第42話 遅れる言葉
出発の朝は、思ったより静かだった。
誰かが大声で見送るわけでもない。
鐘が鳴るわけでもない。
食堂の灯りは、まだ半分だけだった。
鍋には火が入り、薄い湯気が上がっている。
クロは入口の前で座っていた。
もう寝たふりはしていない。
餌袋を見ないようにしている。
リナがその袋を背負い直した。
「見ないふりしても、クロの分だからね」
クロはそっぽを向いた。
伊織は荷物を肩にかける。
右手では持たない。
左手で革紐を整え、肩へ重さを逃がす。
ガルドの縄が、荷の横に結びつけてある。
トトの木片は、内ポケットに入れた。
地名札は、アリアが持っている。
伊織の右手は、昨日より動く。
だが、まだ信用しない。
信用できないものを、信用したふりで使うのは嫌いだった。
食堂の奥で、ガルドが腕を吊ったまま立っていた。
「その縄、なくすなよ」
「分かってる」
「切るなよ」
「使えなくなるなら切る」
「返せって言っただろ」
「返せる形で使う」
「信用ならねえな」
ガルドはそう言って、鼻を鳴らした。
エルナが横から言う。
「ガルドさんは留守番です」
「分かってる」
「旧水路の封鎖確認と、ギルド周辺の見回り。左腕は使わない」
「昨日から百回聞いた」
「百一回目です」
「増えたな」
ニコが記録帳を持って立っていた。
「出発人数、確認します」
その声は、昨日よりしっかりしていた。
「アリアさん。東さん。ヴォルフさん。リナさん。クロ」
クロが鼻を鳴らした。
「一匹」
ニコが書き足す。
リナが笑う。
「クロ、ちゃんと入ってるよ」
クロは興味がなさそうな顔をした。
だが、耳だけは動いた。
ミナとトトは、食堂の入口の近くに立っていた。
トトの木札は首から下がっている。
ミナがトトの肩に手を置いている。
伊織が近づくと、トトは木札を一度鳴らした。
かん。
乾いた音。
遅れない音。
「借りた木片は、戻ったら鳴らして返す」
伊織が言うと、トトは頷いた。
ミナが言う。
「ちゃんと鳴らしてね」
「ああ」
「音が変だったら、もう一回」
「分かった」
トトがもう一度、木札を鳴らした。
かん。
見送りの言葉ではなかった。
でも、足りた。
アリアはその音を聞いていた。
封書は胸元にしまっている。
地名札の入った布袋を腰に下げている。
手首の布は、まだ薄く巻かれていた。
完全ではない。
伊織も。
アリアも。
ガルドも。
この街も。
完全ではないまま、朝になっていた。
ヴォルフが入口で言った。
「行くぞ。朝の風が変わる前に門を出る」
「風で分かるのか」
リナが聞く。
「分かる時もある」
「分からない時は?」
「勘だ」
ガルドが笑った。
「年寄りの経験がとうとう勘になったぞ」
「勘も長く生きれば経験だ」
「雑だな」
「生きている」
ヴォルフはそれだけ言って、外へ出た。
伊織は食堂を振り返った。
鍋の湯気。
椅子。
記録棚。
割れた皿と黒い歯車の欠片が入った箱。
クロの定位置。
トトの木札の音。
そこに残る者たち。
帰る場所。
言葉にはしない。
今は、背に置く。
「東さん」
アリアが呼んだ。
「ああ」
「行きましょう」
戻るのではない。
ここから行く。
その言葉は、今朝も遅れなかった。
◆
街の門を出ると、空気が変わった。
いや、変わったというより、食堂の匂いが背中から薄れていった。
焼いたパン。
茶葉。
木の床。
湿った布。
クロの毛。
それらが遠くなり、代わりに乾いた土と朝露の匂いが来る。
街道は東へ伸びていた。
最初はなだらかだ。
石畳も残っている。
だが、先へ行くほど土が混じり、草が入り、道の輪郭が曖昧になる。
ヴォルフが先頭を歩く。
速くはない。
だが、迷いがない。
伊織はその後ろ。
アリアは隣。
リナとクロは少し後ろ。
クロは何度も振り返る。
街の方を。
食堂の方を。
リナがその背を軽く叩いた。
「帰るよ」
クロは鼻を鳴らした。
分かっている、という顔だった。
伊織は前を見る。
東部の地名札は、アリアの腰で小さく揺れている。
昨日、あの札のうち一枚だけが遅れた。
リュード旧水制御陣。
半拍。
短い遅れ。
だが、短い遅れほど厄介だ。
完全に分からないなら、最初から疑う。
中途半端に分かるものが、一番危ない。
伊織は右手を開いた。
握る。
まだ鈍い。
だが、歩くぶんには問題ない。
具現はしない。
少なくとも、今は。
「右手」
アリアが言った。
「見なくても分かるのか」
「肩が動きました」
「見るな」
「見ています」
「そうだったな」
アリアは前を見たまま言う。
「今朝は、無理をしていません」
「評価か」
「確認です」
「合格か」
「今のところは」
伊織は返事をしなかった。
合格という言葉は、あまり好きではない。
落ちた時が面倒だ。
ヴォルフが前から言う。
「最初の分岐で試すぞ」
「何を」
「遅れる言葉だ」
伊織は顔を上げる。
街道の先に、古い石標があった。
半分苔に覆われている。
刻まれた文字は、共通語に見える。
だが、近づくほど、少し違う。
角が丸い。
線が細い。
音の気配が違う。
伊織は石標を読んだ。
イルヴァ旧道。
読めた。
遅れない。
その隣。
リュード古筋。
遅れた。
半拍。
朝の風が、一度だけ耳の横を抜けた。
意味が後から来る。
リュード。
古筋。
昨日の老人の言葉と重なる。
避けな。
「遅れた」
伊織が言った。
アリアが頷く。
「やはり、その系統ですね」
ヴォルフは石標の右側を見た。
草に隠れた細い道がある。
歩きやすく見える。
真っ直ぐで、足場も悪くない。
クロがその道を嗅いだ。
すぐに鼻を引いた。
リナが耳を伏せる。
「クロ、嫌がってます」
「正解だ」
ヴォルフが言った。
「そこは行かん」
「歩きやすそうだぞ」
伊織が言う。
「だからだ」
ヴォルフは左側を指した。
石と根がむき出しの細い道。
歩きにくい。
荷物も引っかかりそうだ。
「こっちだ」
「理由は」
「三日迷った時、右を行った」
リナが小さく息を呑む。
「それだけですか」
「それだけで十分だ」
伊織は右の道を見る。
真っ直ぐ。
歩きやすい。
嫌な道だ。
「行くぞ」
ヴォルフが歩き出した。
左の悪い道へ。
伊織はついていく。
アリアも。
リナとクロも続く。
クロは一度だけ右の道を見た。
低く唸った。
それから、左へ来た。
伊織は右の道を振り返る。
その奥で、水の音がした。
ちょろちょろと流れる音。
だが、水は見えない。
音だけが、道の奥から来ていた。
伊織は足を止める。
「今の音」
アリアも止まった。
「水音ですか」
「見えない」
リナが耳を立てる。
「聞こえます。でも、場所が変です。右じゃなくて、後ろから聞こえるみたい」
クロは鼻を低くした。
ヴォルフが振り返る。
「無視しろ」
「罠か」
「東部の道は、聞いた方へ行くと戻れなくなる時がある」
「さっきから土地の性格が悪い」
「だから言った」
伊織はもう一度、音を聞いた。
水音。
右から。
いや、後ろから。
いや、足元から。
位置が決まらない。
トトを連れてこなかったことを思った。
正しかった。
たぶんではない。
正しかった。
音が狂う場所に、あの子を連れてくるべきではない。
だが、トトの木片はある。
伊織は内ポケットに触れた。
木片の角が指に当たる。
遅れない音。
必要になる。
そう思った。
◆
昼前、最初の休憩を取った。
小さな岩場だった。
道の脇に、古い水路の跡がある。
石で組まれた細い溝。
今は水が流れていない。
苔だけが残っている。
ヴォルフはその水路跡に腰を下ろさなかった。
少し離れた岩に座る。
「そこは座らないんですか」
リナが聞いた。
「湿っている」
「乾いてますよ」
「昔は湿っていた」
ガルドがいれば、また何か言っただろう。
伊織はそう思った。
だが、ガルドはいない。
代わりに、荷に結ばれた縄がある。
伊織はそれを見た。
古い縄。
手入れされた縄。
戻ったら返せ。
声が耳に残る。
伊織は荷を下ろす。
右手を使わないよう、左手で紐をほどく。
アリアが隣に来た。
「手伝います」
「いい」
「言うと思いました」
「なら聞くな」
「聞かないと、勝手に手伝うことになります」
「面倒な理屈だな」
「あなたほどではありません」
伊織は縄をほどいた。
右手を使わずに済んだ。
アリアはそれを見届ける。
リナはクロの餌袋を開けていた。
クロは待っている。
珍しく待っている。
「おすわり」
リナが言う。
クロはすでに座っていた。
「偉い」
クロが鼻を鳴らす。
ヴォルフは古い地図を広げた。
紙の端が擦り切れている。
その上に、今歩いている道と、実際の地形を重ねて見ている。
「地図と違うな」
伊織が言う。
「古い」
「どれくらい」
「俺が若い頃には、もう古かった」
「役に立つのか」
「古い地図は、古い罠を知っている」
「新しい罠は」
「足で見る」
ヴォルフは骨刃を一本抜いた。
地面に刺す。
浅い。
次に、水路跡の近くへ刺す。
沈んだ。
ぬるり、と。
乾いて見える土が、下では湿っている。
リナが顔をしかめた。
「見た目と違う」
「だから座らん」
ヴォルフは骨刃を抜く。
土がついていた。
黒い。
ただの泥ではない。
伊織はそれを見る。
「油か」
アリアが近づく。
「いえ。魔力を含んだ沈殿物です。旧水制御陣に近い場所で見られることがあります」
「危険か」
「量によります」
「便利な答えだ」
「不便な場所なので」
アリアは小瓶を取り出し、泥を採る。
手首の布が揺れた。
伊織はそれを見た。
「手首」
「使っていません」
「使おうとした」
「あなたも言うんですね」
「見ている人間が増えた」
アリアは小瓶の蓋を閉めた。
「必要です」
伊織は返事をしなかった。
アリアは小瓶をしまう。
その時、遠くで鐘の音がした。
一度。
伊織は顔を上げた。
鐘。
街からは離れている。
近くに集落もない。
リナも耳を立てた。
「今の」
「聞こえた」
伊織が言う。
クロが低く唸る。
アリアの顔が硬くなる。
「水音です」
「鐘に聞こえたぞ」
「はい」
アリアは水路跡を見る。
「水音が、鐘に聞こえています」
老人の言葉。
井戸の水音が、鐘の音に聞こえる。
伊織は内ポケットに触れた。
木片。
まだ使わない。
まだ。
ヴォルフが立ち上がった。
「休憩は終わりだ」
「早い」
「音が変わった場所では長居するな」
伊織は荷を持つ。
左手で。
右手はまだ使わない。
信用できない手は、まだ奥に置いておく。
それでも、身体のどこかが戦闘の準備を始めていた。
嫌な道だ。
だが、ここから行くしかない。
◆
午後、道は森に入った。
まだシルヴェイン領ではない。
だが、森の匂いは変わった。
乾いた草の匂いから、濡れた葉の匂いへ。
土の匂いも重い。
クロは何度も鼻を動かしている。
リナも同じように耳を動かす。
「匂いが散ってます」
「散る?」
伊織が聞く。
「普通は、風の向きで流れます。でも、ここは戻ってくる感じがします」
「匂いが反射している?」
「そんな感じです」
アリアが森を見た。
「古い水路跡が地下にあるのかもしれません。空気の流れが複雑になっている」
「つまり」
「クロの鼻も、万能ではありません」
クロが不満そうに鼻を鳴らした。
「事実です」
アリアが言うと、クロはそっぽを向いた。
伊織は前を見る。
ヴォルフが止まった。
手を上げる。
全員が止まる。
音はない。
いや。
ある。
葉の擦れる音。
クロの呼吸。
リナの靴が小石を踏む音。
その奥に、細い声のようなものが混じっている。
人の声。
女か。
子供か。
遠い。
助けを呼んでいるようにも聞こえる。
伊織は眉を寄せた。
「聞こえるか」
ヴォルフが低く言う。
「ああ」
「何に聞こえる」
「声」
リナが言う。
「私も。子供みたいな」
アリアは耳を澄ませる。
「水音です」
「またか」
「おそらく」
伊織は声を聞く。
助けて。
そう聞こえた気がした。
だが、意味は遅れていない。
翻訳ではない。
音の錯覚だ。
嫌な種類の罠だった。
理屈ではなく、身体を引っ張ってくる。
伊織は一歩出そうになった。
その前に、クロが吠えた。
一度だけ。
短く。
伊織は止まった。
リナがクロの首に手を置く。
クロは低く唸った。
ヴォルフが頷く。
「犬の方が正しい」
「クロです」
リナが言った。
「犬じゃなくてクロ」
「すまん」
ヴォルフは素直に言った。
その素直さに、リナの方が驚いた。
伊織は内ポケットからトトの木片を出した。
左手で持つ。
右手ではない。
木片を、ガルドの縄の留め具に軽く当てた。
かつ。
小さな音。
木札ほど澄んではいない。
だが、乾いている。
遅れない。
声のような水音が、遠のいた気がした。
アリアが伊織を見る。
「今の」
「確認だ」
「音で?」
「ああ」
伊織は木片を見る。
トトがくれた木片。
ただの木片。
だが、今は役に立った。
遅れない音が、一つある。
それだけで、呼ばれる方向を間違えずに済む。
「進む」
ヴォルフが言った。
「声の方とは逆へ」
誰も反対しなかった。
森の中を進む。
声は何度か聞こえた。
助けて。
待って。
こっち。
そう聞こえる。
だが、木片を鳴らすたび、ただの水音に戻る。
かつ。
かつ。
かつ。
その音は綺麗ではない。
けれど、確かだった。
伊織は思う。
トトを連れてこなくてよかった。
だが、トトの音は一緒に来ている。
それは、悪くなかった。
◆
夕方前、森が一度開けた。
小さな石橋があった。
橋の下に水はない。
だが、水の匂いだけが残っている。
ヴォルフが橋の手前で止まった。
「ここは渡らん」
「またか」
伊織が言う。
「まただ」
「理由は」
「覚えがある」
ヴォルフは橋の端を見る。
石に細い傷があった。
古い。
だが、人工的だ。
斜めに二本。
その横に、丸い穴。
アリアがしゃがむ。
「古い水制御陣の補助印です」
「危険か」
「今は動いていません。ですが」
アリアの言葉が止まる。
伊織は橋を見る。
石橋の向こうは、道が続いている。
歩きやすい。
真っ直ぐ。
またそれか。
伊織は舌打ちした。
「歩きやすい道が罠」
ヴォルフが頷く。
「覚えてきたな」
「覚えたくない」
「覚えた方が生きる」
リナがクロを見る。
クロは橋に近づかない。
「迂回できますか」
「できる」
ヴォルフは橋の下を指した。
「下を行く」
「水はないぞ」
「だから行ける」
伊織は橋の下を見る。
乾いた川底。
石が多い。
足場は悪い。
荷物も邪魔になる。
だが、橋よりはましだ。
全員が下へ降りた。
伊織は右手を使わずに降りようとして、足を滑らせた。
アリアがすぐに手を伸ばす。
伊織は左手で岩を掴み、止まった。
ガルドの縄が荷から落ちかける。
リナがそれを拾う。
「危ない」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃない人ほど、大丈夫って言います」
リナが言った。
アリアは何も言わない。
ただ、伊織の右手ではなく、足元を見た。
「右手を使わないなら、足場を選んでください」
「分かった」
「本当に?」
「分かった」
アリアはそれ以上言わなかった。
言われるより効いた。
川底を進む。
石が滑る。
クロは身軽に進む。
リナはクロの後を追う。
ヴォルフは遅い。
だが、足を置く場所は間違えない。
アリアは石橋の裏を見上げながら歩いている。
伊織は最後尾に近い位置で全員を見る。
その時、上の橋で音がした。
かちり。
歯車の音。
伊織の身体が反応した。
右手が冷える。
ヴァルターではない。
分かっている。
だが、音は似ていた。
「止まれ」
伊織が言う。
全員が止まった。
橋の上に、黒いものが転がった。
小さな歯車。
ひとつ。
石の上を転がり、橋の端で止まる。
アリアが息を飲む。
リナがクロの首を押さえる。
クロが唸る。
ヴォルフは骨刃に手をかけた。
伊織は右手を使わない。
左手で、黒鋼警棒を出そうとして。
止めた。
まだ出すな。
ここで使うな。
伊織は代わりに、トトの木片を鳴らした。
かつ。
乾いた音。
歯車は動かない。
黒い。
だが、魔力の気配は薄い。
アリアが目を細める。
「本物ではありません」
「偽物か」
「はい」
「また測っているのか」
「おそらく」
伊織は橋の上を見る。
誰もいない。
だが、見られている気がする。
気のせいではない。
この土地は、音をずらす。
言葉を遅らせる。
道を迷わせる。
そして、こちらの反応を見る。
ヴァルターは消えた。
だが、やり方は残っている。
伊織は舌打ちした。
「クソみたいに丁寧だ」
アリアが橋の上を見る。
「ここから先は、黒い歯車を見ても、すぐには反応しない方がいいかもしれません」
「無視はできない」
「はい」
「触らない。走らない。一人で行かない」
リナが言った。
伊織はリナを見る。
リナは肩をすくめた。
「覚えました」
クロが鼻を鳴らす。
ヴォルフが橋の下を指す。
「進むぞ。上の歯車を見るな」
「置いていくのか」
「見せるための歯車だ。見続けるだけ損をする」
伊織は頷いた。
偽物。
測定。
反応を見る罠。
もう何度もやられた。
だが、ここでは音と翻訳の遅れが加わる。
前より嫌な手になっている。
全員が川底を進む。
橋を越える。
その間、歯車は動かなかった。
それが逆に気持ち悪かった。
◆
日が傾く前に、最初の宿場跡に着いた。
宿場と言っても、もう人はいない。
石壁。
壊れた屋根。
古い井戸。
馬を繋ぐ柱だけが残っている。
ヴォルフは周囲を見てから言った。
「今日はここだ」
「安全か」
伊織が聞く。
「安全な場所はない」
「なら」
「ここは危険が見える」
ヴォルフは井戸を指した。
「井戸には近づくな」
老人の言葉が戻る。
井戸の水音が、鐘の音に聞こえる。
伊織は井戸を見る。
蓋はない。
中は暗い。
水の匂いはしない。
だが、音だけがある。
遠くで誰かが椀を置いたような音。
食堂の音に似ていた。
嫌な真似をする。
伊織は井戸から目を離した。
「水は」
リナが聞く。
「持ってきた分を使う」
アリアが答えた。
「井戸は使いません」
クロは井戸を見ない。
徹底して見ない。
それが一番怖かった。
伊織たちは石壁の内側に荷を置いた。
火は小さく。
灯りも弱く。
音を立てすぎない。
ヴォルフが見張りの順を決める。
伊織は最初を希望した。
アリアが却下した。
「右手」
「見張りに右手は使わない」
「疲労は使います」
「便利な言葉だな」
「必要な言葉です」
ヴォルフが言う。
「俺が最初に立つ」
「眠れるのか」
伊織が聞く。
「年寄りは眠りが浅い」
「便利だな」
「不便だ」
ヴォルフは骨刃を膝に置き、壁際に座った。
リナはクロの餌を出す。
クロは食べる前に、井戸を一度だけ見た。
すぐに視線を戻す。
アリアは地名札を並べている。
リュード旧水制御陣。
伊織はそれを見た。
遅れる。
半拍。
だが、朝より短い。
慣れてきている。
慣れは、信用ではない。
伊織はトトの木片を取り出した。
火の横で、軽く鳴らす。
かつ。
乾いた音。
井戸の奥で、何かが鳴った。
かん。
伊織は止まった。
アリアも止まった。
リナがクロを押さえる。
今のは、返事に聞こえた。
井戸の奥から、木札の音が返ってきたように。
だが、違う。
違うはずだ。
伊織は木片を握った。
トトの音を真似るな。
そう思った。
声には出さなかった。
井戸の奥は暗い。
水は見えない。
ただ、遅れた音だけが残っていた。
アリアが低く言う。
「明日、リュードへ近づきます」
「ああ」
「音も、言葉も、信用しすぎない方がいい」
「分かってる」
伊織は井戸を見たまま答えた。
木片は左手の中にある。
右手はまだ完全ではない。
だが、握れる。
食堂は遠い。
木札の本物の音も遠い。
それでも、荷の中には残る者の手が入っている。
ガルドの縄。
ニコの記録。
トトの木片。
エルナの薬。
リナの餌袋。
ヴォルフの古地図。
アリアの地名札。
伊織は火を見る。
小さな火だった。
戻るのではない。
ここから来た。
そして、ここから先へ行く。
井戸の奥で、もう一度だけ音がした。
かん。
伊織は返事をしなかった。




