第41話 荷造り
荷物は、思ったより多かった。
食料。
水袋。
火打ち石。
包帯。
薬草。
予備の布。
地図。
記録帳。
クロの餌。
クロの餌だけで、袋が一つ増えた。
リナはそれを当然のように背負おうとした。
伊織は止めた。
「重い」
「大丈夫です」
「歩く距離を考えろ」
「クロの分です」
床で丸くなっていたクロが、鼻を鳴らした。
分かっている顔だった。
「自分で持て」
伊織が言うと、クロは目だけを閉じた。
寝たふりだった。
リナが笑いを堪える。
「クロに荷物は無理ですよ」
「無理な顔をするのが早い」
「東さんも同じ顔します」
「俺は荷物を持つ」
「右手は?」
アリアの声が横から来た。
伊織は黙った。
荷造りの場所は食堂だった。
机を三つ寄せ、そこに遠征用の荷を並べている。
エルナが品目を読み上げ、ニコが記録し、リナが袋に詰める。
ガルドは左腕を吊ったまま、口だけ出している。
ヴォルフは椅子に座り、古い東部地図を膝の上に広げていた。
アリアは封書とは別に、地名を書いた木片を整理している。
伊織は右手を開いた。
昨日より動く。
だが、重い。
何かを握るだけならいい。
長く握り続けると、手首の奥がきしむ。
黒鋼警棒はまだ出していない。
出したくなるたびに、アリアが見ている。
面倒だ。
だが、助かっている。
「軽い袋なら持つ」
伊織が言うと、エルナが即答した。
「地図と記録だけです」
「武器は」
「具現しないでください」
「聞く前に答えるな」
「どうせ聞くでしょう」
ガルドが笑った。
「お前、完全に読まれてるな」
「お前も動かすな」
「俺は口しか動かしてねえ」
「昨日、右手で椅子を引いて左肩まで動いた」
「見てたのかよ」
ニコが記録帳から顔を上げた。
「見てました」
「お前もか」
「記録係なので」
ガルドは天井を見た。
「このギルド、逃げ場がねえ」
クロが鼻を鳴らした。
同意なのか、嘲笑なのか分からない。
たぶん後者だ。
◆
出発は二日後になった。
三日後の予定を、一日だけ詰めた形だ。
エルナは最後まで反対した。
ただ、東部からの使者がもう一度来たことで、話が変わった。
アルド=シルヴェインの容態は、急変はしていない。
だが、東部の旧水制御陣の異常は広がっている。
水路沿いの村で、水が逆に流れた。
井戸の水面に、黒い歯車の影が映った。
誰かがそう言ったらしい。
影。
映っただけ。
それなら本物ではないかもしれない。
だが、ヴァルターの後では笑えなかった。
伊織は記録帳を見る。
ニコの字で、丁寧に書かれている。
水が逆に流れた。
井戸の水面。
黒い歯車の影。
嫌な単語ばかりだ。
「水が逆に流れるって、どういうことですか」
リナが聞いた。
アリアは少し考えた。
「自然には起きません。高低差か、魔力圧が反転している可能性があります」
「つまり?」
「誰かが、水の通る順番を変えている」
ガルドが顔をしかめた。
「また順番かよ」
ヴォルフが地図から目を離さずに言う。
「水路は順番でできている。入口、溜め、流れ、出口。どれか一つ狂えば、全部狂う」
「詳しいな」
「昔、東部で道を間違えた」
「それで詳しくなるのか」
「三日迷った」
ガルドが黙った。
リナも黙った。
クロだけが顔を上げた。
ヴォルフは続ける。
「道は覚えた。水の音もな」
伊織はヴォルフを見る。
片目。
骨刃。
古い道。
古い水路跡。
速くない。
荷物も多くは持てない。
だが、道を間違えたことがある人間は、間違える場所を知っている。
それは地図より役に立つ。
「東部では、道が道の顔をしてない時がある」
ヴォルフが言った。
「どういう意味だ」
「歩きやすい道が罠で、歩きにくい道が正解ということだ」
「性格が悪い土地だな」
「土地に性格はない」
「あるように聞こえる」
「あるかもしれん」
ヴォルフは茶を飲んだ。
「エルフは、よそ者にまっすぐ来てほしくない」
アリアの手が止まった。
木片の上で、指先が止まる。
誰もすぐには声をかけなかった。
アリアは少しして、また木片を並べ始めた。
「否定はしません」
その声は平らだった。
だが、尖ってはいなかった。
◆
昼過ぎ、伊織とアリアは市場へ出た。
必要なものがあった。
軽い干し肉。
水に溶かす塩。
東部の雨具。
虫除けの香草。
クロ用の丈夫な革紐。
最後の一つで、クロは明らかに不満そうな顔をした。
「逃げる気があるから嫌がるんだろ」
伊織が言う。
クロはそっぽを向いた。
アリアが香草を手に取る。
「これは東部の森でよく使います」
「効くのか」
「虫には」
「魔獣には」
「効きません」
「正直だな」
「嘘をついても噛まれます」
屋台の老人が、二人を見た。
皺の深い顔。
耳は短い。
人間だ。
だが、発音が少し違った。
「東の森へ行くなら、リュードの古筋は避けな」
言葉が入ってきた。
だが、遅れた。
半拍。
リュード。
古筋。
避けな。
意味が後からつながる。
伊織は老人を見る。
「もう一度言ってくれ」
老人は怪訝な顔をした。
「リュードの古筋は避けな、と言ったんだ。あそこは水が鳴らねえ」
また遅れた。
今度は少し短い。
だが、遅れる。
水が鳴らない。
伊織は眉を寄せた。
「水が鳴らないとは」
老人は香草を束ねながら言う。
「そのままだ。流れてるのに、音がしねえ。昔から縁起が悪い。近ごろは、もっと悪い」
アリアが横で聞いていた。
表情が硬い。
「いつからですか」
「十日ほど前だな」
「黒い歯車を見た者は?」
老人の手が止まった。
香草の束が、ばらける。
「お嬢さん、どこの者だ」
「ただのハンターです」
「ただのハンターは、そんな聞き方をしねえ」
アリアは答えなかった。
老人は伊織を見る。
伊織は何も言わない。
すると、老人は声を落とした。
「見たって奴はいる。だが、見た奴は次の日から水の音を聞き間違える」
「聞き間違える?」
「井戸の水音が、鐘の音に聞こえる。川の音が、誰かの声に聞こえる。逆もある」
嫌な話だ。
伊織はそう思った。
翻訳が遅れる。
水音も狂う。
音と意味の間に、何かが挟まっている。
旧水路でトトが水音に飲まれたことを思い出す。
あれとは違う。
だが、似ている。
似ていることが、気に入らない。
「香草を二束」
伊織が言った。
「三束にしな」
老人は即答した。
「理由は」
「あんたら、戻ってくる気がある顔をしてる」
伊織は少し黙った。
アリアも黙った。
老人は三束を袋に入れた。
「戻るなら、余分に持っていくもんだ」
伊織は代金を置く。
老人は受け取る前に、アリアを見た。
「東の森は、戻る場所じゃねえ。入る場所だ」
その言葉は、一拍遅れなかった。
アリアは目を伏せた。
「分かっています」
「ならいい」
老人は金を受け取った。
クロが香草の袋を嗅ぎ、すぐ顔をそむけた。
効くらしい。
◆
ギルドに戻ると、ガルドが荷物を勝手に増やしていた。
木槌。
予備の釘。
短い縄。
小型の斧。
酒瓶。
伊織は最後の一本を見た。
「これは何だ」
「薬だ」
エルナが後ろから来る。
「違います」
「気付くの早いな」
「匂いで分かります」
クロも鼻を鳴らした。
ガルドは酒瓶を取り上げようとして、エルナに没収された。
「留守番に酒は不要です」
「留守番だから要るんだろ」
「不要です」
リナが荷物を確認する。
「釘と縄は使えそうです」
「だろ」
ガルドが得意げに言う。
「東部で何があるか分からねえからな。足場が悪い時は縄、木戸を直すなら釘、魔獣の骨を割るなら斧」
「斧は」
エルナが言う。
「置いてください」
「なぜだ」
「重量」
短い。
だが強かった。
ガルドは抵抗しようとして、伊織を見た。
「お前、何とか言え」
「重い」
「お前まで」
「荷は軽くする」
ガルドは舌打ちした。
だが、斧を下ろした。
代わりに、短い縄を伊織へ投げる。
伊織は左手で受けた。
「これは持っていけ」
「理由は」
「俺が行けねえからだ」
ガルドは目を逸らした。
「何かを押さえる時に使え。木槌の代わりにはならねえが、何もないよりはましだ」
伊織は縄を見る。
使い込まれている。
古い。
だが、手入れされていた。
「借りる」
「やるんじゃねえぞ」
「分かった」
「戻ったら返せ」
「ああ」
ガルドはそれ以上言わなかった。
リナがそのやり取りを見ていた。
クロも見ていた。
ニコが記録帳に何かを書こうとして、やめた。
書かなくてもいいこともある。
伊織はそう思った。
◆
夕方、リナはクロの餌袋を二つに分けた。
一つは自分。
一つは伊織。
伊織は拒否した。
「重い」
「軽くしました」
「クロに持たせろ」
クロが寝たふりをした。
「ほら」
「ほらじゃない」
リナは袋を抱えたまま言う。
「私、行きますから」
「決まっただろ」
「決まりました。でも、ちゃんと行きます」
「どういう意味だ」
「足手まといじゃなく」
伊織はリナを見る。
リナは視線を逸らさなかった。
狸耳が少し寝ている。
緊張している。
だが、逃げていない。
「旧水路では、トトもニコも役目がありました。私は、クロと走って、匂いを見て、戻ってきた。東部でも、それをします」
「一人で走るな」
「走りません」
「クロが走ったら」
「止めます」
クロが不満そうに鼻を鳴らした。
リナはクロを見る。
「止めるからね」
クロは顔をそむけた。
伊織は餌袋を一つ受け取った。
リナが驚いた顔をする。
「持つんですか」
「軽い方だけだ」
「ありがとうございます」
「クロの分だ」
「はい」
リナは笑った。
今度は、口を押さえなかった。
◆
夜、出発の荷は食堂の隅にまとめられた。
四人と一匹分。
それから、残る者の分の記録。
ニコがまとめた旧水路戦の写し。
エルナが作った薬の一覧。
ガルドの縄。
リナの餌袋。
ヴォルフの古い地図。
アリアの地名札。
伊織の右手は、まだ完全ではない。
だが、荷物の中に銃はない。
盾もない。
装甲輸送車もない。
必要になれば作る。
今は作らない。
そう決めた。
食堂の灯りが落とされる頃、トトが荷物の前に立った。
木札を持っている。
ミナが隣にいる。
「トトが、これを入れたいって」
ミナが言った。
トトの手には、小さな木片があった。
何も書かれていない。
ただの木片。
伊織は膝を折る。
「合図用か」
トトは頷く。
木札とは違う。
首から下げるものではない。
渡すものらしい。
ミナが言う。
「音が遅れたら、これを叩いてって」
伊織は木片を受け取った。
軽い。
何の変哲もない。
だが、音は出る。
きっと出る。
「借りる」
トトは首を横に振った。
ミナが笑う。
「くれるって」
「そうか」
伊織は木片を左手で持った。
「戻ったら、鳴らして返す」
トトは少し考えてから、頷いた。
アリアがそれを見ていた。
何も言わなかった。
言わない方がよかった。
伊織は荷物の一番上に、その木片を入れた。
東部の地名札の隣。
遅れる言葉の隣に、遅れない音。
それでいい。
食堂の奥で、クロが大きくあくびをした。
ガルドが酒瓶を探して、エルナに見つかった。
リナがクロの餌袋を結び直した。
ニコが人数を数えた。
ヴォルフが古い地図を畳んだ。
アリアが封書を胸元にしまった。
伊織は荷物を見た。
重い。
荷の重さではない。
残るものの重さだ。
行く者の荷物には、残る者の手が入っている。
そういう重さだった。
面倒だ。
だが、悪くない。
伊織は右手を握った。
まだ鈍い。
だが、握れる。
食堂の中で、木札が鳴った。
かん。
明日ではない。
まだ出発ではない。
それでも、旅はもう始まっていた。




