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第47話 名を削られる前に

 割れた木片は、もう鳴らせなかった。


 鳴らせば、音は出るかもしれない。


 だが、次に叩けば完全に割れる。


 伊織はそれを内ポケットに戻した。


 もう合図ではない。


 返すものだった。


 地下水路の奥で、歯車が鳴っている。


 かちり。


 かちり。


 ひとつではない。


 複数の歯が噛み合い、ずれて、また噛み合う音。


 水音はない。


 名を呼ぶ声もない。


 その沈黙が、かえって急げと言っていた。


 リナとクロが先を進む。


 走らない。


 だが、遅くもない。


 クロは鼻を使いすぎず、足元を見る。


 リナは耳を伏せ、壁の反響を拾わないようにしている。


 ヴォルフは骨刃で床を探りながら進む。


 速くはない。


 だが、止まらない。


 アリアは壁の削られた文字を見ている。


 必要なところだけ。


 読みすぎないように。


 それでも、読むたびに手首の布が少しずつ濃くなる。


 伊織は最後尾にいた。


 右手は空けている。


 黒鋼警棒は消してある。


 だが、感触はまだ残っていた。


 痛みも。


 痛い。


 だが、まだ自分の手だ。


 悪くない。


「主制御室まで、どれくらいだ」


 伊織が聞いた。


 アリアは壁の文字を見た。


 すぐに目を逸らす。


「近いです」


「距離か」


「構造上は」


「便利な言い方だな」


「ここでは距離が信用できません」


 アリアは息を整える。


「名の流れが集まる場所が近い。そういう意味です」


 ヴォルフが前で言った。


「匂いは変わらん」


 リナが頷く。


「匂いというより、何もないです」


 クロも鼻を鳴らさない。


 無臭。


 無音。


 そして、遠くの歯車。


 嫌な道だった。


「急げ」


 また声がした。


 近い。


 だが、壁全体から響いている。


 誰かの声が、石の中を擦りながら届いているようだった。


「名を削られる前に」


 伊織は立ち止まらなかった。


 返事もしない。


 名前も呼ばない。


 ただ、声を荷の中に入れる。


 リナが小さく言った。


「削られるって、誰の名ですか」


 誰も答えなかった。


 答えられなかった。


 伊織は壁の削り跡を見る。


 鎖でえぐったような跡。


 乱暴だが、狙いは正確。


 危ない文字だけ削られている。


 助けるためではない。


 通るため。


 その結果として、こちらも助かっている。


 らしいやり方だ。


 伊織は名前を飲み込んだ。


 ここでは呼ばない。


 まだ。



 最初の分岐は、三つに分かれていた。


 左。


 正面。


 右。


 どの通路にも同じ文字が刻まれている。


 伊織には読めない。


 読もうとすると、三つの意味が同時に入ってきた。


 進め。


 戻れ。


 沈め。


 いや、違う。


 読んではいけない。


 伊織は目を逸らした。


「読むな」


 自分に言ったのか、誰かに言ったのか分からない。


 アリアは壁の一部を見ていた。


 削られた文字の隙間。


 残された文字だけを拾っている。


「正面はだめです」


「理由は」


「名が抜かれています」


 リナが眉を寄せる。


「名が抜かれる?」


「場所の名前だけが削られている。通れば、こちらの呼び名を代わりに使われるかもしれません」


「じゃあ、右か左」


 アリアは少し目を伏せる。


「左には水路名が残っています。右には人名が残っています」


 空気が止まった。


 人名。


 その言葉だけで、この場所では十分に危なかった。


 ヴォルフが骨刃を左の床へ刺す。


 硬い。


 右へ刺す。


 刃先が少し沈む。


「左だ」


「水路名が残っているんだろ」


 伊織が言う。


「人名よりましだ」


 その判断は早かった。


 アリアも頷く。


「左です」


 リナがクロを見る。


 クロは左を見ている。


 右は見ない。


 正面も見ない。


「左でいいと思います」


「思います、でいい」


 伊織は言った。


「確信は罠になる」


 リナは頷いた。


 左へ進む。


 通路の入口で、水音がした。


 今度は小川の音だった。


 明るい音。


 外を思わせる音。


 リナの耳がぴくりと動く。


 クロが鼻に皺を寄せる。


 伊織は右手を開いた。


 出すか。


 まだ早い。


 代わりに、警棒の記憶だけを右手に置く。


 痛みがある。


 それでいい。


 アリアが低く言う。


「ここの水音は、外の音に似せています」


「外?」


「森の外。街道沿いの小川。安全な場所の音です」


「嫌な真似だ」


「はい」


 水音の奥で、誰かが笑ったような気がした。


 リナではない。


 アリアでもない。


 エルナの声に似ていた。


 食堂の音にも似ていた。


 伊織は足を止めなかった。


 足を止めたら、戻る場所まで使われる。


 それだけは許せなかった。



 左の通路は、途中から水路に変わった。


 床の中央に細い溝があり、そこに黒い影が流れている。


 水ではない。


 だが、流れはある。


 流れの横に、石の足場が飛び石のように並ぶ。


 一つずつ名が刻まれていた。


 アリアが前に出ようとする。


 伊織は縄を伸ばした。


「前に出すぎるな」


「読まないと進めません」


「読める距離で止まれ」


「はい」


 信用できない返事だった。


 だが、今はそれで進むしかない。


 アリアは最初の石を見る。


「セリム分水」


 地名札とは違う名だった。


 伊織には遅れて届く。


 半拍。


 短い。


 次の石。


「イルヴァ下流」


 一拍。


 長い。


 アリアの指が震える。


 リナが見ている。


 声をかけない。


 昨日より分かってきた顔だった。


 ヴォルフが骨刃で最初の石を突く。


 硬い。


 次。


 硬い。


 三つ目。


 音がない。


「三つ目は踏むな」


「またか」


 伊織が言う。


「そういう場所だ」


 クロが二つ目の石まで進む。


 リナが続く。


 アリアは石の名を読み、伊織は後ろから縄を張る。


 木片は使えない。


 音の代わりは、警棒しかない。


 だが、できるだけ出さない。


 右手はまだ長くもたない。


 四つ目の石に差しかかった時、黒い影の流れが変わった。


 水路の影が、リナの足元へ寄る。


 リナは止まった。


 クロも止まる。


「止まれたな」


 伊織が言う。


「はい」


 リナの声は震えていた。


 だが、足は動いていない。


 いい。


 伊織は右手を開く。


 警棒を出すか。


 その前に、ヴォルフが骨刃を水路の縁へ打ち込んだ。


 金属ではない音がした。


 鈍い。


 骨が石に食い込む音。


 黒い影が一瞬だけ引いた。


「今だ」


 ヴォルフが言う。


 リナとクロが進む。


 伊織は縄を張る。


 アリアが後ろで息を詰める。


 五つ目の石。


 六つ目。


 七つ目で、アリアの声がかすれた。


「シルヴェ……」


 その名が出かけた瞬間、壁の文字が反応した。


 シルヴェイン。


 父の領。


 アリアの家名。


 この場所が、その名を食おうとした。


 伊織は警棒を出した。


 迷わなかった。


 右手に痛み。


 黒鋼警棒。


 短く。


 輪郭は揺れている。


 だが、出る。


 伊織は壁を叩いた。


 がん。


 鉄の音が響いた。


 アリアの声が戻る。


 壁の文字がにじみかけて、止まった。


 伊織の右手に痛みが走る。


 指が痺れる。


 だが、まだ動く。


「家名は読むな」


 伊織が言った。


 アリアは息を整えた。


「……はい」


「必要でも読むな」


「はい」


 今度は、早かった。


 リナが七つ目の石を避ける。


 クロも避ける。


 ヴォルフが別の石を探す。


 骨刃で突く。


 硬い。


「こっちだ」


 全員がそこへ移る。


 水路の影は、しばらくシルヴェインの文字が出かけた壁を舐めていた。


 伊織はそれを見た。


 アリアも見ていた。


 何も言わなかった。



 飛び石を抜けた先に、古い扉があった。


 扉といっても板ではない。


 石壁の一部が四角く区切られているだけだった。


 中央に溝が三つ。


 地名札を差す形に似ている。


 アリアはそれを見る。


「ここで札を使います」


「何枚」


「二枚」


「本当か」


「はい」


「三枚と言い直すなよ」


 アリアは少しだけ息を吐いた。


「言い直しません」


 地名札は残り十枚。


 無傷は八枚。


 黒ずみ一枚。


 文字の薄れた一枚。


 伊織は数え直す。


 ここで二枚使う。


 使って戻せれば、減らない。


 だが、戻せる保証はない。


 アリアが袋から札を選ぶ。


 セリム水橋。


 イルヴァ旧道。


 手首の布に赤が滲んでいる。


 リナが薬袋を握っている。


 今は使えない。


 扉の前で止まれば、追いつかれる。


 何に。


 分からない。


 だが、歯車の音は近い。


 アリアは一枚目を差した。


「セリム水橋」


 扉の溝が淡く黒くなる。


 水ではない。


 影だ。


 二枚目。


「イルヴァ旧道」


 扉の中央に線が入る。


 開く。


 はずだった。


 開かない。


 アリアが眉を寄せる。


「足りない」


「言い直さないと言ったな」


「二枚で足りるはずでした」


「はず、か」


 ヴォルフが扉の縁を見た。


「削られている」


 そこには鎖の跡があった。


 文字の一部が削られている。


 危ない文字を削ったのか。


 それとも、必要な文字まで削ったのか。


 分からない。


 声がした。


「そこは、削りすぎた」


 近い。


 伊織は振り返る。


 誰もいない。


 だが、声ははっきりしていた。


 水路に擦られてはいる。


 それでも、形がある。


「悪いな」


 声はそう言った。


 リナが目を見開く。


 ヴォルフが骨刃を構える。


 アリアが息を呑む。


 伊織は名前を呼ばなかった。


「なら、どうする」


 伊織が言った。


 声は少し途切れた。


 かちり。


 歯車の音が混じる。


「鉄の音で、押し込め」


「簡単に言うな」


「お前なら、できる」


 その言い方。


 伊織は右手を握る。


 痛む。


 だが、まだ出せる。


 ここで使えば、次が厳しい。


 分かっている。


 だが、ここを越えなければ次はない。


 伊織はアリアを見る。


「札は抜くな」


「はい」


「読まなくていい」


「でも」


「鉄で押す」


 アリアは一瞬だけ迷った。


 それから頷いた。


「お願いします」


 その言い方が、少し悔しそうだった。


 伊織は右手を開いた。


 黒鋼警棒。


 形が出る。


 前より遅い。


 輪郭も薄い。


 だが、出る。


 伊織は警棒を扉の中央へ当てた。


 押す。


 扉は動かない。


 右手が軋む。


 痛みが肘まで上がる。


 息を止める。


 警棒の輪郭が揺れる。


 リナが縄を持った。


「引きます」


「押すんだ」


「後ろから支えます」


 クロが伊織の足元に体を寄せた。


 ヴォルフが骨刃を扉の隙間へ差し込む。


 アリアが札の位置を指で押さえる。


 手首を使っている。


 伊織は見た。


 だが、今は止めない。


 全員の力が一点にかかる。


 鉄。


 骨刃。


 縄。


 札。


 手。


 クロの体。


 ゆっくり。


 ほんの少し。


 扉が沈んだ。


 開くのではない。


 押し込まれる。


 石の向こうへ。


 がん。


 鉄の音が鳴った。


 扉が動いた。


 伊織の右手に鋭い痛みが走る。


 警棒がぶれた。


 消えかける。


 まだだ。


 伊織は歯を噛んだ。


「もう一つ」


 ヴォルフが言う。


「押せ」


 伊織は警棒をもう一度打ち込んだ。


 がん。


 扉が沈む。


 人ひとり通れる隙間ができた。


 警棒が消えた。


 右手が空になる。


 痛みだけが残った。


 指が動かない。


 伊織は右手を握ろうとした。


 握れなかった。


 アリアが見た。


 伊織は先に言った。


「進め」


「右手」


「進め」


 アリアは唇を噛む。


 リナが先に通る。


 クロが続く。


 ヴォルフが扉を押さえる。


 アリアが札を抜く。


 一枚。


 二枚。


 抜けた。


 だが、イルヴァ旧道の札の端が欠けていた。


 アリアはそれを見て、何か言いかけた。


「後だ」


 伊織が言う。


 アリアは頷く。


 全員が隙間を抜けた。


 最後に伊織。


 右手は動かない。


 左手で壁を押さえて、抜ける。


 背後で扉が沈み直した。


 音はしなかった。



 扉の先は、主制御室ではなかった。


 細い回廊だった。


 円形に曲がっている。


 壁の向こうで、大きな何かが回っている音がする。


 歯車。


 水車。


 鎖。


 全部が混じった音。


 近い。


 声も近い。


 だが、まだ姿は見えない。


 伊織は右手を見る。


 指は動かない。


 完全にではない。


 だが、今は握れない。


 警棒は出せない。


 アイギスなど論外。


 銃も無理だ。


 右手は使えない。


 またか。


 だが、今度は冷えではない。


 痛みの後の沈黙だった。


 戻ってくる可能性はある。


 それだけが違う。


 アリアが近づく。


「見せてください」


「後で」


「今です」


「進む方が先だ」


「手が動かなければ、次で死にます」


 強い声だった。


 伊織は黙った。


 リナも止まる。


 ヴォルフは前を見たまま言う。


「三呼吸だけだ」


 伊織は右手を差し出した。


 アリアは触れない。


 触れれば負担が増えるのかもしれない。


 目で見る。


 伊織の指先。


 手首。


 甲。


 アリアの顔が硬くなる。


「魔力の流れが詰まっています」


「治るか」


「今は、無理に流さない方がいい」


「使うな、か」


「はい」


「使わないと死ぬ時は」


 アリアは一瞬だけ黙った。


「その時だけです」


「便利な許可だな」


「嫌な許可です」


 リナが小さく言った。


「左手は?」


「動く」


 伊織は左手を開く。


 縄。


 木片。


 荷。


 まだ使えるものはある。


 右手が止まっただけだ。


 全部が止まったわけではない。


 アリアは自分の手首を押さえた。


 伊織はそれを見た。


「お前も見せろ」


「進む方が先です」


「今、同じことを言ったな」


「はい」


 伊織は少しだけ息を吐いた。


 笑いではない。


 だが、詰まっていたものが少し動いた。


 ヴォルフが言う。


「終わりだ。来るぞ」


「何が」


 リナが聞く。


 答えは、音で来た。


 かちり。


 かちり。


 かちり。


 回廊の奥で、歯車が一斉に噛み合う。


 壁の文字が光った。


 いや、光ではない。


 白く抜けた。


 削られたはずの文字が戻っていく。


 アリアが息を呑む。


「削られた文字が、再生しています」


「まずいのか」


「読ませる気です」


 壁いっぱいに文字が戻る。


 名。


 水。


 門。


 捧げる。


 呼ぶ。


 戻す。


 削る。


 読むな。


 読め。


 矛盾した命令が一斉に現れる。


 アリアの目が引かれる。


 伊織は木片を出そうとした。


 割れている。


 鳴らせない。


 右手は動かない。


 警棒も出ない。


 声がした。


「伏せろ」


 今までで一番近い。


 伊織は考えなかった。


「伏せろ!」


 自分でも叫んだ。


 全員が伏せる。


 次の瞬間、回廊の壁から鎖が走った。


 黒い鎖ではない。


 鉄の鎖。


 実体のある鎖。


 それが壁の文字を横薙ぎに削った。


 火花が散る。


 文字が砕ける。


 読ませるために戻った文字が、再び削り取られていく。


 鎖は一度で止まらない。


 二度。


 三度。


 乱暴に。


 正確に。


 危ない文字だけを削る。


 伊織は伏せたまま見た。


 鎖の先。


 回廊の奥。


 暗がりに、誰かがいる。


 座っているのか。


 壁にもたれているのか。


 分からない。


 だが、鎖はそこから伸びていた。


 声がした。


「遅えよ」


 掠れている。


 削られている。


 それでも、聞き覚えがあった。


 伊織は名前を呼ばなかった。


 まだ、この場所では呼ばない。


 男は暗がりの奥で、低く笑った。


「言っただろ。戻れってな」


 鎖が、床を叩いた。


 音がした。


 今度は、水の音ではなかった。


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