第45話 名を置く
朝の水音は、普通に聞こえた。
それが信用できなかった。
石に当たり、細く流れ、ところどころで跳ねる。
ただの水音。
そう聞こえるほど、嘘に近い。
伊織は火の跡を踏み消した。
灰は湿っている。
夜の間に雨は降っていない。
それでも湿っていた。
アリアは地名札を並べている。
十枚。
そのうち一枚は、端が黒くなっている。
セリム水橋。
イルヴァ旧道。
シルヴェイン領境。
リュード外縁石渠。
残りの名も、伊織には半拍遅れて届く。
だが、昨日より遅れ方が揃っていない。
すぐ読めるものもある。
一拍遅れるものもある。
読めたと思った瞬間、意味が裏返るものもある。
慣れは、信用ではない。
伊織はその言葉を、もう一度胸の中で転がした。
アリアの手首には、新しい布が巻かれていた。
リナが巻いたものだ。
白い布。
だが、昨日の赤を知っているせいで、白く見えない。
アリアはそれを隠すように袖を下ろした。
伊織は見た。
アリアも気づいた。
「見ないでください」
「見ているだけだ」
「言う前に分かります」
「何が」
「止めようとしている顔です」
「止める理由はある」
「進む理由もあります」
アリアは札を袋へ戻す。
一枚ずつ。
丁寧に。
急がない。
急げないだけかもしれない。
ヴォルフが骨刃を抜いた。
「内側に入るぞ」
リナがクロの革紐を握り直す。
クロは嫌そうな顔をしたが、抵抗はしなかった。
昨日の森で学んだ顔だった。
走らない。
嗅ぎすぎない。
音へ行かない。
それを、クロなりに守っている。
伊織は荷を背負った。
ガルドの縄。
トトの木片。
エルナの薬。
ニコの記録。
残る者の手が、今日も荷に入っている。
重い。
だが、その重さは捨てない。
「行くぞ」
伊織が言った。
誰も返事をしなかった。
ただ、それぞれが立った。
◆
リュードの内側は、門ではなく、段差から始まった。
森の奥。
苔に覆われた石段が、地面へ沈むように続いている。
階段なのか。
水路なのか。
通路なのか。
見ただけでは分からない。
石の中央に、浅い溝がある。
そこに水はない。
だが、水音はする。
段差の下からではない。
上からでもない。
足元の石の中から、音だけが鳴っている。
アリアが手前で止まった。
「ここから、内側です」
「読めるか」
伊織が聞く。
「読めます」
アリアは石段の脇に刻まれた文字を見る。
触れない。
指は袖の中にしまっている。
目だけで追う。
「名を置かずに進む者は、戻る名を失う」
リナが喉を鳴らした。
「戻る名って、何ですか」
「おそらく、帰路を示す標識のことです」
アリアは答える。
「この内側では、通った場所の名前を保たなければ、道が別のものに変わります」
「どうやって保つ」
伊織が聞いた。
「札を置きます。読んで、意味を固定します。進んだら回収する」
「昨日と同じか」
「似ています。ただ、内側では失敗した時の戻りが小さい」
「戻り?」
「一歩ではなく、道ごと沈む可能性があります」
面倒だ。
本当に面倒だ。
伊織は石段を見る。
階段はまっすぐ下りているように見える。
だが、リュードではまっすぐなものほど信用できない。
ヴォルフが骨刃で一段目を突いた。
硬い。
二段目。
硬い。
三段目。
音がしなかった。
骨刃が石に触れたのに、音がない。
ヴォルフは手を止めた。
「三段目は踏むな」
「沈むのか」
「分からん」
「なら」
「分からん石は踏まん」
リナがクロを見る。
クロは三段目を見ていない。
見ないようにしている。
それが答えだった。
アリアが札を取り出す。
「セリム水橋」
札を一段目に置く。
読む。
伊織の頭で意味が遅れる。
トトの木片を、石に当てる。
かつ。
一段目の影が止まる。
「次」
アリアは二枚目を出す。
「イルヴァ旧道」
読む。
かつ。
二段目の影が止まる。
三段目は避ける。
リナとクロが左の縁を通る。
ヴォルフが骨刃で縁を確かめる。
伊織はガルドの縄を持つ。
アリアは札を回収する。
一枚。
二枚。
手首が遅い。
ほんの一瞬。
伊織は見た。
何も言わない。
木片を鳴らす。
かつ。
アリアの指が戻る。
「助かります」
「礼はいらない」
「では、続けます」
「それもいらない」
アリアは返事をしなかった。
石段を下りる。
一段。
一段。
三段目を避ける。
五段目を避ける。
七段目で水音が鐘に変わる。
九段目で、後ろから食堂の椅子を引く音がした。
誰も振り返らなかった。
振り返らないことに慣れてきている。
それも信用できなかった。
◆
十段目を越えたところで、階段は消えた。
いや、消えたように見えた。
目の前にあるのは、平らな石床だった。
円形。
中央に、水のない水路が十字に走っている。
その十字の交点に、小さな穴がある。
井戸ほど深くはない。
だが、底は見えない。
アリアが止まる。
ヴォルフも止まった。
リナはクロを抱えるようにして止める。
伊織は右手を開いた。
握る。
朝より動く。
だが、まだ鈍い。
黒鋼警棒なら出せるかもしれない。
アイギスは重い。
銃はまだ早い。
装甲輸送車は論外。
自分で分類しているのが嫌だった。
武器ではなく、右手の限界表を作っている。
「中央には近づくな」
伊織が言った。
アリアが頷く。
「交点は名の流れが集まる場所です」
「名の流れ」
「場所の名前、標識、記録。そういうものを固定する流れです」
「見えるのか」
「読めます」
「見えるわけではないんだな」
「はい」
アリアは答えた。
その声が、少し細い。
リナが気づく。
「アリアさん」
「大丈夫です」
「それ、信用されないやつです」
アリアは黙った。
クロが鼻を鳴らした。
伊織は言った。
「座れ」
「今は」
「読まなくていい。見るだけでいい」
「でも」
「読んで呼ばれるなら、読まずに済むところは読むな」
アリアは反論しかけた。
その前に、ヴォルフが言った。
「座れ」
短い。
アリアは少し驚いた顔をした。
ヴォルフは骨刃で床を突く。
「読める奴は一人だ。使い潰すな」
アリアは黙った。
それから、膝を折る。
「少しだけです」
「時間は測らん」
ヴォルフが言う。
「立てるようになったら立て」
伊織はヴォルフを見る。
言い方は荒い。
だが、正しい。
アリアは石床の端に座った。
リナが水袋を渡す。
アリアは受け取る。
手首をかばうように。
伊織は中央の穴を見る。
水はない。
音もない。
だから、嫌だった。
「ここは何だ」
伊織が聞く。
アリアは水を飲んでから、答えた。
「おそらく、旧水制御陣の名前を集める場所です」
「名前を集める」
「各水路の名をここで結び、流れを制御する。父の研究記録に、似た構造がありました」
父。
その言葉を、アリアは普通に言った。
だが、普通に言うために何かを押し込めた声だった。
伊織は中央の穴を見る。
「なら、ここを壊せば止まるのか」
「分かりません」
「便利な答えだ」
「壊すと、名の流れが崩れる可能性があります」
「崩れると」
「道が失われるかもしれません」
壊せない。
触れない。
読めば削れる。
嫌な構造だ。
リナが小さく言う。
「じゃあ、どうすれば」
その時、中央の穴から音がした。
かん。
木札の音。
伊織は木片を握った。
返さない。
次に、別の音。
かん。
今度は、本物に近い。
トトの木札。
食堂で聞いた音。
リナが唇を噛む。
クロが低く唸る。
アリアは顔を上げる。
ヴォルフは骨刃を構えない。
構えないことで、警戒している。
音が三度目に鳴る。
かん。
その直後、中央の穴の縁に文字が浮かんだ。
水ではない。
光でもない。
影が文字の形になっている。
伊織には読めない。
読む前に音が崩れる。
アリアが立ち上がろうとする。
伊織は止めた。
「読むな」
「でも」
「読まなくていい」
伊織はトトの木片を取り出した。
中央の穴へ向ける。
鳴らす。
かつ。
影の文字が揺れた。
もう一度。
かつ。
文字がほどける。
完全には消えない。
だが、形が崩れる。
アリアが息を呑む。
「音で、読ませないようにしている」
「読めないなら、読ませない」
伊織は木片を見る。
傷が増えている。
角がさらに潰れた。
トトに返す時、元の音ではないかもしれない。
だが、今は使う。
「進路は」
ヴォルフが言った。
「右だ」
伊織は答えた。
「理由は」
「左の水路から、木札の音が来ている。正面は無音。右は、何もない」
「何もない方か」
「ああ」
「東部らしくなってきたな」
ヴォルフは右へ進んだ。
骨刃で床を探る。
リナとクロが続く。
伊織はアリアを見る。
「立てるか」
「はい」
「読まなくていい。歩け」
アリアは一瞬だけ何か言いたそうにした。
だが、言わなかった。
歩いた。
◆
右の通路は狭かった。
壁が近い。
天井も低い。
石に古い文字がびっしり刻まれている。
伊織は壁を見ないようにした。
見ても読めない。
読もうとすると遅れる。
遅れるだけでなく、意味の順番が崩れる。
水。
名。
戻る。
沈む。
読むな。
呼ぶな。
進め。
戻れ。
命令が混ざる。
どれも信用できない。
アリアは壁を見ていた。
見なければ進めないのだろう。
だが、見すぎれば呼ばれる。
伊織は木片を握ったまま、アリアの横を歩く。
リナとクロは前方。
ヴォルフはさらに前。
ガルドの縄は伊織の左手。
全員が一本の線になっている。
通路の途中で、リナが止まった。
「風がありません」
「風?」
伊織が聞く。
「入口から来るはずの風が、ここで止まってます」
クロも鼻を上げる。
匂いがない。
土も。
水も。
苔も。
何もない。
無臭。
無音。
無風。
そこだけ、世界から切り抜かれたようだった。
ヴォルフが骨刃を床へ刺す。
音がしない。
刃が石に触れているのに、音がない。
「止まれ」
伊織が言った。
すでに全員止まっていた。
通路の先に、黒い歯車が置かれている。
小さい。
昨日までの偽物と同じ大きさ。
魔力は薄い。
だが、今度は違った。
歯車の向こうに、地名札が一枚落ちている。
昨日失った札ではない。
イルヴァ旧道。
割れたはずの札。
黒く染まり、半分だけ残っていた札。
それが、そこにある。
アリアの手が動いた。
伊織は木片を鳴らした。
かつ。
アリアの手が止まる。
「違う」
伊織が言った。
「はい」
アリアは息を吸う。
「でも、私の札です」
「だから置いてある」
「はい」
アリアの声が硬い。
伊織は歯車を見る。
偽物。
たぶん偽物。
だが、札は本物かもしれない。
罠は、偽物だけでは作らない。
本物を混ぜる。
クソみたいに丁寧だ。
ヴォルフが言う。
「拾うな」
「分かってる」
伊織は答えた。
だが、アリアは見ている。
失った名。
自分が落とした札。
父の領へつながる言葉。
それを見せられている。
狙いはアリアだ。
伊織は一歩前に出た。
右手は使わない。
左手で縄を持つ。
トトの木片を、縄の留め具に当てる。
かつ。
無音の空間に、乾いた音が入った。
その瞬間、歯車の向こうの札が動いた。
拾わせるように、少しだけ手前へ滑る。
アリアが息を詰める。
伊織は言った。
「札は捨てる」
アリアが伊織を見る。
「必要なら」
伊織は続ける。
「名はまた置ける」
「でも、同じ名では」
「戻ってから書け」
アリアは黙った。
「お前が戻れば、また書ける」
アリアの目が揺れた。
言いすぎたか。
伊織は一瞬そう思った。
だが、取り消さない。
アリアはゆっくり息を吐いた。
「……はい」
歯車が、かちりと鳴った。
苛立ったような音だった。
通路の壁の文字が、一斉に滲む。
読むな。
戻れ。
拾え。
捨てるな。
名を返せ。
意味が混ざる。
伊織の頭が揺れた。
アリアが膝をつきかける。
リナが振り返る。
クロが吠える。
ヴォルフが骨刃を壁へ打ち込んだ。
音はしない。
何も鳴らない。
無音が広がる。
まずい。
音が消されている。
トトの木片も、次は鳴らないかもしれない。
伊織は右手を開いた。
ここだ。
そう思った。
黒鋼警棒。
小さく。
短く。
形だけ。
右手の奥が軋む。
遅い。
重い。
だが、出る。
黒い警棒が、伊織の右手に現れた。
完全な形ではない。
輪郭が少し揺れている。
それでも、鋼鉄だった。
伊織は警棒を石床へ打ちつけた。
がん。
音が鳴った。
無音の通路に、鉄の音が入る。
壁の文字が止まった。
アリアが息を吸う。
リナがクロを押さえる。
ヴォルフがこちらを見る。
伊織の右手に痛みが走った。
冷えではない。
痛み。
戻ってきた痛みだった。
痛い。
だが、まだ自分の手だ。
悪くない。
「走れ」
伊織が言った。
全員が動いた。
拾わない。
見ない。
右へ。
通路の奥へ。
歯車が背後で鳴る。
かちり。
かちり。
かちり。
怒っているような音。
今度は、そう聞こえても構わなかった。
伊織は右手の警棒を握ったまま走る。
長くはもたない。
分かっている。
だが、今はもたせる。
◆
通路を抜けると、外へ出た。
完全な外ではない。
高い石壁に囲まれた、半分だけ開いた場所だった。
空が見える。
狭い空。
灰色の雲。
その下に、円形の水場がある。
水はない。
水の跡だけが、黒く残っている。
中央には、崩れた石碑があった。
アリアが肩で息をしている。
リナも膝に手をついている。
クロは低く唸り続けている。
ヴォルフは通路の出口を見ていた。
「追っては来ない」
「歯車は」
「置いてきた」
伊織は右手を見る。
黒鋼警棒はまだある。
だが、輪郭が薄い。
消えかけている。
伊織は意識して消した。
右手に痛みが残った。
指が震える。
アリアが近づく。
「右手」
「出た」
「そういう話ではありません」
「痛い」
アリアが止まった。
「冷えではなく?」
「ああ」
「痛みですか」
「痛みだ」
アリアは少しだけ息を吐いた。
安堵ではない。
判断のための呼吸だった。
「それなら、まだ戻っています」
「医者か」
「エルナさんの代わりです」
「厳しいな」
「必要です」
伊織は右手を開く。
震えている。
だが、動く。
痛い。
悪くない。
リナが言った。
「あの札、置いてきてよかったんですか」
アリアは少し黙った。
そして頷いた。
「はい」
「でも」
「戻れば、また書けます」
伊織はアリアを見た。
アリアは伊織を見なかった。
石碑の方を見ている。
「戻れば」
その言葉が、今度は遅れなかった。
伊織は何も言わなかった。
ヴォルフが崩れた石碑の前に立つ。
「ここが内側の入口だな」
「今までのは」
リナが言う。
「玄関前の悪意だ」
「帰りたいです」
「まだ早い」
リナはクロを撫でた。
「分かってます」
アリアが石碑に近づいた。
伊織は止めようとして、やめた。
アリアは触れない。
読むだけだ。
いや。
読むだけでも危ない。
伊織は木片を持つ。
右手ではない。
左手で。
アリアは石碑を読んだ。
「リュード旧水制御陣、第二外縁。名を捧げた者のみ、内門を開く」
リナが顔をしかめる。
「名を捧げるって」
アリアは答えない。
石碑の文字を見ている。
伊織にも遅れて意味が届く。
名を捧げた者のみ。
内門を開く。
嫌な言葉だ。
名前を固定具として使う場所で、名を捧げろ。
まともな意味ではない。
ヴォルフが言う。
「何を捧げる」
「おそらく、地名です」
アリアが答える。
「人の名ではないのか」
伊織が聞く。
アリアは少しだけ黙った。
「古い形式では、人名も含みます」
空気が止まった。
クロが低く唸る。
リナがアリアを見る。
「まさか」
「やりません」
アリアは言った。
早かった。
「やりません。今は」
「今は、もいらない」
伊織が言った。
アリアは伊織を見る。
「やりません」
言い直した。
伊織は頷いた。
それでいい。
ヴォルフが石碑の裏へ回る。
「内門とやらは、どこだ」
その時、水のない円形の水場に、音が落ちた。
かん。
木札の音。
続いて、歯車の音。
かちり。
続いて、声。
「戻れ」
今度は、はっきりした。
水に擦られていない。
形があった。
だが、姿はない。
伊織は動かなかった。
アリアも動かない。
リナがクロを押さえる。
ヴォルフが骨刃を構える。
声は続いた。
「名を捧げるな」
それだけだった。
伊織は木片を握った。
ゼクトか。
そう思った。
だが、声には出さなかった。
まだ、出すには早い。
石碑の下で、黒い水の跡がゆっくり広がった。
円形の水場に、見えない水が戻り始めている。
音はない。
だが、影が満ちていく。
アリアが言う。
「内門が、開きます」
「何も捧げていない」
伊織が言う。
「誰かが、先に捧げています」
誰か。
伊織は石碑を見る。
黒い水の跡。
歯車の音。
戻れという声。
名を捧げるな。
全部が同時に来た。
リュードの内側は、こちらが入る前から動いている。
伊織は右手を握った。
痛む。
だが、動く。
黒鋼警棒の感触はまだ残っている。
必要なら出せる。
今度は、もう少し長く。
アリアは石碑を見ている。
手首の布は赤い。
リナはクロの革紐を握っている。
ヴォルフは水場の縁を見ている。
全員、戻らない。
だが、声は荷の中に入っている。
戻れ。
名を捧げるな。
警告か。
誘導か。
まだ分からない。
それでも、捨てない。
伊織は水のない水場を見た。
黒い影が、円形に満ちていく。
その奥で、何かが開く音がした。
扉ではない。
水門でもない。
もっと古いものが、目を覚ます音だった。




