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第46話 名を捧げるな

 地名札は、残り十枚だった。


 ただし、無傷の札は九枚。


 端の黒くなった一枚は、まだ読める。


 読めるが、アリアはそれを袋の一番奥へ戻した。


 最後に使うつもりなのだろう。


 伊織は何も言わなかった。


 言えば、また余計になる。


 円形の水場には、水がなかった。


 水はない。


 だが、黒い影だけが満ちていた。


 石の縁に沿って、ゆっくりと広がっている。


 水面のように揺れ、泥のように沈み、影のように音を持たない。


 その中央で、何かが開きかけていた。


 扉ではない。


 水門でもない。


 石の継ぎ目がずれているわけでもない。


 ただ、そこに「奥」が生まれていく。


 見ていると、距離の感覚が狂った。


 近い。


 遠い。


 足元にあるようで、地下深くにあるようでもある。


 リナがクロの革紐を握りしめている。


 クロは唸らない。


 唸るより先に、喉の奥で音を殺していた。


 ヴォルフは骨刃を抜いたまま、水場の縁を見ている。


 アリアは石碑の前に立っていた。


 手首の布は赤い。


 朝より濃い。


 それを隠すように、袖が下ろされている。


 隠せていない。


 伊織は右手を開いた。


 警棒を出した痛みが残っている。


 冷えではない。


 痛み。


 痛い。


 だが、まだ自分の手だ。


 悪くない。


 声はもう聞こえない。


 戻れ。


 名を捧げるな。


 それだけを置いて、消えた。


 水に擦られていない声だった。


 形があった。


 伊織はその声を、まだゼクトだとは言わなかった。


 言えば、そこで決まってしまう。


 決めるには、まだ足りない。


「誰かが先に捧げている」


 伊織は言った。


 アリアが頷く。


「はい」


「何を」


「名です」


「地名か」


「その可能性が高いです」


 アリアは石碑を見る。


「ただし、古い形式では、人名も含みます」


 リナが小さく息を呑んだ。


 さっきも聞いた言葉だ。


 だが、内門が開き始めている今は、重さが違う。


「人の名を捧げたら、どうなるんですか」


 リナが聞いた。


 アリアはすぐには答えなかった。


 石碑の文字をもう一度見る。


 読むたびに削れるのが分かる。


 だが、読まなければ分からない。


 嫌な仕組みだ。


「その人が、その場所から認識されにくくなります」


「認識?」


「呼び名、記録、足跡、所属。そういうものが薄れる。完全に捧げれば、そこにいたことが残りません」


 リナの手が止まった。


 クロの耳が伏せる。


 ヴォルフが低く言う。


「死ぬのとは違うのか」


「違います」


 アリアは言った。


「でも、死ぬより軽いとは言えません」


 伊織は水場を見る。


 名を捧げる。


 記録から薄れる。


 足跡が消える。


 呼んでも届かない。


 嫌なやり方だ。


 殺すより丁寧に、人を削る。


「捧げた奴は、ここにいるのか」


「分かりません」


「声は」


「声だけが残ることは、あり得ます」


 アリアの返事に、伊織は黙った。


 戻れ。


 名を捧げるな。


 声だけ。


 姿はない。


 ゼクトか。


 やはり、そう思った。


 だが、まだ言わない。


 ヴォルフが水場の縁に骨刃を刺した。


 刺さらなかった。


 刃先が、石の表面で止まる。


「硬い」


「石か」


「いや」


 ヴォルフは刃先を見る。


「硬いのに、触っている気がしない」


 アリアが言う。


「名で固定された境界です。物として硬いのではなく、通れないという意味が固定されています」


「壊せるか」


 伊織が聞いた。


「壊すなら、名を崩す必要があります」


「つまり読むのか」


「読むか、別の名で上書きするか」


「上書き」


 伊織は地名札を見る。


 残り十枚。


 無傷は九枚。


 ここで使えば、また減る。


 アリアの手首も減る。


 それでも進むなら、使うしかない。


 アリアが札を取り出そうとした。


 伊織は止めた。


「まだだ」


「でも」


「先に見る」


「何を」


「誰が捧げたか」


 アリアの手が止まる。


「分かるんですか」


「分からない」


 伊織は水場の縁を見る。


「だが、捧げた名があるなら、痕がある」


 ヴォルフが伊織を見た。


「足跡か」


「名前の足跡だ」


「妙なことを言うようになったな」


「この場所のせいだ」


 伊織は水場の縁に近づいた。


 近づきすぎない。


 右手は空けてある。


 左手にはトトの木片。


 水はない。


 だが、影が揺れる。


 その影の中に、細い線があった。


 文字ではない。


 傷でもない。


 鎖の跡のように見えた。


 伊織は目を細める。


 一本。


 二本。


 絡んで、ほどけて、また絡む。


 鎖。


 ゼクト。


 声には出さなかった。


 リナが後ろから言う。


「東さん?」


「鎖の跡がある」


 ヴォルフが近づく。


 片目を細める。


「あるな」


 アリアも見る。


「文字ではありません。名の残りかすです」


「残りかす」


「完全に捧げたのではなく、一部だけを削ったのかもしれません」


 伊織は水場を見た。


 一部だけ。


 だから声は残った。


 姿はない。


 名は薄い。


 だが、警告はできる。


 ゼクトだ。


 そう思っても、まだ言わない。


 言えば、この場にゼクトの名を置くことになる。


 この場所で名を呼ぶのは危ない。


 それだけは分かった。


「名前を呼ぶな」


 伊織が言った。


 リナが口を閉じる。


 アリアも頷く。


 ヴォルフは骨刃をしまわない。


「誰の名前もか」


「ああ」


「自分たちの名も?」


「できるだけ呼ぶな」


 リナがクロを見る。


 クロも自分が呼ばれないと察したのか、少し不満そうな顔をした。


「呼べないと不便ですね」


「不便な方が安全なこともある」


 ヴォルフが言った。


「名前は便利すぎる」


 その言葉は、妙に重かった。


 伊織はヴォルフを見た。


 ヴォルフは水場を見ている。


 顔は読めない。


 昔、東部で三日迷った。


 その話が、少し違う色を持った。



 内門は、開くというより、沈んだ。


 円形の水場の中央で、黒い影が渦を巻く。


 その渦が下へ落ち、石の底に穴を作る。


 穴の中に、階段が見えた。


 石段。


 濡れていない。


 だが、水の匂いがする。


 アリアが石碑の文字を読む。


 読む前に、伊織が木片を鳴らした。


 かつ。


 アリアの目が一度戻る。


 それから読む。


「名を捧げた者の道。名を持つ者は、呼ばれる前に通れ」


「呼ばれる前?」


 リナが言う。


 その時、遠くで声がした。


 女の声。


 リナ、と呼んだ。


 リナの肩が跳ねる。


 クロがすぐに唸った。


 次に、別の声。


 アリア、と呼んだ。


 アリアの手が止まる。


 次に、低い声。


 ヴォルフ、と呼んだ。


 ヴォルフの顔が動かなかった。


 だが、骨刃を握る指が強くなった。


 最後に。


 伊織。


 聞こえた。


 南条の声だった。


 伊織の足が止まった。


 戻れ。


 いや。


 違う。


 今のは、名前だ。


 呼ばれた。


 頭では分かる。


 だが、身体が先に反応していた。


 伊織は歯を噛む。


 右手が冷えた。


 痛みではない。


 冷え。


 嫌な冷えだった。


 アリアが伊織を見た。


「東さん」


 その瞬間、伊織は手を上げた。


「名前を呼ぶな」


 アリアが息を止める。


 今、呼ばれた。


 アリアの声で。


 伊織の名前が、この場所に置かれた。


 遅かった。


 アリアの顔から血の気が引く。


「すみません」


「謝るな」


 伊織は木片を鳴らした。


 かつ。


 自分のために。


 もう一度。


 かつ。


 南条の声が遠のく。


 完全には消えない。


 伊織。


 また行こうな。


 違う。


 その声は、南条ではない。


 南条の言葉を使った水だ。


 伊織は息を吐く。


「呼ばれても返事をするな」


 声が少し低くなった。


「名前を呼ばれても、振り返るな」


 リナが頷く。


 アリアも頷く。


 ヴォルフは言った。


「なら、呼び方を変える」


「どうする」


「おい、でいい」


 リナが小さく言う。


「全員おいだと、分からなくなりませんか」


「分からん方がいい時もある」


 伊織は頷いた。


「今はそれでいい」


 階段へ向かう。


 先頭はヴォルフ。


 次にリナとクロ。


 アリア。


 伊織。


 この順番にした。


 アリアを最後にしない。


 読ませすぎないためだ。


 伊織は最後尾で、全員を見る。


 右手は空けてある。


 左手には木片。


 階段へ足をかけた。


 その瞬間、また声がした。


 リナ。


 アリア。


 ヴォルフ。


 伊織。


 名前が、水の奥から上がってくる。


 返事はしない。


 振り返らない。


 それだけのことが、ひどく難しい。


 リナの耳が震えている。


 クロは歯を食いしばるように口を閉じている。


 アリアは自分の袖を握っている。


 ヴォルフは無言で降りる。


 一段。


 二段。


 三段目で、声が変わった。


 リナの声で、クロを呼ぶ声。


 アリアの声で、伊織を呼ぶ声。


 伊織の声で、アリアを呼ぶ声。


 真似ている。


 組み合わせを変えている。


 呼ばれた名に反応するか。


 呼ぶ声に反応するか。


 測っている。


 伊織は木片を鳴らした。


 かつ。


 声が乱れる。


 だが、消えない。


 また鳴らす。


 かつ。


 木片の角が割れた。


 伊織は手の中を見る。


 まずい。


 使いすぎた。


 トトの木片は、もう長くもたない。


 階段の下で、水音が強くなる。


 ヴォルフが言う。


「急ぐぞ」


「走るな」


 伊織が返す。


「分かっている」


 ヴォルフは急がず、速く降りた。


 変な歩き方だった。


 だが、足を踏み外さない。


 リナも真似る。


 クロも合わせる。


 アリアが一段遅れた。


 伊織は縄を伸ばす。


 アリアが掴む。


 伊織は引かない。


 ただ、線を張る。


 名前が呼ばれる。


 水音が混じる。


 歯車の音が混じる。


 その中で、木片の音だけが乾いている。


 かつ。


 かつ。


 かつ。


 四度目で、木片に裂け目が入った。


 トトに返す。


 そう言った。


 壊すな。


 伊織は木片を握り直した。


 もう鳴らさない。


 次は別の音がいる。


 右手が痛む。


 警棒。


 出せる。


 だが、階段で出せば、また見られる。


 音を出すためだけに具現するのか。


 それも測られる。


 だが、今は必要だ。


 伊織は右手を開く。


 まだ出すな。


 あと一回、木片でいけるか。


 かん。


 水の奥から、木札の音がした。


 トトの音に似ていた。


 木片は鳴らしていない。


 相手が鳴らした。


 リナが足を止めかける。


 伊織は即座に右手を振った。


 黒鋼警棒。


 短く。


 形だけ。


 右手に痛みが走る。


 だが、出た。


 伊織は階段の壁を叩いた。


 がん。


 鉄の音。


 水音が割れた。


 名前の声が一瞬止まる。


「進め」


 伊織が言った。


 今度は全員が動いた。


 階段を降り切る。



 階段の下は、広い空間だった。


 丸い。


 石の壁。


 低い天井。


 中央に、巨大な水門がある。


 水門といっても、水はない。


 黒い影だけが、水の形をして門の向こうで揺れている。


 水門の前には、石の台座があった。


 台座には、いくつもの溝がある。


 札を置くための溝に見えた。


 アリアが息を整える。


「ここが、内門です」


「名を捧げる場所か」


「はい」


 伊織は周囲を見る。


 壁には無数の名前が刻まれている。


 地名。


 水路名。


 村名。


 古い家名。


 伊織には読めない。


 読もうとすると、頭の中で声が混ざる。


 だから見ない。


 アリアは見ていた。


 見なければならない。


「読むな」


 伊織が言う。


「必要なところだけ読みます」


「それで呼ばれる」


「呼ばれたら止めてください」


「簡単に言うな」


「簡単ではありません」


 アリアは台座を見る。


「でも、やります」


 リナが地名札の袋を見る。


「ここで札を置くんですか」


「おそらく」


 アリアは頷く。


「ただし、捧げるのではなく、通すために置く。置いて、読んで、戻す。名を渡さない」


「できるのか」


 ヴォルフが聞く。


「やります」


「できるかを聞いた」


「分かりません」


 ヴォルフは頷いた。


「正直でいい」


 伊織は水門を見る。


 黒い影。


 水ではない水。


 その奥で、何かが動いている。


 歯車。


 鎖。


 文字。


 全部が重なって見える。


 声がした。


「名を捧げるな」


 今度は近かった。


 壁のどこかから聞こえた。


 リナが息を飲む。


 アリアが顔を上げる。


 伊織は言った。


「誰だ」


 返事はない。


 声は続かない。


 伊織は舌打ちした。


「言うなら最後まで言え」


 ヴォルフが低く笑った。


「文句を言う相手か」


「相手がいるならな」


 アリアは壁を見る。


「声の位置がありません」


「どういう意味だ」


「この空間全体から響いている。でも、水路の声とは違います」


「削られているのか」


「おそらく」


 アリアは迷ってから続けた。


「誰かの声が、この場所を通るたびに、形を削られている」


 ゼクト。


 伊織はその名を飲み込んだ。


 呼ばない。


 ここでは呼ばない。


 だが、ほぼ確信に近かった。


 アリアが札を取り出す。


「残り十枚。無傷は九枚。黒ずみ一枚」


「何枚使う」


「三枚」


「多い」


「一枚では水門に届きません」


「二枚」


「三枚です」


 伊織はアリアを見る。


 アリアも見返す。


 譲らない顔だった。


「なら、一枚ずつ確認する」


「はい」


「呼ばれたら止める」


「はい」


「無理ならやめる」


「それは」


「返事は」


 アリアは口を閉じた。


 少し間を置く。


「……はい」


 信用できない返事だった。


 だが、今はそれで進むしかない。


 アリアは一枚目を台座の溝に置いた。


 セリム水橋。


 読む。


 声は遅れない。


 水門の影が揺れる。


 伊織は木片を鳴らそうとして、止めた。


 木片はもう割れかけている。


 代わりに、警棒を石床へ軽く当てる。


 がん。


 鉄の音。


 大きすぎない。


 だが、通る。


 アリアの目が戻る。


「次」


 二枚目。


 シルヴェイン領境。


 アリアの指が止まる。


 その名は重い。


 父の領。


 戻る場所。


 戻りたくない場所。


 そこから来た名。


 伊織は何も言わない。


 アリアは読む。


「シルヴェイン領境」


 水門の影が開く。


 少しだけ。


 同時に、アリアの手首の布に赤が広がった。


 リナが声を出しかける。


 伊織が首を横に振る。


 今言えば、崩れる。


 アリアは三枚目を取る。


 黒ずんだ札だった。


 リュード外縁石渠。


 伊織は手を伸ばした。


「それは最後に回したんじゃないのか」


「最後です」


「今が?」


「ここを越えるための最後です」


 アリアは言った。


 伊織は言葉を失う。


 便利な言い方だ。


 嫌な言い方だ。


「読めるのか」


「読めます」


「削れるぞ」


「分かっています」


「分かっていてもやる顔だ」


「はい」


 アリアは札を置いた。


 黒ずみが、台座の溝へ広がる。


 水門の奥で、歯車が鳴った。


 かちり。


 かちり。


 かちり。


 アリアが読む。


「リュード外縁石渠」


 声が、途中でかすれた。


 伊織は警棒を床へ打った。


 がん。


 アリアの目が戻る。


 だが、水門は開ききらない。


 影が途中で止まる。


 足りない。


 アリアがもう一度読もうとする。


 伊織は止めた。


「読むな」


「足りません」


「もう一枚使う」


「だめです」


「なぜ」


「ここで地名を足せば、名を捧げる形になります」


「ならどうする」


 アリアは息を吸う。


「名ではなく、音で通します」


「音?」


 アリアは伊織を見る。


「トトさんの木片を」


「割れかけている」


「分かっています」


「返すものだ」


「はい」


 アリアは頷いた。


「だから、捧げません。置くだけです。鳴らして、戻す」


 伊織は木片を見る。


 裂け目がある。


 角は潰れている。


 だが、まだ鳴る。


 一度なら。


 たぶん。


 いや。


 鳴らす。


 伊織は木片を台座に置いた。


 地名札の隣ではない。


 その手前。


 名ではなく、音として。


 右手の警棒を握る。


 痛い。


 まだ自分の手だ。


 悪くない。


 伊織は警棒の柄で、木片を軽く叩いた。


 かつ。


 乾いた音。


 小さい。


 だが、通った。


 水門の影が揺れる。


 もう一度。


 かつ。


 木片に裂け目が広がる。


 リナが息を呑む。


 クロが唸る。


 アリアが声を出す。


「もう一度だけ」


 伊織は歯を噛んだ。


 トトに返す。


 戻ったら鳴らして返す。


 壊したら返せない。


 だが、戻らなければ返せない。


 同じことだ。


 伊織は三度目を叩いた。


 かつ。


 木片が割れた。


 完全には割れない。


 二つに裂け、かろうじて繋がった。


 その音で、水門が開いた。


 黒い影が左右へ裂ける。


 水ではない水が、道を空ける。


 台座の札は残っている。


 木片も残っている。


 捧げてはいない。


 捨ててもいない。


 伊織はすぐに木片を回収した。


 手の中で、割れた感触がある。


「悪いな」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


 リナが小さく言う。


「返せます」


 伊織はリナを見る。


「割れてても、返せます」


 リナはクロの革紐を握っていた。


「トトなら、たぶん、音を聞きます」


 伊織は木片を見る。


 割れている。


 だが、まだ音は残っている。


「そうだな」


 伊織は木片をしまった。


 アリアは地名札を回収する。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 黒ずんだ札は、文字がさらに薄くなっていた。


 アリアの手が震えている。


 伊織は支えようとして、やめた。


 リナが先に支えた。


「行きましょう」


 リナが言った。


「今は、止まる方が怖いです」


 ヴォルフが頷く。


「正しい」


 水門の奥へ進む。



 水門の先には、広い地下水路があった。


 水は流れていない。


 代わりに、黒い影が床を薄く覆っている。


 足を置くと、影が波紋のように広がる。


 だが、沈まない。


 今のところは。


 天井は高い。


 壁には歯車の跡。


 古い鎖の溝。


 そして、途中で削り取られた文字。


 削った跡は新しい。


 アリアが壁を見た。


「誰かが文字を削っています」


「最近か」


「はい」


 伊織は削られた跡を見る。


 刃物。


 いや、鎖か。


 石に細く食い込む跡。


 削り方が荒い。


 ヴァルターの丁寧さではない。


 もっと乱暴だ。


 だが、狙いは正確。


 読ませないために削っている。


 リナが言う。


「これって」


「警告した奴かもしれない」


 伊織は答えた。


 名前は呼ばない。


 まだ呼ばない。


 ヴォルフが壁の削り跡を見る。


「助ける気がある削り方じゃないな」


「どういう意味だ」


「全部は削っていない。危ないところだけ潰している」


「なら助けている」


「いや」


 ヴォルフは首を振る。


「自分が通るために邪魔なところを削った。その跡を、俺たちが勝手に使っているだけだ」


 それは、らしい。


 誰であれ。


 伊織は壁を見る。


 削られた文字。


 残った文字。


 読める部分と、読めない部分。


 声が届いた理由も、ここにあるのかもしれない。


 名を一部捧げ、声だけが残り、危険な文字を削って進んだ。


 その人間が、まだこの奥にいる。


 あるいは、もういない。


 どちらでも、進むしかない。


 アリアが言う。


「この先に、主制御室があります」


「読んだのか」


「削られていない文字から推測しました」


「手首は」


「動きます」


「痛みは」


「あります」


「判断は」


「まだ、します」


 伊織はアリアを見る。


 アリアは逃げなかった。


 その答えなら、今は進める。


「分かった」


 水路の奥で、かちりと音がした。


 歯車。


 ひとつではない。


 複数。


 遠くで噛み合う音。


 それに混じって、声がした。


「急げ」


 今度は、戻れではなかった。


 伊織は足を止めた。


 アリアも止まる。


 リナがクロを押さえる。


 ヴォルフが骨刃を抜く。


 声は続いた。


「名を削られる前に」


 伊織は右手を握った。


 警棒はまだ出せる。


 だが、痛みが深くなっている。


 長くはもたない。


 木片は割れた。


 地名札は残り十枚。


 無傷は九枚ではない。


 黒ずみ一枚。


 文字の薄れた札が一枚。


 無傷は八枚。


 アリアの手首は赤い。


 それでも、進む。


 伊織は声の方を見なかった。


 名前を呼ばないまま、言った。


「急ぐぞ」


 ヴォルフが前に出る。


 リナとクロが続く。


 アリアが歩き出す。


 伊織は最後尾で、割れた木片を左手に握った。


 戻ったら、鳴らして返す。


 割れていても。


 音が変わっていても。


 返す。


 奥で、歯車がまた鳴った。


 かちり。


 今度は、近かった。


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