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第40話 ここから行く

 翌朝、伊織は右手で匙を持った。


 持てた。


 それだけで、食堂の何人かがこちらを見た。


 リナ。


 ニコ。


 エルナ。


 そしてアリア。


 見すぎだ。


 伊織はそう思ったが、言わなかった。


 匙は重くない。


 木の匙だ。


 黒鋼警棒でも、銃でも、装甲輸送車のハンドルでもない。


 ただの匙。


 それでも、指の奥にまだ鈍さがある。


 握れる。


 動く。


 だが、力を入れ続けると、手首の奥で細い糸が擦れるような感覚があった。


 伊織は粥をすくう。


 器へ戻す。


 もう一度すくう。


 今度は口へ運ぶ。


 こぼさなかった。


 ガルドが向かいで腕を組んだ。


「おお」


「何だ」


「匙を使えた」


「見世物じゃない」


「見世物だろ。昨日まで左で食ってた奴が、今日は右だ」


 エルナがガルドを見る。


「ガルドさんも、左腕を使わないでください」


「使ってねえ」


「使おうとした顔です」


「顔で診るな」


「動作で診ています」


 リナが笑いかけて、口を押さえた。


 クロは床で丸くなったまま、片目だけ開けている。


 トトが木札を軽く叩いた。


 かん。


 乾いた音。


 応援なのか、合図なのか、分からない。


 ガルドが右手で匙を持ち上げる。


「俺にも鳴らせ」


 トトは首を横に振った。


 ミナが通訳するように言う。


「今のは東さんの分」


「差別だな」


 ヴォルフが茶を飲みながら言った。


「安静にしていない者には鳴らん」


「木札にも見捨てられたか」


 ガルドは大げさに肩を落とした。


 左肩を動かしかけて、顔をしかめる。


 エルナが無言で見た。


「……動かしてねえ」


「今、痛めましたね」


「痛めてない」


「顔で分かります」


 ガルドは伊織を見た。


「お前の周り、顔を読む奴が多すぎるぞ」


「俺のせいじゃない」


 アリアが静かに言う。


「必要です」


 エルナも頷いた。


「必要です」


 ガルドは匙を置いた。


「このギルド、怖えな」


 小さく笑いが起きた。


 だが、笑いはすぐに収まった。


 机の端には、東部からの封書が置かれている。


 深い緑の蝋。


 葉と水輪の紋章。


 見ないようにしても、目に入る。


 アリアはその封書を食堂の中央には置かなかった。


 自分の近くに置いている。


 誰かに隠すわけではない。


 ただ、自分のものとして置いている。


 伊織はそれを見てから、匙を置いた。


「今日、決めるのか」


 アリアは封書を見る。


「はい」


 食堂の音が止まった。


 鍋の湯気だけが上がっている。


 クロが片目を閉じた。


 アリアは顔を上げる。


「東部へ行きます」


 誰もすぐには言わなかった。


 決まった、という音はしなかった。


 ただ、それぞれが少しずつ息を整えた。


 伊織はアリアを見る。


「理由は」


「三つあります」


 アリアは指を一本立てた。


「父が倒れたこと」


 二本目。


「旧水制御陣の異常が確認されたこと」


 三本目。


「黒い歯車を持つ者が目撃されたこと」


 アリアの指が下りる。


「この三つが重なった以上、私が行かない理由はありません」


「行きたいのか」


 伊織は聞いた。


 食堂の誰も動かない。


 それは、昨夜から残っていた問いだった。


 アリアはすぐには答えない。


 封書の端を見ている。


 薄い紙。


 折り目。


 緑の蝋。


 そこに目を落としたまま、言った。


「分かりません」


 正直な答えだった。


「ですが、分からないままでも、行く必要があります」


 伊織は頷いた。


「そうか」


「はい」


「一人では」


「行きません」


 今度は早かった。


 アリアは伊織を見る。


「それは、決めました」


 伊織は何も言わなかった。


 言えば、余計になる。


 リナが手を上げた。


「私も行きます」


 エルナがすぐに言った。


「待ってください」


「待ちません」


「待ってください」


 リナは口を閉じた。


 エルナの声が、いつもより低かったからだ。


「東部行きは遠征です。旧水路の見回りとは違います。道も悪く、距離もある。クロを連れていくなら食料も増えます。ギルド側の防衛も考えなければなりません」


「でも」


「でも、だけでは行けません」


 リナは唇を噛む。


 クロが鼻を鳴らした。


 伊織は床のクロを見る。


 クロも行く気だ。


 言うまでもない顔をしている。


 ガルドが右手を上げた。


「俺は無理だな」


 全員がガルドを見る。


「何だよ」


「珍しいことを言ったな」


 ヴォルフが言った。


「俺だって分かる。左がこれじゃ木槌を振れねえ」


「振らないなら使える」


 ゼクトの声が、どこかから聞こえた気がした。


 いや、気のせいだった。


 ガルドは自分の左腕を見る。


「支点を押さえるくらいならできる」


 エルナが即答する。


「できません」


「いや、片手なら」


「できません」


「厳しすぎるだろ」


「折れていないだけです」


 その言葉で、ガルドは黙った。


 ヴォルフが茶を置く。


「俺は行ける」


 エルナが眉を寄せる。


「ヴォルフさん」


「目は使える。東部の道も多少は知っている。足が遅いなら、先に言え」


「遅いです」


「言ったな」


「はい」


 ヴォルフは喉の奥で笑った。


「なら、荷物持ちには向かん」


 ニコが記録帳を開いた。


「私は残ります」


 その声は小さいが、はっきりしていた。


 アリアがニコを見る。


「いいんですか」


「はい。旧水路の記録をまとめます。東部で同じものが出たなら、ここの記録を送れるようにしておきます」


 ニコは一度、木札を見る。


 トトの木札だ。


「それと、ここに残る人の連絡係が必要です」


 ヴォルフが頷いた。


「いい判断だ」


 ニコは少し背筋を伸ばした。


 ミナがトトを見る。


「私たちは?」


 トトは木札を触る。


 鳴らさない。


 エルナが言った。


「今回は残ってください」


 ミナは少しだけ顔を曇らせる。


 トトは何も言わない。


 ただ、木札を握った。


 伊織はその手を見た。


 旧水路で水音に飲まれた手。


 それでも音を戻した手。


 連れていくことが正しいとは限らない。


 残すことが守ることとも限らない。


 だが、今回は残すべきだ。


 子供だから、だけではない。


 この街にも、線が必要だからだ。


 アリアが静かに言った。


「残ってもらえると、助かります」


 ミナが顔を上げる。


「助かる?」


「はい。帰ってくる場所を、見ていてほしいんです」


 トトが木札を一度鳴らした。


 かん。


 ミナは頷いた。


「分かった」


 リナはまだ納得していない顔だった。


 クロも同じだ。


 同じ顔をするな、と伊織は思った。



 昼前、エルナが地図を広げた。


 東部への道。


 街道。


 森。


 古い水路跡。


 小さな宿場。


 山道。


 地図上の線は細い。


 古い。


 ところどころ、インクが薄れている。


 ヴォルフが片目で地図を見る。


「この道は使うな」


 エルナが指を止める。


「理由は」


「橋が落ちている」


「いつの話ですか」


「十五年前だ」


「直っている可能性は」


「ある」


「なら」


「直っていたとしても、落ちる橋は一度落ちる」


 ガルドが口を挟む。


「年寄りの経験が雑になってきたぞ」


「生き残るには十分だ」


 伊織は地図を見る。


 文字が読める。


 読めるが、変だった。


 東部の地名の一つ。


 インクの細い文字。


 翻訳された意味が、頭に入るまで一拍遅れた。


 伊織は眉を寄せる。


 もう一度見る。


 読める。


 だが、少し遅い。


 昨日までの共通語とは違う。


 方言か。


 古語か。


 翻訳機能が、一瞬だけ引っかかった。


「東さん?」


 アリアが気づいた。


「今の地名」


「読めませんか」


「読める」


「では」


「遅れた」


 食堂が静かになる。


 アリアが地図を見る。


「東部方言です」


「方言」


「はい。古いエルフ語の名残があります。共通語表記でも、土地の読みが混じるんです」


「翻訳が遅れる」


「可能性はあります」


 伊織は舌打ちしそうになった。


 嫌な予兆だ。


 戦闘中に一拍遅れれば、それだけで死ぬ。


 ヴァルターは消えた。


 だが、東部には別の歪みがある。


 黒い歯車だけではない。


 言葉そのものが、遅れるかもしれない。


 アリアは伊織の顔を見る。


「今すぐ危険とは限りません」


「戦闘で出たら危険だ」


「はい」


「なら、事前に慣らす」


 伊織は地図を指した。


「東部の地名を全部読ませろ」


「全部ですか」


「全部だ」


 ガルドが呆れた声を出す。


「勉強会かよ」


「そうだ」


 伊織は地図を見る。


「嫌いだが、やる」


 ヴォルフが喉の奥で笑った。


「嫌いなら向いている」


「どういう理屈だ」


「得意な奴ほど油断する。嫌いな奴は確認する」


 アリアが地図の端を押さえた。


「では、読みます」


「待て」


 エルナが止めた。


「東さんは右手の回復中です。長時間の魔力負荷は避けるべきです」


「地名を読むだけだ」


「あなたの場合、読むだけでは済まない可能性があります」


 エルナの判断は正しい。


 伊織は分かっていた。


 分かっているから、面倒だった。


 アリアが言う。


「では、十個だけ」


「二十」


「十です」


「十五」


 アリアは考えた。


「十二」


「細かいな」


「あなたほどではありません」


 リナが小さく笑った。


 クロが鼻を鳴らす。


 伊織は折れた。


「十二でいい」


 アリアは地図を指差す。


「では、ここから」


 東部の地名が、一つずつ読まれていく。


 イルヴァ。


 セリム水橋。


 古い森。


 シルヴェイン領境。


 リュード旧水制御陣。


 その名前だけ、伊織の頭で遅れた。


 半拍。


 短い。


 だが、確かに遅れた。


 伊織はその地名を見る。


 リュード。


 文字は読める。


 音が遅れる。


 意味が、後から追いつく。


 腹の奥が冷えた。


 クソみたいに丁寧だ。


 今度は敵ではなく、土地そのものがそうだった。


「そこだな」


 伊織が言った。


 アリアも頷く。


「封書にあった異常地点と一致します」


 エルナが記録する。


 ニコも横で書き写す。


 トトが木札を鳴らした。


 かん。


 その音は遅れない。


 伊織はふと、それを聞いた。


 言葉は遅れる。


 音は届く。


 東部で必要になるのは、また別の線かもしれない。



 午後、アリアは一人で庭の端に立っていた。


 一人でいる。


 だが、誰も近づいていないわけではない。


 リナは食堂の入口にいる。


 クロは木陰にいる。


 ニコは受付の机から見える場所に座っている。


 見張っているのではない。


 放っておいているのでもない。


 距離を置いている。


 伊織は中庭の反対側からそれを見ていた。


 アリアの手には封書がある。


 開いてはいない。


 ただ持っている。


 父からの封書。


 いや、父の名で来た封書。


 その違いは分からない。


 伊織には家族というものの扱いが分からない。


 南条のことなら、今でも分からない。


 守れなかった相手。


 戻れない相手。


 どう思えばいいか分からないまま、残っている。


 アリアの中にも、そういうものがあるのだろう。


 父親が生きている分、なおさら面倒だ。


 生きている相手は、死んだ相手より整理がつかない。


 嫌な話だ。


 伊織は右手を握る。


 まだ重い。


 だが、今朝より動く。


 具現はしない。


 しないと決めた。


 少なくとも今日中は。


 そこへエルナが来た。


「東さん」


「ああ」


「出発するなら、早くても三日後です」


「遅いな」


「早いです」


 エルナは即答した。


「あなたの右手、アリアさんの手首、ガルドさんの腕。全員、まだ遠征向きではありません」


「ガルドは置く」


「本人が納得するかは別です」


「納得しなくても置く」


「その言い方は揉めます」


「だろうな」


 伊織は中庭のアリアを見る。


「アリアは三日待てるか」


「待てます」


「根拠は」


「待つしかないからです」


 エルナの声は淡々としていた。


「急いで崩れるより、整えて行く方が結果的に早い」


「正しいな」


「正しいことを嫌そうに聞かないでください」


「嫌いなんだ」


「正しいことが?」


「正しいだけのことが」


 エルナは伊織を見た。


 医者ではない顔になった。


「でも、今は必要です」


「ああ」


「あなたが休むことも」


「分かってる」


「本当に?」


「今朝、アリアに言われた」


「なら、もう一度言う必要はありませんね」


「助かる」


「ただし、守らなければ三回言います」


 伊織は黙った。



 夕方、出発候補が整理された。


 アリア。


 伊織。


 ヴォルフ。


 リナとクロ。


 この四人と一匹が基本。


 ヴォルフは速くはない。


 だが、東部の古道と、古い水路跡を知っている。


 戦力ではなく、道を読む目として必要だった。


 ガルドは留守。


 本人は当然文句を言った。


「俺抜きで東部とか、冗談だろ」


「冗談ではありません」


 エルナが言う。


「左腕を吊ったまま山道を行くつもりですか」


「右は空いてる」


「転んだら左で支えます」


「転ばねえ」


「昨日、食堂の段差で足を引っかけました」


「見てたのかよ」


「見ています」


 ガルドは伊織を見る。


「お前からも何か言え」


「留守を頼む」


「そうじゃねえ」


「食堂とギルドを任せる」


 ガルドは口を開けた。


 言い返そうとして、止まった。


 伊織は続ける。


「黒い歯車の記録がある。旧水路も封鎖中だ。東部に行っている間、ここを空にするわけにはいかない」


 ガルドは黙る。


「お前が残るなら、リナを連れていける」


 リナが顔を上げた。


 ガルドはその顔を見る。


 クロも見る。


 それから、自分の左腕を見る。


「……ずるい言い方しやがる」


「事実だ」


「事実が一番ずるいんだよ」


 ヴォルフが頷いた。


「分かるようになったか」


「うるせえ」


 ガルドは椅子に座り直した。


「分かったよ。残る。ただし、東部で面白いもん見つけたら土産に持ってこい」


「何がいい」


「折れてない腕に効く薬」


 エルナが言った。


「折れてはいません」


「だから言ってる」


 リナが笑った。


 今度はちゃんと笑った。


 クロも鼻を鳴らす。


 トトが木札を鳴らした。


 かん。


 ガルドはそれを指差す。


「今のは俺の応援だろ」


 トトは少し考えた。


 首を横に振った。


 ミナが言う。


「留守番の合図だって」


「応援よりきついな」


 食堂に笑いが広がった。


 今度は、少し長く続いた。


 アリアはそれを見ていた。


 封書はもう机に置いていない。


 胸元の内側にしまってある。


 伊織はそれに気づいた。


 行くと決めた。


 だが、まだ抱えている。


 それでいい。


 抱えたまま行けばいい。


 誰かに預ける必要はない。


 誰かに奪われる必要もない。



 夜。


 伊織はまた中庭にいた。


 右手を開く。


 閉じる。


 具現はしない。


 指は今朝より動く。


 だが、まだ信用できない。


 信用できない手で戦うのは嫌いだ。


 信用できない情報で突っ込むのも嫌いだ。


 東部行きは、その両方だった。


 右手は不完全。


 地名の翻訳は遅れる。


 アリアは家に戻るのではなく、ここから行くと言った。


 黒い歯車は、ヴァルターだけのものではないかもしれない。


 面倒だ。


 本当に面倒だ。


 伊織はそう思った。


 だが、行かない理由にはならない。


 食堂から木札の音が聞こえた。


 かん。


 乾いた音。


 遅れない音。


 言葉より早く届く音。


 アリアが来た。


 今日は封書を持っていない。


 代わりに、小さな布袋を持っていた。


「荷物か」


「まだです」


「では」


「東部の地名を書いた札です」


 アリアは布袋を開く。


 中には、小さな木片が十数枚入っていた。


 一枚ずつ、文字が書かれている。


 東部の地名。


 イルヴァ。


 セリム水橋。


 リュード旧水制御陣。


 読める。


 だが、一つだけ遅れる。


 リュード。


 半拍。


 伊織は顔をしかめた。


「嫌な札だな」


「慣らすためです」


「嫌がらせにも使える」


「使いません」


「使いそうな顔だ」


「あなたが無理をしたら」


 伊織は黙った。


 アリアは木片を一枚、伊織に渡す。


 リュード旧水制御陣。


 翻訳が一拍遅れる。


 やはり遅い。


 だが、昼よりは少し早い。


 慣れる。


 たぶん。


 いや。


 慣らす。


 伊織は木片を左手で持つ。


「右手で持たなくていいんですか」


「今日は使わない」


 アリアは伊織を見る。


「守っていますね」


「何を」


「約束を」


「約束した覚えはない」


「では、指示を」


「それも嫌だな」


 アリアは笑った。


 すぐに消えた。


 だが、残った。


 伊織は木片を見る。


 東部の文字。


 遅れる意味。


 次の線。


「三日後か」


「早ければ」


「遅ければ」


「右手次第です」


「俺次第か」


「いいえ」


 アリアは言った。


「私たち次第です」


 伊織は木片を握る。


 右手ではない。


 左手で。


 木札とは違う音がした。


 小さく、乾いた音。


 食堂の中から、トトの木札が返事をするように鳴った。


 かん。


 伊織はその音を聞いた。


 アリアも聞いていた。


 東部の地名は、まだ半拍遅れる。


 右手も、まだ完全ではない。


 それでも、準備は始まっていた。


 戻るのではない。


 ここから行く。


 その言葉は、今度は遅れなかった。


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