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第44話 戻れの意味

 朝になるまで、「戻れ」という声は二度と聞こえなかった。


 それがかえって嫌だった。


 何度も繰り返すなら、罠だと切れる。


 水音に混じるなら、錯覚だと処理できる。


 一度だけ。


 短く。


 意味だけが遅れずに届いた。


 それが一番、始末に悪い。


 火は小さく残っていた。


 リナはクロの横で膝を抱えている。


 クロは眠っていない。


 ヴォルフは壁際で骨刃を膝に置いたまま、森を見ている。


 アリアは境界標の前に立っていた。


 夜の間も、何度かあの文字を見ていたらしい。


 手首の布は変わっていない。


 だが、指先が少し冷えて見えた。


 伊織は水袋を口に運ぶ。


 水はぬるい。


 音はしない。


 それでいい。


「昨日の声を、どう扱う」


 伊織が言った。


 全員が顔を上げた。


 アリアは境界標を見たまま答えた。


「命令ではありません」


「理由は」


「命令なら、もっと繰り返します。従わせるために」


 ヴォルフが頷く。


「脅しでもないな」


「なぜ」


 リナが聞いた。


「脅すなら、名を呼ぶ。誰かの声を真似る。足を止めるための餌を足す」


 ヴォルフは森の奥を見る。


「戻れ、だけでは足りん」


「じゃあ、何ですか」


 リナの声は小さい。


 クロの首に手を置いている。


 アリアはようやく振り返った。


「警告か、誘導です」


「どっちだ」


 伊織が聞く。


「分かりません」


 アリアは言った。


「でも、罠にしては短すぎました」


 伊織は昨夜の声を思い出す。


 戻れ。


 水の音ではなかった。


 歯車の音も混じっていない。


 誰かの声に似せようとした感じもない。


 ただ、置かれた言葉だった。


 信じるには足りない。


 捨てるにも、少し重い。


「従うか」


 ヴォルフが聞いた。


「戻らない」


 伊織は答えた。


 リナが顔を上げる。


 アリアも伊織を見る。


「ただ、捨てもしない」


 伊織は木片を取り出した。


 トトの木片。


 昨日の傷が増えている。


 何度も鳴らしたせいで、角が少し潰れていた。


「荷に入れておく」


「声をですか」


 リナが言った。


「ああ」


 伊織は木片をしまう。


「信じない。返事もしない。だが、無視したことにはしない」


 ヴォルフが喉の奥で笑った。


「面倒な扱いだ」


「面倒な声だった」


「違いない」


 アリアは境界標へ視線を戻す。


「なら、進みます」


「ああ」


「ここから先は、私が読みます」


「手首は」


「使います」


 伊織は何も言わなかった。


 言えば、また同じになる。


 必要なら無理をする。


 昨日、アリアはそう言った。


 その言葉を、伊織はまだ許していない。


 ただ、今は止められない。


 止める材料が足りない。


 アリアは境界標の文字に指を近づけた。


 触れない。


 だが、なぞるように目で追う。


「この先、リュード旧水制御陣外縁。水音を道標とせず、石標の影を見よ」


 アリアの声は遅れなかった。


 伊織の頭では、意味が遅れた。


 水音を道標とせず。


 石標の影を見よ。


 伊織は境界標の足元を見る。


 朝の薄い光で、石柱の影が森の奥へ伸びている。


 影は一本ではない。


 石柱は五本。


 だが、影は六本あった。


「一本多い」


 伊織が言う。


 ヴォルフが立ち上がった。


「見えたか」


「ああ」


 リナも目を凝らす。


「本当だ。一本、石がないところから出てます」


 クロはその影を嗅ぎに行こうとして、すぐに止まった。


 鼻を引く。


 嫌がっている。


 アリアが言う。


「六本目は、水路の影です」


「水路は見えない」


「地下にあるのでしょう」


 伊織は六本目の影を見る。


 黒い。


 他の影より、少し濃い。


 それは森の奥へ伸び、途中で折れている。


 道のように。


 矢印のように。


 誘っているように。


「石標の影を見ろと言ったな」


「はい」


「なら、あれは見るべき影か」


「おそらく、見せるための影です」


 伊織は舌打ちした。


「またか」


 見えるものは罠。


 聞こえるものも罠。


 だが、見ないと進めない。


 ヴォルフが骨刃を抜き、地面に刺した。


「五本の影を見る。六本目は捨てろ」


「根拠は」


「石のない影は信用せん」


 分かりやすい。


 それでいい。


 伊織は頷いた。


「行くぞ」



 リュード外縁は、道ではなかった。


 石柱と、根と、古い水路跡。


 それらが絡まった場所だった。


 地面は乾いているところと湿っているところが混じる。


 苔のある場所が安全とは限らない。


 乾いた土が沈まないとも限らない。


 水音は、ずっとしていた。


 ただし、どこから聞こえるのか分からない。


 前。


 後ろ。


 足元。


 頭の上。


 音の位置が、歩くたびに変わる。


 リナは耳を伏せていた。


 クロも鼻をあまり使わない。


 かわりに、足元を見る。


 昨日から変わった歩き方だ。


 ヴォルフは骨刃で地面を刺しながら進む。


 伊織は左手にガルドの縄を持つ。


 昨日、縄が食い込んだ跡がまだ残っている。


 右手は空けてある。


 使わないためではない。


 必要なら使うためだ。


 その違いが、少し腹に残った。


「右手」


 アリアが言った。


「使っていない」


「使うつもりの位置です」


「必要なら使う」


「まだ完全ではありません」


「知っている」


「知っていても使う顔です」


「顔の話はもういい」


 リナが少し笑いかけた。


 その瞬間、どこかで水が鳴った。


 かん。


 木札の音。


 笑いが止まる。


 伊織は内ポケットに触れた。


 トトの木片。


 鳴らさない。


 まだ、鳴らさない。


 ヴォルフが手を上げる。


 全員が止まる。


 石柱の影が、ゆっくり動いていた。


 風はない。


 朝の光もほとんど変わっていない。


 それでも、影だけがずれる。


 五本の影のうち、一つが左へ。


 もう一つが右へ。


 残り三本は前へ伸びている。


 六本目の濃い影は、消えていた。


「消えた」


 リナが言う。


「見せ終わったんだろう」


 伊織は答えた。


 アリアが前方を見る。


「石柱の配置が変わっています」


「動いたのか」


「いいえ。見え方が変わっただけです」


「どちらにしろ厄介だ」


 伊織は目を細める。


 石柱は動いていない。


 だが、影が動くことで、道が変わったように見える。


 右へ行けば乾いた土。


 左へ行けば苔の多い石。


 前へ行けば水路跡。


 どれも正解に見えない。


 ヴォルフが骨刃を三か所に刺した。


 右。


 左。


 前。


 右は浅い。


 左は硬い。


 前は沈んだ。


 ヴォルフが言う。


「左だ」


「苔があるぞ」


「苔は嫌いか」


「滑る」


「滑るだけだ」


 伊織は頷く。


 沈むよりましだ。


 リナとクロが先に行く。


 ゆっくり。


 足音を殺して。


 アリアが続く。


 伊織はその後ろで縄を持つ。


 ヴォルフは最後尾に近い位置で、後ろの影を見ている。


 左の石は濡れていた。


 リナが一度滑りかける。


 クロが体を寄せて支えた。


 リナは踏み直す。


「ありがとう」


 クロは鼻を鳴らす。


 その時、アリアの足元の影が伸びた。


 黒い線。


 水路ではない。


 歯車でもない。


 影だけが、足首へ絡もうとしている。


「アリア」


 伊織が言うより早く、アリアは地名札を落とした。


 イルヴァ旧道。


 札が石の上で跳ねる。


 影はそちらへ曲がった。


 一瞬。


 アリアはその間に足を引く。


 伊織は縄を投げた。


 左手で。


 アリアが掴む。


 伊織は引いた。


 右手ではない。


 左手で。


 アリアの身体がこちらへ戻る。


 影が札を飲んだ。


 音はなかった。


 木片が黒く染まり、割れた。


 アリアは自分の手首を押さえる。


 布に、薄く赤が滲んだ。


 伊織はそれを見た。


「手首」


「動きます」


「聞いていない」


「痛みはあります」


「それも聞いていない」


 アリアは息を整えた。


「続けられます」


 伊織は言葉を飲んだ。


 ここで止めても、戻れない。


 進んでも、削れる。


 正しい答えがない。


 嫌な道だ。


「次は札を投げる前に言え」


「間に合いませんでした」


「なら、次は間に合わせろ」


 アリアは頷いた。


「はい」


 ヴォルフが低く言う。


「影が名に寄るな」


「名前を食うのか」


 伊織が聞く。


「そう見える」


 アリアは割れた札を見る。


「地名に反応しています。意味を水路側へ引き寄せている」


「分かりやすく言え」


「道の名前を奪って、こちらの足場を失わせています」


 リナが顔を青くした。


「名前を奪うって」


「完全に奪われるわけではありません。ただ、その場所の意味が歪む」


 伊織は足元を見る。


 石。


 苔。


 水路跡。


 影。


 名前が歪めば、道も歪む。


 翻訳が遅れるだけではない。


 意味そのものをずらしてくる。


 これはもう、言葉の罠だった。


「札は何枚残っている」


 伊織が聞いた。


 アリアは布袋を見る。


「十枚です」


「全部は使うな」


「分かっています」


「今、一枚使った」


「必要でした」


「責めていない」


 アリアは少し黙った。


「はい」


 伊織は前を見る。


 リュード外縁。


 入口の手前ではない。


 もう入っている。


 それだけは分かった。



 昼前、石柱の列を抜けた。


 だが、抜けた先も森だった。


 同じような木。


 同じような湿った土。


 同じような水音。


 振り返ると、石柱は見えない。


 近くにあったはずなのに、もう見えない。


 リナが唇を噛んだ。


「戻れますか」


 誰もすぐには答えなかった。


 ヴォルフが地面を見る。


 足跡はある。


 だが、途中で消えている。


 水に濡れたわけではない。


 土ごと、足跡の意味が薄れている。


「戻る道は、今はない」


 ヴォルフが言った。


 アリアが境界の方を見る。


「完全に閉じられたわけではありません」


「根拠は」


 伊織が聞く。


「音がまだ外へ抜けています」


 アリアは耳を澄ませる。


「遠くに、木札の音が残っています」


 伊織も聞いた。


 かん。


 遠い。


 小さい。


 本物か偽物か分からない。


 だが、完全に消えてはいない。


 リナが言う。


「トトの音じゃないですよね」


「分からない」


 伊織は答えた。


「でも、全部偽物と決めるな」


「はい」


「全部本物とも思うな」


「はい」


 リナはクロを見る。


「難しいね」


 クロは鼻を鳴らした。


 同意だった。


 そこで、森の奥から声がした。


「戻れ」


 まただ。


 今度は昨夜より近い。


 だが、やはり短い。


 歯車の音も、水音も混じっていない。


 アリアが振り返る。


 ヴォルフは骨刃に手を置く。


 リナはクロを押さえる。


 伊織は木片を握る。


 声は続かなかった。


 一度だけ。


 戻れ。


 伊織は答えない。


 だが、今度は完全には捨てなかった。


「今の声」


 アリアが言う。


「ああ」


「罠ではないかもしれません」


「根拠は」


「この場所の罠は、反復します。音も、影も、歯車も。こちらに選ばせるために、何度も見せる」


「一度だけだから違うと?」


「可能性です」


 ヴォルフが森の奥を見る。


「警告なら、遅いな」


「早くても従わなかった」


 伊織が言う。


「違いない」


 ヴォルフは骨刃を抜いた。


「なら、進むしかない」


「どっちへ」


 リナが聞く。


 その問いに、誰も答えられなかった。


 道がない。


 音は信用できない。


 影も信用できない。


 地名札は残り十枚。


 右手は不完全。


 アリアの手首は滲んでいる。


 進むしかない。


 だが、進む方向がない。


 嫌な詰め方だった。


 伊織はしゃがんだ。


 地面を見る。


 足跡。


 水の跡。


 根。


 石。


 どれも頼りにならない。


 そこで、クロが動いた。


 鼻ではない。


 耳でもない。


 前足で、地面を掻いた。


 一度。


 二度。


 その下に、硬いものがあった。


 石板。


 苔に隠れていた。


 アリアが近づく。


「古い標識です」


「読めるか」


「はい」


 アリアは膝をつく。


 手首を使わないよう、片手で苔を払う。


 リナがすぐに手伝った。


 文字が出る。


 伊織には遅れる。


 しかも、ひどく遅れる。


 読もうとすると、頭の中で音が崩れた。


 リュード。


 水を戻すな。


 名を失うな。


 沈む前に。


 順番が分からない。


 伊織は目を逸らした。


「読めない」


 アリアが息を吸う。


「私は読めます」


「読め」


「旧水路は、名を失ったものから沈む」


 その言葉で、リナが顔を上げた。


「名を失う?」


「地名です。標識、札、記録、呼び名。おそらく、この水制御陣では場所の名前が固定具になっています」


「名前が杭みたいなものか」


 伊織が言う。


「はい」


 アリアは石板を見る。


「だから地名札が狙われた。名前を消せば、道が沈む」


「なら、札を全部失うと」


「進む道も、戻る道も不安定になります」


 伊織は布袋を見る。


 残り十枚。


 ただの木片ではない。


 足場だ。


 地図だ。


 命綱だ。


 アリアが続ける。


「ここには、もう一文あります」


「何だ」


「名を読む者は、水に呼ばれる」


 水音が鳴った。


 すぐ近くで。


 伊織はアリアの肩を掴んだ。


 左手で。


 アリアの目が、一瞬ぼやけていた。


「アリア」


 返事がない。


 アリアは石板を見ている。


 見すぎている。


 水に呼ばれている。


 伊織はトトの木片を取り出し、石に当てた。


 かつ。


 アリアの目が戻った。


 短く息を吸う。


「今」


「呼ばれていた」


 アリアは自分の手を見る。


 少し震えている。


「すみません」


「謝るな」


「でも」


「次は早く気づけ」


 アリアは頷いた。


「はい」


 伊織は石板を見るのをやめた。


 アリアにも見せすぎるな。


 だが、読まなければ進めない。


 この罠は、アリアを削りに来ている。


 伊織の右手ではない。


 アリアの読む力だ。


 分かりやすくなってきた。


 その分、嫌だった。



 午後、進む方向が決まった。


 地名札を使う。


 ただし、投げない。


 捨てない。


 読む。


 置く。


 戻す。


 それで、道の名前を一時的に固定する。


 アリアが考えた。


 伊織は反対した。


「削れるだろ」


「削れます」


「なら」


「でも、札を捨てるよりましです」


 アリアは布袋を握っている。


「名前を失わずに進むには、こちらから名を置く必要があります」


「手首は」


「関係ありません」


「嘘だな」


「少しはあります」


「少しではない顔だ」


 アリアは黙った。


 伊織も黙った。


 リナが二人を見ている。


 クロも見ている。


 ヴォルフは骨刃を磨いている。


 何も言わない。


 言わないが、聞いている。


 アリアはやがて言った。


「これは私の領域です」


 伊織はアリアを見る。


「父の研究に近い。シルヴェインの名前に近い。私が読まなければ、誰かが間違えます」


「お前が倒れたら」


「倒れる前に言います」


「信用できない」


「あなたに言われたくありません」


 伊織は口を閉じた。


 アリアは続ける。


「全部は読みません。必要なところだけ。リナさんとクロさんが足場を見て、ヴォルフさんが土を見る。東さんは、私が呼ばれたら止めてください」


「俺の役目はそれか」


「はい」


「読むなと言う役じゃないのか」


「違います」


 アリアは伊織を見た。


「読んで戻るための役です」


 伊織は何も言わなかった。


 読んで戻る。


 危ない言い方だった。


 だが、今はそれしかない。


 伊織はトトの木片を握る。


「分かった」


 アリアが頷く。


「ありがとうございます」


「礼は戻ってから言え」


「はい」


 最初の地名札を置く。


 セリム水橋。


 アリアが読む。


 声は遅れない。


 伊織の頭では遅れる。


 だが、木片の音で位置を確認する。


 かつ。


 札の下の土が固まる。


 一歩分。


 リナが踏む。


 沈まない。


 クロが続く。


 ヴォルフが骨刃を刺す。


「次」


 アリアは二枚目を置く。


 イルヴァ旧道。


 読む。


 かつ。


 土が固まる。


 進む。


 戻す。


 札を拾う。


 アリアの指が震える。


 伊織はそれを見る。


 何も言わない。


 ただ、木片を鳴らす。


 かつ。


 アリアの目が戻る。


 リナが前を見ている。


 クロが止まる。


 ヴォルフが右へずれる。


 全員が少しずつ遅れながら、それでも進む。


 言葉は遅れる。


 音は狂う。


 だが、完全には切れない。


 線はまだある。


 それを繰り返した。


 一歩。


 一歩。


 また一歩。


 アリアの布に、赤が増えた。


 伊織は見た。


 アリアも気づいた。


「まだです」


「聞いていない」


「言われる前に言いました」


「悪い癖だ」


「お互い様です」


 伊織は木片を鳴らした。


 かつ。


 今度は、アリアのためではない。


 自分を止めるためだった。



 夕方、森の奥に水の音が戻った。


 今度は、普通の水音だった。


 流れる音。


 石に当たる音。


 小さく跳ねる音。


 普通すぎて、誰も信用しなかった。


 ヴォルフが言う。


「今日はここまでだ」


「水の近くで?」


 リナが聞く。


「近すぎなければいい。音が戻った場所は、少なくとも今は隠れていない」


 アリアは座った。


 座るというより、膝から落ちかけた。


 伊織が左手で支える。


 アリアはすぐに体勢を戻す。


「大丈夫です」


「その言葉は信用しない」


「では、座ります」


「そうしろ」


 アリアは石に腰を下ろした。


 手首の布は赤い。


 広がっている。


 リナが薬袋を持ってくる。


「エルナさんの薬、使います」


「まだ」


「使います」


 リナの声は強かった。


 アリアは少し驚いた顔をした。


 それから、手を出した。


 リナが布を外す。


 伊織は見ないようにした。


 見たら、何か言う。


 言えば、アリアは無理をする。


 だから、見ない。


 代わりに、水音を聞いた。


 普通の水音。


 だが、その奥に何かが混じっている。


 戻れ。


 聞こえた気がした。


 今度は声ではない。


 水の流れの中に、意味だけが混じっていた。


 誰かの声が、水路に擦られて形を失ったようだった。


 伊織は木片を握る。


 返事はしない。


 戻りもしない。


 ただ、覚えておく。


 ヴォルフが火を小さく起こす。


 クロは水辺に近づかない。


 リナはアリアの手首に布を巻き直す。


 アリアは痛みを声に出さない。


 伊織はそれが気に入らなかった。


 だが、今は言わない。


 日が落ちる。


 リュード外縁の森は、暗くなるのが早かった。


 地名札は残り十枚。


 ただし、一枚は端が黒くなっている。


 伊織は右手を開く。


 朝より動く。


 だが、まだ使っていない。


 使う時が近い。


 近いと分かる。


 嫌な予感ではない。


 ただの計算だった。


 火の横で、トトの木片を鳴らした。


 かつ。


 水音は返ってこなかった。


 それだけで、少しだけ息ができた。


 アリアが顔を上げる。


「今の音は、遅れませんでした」


「ああ」


「助かります」


「トトに言え」


「戻ったら」


「そうだな」


 戻ったら。


 その言葉は、まだ遅れなかった。


 森の奥で、歯車の音がした。


 かちり。


 ひとつ。


 それきり、何も続かなかった。


 伊織は火を見た。


 小さな火。


 薄い煙。


 濡れた布。


 赤くなった手首。


 戻れという声。


 進むための名。


 全部、荷の中に入っている。


 明日は、リュードの内側へ入る。


 誰も口にはしなかった。


 言わなくても、分かっていた。


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