第48話 鎖刃、東部にて
名前は、呼ばなかった。
呼べば、この場所に置かれる。
だから伊織は、暗がりの男を見たまま黙っていた。
男は壁にもたれていた。
片膝を立て、片腕を垂らしている。
そこから伸びる鎖だけが、生きているように床を這っていた。
鎖は壁の文字を削ったあと、ゆっくりと男の手元へ戻っていく。
金属の擦れる音。
水ではない音。
歯車でもない音。
伊織はその音を聞いた。
聞こえる。
遅れない。
男が口の端を上げる。
「呼ばねえのか」
「ここでは、名前が餌になる」
「覚えが早いな、鋼鉄」
鋼鉄。
その呼び方だけは、遅れなかった。
リナが息を呑む。
クロは低く唸っている。
アリアはまだ壁の文字から目を逸らしていた。
ヴォルフは骨刃を構えたまま、鎖の動きを見ている。
伊織は右手を下げた。
動かない。
まだ握れない。
左手だけが使える。
それを見て、男が笑った。
「右、死んでんのか」
「一時的だ」
「便利な言い訳だな」
「お前も似たようなものだろ」
男の笑みが、少しだけ薄くなった。
暗がりの中で、男の輪郭が揺れている。
体が透けているわけではない。
だが、存在の縁が薄い。
顔は見える。
目も見える。
しかし、そこにいるという感覚が少しだけ足りない。
声は届く。
鎖も届く。
だが、名が届いていない。
そういう欠け方だった。
アリアが低く言う。
「あなたは、名を捧げたんですか」
男はアリアを見る。
「半分な」
「半分?」
「全部持っていかれたら、声も残らねえ」
鎖が床で小さく鳴った。
「だから、要らねえ方から削らせた」
「要らない名なんて、あるんですか」
リナが言った。
男はリナを見た。
それから、少しだけ笑った。
「ある奴にはある」
その言い方は軽かった。
だが、軽さの下に、何か硬いものがあった。
伊織は男を見た。
「何を削った」
「昔の名だ」
「本名か」
「呼ぶなよ」
「呼ばない」
「ならいい」
男は視線を奥へ向けた。
回廊の先。
まだ見えない場所で、大きな歯車が回っている。
かちり。
かちり。
かちり。
その音は、少しずつ速くなっていた。
「ここは、人の名を食う。地名も、家名も、通り名もな。名が多い奴ほど、長くもつ」
「だから半分で済んだのか」
「済んでねえよ」
男は自分の胸元を指で叩いた。
音がしなかった。
「ここから先に進むたび、削れる。戻れと言ったのは、親切じゃねえ」
「では」
アリアが言う。
「何ですか」
「無駄足を見たくなかった」
男の鎖が、床の文字を一つ削った。
火花が散る。
「あと、胸糞悪いんだよ。この仕掛けは」
ヴォルフが低く言った。
「敵にしては、よく喋る」
「敵だと思ってんなら、斬れよ、爺さん」
「斬る場所を見ている」
「いい目だ」
「片方だけだ」
「十分だろ」
短いやり取りだった。
だが、空気は少し変わった。
味方ではない。
敵でもない。
少なくとも、今ここで鎖をこちらへ向ける気はない。
伊織はそれだけを判断した。
「借りを取りに来たのか」
男が伊織を見る。
「覚えてたか」
「忘れるほど多くない」
「なら話が早い」
男は立ち上がろうとした。
だが、膝が一度落ちた。
鎖が床を叩く。
がしゃん。
男はそれを支えにして、体を起こした。
完全ではない。
強い。
だが、削れている。
伊織はそれを見た。
「動けるのか」
「見りゃ分かるだろ」
「分からないから聞いた」
「動く」
「信用できない」
「お前に言われたくねえな」
アリアがわずかに伊織を見た。
同じことを言われた、という顔だった。
伊織は無視した。
男は鎖を手元に巻き取る。
「借りは取りに来た。ついでに、こいつを壊す」
「こいつ」
「主制御室だ」
歯車の音が奥で強くなる。
男は顎でその方向を示した。
「あそこに、名を巻き取る核がある。水路の名、人の名、土地の名。全部を食って、歯車に変えてやがる」
アリアの顔が硬くなる。
「黒い歯車」
「ああ」
「ヴァルターのものと同じですか」
男は少しだけ目を細めた。
「似てる。だが同じじゃねえ。あいつのは組んだ仕掛けだ。こいつは古い。最初からこういう化け物だったんだろうよ」
「古代機構……」
アリアの声が小さくなる。
伊織はアリアを見る。
手首の布は赤い。
顔色も悪い。
だが、目は石の奥を見ている。
読みたい顔だった。
読めば分かる。
だが、読めば削れる。
伊織は言った。
「読むな」
「まだ何も」
「顔で分かる」
アリアは口を閉じた。
男が笑った。
「似てきたな」
「何が」
「面倒な仲間の止め方だ」
伊織は答えなかった。
男は続ける。
「主制御室に入るには、三つ必要だ」
「言え」
「一つ。名を捧げるな。捧げたら楽に通れる。だが、戻れなくなる」
鎖が床を軽く叩く。
「二つ。壁の文字を読むな。必要な文字だけ拾え。全部読む奴から先に沈む」
アリアの目がわずかに動いた。
「三つ。鉄の音を切らすな。水音に食われる」
伊織は自分の右手を見る。
動かない。
今のところ、鉄の音は出せない。
男もそれを見た。
「で、その鉄の右手が死んでるわけだ」
「左手は動く」
「左手で鉄は出せねえだろ」
「出せない」
「正直でいいな」
男は鎖を持ち上げた。
「しばらくは俺が鳴らす」
「借りを返すのか」
「取りに来たんだよ」
「どう違う」
「俺が決める」
伊織は男を見た。
やはり味方ではない。
だが、この場では十分だった。
◆
主制御室へ向かう回廊は、思ったより短かった。
短いことが、逆に嫌だった。
遠いなら準備できる。
長いなら考えられる。
短い道は、選ばせる時間を奪う。
男が先頭に立った。
鎖を床に垂らし、引きずりながら歩く。
がら。
がら。
金属の音が続く。
その音がある間、水音は近づいてこなかった。
リナとクロがその後ろ。
アリアは中央。
ヴォルフが少し横にずれ、伊織は最後尾。
右手はまだ動かない。
左手には縄。
内ポケットには割れた木片。
使えないもの。
返すもの。
同じものではない。
伊織はそう思った。
壁には文字が戻り続けている。
男が鎖で削る。
がり。
がり。
火花。
削られた文字の中には、読めそうなものもあった。
父。
帰路。
シルヴェイン。
東。
南。
伊織は見ない。
見たくなる文字ほど、罠だ。
アリアも見ないようにしている。
だが、完全には無理だった。
視線が時々壁へ引かれる。
そのたび、男の鎖が先に走る。
がり。
文字が消える。
アリアが息を詰める。
「そこは」
「読むな」
男が言った。
「父親の名に見えるだろ」
アリアの足が止まった。
伊織も止まる。
男は振り返らない。
「見えるだけだ。読むと食われる」
「なぜ分かるんですか」
「読んだからだよ」
男の声は軽かった。
だが、軽くなかった。
「読んで、持っていかれた。だから削った」
アリアは壁を見ないように目を伏せた。
伊織は男の背を見る。
鎖。
肩。
薄い輪郭。
名を半分削られた男。
それでも、危ない文字だけは削っている。
自分が通るため。
そのはずだった。
だが、それだけではないように見えた。
伊織は何も言わなかった。
「鋼鉄」
男が呼んだ。
「ああ」
「女を見とけ。ここは、読める奴から落ちる」
「分かってる」
「分かってねえ顔だな」
「顔の話をする奴が増えた」
「読まれやすいんだろ」
男が笑った。
リナが少しだけ息を吐いた。
クロは笑わない。
低く唸ったままだ。
◆
主制御室の扉は、開いていた。
開いているのに、入れる気がしなかった。
巨大な円形の空間。
中央に、黒い歯車が浮いている。
歯車というには大きすぎる。
人の背丈の何倍もある。
だが、歯は細かい。
無数の小さな歯が、内側へ向かって噛み合っている。
水はない。
その代わり、空間全体に黒い水面のような影が張っていた。
床。
壁。
天井。
すべてが薄い影で覆われている。
文字が浮かんでは沈む。
名前が浮かんでは消える。
読めない。
読んではいけない。
それでも、目が引かれる。
アリアが一歩前に出た。
伊織は左手でアリアの肩を掴んだ。
「見るな」
「見ないと、止め方が分かりません」
「見たら呼ばれる」
「もう呼ばれています」
アリアの声は静かだった。
伊織は肩を掴む手に力を入れる。
「それでも見るな」
「必要なところだけです」
「信用できない」
「分かっています」
アリアは伊織の手を外さなかった。
そのまま、中央の歯車を見た。
手首の布に、赤が広がる。
リナが薬袋を握る。
ヴォルフが骨刃を抜く。
男の鎖が床を叩く。
がしゃん。
鉄の音。
歯車の回転が一瞬だけ鈍った。
「長くはもたねえ」
男が言う。
「最初からもつ気はないだろ」
伊織が返す。
「分かってきたな」
男は鎖を両手で持った。
その片手の指が薄い。
光が透けているように見える。
リナが気づいた。
「手が」
「見るな」
男が言った。
「見たところで、治らねえ」
リナは口を閉じた。
クロが低く唸る。
男は中央の歯車を見る。
「こいつは名を食って回る。水路の名を食えば流れが狂う。人の名を食えば、呼ばれて沈む。地名を食えば道が消える」
「止めるには」
伊織が聞いた。
「歯を欠く」
「壊すのか」
「全部は壊すな。全部壊すと、食われた名が戻る前に散る」
「面倒だな」
「だから戻れと言った」
「戻らなかった」
「見りゃ分かる」
男は笑った。
「欠くのは三か所だ。名を噛む歯、水を噛む歯、道を噛む歯」
アリアが中央を見たまま言う。
「見分けられるんですか」
「俺には無理だ」
「では」
「読める奴がいるだろ」
男の視線がアリアに向いた。
伊織は男を睨む。
「削れる」
「削れるな」
「分かって言ってるのか」
「分かってる。だから三つだけだ。全部読むな。三つだけ拾え」
アリアは息を吸った。
伊織は肩から手を離さない。
「できるか」
伊織が聞いた。
「やります」
「できるかを聞いている」
アリアは一瞬、男を見る。
それから伊織を見た。
「三つなら、まだ」
「まだ?」
「戻れます」
その言い方が嫌だった。
できる、ではない。
戻れる。
それは、自分がどこまで行くかを分かっている言い方だった。
伊織は歯を噛む。
止めるか。
止めれば進めない。
進めば削れる。
正しい答えがない。
いつものことだった。
「俺は何をする」
伊織は男に聞いた。
「鉄の音を出せ」
「右手は動かない」
「なら、別の鉄で鳴らせ」
「何を」
男は自分の鎖を投げた。
伊織の足元へ。
鎖の端が床を打つ。
重い音。
「持て」
「敵の武器をか」
「今は貸す」
「信用できない」
「使えりゃいい」
伊織は左手で鎖を掴んだ。
重い。
冷たい。
ゼクトの鎖。
いや、名前は呼ばない。
鎖は右手の鋼鉄とは違う。
自分のものではない。
だが、鉄の音は出る。
伊織は鎖を軽く床へ打った。
がしゃん。
音が響く。
水音が遠のく。
使える。
左手で。
男が笑った。
「似合わねえな」
「うるさい」
「鋼鉄が鎖持ってやがる」
「黙れ」
リナが少しだけ笑いそうになって、すぐ口を押さえた。
クロは男を見ている。
敵かどうかをまだ決めていない顔だった。
それでいい。
◆
作業はすぐに始まった。
アリアが見る。
中央の黒い歯車。
無数の歯。
その中から、三つだけを拾う。
名を噛む歯。
水を噛む歯。
道を噛む歯。
アリアの目が揺れる。
手首の布が赤くなる。
伊織は鎖を鳴らす。
がしゃん。
アリアの目が戻る。
「左上。外から三つ目」
男の鎖が走る。
鋭い音。
黒い歯車の一部を削る。
火花は出ない。
代わりに、黒い水のようなものが散った。
歯車が悲鳴のような音を立てる。
声が噴き出した。
リナ。
アリア。
ヴォルフ。
伊織。
南条。
クロ。
ガルド。
ニコ。
トト。
エルナ。
名前が滝のように落ちる。
伊織は鎖を床へ叩きつけた。
がしゃん。
声が割れる。
だが、完全には止まらない。
リナが耳を塞ぎかける。
クロがリナの腕に頭を押しつけた。
リナは手を戻す。
逃げない。
いい。
伊織はもう一度鎖を鳴らした。
がしゃん。
男が笑う。
「雑だな」
「うるさい」
「だが、効いてる」
アリアが二つ目を見る。
息が浅い。
「右下。内側の欠けた歯」
「見えるか」
男が言う。
「見えます」
「なら、目を離すな」
伊織は言った。
「目を離せ」
男と伊織の声が重なった。
アリアが一瞬だけ止まる。
「どちらですか」
「歯の位置だけ見ろ」
伊織が言う。
「中は見るな」
男が舌打ちした。
「細けえな」
「削れると困る」
男は鎖を放つ。
二つ目の歯が欠ける。
黒い影が水路の形に流れた。
床が揺れる。
遠くで水が動く音がした。
今度は本物の水音だった。
アリアが膝をつきかける。
リナが支える。
「まだです」
アリアが言う。
「言う前に支えます」
リナが返す。
アリアは一度だけリナを見た。
それから、頷いた。
伊織は三つ目を待つ。
アリアの息が乱れている。
手首の布はもう白くない。
だが、ここで止めれば、今までが全部無駄になる。
男も分かっている。
伊織も。
アリアも。
「三つ目」
伊織が言う。
アリアは歯車を見る。
長い。
長すぎる。
伊織は鎖を鳴らす。
がしゃん。
アリアの目が戻らない。
もう一度。
がしゃん。
アリアの唇が動く。
「奥……」
「どこだ」
「奥の、名前がない歯」
男の顔が変わった。
「そこか」
「知っているのか」
伊織が聞く。
「俺が削った名だ」
男は笑わなかった。
歯車の奥。
黒い影の中に、歯が一つある。
歯というより、穴だった。
そこだけ名前がない。
だから見えにくい。
だから残った。
男が鎖を構える。
だが、鎖の輪郭が薄い。
腕も薄い。
「届くのか」
伊織が聞いた。
「届かせる」
「信用できない」
「お前に言われたくねえ」
男は鎖を投げた。
鎖は歯車へ向かう。
途中で、水のような影に絡まれる。
止まる。
男が舌打ちする。
名を削られている。
力が足りない。
伊織は左手の鎖を見た。
自分が持っている鎖。
男の武器の端。
それは、まだ床に伸びている。
伊織はそれを引いた。
「おい」
男が言う。
「引くぞ」
「勝手にしろ」
伊織は左手で鎖を引く。
右手は使えない。
左だけ。
肩に重さが来る。
ガルドの縄とは違う。
重い。
だが、線はつながっている。
リナがすぐに縄を掴んだ。
「手伝います」
クロが鎖の近くへ体を寄せる。
ヴォルフが骨刃を鎖の下へ差し込み、支点を作る。
アリアが歯車の位置を見る。
「少し上。もう少し右です」
「指示しろ」
伊織が言う。
「はい」
男が鎖を操る。
伊織が引く。
リナが支える。
ヴォルフが支点を作る。
クロが踏ん張る。
アリアが読む。
全員の線が、鎖に集まる。
伊織は歯を噛んだ。
右手は動かない。
だが、今は左手がある。
鎖が動いた。
少し。
また少し。
黒い影を裂く。
男が低く吠えた。
鎖が最後の歯に届く。
がきん。
音がした。
水の音ではない。
鉄と、何か古いものが欠ける音。
黒い歯車の奥で、三つ目の歯が割れた。
◆
音が消えた。
一瞬だけ。
すべての音が消えた。
水音。
歯車。
名前。
呼び声。
鎖。
何もない。
その沈黙の中で、伊織は自分の呼吸だけを聞いた。
次に、水の音が戻った。
普通の水音だった。
だが、まだ信用しない。
歯車は止まっていない。
ゆっくりになっただけだ。
黒い影も消えていない。
薄くなっただけだ。
アリアが膝をついた。
今度は完全に。
リナが支える。
アリアは息をしている。
意識もある。
だが、手首の布は赤い。
伊織は近づこうとして、右手が動かないことを思い出す。
左手で鎖を離す。
鎖は床へ落ちた。
男が壁にもたれた。
輪郭がさらに薄い。
だが、声はまだある。
「止まったか」
伊織が聞く。
「半分だ」
「半分?」
「主制御は鈍った。だが核はまだ生きてる」
「面倒だな」
「だから戻れって言ったろ」
「聞いた」
「戻らなかった」
「そうだな」
男は笑った。
疲れた笑いだった。
伊織は男を見る。
「借りは取れたか」
「まだだ」
「欲張りだな」
「お前らが死なねえと、取り切れねえ」
「どういう理屈だ」
「借りってのは、生きてる奴から取るもんだ」
伊織は黙った。
男は壁に背を預けたまま、主制御室の奥を見る。
「核はこの先だ。今の三つで、道は開く。だが、次は名じゃなくて、体を持っていかれる」
「体?」
リナが聞いた。
「名を削れなくなったら、次は重さを奪う。足が浮く。手が届かねえ。声だけ残る」
男は自分の胸を指した。
「俺みたいにな」
アリアが顔を上げる。
「戻せますか」
男はアリアを見る。
「何を」
「あなたの名を」
男はしばらく黙った。
それから、笑った。
「余計なこと考えてんじゃねえよ」
「答えてください」
「戻らねえ」
「本当に?」
「少なくとも、ここではな」
アリアは黙った。
伊織はアリアを見る。
その顔は、悔しそうだった。
助けられた。
だが、助け返せない。
それが気に入らない顔だった。
よく分かる顔だった。
伊織は男に言った。
「奥へ行くのか」
「行く」
「歩けるのか」
「鎖がある」
「答えになっていない」
「動けるって意味だ」
男は鎖を手繰る。
薄い腕。
まだ動く鎖。
削られた名。
残った声。
伊織は名前を呼ばなかった。
呼べない場所だからではない。
今はまだ、呼ぶ時ではない。
男が伊織を見る。
「何だよ」
「いや」
「言いたいことがある顔だな」
「顔の話はもういい」
「読まれやすいんだよ、鋼鉄」
男は立ち上がった。
ふらついた。
だが、立った。
アリアもリナの支えで立つ。
伊織は右手を開こうとした。
指は動かない。
だが、わずかに震えた。
戻り始めている。
まだ使えない。
だが、完全には死んでいない。
ヴォルフが奥を見た。
「来るぞ」
黒い歯車の奥で、何かが鳴った。
かちり。
今度は小さかった。
だが、低い。
深い。
主制御室のさらに奥で、別の歯車が目を覚ました音だった。
男が鎖を引いた。
「次が本体だ」
「今のは?」
「玄関だ」
リナが小さく言った。
「また玄関……」
クロが鼻を鳴らした。
同意だった。
伊織は左手で縄を握る。
右手はまだ使えない。
木片は割れている。
アリアの手首は限界に近い。
男は名を削られている。
それでも、進む。
戻れという声は、もうなかった。
代わりに、男が言った。
「行くぞ」
名前でも、命令でもない。
ただ、前へ向く声だった。




