第43話 返る音
夜は、浅かった。
伊織は眠った。
眠ったはずだった。
だが、目を閉じている間も、井戸の音が残っていた。
かん。
トトの木札に似た音。
似ているだけの音。
分かっている。
分かっているのに、身体のどこかが反応する。
嫌な音だった。
朝になる前、ヴォルフが肩を叩いた。
「起きろ」
伊織は目を開けた。
火はほとんど消えている。
アリアは壁際で浅く眠っていた。
リナはクロに背を預けている。
クロは起きていた。
井戸を見ている。
吠えない。
唸らない。
ただ、見ている。
「何かあったか」
伊織は低く聞いた。
「音が止まった」
ヴォルフが言った。
伊織は耳を澄ませる。
風。
クロの呼吸。
遠くの葉擦れ。
井戸の音はない。
夜の間、ずっと薄く残っていた水音が、消えている。
静かすぎた。
「音が消えるのも罠か」
「東部では、音がある方がまだましな時がある」
「朝から嫌な話だ」
「夜からだ」
ヴォルフは井戸を見たまま、骨刃に手を置いている。
伊織は右手を握った。
動く。
だが、まだ鈍い。
黒鋼警棒を出すか。
考えて、やめる。
まだ早い。
それに、ここで具現すれば、誰かに見られる。
誰に。
分からない。
それが一番嫌だった。
クロが立ち上がった。
低く、短く鼻を鳴らす。
リナが目を覚ました。
「クロ?」
クロは井戸ではなく、石壁の外を見た。
伊織もそちらを見る。
何もない。
暗い森。
湿った土。
壊れた宿場の影。
その奥で、何かが転がった。
かちり。
歯車の音。
リナが息を呑む。
アリアが目を開ける。
寝起きの顔ではなかった。
すぐに封書ではなく、地名札へ手を伸ばす。
伊織は左手を上げた。
「触るな」
誰に向けた言葉でもなかった。
全員へだった。
石壁の外。
朝の薄い光の中に、小さな黒い歯車が一つ落ちていた。
昨日のものと似ている。
同じ大きさ。
同じ色。
同じように、魔力の気配は薄い。
アリアが目を細めた。
「昨日と同じです」
「偽物か」
「おそらく」
ヴォルフが骨刃を抜いた。
「見せているな」
「ああ」
伊織は歯車を見た。
触らない。
走らない。
一人で行かない。
全員がもう覚えている。
そのことを、相手も知った。
嫌な手だ。
偽物を見せて、こちらの反応を見る。
昨日はそう思った。
だが、今朝は違う。
こちらが反応しないことを、見に来ている。
クソみたいに丁寧だ。
伊織は井戸を振り返った。
音はない。
静かだ。
静かすぎる。
「歯車を見るな」
伊織が言った。
リナが頷く。
クロも、歯車から目を離す。
アリアが井戸を見る。
「東さん」
「ああ」
「音が消えたのは、歯車の方へ意識を向けるためかもしれません」
「逆か」
「はい」
その時、井戸の奥から音がした。
かん。
トトの木札に似た音。
リナが肩を震わせた。
クロが吠えかけて、歯を噛んだ。
伊織は内ポケットから木片を出す。
鳴らさない。
まず、待った。
井戸の奥でもう一度、音がした。
かん。
昨日より近い。
返事を求めるような間だった。
伊織は木片を握る。
返すな。
自分に言い聞かせた。
トトの音ではない。
食堂の音ではない。
これは、真似だ。
伊織は木片を鳴らさなかった。
井戸の音が、途切れた。
短い沈黙。
次に、石壁の外で歯車が動いた。
かちり。
ほんの一歩分。
こちらが井戸に反応しないなら、歯車を動かす。
こちらが歯車に反応しないなら、井戸を鳴らす。
選ばせる手だ。
ヴァルターではない。
だが、ヴァルターの影が残っている。
アリアが低く言った。
「測られています」
「分かってる」
「昨日より、こちらの反応を読んでいます」
「分かってる」
伊織は右手を開いた。
握る。
まだ出すな。
出せば、それも測られる。
リナがクロの首に手を置いた。
「走らない」
自分に言っていた。
クロにも言っていた。
伊織は頷く。
「撤収する」
ヴォルフがすぐに立った。
「荷はそのまま持て。井戸にも歯車にも寄るな」
アリアが地名札をしまう。
リナがクロの餌袋を背負う。
伊織は荷を左肩にかける。
その間、井戸は鳴らない。
歯車も動かない。
待っている。
こちらが何か間違えるのを。
伊織は歯車を見ないようにして、石壁の出口へ向かった。
背後で、井戸が鳴った。
かん。
今度は、少しだけ音が違った。
木札ではない。
食器を置く音に似ていた。
食堂の音。
伊織の足が止まりかける。
クロが低く唸った。
伊織は止まらなかった。
宿場跡を出るまで、誰も口を開かなかった。
◆
森の朝は、昨日より湿っていた。
霧が低く流れている。
足元にまとわりつくような霧だった。
リナは何度も耳を動かしている。
クロは前を嗅がない。
少し横を嗅ぎ、時々後ろを振り返る。
ヴォルフは先頭で、昨夜より遅く歩いていた。
「遅いな」
伊織が言った。
「急ぐ場所じゃない」
「急いだ方がよさそうだが」
「急がせる場所だ」
ヴォルフは足元の根を避ける。
「こういう道は、焦った奴から道を外す」
伊織は黙った。
正しい。
正しいだけの言葉は嫌いだが、今は役に立つ。
アリアが地名札を取り出す。
「次の目印は、リュード外縁の石渠です」
伊織はその地名を聞いた。
リュード。
遅れる。
昨日より短い。
だが、まだ遅い。
意味が半歩遅れて追いつく。
慣れは、信用ではない。
伊織は自分に言い聞かせる。
「もう一度」
伊織が言う。
アリアが頷いた。
「リュード外縁の石渠」
遅れる。
短い。
だが、遅れる。
「もう一度」
「リュード外縁の石渠」
遅れた。
伊織は舌打ちした。
「嫌な名前だ」
「名前が悪いわけではありません」
「今は悪い」
アリアは反論しなかった。
布袋から別の木片を出す。
そこに、同じ地名が書かれている。
伊織は見た。
文字も遅れる。
音も遅れる。
だが、地面を踏む感覚は遅れない。
クロの唸りも遅れない。
木片の音も遅れない。
使えるものを選べ。
伊織は歩きながら、そう思った。
遠くで水音がした。
今度は、鐘ではない。
声でもない。
ただの水音に聞こえた。
だからこそ、信用できなかった。
リナが言う。
「右です」
クロが左を見る。
リナはすぐに口を閉じた。
クロを見る。
「ごめん。違う」
クロは鼻を鳴らした。
怒ってはいない。
ただ、訂正は早くしろという顔だった。
リナは自分の耳を押さえる。
「音が、右に聞こえたんです。でもクロは左を見てる」
ヴォルフが言う。
「正面を見ろ」
「正面?」
「音は左右にずれる。匂いも戻る。なら、足跡を見る」
リナは前を見る。
濡れた土。
草。
その中に、小さな獣の足跡がある。
左ではない。
右でもない。
正面の細い隙間へ続いている。
「道がある」
「あるように見えない道だ」
ヴォルフが言った。
「東部では、それを選ぶ」
リナは頷いた。
クロは先へ出た。
今度は走らない。
ゆっくり進む。
鼻を使いすぎず、足元を見ながら。
リナも同じように歩いた。
伊織はそれを見ていた。
リナが成長している。
走らない。
耳だけを信じない。
クロだけにも任せない。
自分の感覚を疑いながら、前に進む。
いい歩き方だ。
伊織はそう思った。
言わなかった。
言えば、リナは多分こける。
◆
昼前、霧が薄くなった。
代わりに、森の奥から水の匂いが来た。
今度は本物の匂いだった。
クロが鼻を鳴らす。
リナが頷く。
「水があります」
ヴォルフが手を上げる。
「見えてから言え」
少し進むと、石の水路が見えた。
細い。
古い。
だが、水は流れている。
流れているのに、音がない。
伊織は足を止めた。
目の前で水が動いている。
透明ではない。
薄く黒い。
泥ではない。
影を溶かしたような色。
それが石の溝を流れている。
音がない。
水の動きと、耳に入る世界がずれていた。
気持ちが悪い。
アリアがしゃがもうとして、手首を止めた。
伊織が見る。
「触るな」
「分かっています」
「採るなら」
「布越しにします」
「布越しでも危ないなら」
「採りません」
アリアは小瓶を出した。
だが、すぐには水に近づけない。
じっと流れを見る。
「逆です」
「何が」
「傾斜と流れが逆です」
ヴォルフが石の傾きを見る。
「本来は東から西へ流れる」
「今は」
「西から東だ」
リナが水路を見た。
「封書にあった、水が逆に流れたって」
「これかもしれません」
アリアは小瓶を手にしたまま言う。
「でも、水量が少なすぎます。大きな異常の端だけが、ここに出ている」
伊織は周囲を見る。
音がない。
水音がしない。
鳥も鳴かない。
クロも鼻を鳴らさない。
代わりに、どこかで歯車の音がした。
かちり。
水路の中だった。
伊織は水を見る。
薄黒い水面の下に、小さな影がある。
歯車。
いや。
歯車の形をした影。
流れている。
水と逆に。
伊織は動かなかった。
アリアも動かない。
リナがクロを押さえる。
ヴォルフは骨刃に手を置いたまま、動かない。
全員が、動かなかった。
昨日なら、誰かが一歩出たかもしれない。
今は出ない。
出なかった。
その瞬間、水路の脇の土が沈んだ。
足元ではない。
少し先。
誰かが歯車へ近づくと踏むはずだった場所。
土が、音もなく崩れる。
黒い泥が下から滲んだ。
伊織は息を止めた。
歯車に反応しないことを、読まれていた。
違う。
歯車に反応することを前提にした罠が、空振りしたわけではない。
反応しないなら、次に進む足場を沈める。
そういう配置だった。
ヴォルフが低く言う。
「止まって正解だったな」
「偶然だ」
伊織は答えた。
「いや」
アリアが言った。
「昨日、測られたからです」
「反応しないこともか」
「はい」
アリアの顔は硬い。
「こちらが歯車を見て止まることも、歯車に近づかないことも、使われています」
嫌な手だ。
想像より嫌な手だった。
反応しても罠。
反応しなくても罠。
走っても駄目。
止まっても駄目。
なら、どうする。
伊織は水路を見る。
薄黒い水。
流れる歯車の影。
沈んだ土。
無音。
使えるものは。
ガルドの縄。
トトの木片。
ヴォルフの目。
アリアの知識。
リナとクロの足。
伊織は荷の横へ手を伸ばした。
左手で、ガルドの縄をほどく。
「ヴォルフ」
「ああ」
「踏める場所を見ろ」
「二つ先までなら」
「足りる」
伊織は縄の端をリナに投げた。
リナが受ける。
「クロと先へ。走るな。踏める場所だけ」
「はい」
「アリア」
「はい」
「水路に触らず、流れの向きを見る。止められるかは聞かない」
「止められません」
「だろうな」
アリアは水路の縁に近づく。
触れない距離で止まる。
伊織は縄のもう一方を左手に巻いた。
右手は使わない。
使えば、力は出るかもしれない。
だが、今は左で十分だ。
ヴォルフが骨刃で地面を刺す。
「ここ。次は右。そこから石の上」
リナとクロが動く。
走らない。
跳ばない。
踏む。
止まる。
クロが鼻を低くする。
リナが足元を見る。
縄が張る。
伊織は左手で支える。
肩に重さが来る。
右手を使いたくなる。
使うな。
歯を噛む。
縄が食い込む。
ガルドの縄は古いが、強い。
手入れされている。
ガルドの手が、ここにある。
リナが先の石に足を置いた。
石は沈まない。
クロも続く。
アリアが言う。
「水の影が、リナさんの足元へ寄っています」
「影が動くのか」
「はい。水ではなく、影だけが」
「リナ、止まれ」
リナは止まった。
クロも止まる。
伊織は縄を足元の石に一度巻きつけ、左足で踏んだ。
完全ではない。
だが、一拍ならもつ。
影が、水路の中で曲がる。
音はない。
伊織はトトの木片を取り出した。
左手で握り、石に当てる。
かつ。
影が止まった。
一瞬。
本当に一瞬。
だが、止まった。
アリアが目を見開く。
「音に反応しています」
「ならもう一度」
伊織は木片を鳴らす。
かつ。
影が揺れる。
リナがその間に一歩進む。
ヴォルフが次の足場を指す。
アリアが影を見る。
クロが低く唸る。
縄が張る。
伊織は左手で支える。
全員が別々のことをしている。
だが、線はつながっている。
伊織は思った。
これなら行ける。
その瞬間、水路の奥から音がした。
かん。
トトの木札に似た音。
リナの足が止まった。
クロが振り返る。
伊織の左手が、一瞬だけ緩む。
しまった。
影が跳ねた。
水の中から、黒い線が伸びる。
リナの足首へ。
クロが吠えた。
伊織は右手を動かしかけた。
その前に、アリアが地名札を投げた。
リュード旧水制御陣。
木片が水面に落ちる。
音はしなかった。
だが、影がそちらへ逸れた。
リナが後ろへ跳ぶ。
クロも戻る。
縄が強く張る。
伊織は左手で引いた。
肩が軋む。
右手ではない。
左手で。
リナが石の上に転がった。
クロがその横に着地する。
全員が止まる。
水路の影は、地名札の周りを回っていた。
リュード。
その文字が、水に濡れて黒くなる。
アリアは息を詰めていた。
「今のは」
伊織が聞く。
「一時的に、意味をそちらへ移しました」
「札を囮にしたのか」
「はい」
「戻せるか」
「無理です」
アリアは濡れた札を見る。
「あれは捨てます」
伊織は頷いた。
必要なら捨てる。
正しい判断だ。
だが、アリアの顔は少しだけ痛そうだった。
自分で書いた札だ。
東部の名だ。
父の領へつながる言葉だ。
それを囮にした。
伊織は何も言わなかった。
言えば余計になる。
水路の向こうで、黒い影がゆっくり沈んでいく。
音はない。
ただ、濡れた札だけが残った。
◆
迂回に成功したのは、昼を過ぎてからだった。
リナは膝に泥をつけていた。
怪我はない。
クロも無事だ。
伊織の左手は赤くなっている。
縄が食い込んだ跡だった。
右手は使わなかった。
使わずに済んだ。
済んだ、というより、使えなかった。
アリアは水に濡れた地名札を拾わなかった。
拾えなかった。
水路の向こうに残されたままだ。
ヴォルフが地図を見る。
「リュード外縁まで、まだある」
「今のが外縁じゃないのか」
「入口の手前だ」
伊織は黙った。
入口の手前。
これで。
リナが土を払う。
「ごめんなさい」
「何が」
「止まりました。音で」
「全員止まった」
「でも」
「俺も緩めた」
リナは口を閉じた。
クロがリナの膝を鼻で押す。
リナはクロの頭を撫でた。
アリアが言う。
「私も、遅れました」
伊織はアリアを見る。
「何に」
「音にではありません。判断に」
アリアは水路の方を見る。
「あれがリュードの名を利用するものだと、分かったのが遅れました」
「分かったから止めた」
「遅かった」
「間に合った」
「でも、遅かった」
アリアの声は硬い。
伊織は少し考える。
慰めても無駄だ。
否定しても無駄だ。
だから、言った。
「次は早くしろ」
アリアが伊織を見る。
一瞬、驚いた顔をした。
それから、頷く。
「はい」
ヴォルフが骨刃をしまう。
「休むぞ。ここから先は、もっと悪い」
「今ので悪くないのか」
リナが言う。
「悪い」
ヴォルフは答えた。
「だが、まだ入口ではない」
誰も笑わなかった。
クロだけが森の奥を見ていた。
低く、喉を鳴らしている。
伊織は荷から水袋を出す。
左手で。
アリアが見ている。
「右手は使っていない」
「見ています」
「知っている」
伊織は水を飲んだ。
ぬるい。
だが、音のしない水よりはましだった。
◆
夕方、彼らはリュード外縁の手前に着いた。
森の中に、石の柱が並んでいた。
水路跡ではない。
門でもない。
境界標のようなものだった。
古い文字が刻まれている。
伊織は読もうとした。
遅れる。
半拍ではない。
一拍。
長い。
意味が来る前に、音だけが頭の中で回る。
リュード。
水。
制御。
禁じる。
戻す。
違う。
順番が崩れる。
伊織は目を閉じた。
読むな。
今は読むな。
アリアが隣に来る。
「ここから先は、私が読みます」
「お前は遅れないのか」
「遅れません」
「本当に?」
「はい」
アリアは柱を見る。
その横顔に迷いはなかった。
だが、手首の布はまだある。
伊織はそれを見る。
「無理は」
「します」
アリアが言った。
伊織は黙った。
「必要なら、します」
「そうか」
「止めますか」
「理由を聞く」
アリアは少しだけ目を伏せた。
「ここは、シルヴェイン領の外縁に近い場所です。古い水制御陣の一部は、父の研究記録にありました」
「覚えているのか」
「忘れたかったので」
アリアは柱を見る。
「覚えています」
伊織は何も言わなかった。
忘れたいものほど、残る。
それは知っている。
ヴォルフが周囲を見ている。
「今日はここまでだ」
「また危険が見える場所か」
「危険が多すぎて、見えるものを選べん」
「最悪だな」
「まだましだ。見えない危険よりいい」
野営の準備が始まった。
火は小さく。
水は持参分。
井戸はない。
だが、水路の音はある。
どこにも見えないのに、音だけがする。
今夜も、鳴るのだろう。
木札の真似を。
食堂の真似を。
誰かの声の真似を。
伊織はトトの木片を取り出した。
傷がついている。
今日だけで何度も鳴らした。
返す時、音は変わっているかもしれない。
それでも返す。
戻ったら、鳴らして返す。
そう言った。
その言葉だけは、遅れない。
リナはクロの足を拭いている。
ヴォルフは地図を広げない。
地図が役に立たない場所に入ったのかもしれない。
アリアは境界標の前に立っている。
読んでいる。
伊織には遅れる文字を。
アリアには遅れない文字を。
だが、遅れないから安全とは限らない。
慣れは信用ではない。
遅れないことも、信用ではない。
伊織は右手を開いた。
まだ鈍い。
だが、朝より動く。
必要になれば、使う。
今はまだ、使わない。
森の奥で、歯車の音がした。
かちり。
続いて、水音。
続いて、木札の音。
かん。
順番に来た。
見せるように。
聞かせるように。
伊織は顔を上げる。
アリアも振り返った。
リナがクロを押さえる。
ヴォルフが骨刃に手を置く。
音は止まった。
そして、声がした。
遠く。
低く。
誰の声かは分からない。
ただ、一言だけ。
「戻れ」
意味は、遅れなかった。
伊織は木片を握った。
返事はしなかった。




