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第39話 東部からの封書

 右手は、まだ完全には戻らなかった。


 翌々日の朝。


 伊織は中庭で、黒鋼警棒を出そうとしていた。


 銃ではない。


 盾でもない。


 装甲輸送車でもない。


 ただの警棒。


 それなら負荷は小さい。


 そう判断した。


 判断しただけで、まだ出してはいない。


 背後に気配があった。


「やめてください」


 アリアの声だった。


 伊織は右手を下ろす。


「まだ何もしていない」


「しようとしていました」


「分かるのか」


「分かります」


 アリアは中庭の入口に立っていた。


 手首の布は薄くなっている。


 完全に外してはいない。


 伊織はそれを見る。


 アリアも、伊織の右手を見る。


「お互い様か」


「はい」


 伊織は息を吐く。


「確認だけだ」


「確認は、治ってからでもできます」


「治っているかの確認だ」


「それを屁理屈と言います」


 返す言葉がなかった。


 たしかにそうだった。


 アリアは近づいてくる。


「右手は?」


「昨日より動く」


「痛みは」


「遠い」


「魔力の流れは」


「鈍い」


「では、まだです」


「判断が早いな」


「あなたが早く動こうとするからです」


 伊織は右手を見る。


 指先は動く。


 だが、具現しようとすると、奥で何かが絡む。


 痛みではない。


 冷えでもない。


 細い糸が、見えない場所で結ばれているような違和感。


 ヴァルターの線ではない。


 もう残滓は消えている。


 これは、自分の中の乱れだった。


「焦っていますか」


 アリアが言った。


「少しな」


「珍しいですね」


「そうか」


「はい」


 アリアは中庭を見る。


 黒鋼装甲輸送車が消えた跡は、まだ薄く残っていた。


 二本の車輪跡。


 乾いてはいる。


 だが、完全には消えていない。


「焦る理由は、あります」


 アリアは静かに言った。


「右手が使えなければ、戦力が落ちる」


「ああ」


「でも、今無理をすれば、もっと落ちます」


「分かっている」


「分かっていても、やる顔です」


「最近は顔に出るな」


「最近ではありません」


 アリアが言った。


「最初からです」


 伊織は眉を上げた。


「そうか」


「はい。ただ、私が読むのに慣れました」


 それは、少し困る言葉だった。


 伊織は右手を握り、開く。


 具現はしない。


 アリアはそれを見届けてから、肩の力を抜いた。


 その時だった。


 ギルドの正面で、鐘が鳴った。


 一度。


 二度。


 来客の合図。


 ただし、急報ではない。


 伊織とアリアは同時にそちらを見た。


 クロが食堂の入口から顔を出す。


 リナの声が続いた。


「誰か来た!」


 いつもの高さではなかった。


 クロも、吠えなかった。



 ギルド正面に立っていたのは、若い男だった。


 旅装。


 薄茶の外套。


 腰に短剣。


 背には革筒。


 ハンターではない。


 商人でもない。


 身のこなしは悪くないが、戦い慣れている匂いではなかった。


 男はギルドの入口で、深く息を整えていた。


 長く歩いてきた顔だ。


 埃まみれの靴。


 乾いた唇。


 だが、目だけは落ち着いている。


 エルナが受付の前に立っている。


 ヴォルフは少し離れた柱の陰。


 ガルドは左腕を吊ったまま、なぜか木槌を持とうとしてエルナに睨まれていた。


 ニコは記録帳を抱えている。


 リナはクロの首に手を置いていた。


 クロは男を見ている。


 吠えない。


 尻尾も振らない。


 伊織は入口の影に立った。


 右手は使わない。


 左手だけ、いつでも動ける位置に置く。


 アリアが隣に来る。


 男は伊織ではなく、アリアを見た。


 その瞬間、アリアの肩が硬くなった。


 ほんの一瞬だった。


 だが、伊織には分かった。


 男は膝をつきそうになった。


 アリアが言う。


「立ったままで構いません」


 その声は、いつもより硬い。


 男は姿勢を正した。


「アリア・シルヴェイン様でいらっしゃいますか」


 食堂の誰も、椀を持ち上げなかった。


 様。


 その一語が、妙に浮いた。


 リナが口を開ける。


 ガルドが眉を寄せる。


 ヴォルフは何も言わない。


 アリアは答えた。


「今は、ただのアリアです」


「ですが」


「ただのアリアです」


 二度目は、少し強かった。


 男は言葉を飲み込んだ。


「失礼しました」


 アリアは男を見ている。


 表情は動いていない。


 だが、指先が握られていた。


 伊織はそれを見た。


 右手ではなく。


 左手で。


「用件は」


 アリアが言った。


 男は革筒を胸の前に出す。


「東部、シルヴェイン領より封書をお預かりしています」


 アリアは動かなかった。


 シルヴェイン。


 その名を聞いた時、彼女の中で何かが閉じた。


 伊織にはそう見えた。


 男は続ける。


「差出人は、アルド=シルヴェイン様」


 リナが伊織を見る。


 伊織は答えない。


 知らない名前だ。


 だが、アリアの反応で分かる。


 関係がある。


 深く。


 たぶん、良くはない形で。


 嫌な手だ。


 伊織はそう思った。


 父親の名か。


 家の名か。


 それとも、両方か。


 どちらにしろ、今のアリアを固めるには十分だった。


 アリアは封書を見た。


 受け取らない。


 男は手を差し出したまま、待っている。


 ニコが記録帳を抱える手に力を入れた。


 トトが食堂の奥で木札を握っている。


 鳴らさない。


 伊織は一歩前に出ようとして、止まった。


 一人では行くな。


 昨日、そう言った。


 それは、私が決めます。


 アリアはそう答えた。


 ここで伊織が代わりに受け取れば、それはまた踏み込みになる。


 伊織は動かなかった。


 アリアはしばらく封書を見ていた。


 やがて、手を伸ばした。


 封書を受け取る。


 その手は震えていない。


 震えていないように見せているだけかもしれない。


 封の蝋は、深い緑だった。


 そこに、葉と水輪を組み合わせた紋章が刻まれている。


 アリアはそれを見た。


 息を吐く音はしなかった。


「確かに、シルヴェインの封です」


 声は淡々としていた。


 だが、冷たかった。



 封書は、すぐには開かれなかった。


 アリアがそう決めたからだ。


「食堂では開けません」


 彼女は言った。


 誰も反対しなかった。


 エルナは使っていない小部屋を用意した。


 窓が一つ。


 机が一つ。


 椅子が三つ。


 壁には古い地図が掛かっている。


 アリアは封書を机に置いた。


 向かいに伊織。


 横にエルナ。


 エルナがいるのは、ギルドとしての立会いだった。


 アリアがそう頼んだ。


 伊織だけではない。


 それが、彼女の選択だった。


 伊織はその意味を分かっていた。


 少なくとも、分かろうとしていた。


「開けます」


 アリアが言った。


 蝋を割る。


 ぱき、と小さな音がした。


 それだけで、アリアの指が止まる。


 伊織は何も言わない。


 エルナも何も言わない。


 アリアは封書を開いた。


 紙は薄い。


 だが、上質だった。


 文字は整っている。


 古いエルフの文体らしい。


 伊織には読めない。


 アリアは読み始めた。


 最初は顔色を変えなかった。


 二行。


 三行。


 五行。


 そこで、目が止まった。


 伊織は口を開きかける。


 やめた。


 アリアは読み終えるまで、何も言われたくない顔をしていた。


 長い沈黙。


 外では食堂の音がする。


 椅子を引く音。


 木札の音。


 クロの鼻息。


 遠い。


 この部屋だけ、少し別の場所のようだった。


 アリアは封書を机に置いた。


 手は紙の上に残っている。


 触れている。


 離れていない。


 伊織は待った。


 エルナも待った。


 やがて、アリアが言った。


「父が、倒れたそうです」


 声は平らだった。


 平らすぎた。


 伊織は息を吸った。


「命は」


「分かりません」


 アリアは紙を見る。


「意識はあると書かれています。ただ、長くはない可能性がある、と」


 エルナが静かに言う。


「それで、呼び戻しですか」


「はい」


 アリアは頷いた。


「シルヴェイン家へ戻れ、と」


 戻れ。


 その言葉が、部屋に落ちた。


 ヴァルターの言葉とは違う。


 ゼクトの問いとも違う。


 だが、同じ場所に刺さる言葉だった。


 戻る。


 戻れる場所。


 戻りたくない場所。


 戻らなければならないかもしれない場所。


 アリアは封書を見たまま言った。


「それだけではありません」


 伊織は黙って待つ。


 アリアの指が、紙の端を押さえた。


 強く押さえたわけではない。


 だが、薄い紙がわずかに歪んだ。


「旧水制御陣の異常が、東部でも確認されたそうです」


 エルナの表情が変わった。


「旧水路と同じものですか」


「近いと思います」


 アリアは文字を追う。


 追っているのに、読みたくないものを読んでいるようでもあった。


「鉄鎖団ですか」


「断定はできません」


 アリアの指が、ある一文の上で止まった。


 そこだけ、紙から離れない。


「ただ、封書にはこうあります」


 少し間を置く。


「黒い歯車を持つ者を見た、と」


 伊織の右手が、鈍く冷えた。


 ヴァルターは消えた。


 黒い歯車の欠片も残っている。


 だが、同じものが出てこないとは限らない。


 昨日、そう言った。


 クソみたいに丁寧だ。


 傷が乾く前に、次の線を投げてくる。


 誰が仕組んだかは分からない。


 だが、気持ちの悪い早さだった。


 エルナが机に両手を置く。


「東部で、同系統の構造支配が動いている可能性がある」


「はい」


「そして、アリアさんを呼んでいる」


「はい」


 アリアの声は変わらない。


 変わらないことが、苦しそうだった。


 伊織は言った。


「行くのか」


 アリアはすぐには答えなかった。


 昨日と同じ沈黙。


 だが、昨日より重い。


「分かりません」


 その答えは、正直だった。


「行きたいのか」


「分かりません」


「行きたくないのか」


「分かりません」


 アリアは初めて、伊織から視線を逸らした。


「父が倒れたと聞いて、何を感じるべきなのかも、分かりません」


 その声は小さかった。


「心配すべきなのか、怒るべきなのか、戻るべきなのか、拒むべきなのか」


 アリアの指が、紙の上で強くなる。


「分かりません」


 伊織は何も言わなかった。


 慰める言葉は浮かばない。


 正しい言葉もない。


 ただ、昨日の地図の前でアリアが言った言葉だけを思い出す。


 それは、私が決めます。


 伊織は言った。


「決めるのは、お前だ」


 アリアは顔を上げる。


「はい」


「ただし」


 伊織は続けた。


「一人では行くな」


 アリアの目が揺れた。


「それは」


「分かってる」


 伊織は遮らなかった。


 ただ、言う。


「お前が決めることだ」


 アリアは黙る。


「だが、言うだけは言っておく」


 伊織はアリアを見る。


「一人では行くな」


 今度は、命令ではなかった。


 願いに近かった。


 アリアは長く黙っていた。


 やがて、封書から手を離す。


「……考えます」


「ああ」


「今すぐには決めません」


「それでいい」


 エルナが頷いた。


「ギルドとしても、東部の異常は確認が必要です。ただ、出発は今すぐでなくて構いません。負傷者が多すぎます」


 負傷者。


 その言葉に、伊織は右手を見る。


 アリアも手首を見る。


 二人とも、まだ万全ではない。


 ガルドも。


 トトも。


 全員が戻りきっていない。


 だから、すぐには行かない。


 だが、行かないままでは済まない。


 封書は、机の上にあった。


 薄い紙。


 緑の蝋。


 東部から伸びてきた、新しい線。



 食堂に戻ると、誰もすぐには聞かなかった。


 何かがあったことは、全員が察している。


 椀を持つ手も、匙を動かす音も、少し遅い。


 この数日でできた、新しい作法だった。


 ガルドだけが口を開いた。


「で、悪い話か」


 エルナが睨む。


「ガルドさん」


「聞かない方が悪い時もあるだろ」


 それも、間違いではなかった。


 アリアは椅子に座った。


 封書を机の上に置く。


 全員の視線がそこへ向く。


 クロまで見ている。


 アリアは言った。


「東部からの封書です」


 リナが息を呑む。


 ニコが記録帳を開きかけて、止める。


 トトが木札を握る。


 ミナがその隣に座る。


 アリアは続けた。


「父が倒れました」


 鍋の小さな音だけが残った。


 ガルドが眉を寄せる。


 ヴォルフは黙っている。


 エルナはアリアの横に立った。


 アリアは封書を見る。


「それから、東部で旧水制御陣の異常が確認されています。黒い歯車を持つ者の目撃も」


 ガルドが舌打ちした。


「休ませる気がねえな」


「まだ行くとは決めていません」


 アリアが言った。


「私が決めます」


 その言葉に、伊織は何も言わなかった。


 ガルドも黙った。


 リナが手を上げる。


「アリアさん」


「はい」


「行くってなったら、言ってください」


 アリアはリナを見る。


「何を」


「準備します」


 リナは少し赤くなった。


「荷物とか。クロの餌とか。あと、忘れ物しないように」


 クロが鼻を鳴らす。


 ニコも言う。


「記録も、まとめます。旧水路のこと、東部で役に立つかもしれません」


 ミナがトトを見る。


 トトは木札を一度鳴らした。


 かん。


 アリアは目を伏せた。


 喉の奥で、何かを押し戻すような間があった。


 伊織はそれを見た。


 手を伸ばさない。


 言葉も足さない。


 待つ。


 アリアはようやく言った。


「ありがとうございます」


 それだけだった。


 だが、十分だった。


 ヴォルフが茶を置く。


「東部へ行くなら、道は悪い」


「知っているんですか」


 ニコが聞く。


「昔な」


 ガルドが片目を向ける。


「また経験か」


「年寄りはだいたい経験で喋る」


 いつもの言葉。


 だが、誰も笑わなかった。


 エルナが言う。


「今日は結論を出しません。負傷者の回復を優先します。明日以降、東部行きの必要性を検討します」


「検討」


 ガルドが言った。


「便利な言葉だな」


「無茶を止めるための言葉です」


「俺を見るな」


「見ています」


 そこで、ようやくリナが小さく笑った。


 クロが床で鼻を鳴らす。


 完全ではない。


 だが、戻る。


 その繰り返しだった。



 夜。


 伊織は中庭にいた。


 昨日と同じ場所。


 黒鋼装甲輸送車の跡は、さらに薄くなっている。


 風が乾いてきた。


 水の匂いはもうない。


 代わりに、封書の蝋の匂いが、まだ指先に残っている気がした。


 アリアが来た。


 手には封書を持っている。


 昨日と同じように、近い距離。


 だが、昨日より遠い。


 そう感じた。


「眠れないのか」


 伊織が聞く。


「眠る前に、外に出たかっただけです」


「そうか」


「あなたは」


「同じだ」


 アリアは隣に立つ。


 封書を胸の前で持っている。


「父とは、長く話していません」


 突然だった。


 伊織は黙って聞いた。


「私を守ると言いました。家を守るためだと。血を守るためだと。役目を守るためだと」


 アリアの声は、夜の中で静かだった。


「でも、私自身を見ていたかは、分かりません」


 伊織は何も言わない。


「だから、倒れたと聞いても」


 アリアは封書を見る。


「何を思えばいいのか、分からないんです」


 伊織は言った。


「分からないままでいい」


 アリアが伊織を見る。


「いいんですか」


「ああ」


「普通は、そういう時、何か言うものでは」


「普通を知らない」


 アリアは瞬きをした。


 伊織は続ける。


「俺も、守れなかった相手のことを、どう思えばいいか分からない時がある」


 南条。


 名前には出さない。


 だが、右手が冷えた。


「分からないまま、残る」


 アリアは黙っていた。


「それでも、動く時は来る」


「動く時」


「ああ」


「その時に決めればいい」


 アリアは封書を握る。


「私は、戻るべきでしょうか」


「俺には決められない」


「はい」


「だが」


 伊織は食堂の灯りを見る。


「ここから行くことはできる」


 アリアは伊織を見る。


「戻る、ではなく?」


「ここから行く」


 その違いが伝わったのかどうか。


 アリアは長く黙った。


 やがて、目を伏せる。


「……そうですね」


 封書を持つ手から、力が抜けた。


 食堂の中から、木札の音が聞こえた。


 かん。


 トトか。


 ミナか。


 それとも、ただ風で揺れたのか。


 分からない。


 だが、音はあった。


 アリアはその音を聞いていた。


「東さん」


「ああ」


「行くと決めたら、言います」


「分かった」


「止めますか」


「理由を聞く」


「それから?」


「一人なら止める」


 アリアは笑った。


 すぐに消えたが、昼の顔ではなかった。


「変わりませんね」


「変わったつもりだ」


 アリアは答えず、封書を胸に抱え直した。


 クロが食堂の入口から出てきて、二人の足元で鼻を鳴らした。


 伊織は左手でクロの頭を撫でる。


 右手はまだ完全ではない。


 だが、戻りつつある。


 アリアは封書を胸に抱えたまま、食堂を見る。


 伊織も同じ方を見た。


 灯りがある。


 人の声がある。


 木札の音がある。


 ここから、次の線が伸びる。


 戻るのではない。


 ここから行く。


 伊織はその言葉を、声には出さなかった。


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