全員へ回した。
腰ではなく、手首でもない。
胴。
肩。
鎖。
骨刃の柄。
クロの胴。
それぞれが繋がる位置。
アリアの手は動かない。
だから、リナがアリアの分を結んだ。
リナの手は震えていた。
だが、結び目はほどけなかった。
「これで」
リナが言う。
「足りますか」
「足らせる」
伊織が答えた。
ゼクトが鼻で笑う。
「いい雑さだ」
「黙れ」
「褒めてんだよ」
「いらない」
ヴォルフが骨刃の柄を縄に絡める。
「合図は」
伊織はアリアを見る。
アリアは黒い点を見ている。
「私が言います」
「声は出るか」
「出します」
「声も削られるぞ」
「短く言います」
伊織は頷いた。
短く。
それでいい。
全員が縄を握る。
ゼクトは鎖を縄に絡める。
クロは低く体を沈める。
リナはアリアの隣で踏ん張る。
ヴォルフは骨刃を支点にする。
伊織は左手で縄を握る。
右手は動かない。
だが、右手の指先が震えている。
あと少し。
間に合わなくてもいい。
今は左でやる。
アリアが言った。
「今」
全員が引いた。
いや、押した。
縄を通して、自分たちの重さを中央へ集める。
見えない黒い点へ。
足が浮く。
膝が揺れる。
肩が抜けそうになる。
ゼクトの輪郭が薄くなる。
アリアの声が消えかける。
リナが歯を食いしばる。
クロが爪を立てる。
ヴォルフの骨刃が石を割る。
伊織は左手で縄を引いた。
重い。
戻ってきた重さ。
全員の重さ。
それが、縄を通して腕に来る。
右手ではない。
左手だ。
だが、守るものの重さなら、左でも持てる。
伊織は歯を噛んだ。
「押せ」
声が出た。
名前ではない。
命令でもない。
ただ、全員へ向けた音だった。
縄が軋む。
黒い点が震えた。
一瞬、そこにいくつもの名前が浮かんだ。
呼べば食われる。
だから誰も呼ばない。
呼ばないまま、重さだけを押し返す。
黒い点が潰れた。
音はなかった。
代わりに、重さが戻った。
全員の体が床へ落ちる。
膝。
手。
爪。
骨刃。
鎖。
それぞれが石を打つ。
遅れて、歯車の音が割れた。
かちり。
ではなかった。
がきん。
何かが欠ける音だった。
◆
重さが戻った。
完全ではない。
だが、足は床を踏んでいる。
リナが座り込む。
クロもその横で伏せる。
ヴォルフは骨刃を抜いた。
刃の先が欠けていた。
「後で削る」
「まだ使えるか」
伊織が聞く。
「使う」
答えは短かった。
アリアは立っていた。
立っているだけだった。
手は動かない。
指先も動かない。
リナがすぐに支える。
「もう、読めませんよね」
リナが言う。
アリアは少しだけ息を吸った。
「読めます」
「手が」
「目は」
「駄目です」
リナの声が強かった。
アリアがリナを見る。
リナは震えていた。
それでも、視線を逸らさなかった。
「もう駄目です。今は、駄目です」
アリアは何か言いかけた。
だが、言わなかった。
伊織はその横顔を見た。
アリアは初めて、自分で止まった。
小さく頷く。
「……分かりました」
その声は、悔しそうだった。
だが、折れてはいなかった。
伊織は少しだけ息を吐いた。
リナが止めた。
それがよかった。
自分が言えば、アリアは反発したかもしれない。
リナだから止まれた。
そういう線もある。
ゼクトが壁にもたれていた。
さっきより輪郭は濃い。
だが、まだ薄い。
戻りきってはいない。
「半分戻ったか」
伊織が言う。
「半分もいらねえ」
「強がりか」
「癖だ」
ゼクトは鎖を引く。
鎖の音は戻っている。
少しだけ重い。
「お前の名は」
「戻ってねえ」
「そうか」
「そうか、で済ますな」
「聞くなと言っただろ」
「言ってねえ」
「言ってた顔だ」
ゼクトが笑った。
「顔の話をする奴が増えたな」
「お前からだ」
「そうだったか?」
ゼクトはとぼけた。
伊織は答えなかった。
奥で、最後の歯車が鳴った。
今度は、はっきりと聞こえた。
小さい。
だが、硬い。
核。
それがまだ生きている。
アリアは読めない。
右手はまだ完全ではない。
ゼクトは削れている。
木片は割れている。
ガルドの縄は軋んでいる。
それでも、重さは戻った。
立てる。
それだけでいい。
伊織は右手を開いた。
指先が、ほんの少し動いた。
握る。
完全には握れない。
だが、さっきより動く。
痛みがある。
悪くない。
ゼクトが奥を見る。
「次で、本当に核だ」
「また玄関じゃないだろうな」
リナが言った。
ゼクトはリナを見る。
少しだけ笑った。
「たぶんな」
「たぶん……」
クロが低く鳴いた。
伊織は左手で縄を握った。
アリアはもう読まない。
読ませない。
なら、次は読む以外で越える。
核が何を食うのか。
まだ分からない。
だが、今は一つだけ分かる。
名前を呼ばなくても、線は切れなかった。
声がなくても、重さは戻った。
伊織は奥の暗がりを見た。
そこから、水音がした。
普通の水音だった。
今度こそ、誰も信用しなかった。




