第38話 残ったもの
翌朝、食堂の床は乾いていた。
板の継ぎ目には、薄く水の跡が残っている。
椅子の脚には傷があり、机の一つはわずかに傾いている。
棚には、昨日までの白い皿ではなく、縁の欠けた灰色の皿が置かれていた。
元通りではない。
それでも、朝の匂いは戻っていた。
薄い粥。
焼いたパン。
茶葉。
湿った木の匂い。
クロが床の隅で丸くなっている。
リナがその横で布を畳んでいる。
トトの木札は、窓辺ではなく、本人の首から下がっていた。
乾いた音を取り戻した札。
トトは時々、それを指で確かめる。
鳴らしはしない。
ただ、そこにあることを確かめている。
ニコは机の端で、昨日の記録を書いていた。
字は少し震えている。
だが、書いている。
ミナは隣で、皿を拭いている。
ガルドは左腕を吊ったまま、不満そうな顔で粥を食べている。
ヴォルフは向かいに座り、黙って茶を飲んでいた。
エルナは、誰がどこを怪我したかをまとめている。
全員、いつもの場所に近い位置にいた。
ただし、完全に同じではない。
少しずつ、ずれている。
そのずれごと、朝になっていた。
伊織は壁際に座っていた。
右手は膝の上。
指先は動く。
だが、力は入らない。
左手で器を持つことにも、少し慣れてきた。
慣れる、というのは嫌な言葉だと思った。
だが、悪いことではない。
動かないなら、動かないなりに使う。
戻るなら、戻るまで待つ。
そういうことも、今なら少し分かる。
アリアが向かいに座っていた。
彼女の手首には、まだ白い布が巻かれている。
薄く赤が残っている。
伊織はそれを見た。
アリアも、伊織の右手を見ていた。
「お互い様ですね」
「何が」
「見ることです」
「そうだな」
アリアは少しだけ目を細めた。
「右手は」
「少し動く」
「使わないでください」
「使っていない」
「使おうとする顔をしています」
「顔に出るか」
「最近は」
最近。
その言葉が、なぜか引っかかった。
長く一緒にいたわけではない。
それでも、最近という言葉が成立するくらいには、時間が積もっていた。
伊織は右手の指を少しだけ曲げた。
痛みはない。
痛みよりも遠い違和感。
戻ってきているのか、ただ鈍くなっているのか、まだ分からない。
エルナが机の向こうから言った。
「東さん」
「ああ」
「動かさないでください」
伊織は右手を止めた。
アリアがほんの少しだけ勝った顔をした。
「増えたな」
伊織が言う。
「何がですか」
「見ている人間が」
エルナは淡々と答えた。
「必要です」
アリアも同時に言った。
「必要です」
二人の声が重なった。
食堂の何人かが笑った。
伊織は黙って器を持ち直した。
左手で。
◆
朝食の後、ギルドの記録棚の前に全員が集まった。
全員と言っても、戦える者だけではない。
リナ。
ニコ。
ミナ。
トト。
ガルド。
ヴォルフ。
エルナ。
アリア。
クロ。
そして伊織。
記録棚の上には、二つの包みが置かれていた。
一つは、割れた皿の欠片。
もう一つは、黒い歯車の欠片。
ヴァルターが残したもの。
もう回らない歯車。
もう食事には使えない皿。
どちらも、壊れたものだった。
だが、捨てるものではなかった。
エルナが記録帳を開く。
「旧水路跡における黒鎖構造体との戦闘記録。ギルド食堂襲撃の証拠品。黒色歯車片、一点。白皿陶片、複数」
淡々とした声だった。
だが、ただの事務処理ではなかった。
ニコが横で書き写している。
手はまだ少し震えている。
けれど、途中で止まらない。
ヴォルフが黒い歯車を見た。
「もう動かんか」
アリアが頷く。
「魔力反応はありません。構造支配の残滓も消えています」
「完全に終わったと見ていいか」
「はい」
アリアは少しだけ間を置いた。
「少なくとも、ヴァルター本人は」
伊織は歯車を見る。
小さい。
あれほど大きな構造体の中心にいた男が、最後に残したものにしては、あまりに小さい。
だが、重く見えた。
ゼクトの言葉が戻る。
戻る気はあるか。
どこへ。
ヴァルターには、戻る場所がなかった。
だから固定した。
戻れなくなるために。
伊織は何も言わなかった。
アリアが、皿の欠片を見た。
「こちらも、保管するんですね」
「ああ」
「なぜ歯車と一緒に?」
ニコが手を止める。
ミナもこちらを見る。
伊織は少し考えた。
「同じ戦いの残りだからだ」
ガルドが鼻を鳴らす。
「皿と敵の歯車が同格かよ」
「同格じゃない」
伊織は言った。
「どちらも、残った」
ガルドは少し黙った。
それから、右手で頭を掻く。
「まあ、そうだな」
トトが木札を一度鳴らした。
かん。
乾いた音。
エルナが記録帳に書き込む。
「保管理由。再発防止、および戦闘記録の保存」
ニコがその下に、小さく書き足した。
戻ってきた証。
エルナはそれを見た。
何も言わなかった。
消しもしなかった。
記録棚の下段に、小さな箱が置かれた。
歯車の欠片。
皿の欠片。
二つは、同じ箱の中に収められた。
蓋が閉じられる。
音は小さかった。
だが、食堂で木札が鳴った時と同じように、全員がそれを聞いた。
◆
昼前、伊織は中庭に出た。
黒鋼装甲輸送車は、まだそこにあった。
黒い車体。
傷のついた装甲。
右の車輪に残る軋み。
水の跡は乾き始めている。
完全に消えてはいない。
伊織は左手で車体に触れた。
冷たい。
昨日より、少しだけ遠い。
具現を保つことはできる。
だが、右手を通す感覚は鈍い。
エルナの言葉が頭に残っている。
今日と明日は具現を控えてください。
最低です。
アリアの声も重なる。
最低です。
伊織は息を吐いた。
「消すのか」
背後からヴォルフの声がした。
伊織は振り返らない。
「保たせるには魔力を食う」
「右手にも響くか」
「ああ」
「なら消せ」
簡単に言う。
だが、正しい。
伊織は車体を見る。
この箱で戻ってきた。
この箱で全員を運んだ。
この箱でヴァルターの線をずらした。
移動する結び目。
消せば、ただの魔力に戻る。
残らない。
それでも、必要ならまた作る。
作れるはずだ。
たぶん、ではない。
作る。
伊織は左手を車体から離した。
黒鋼装甲輸送車が、低く唸った。
車体の輪郭が、ゆっくり薄くなる。
黒い装甲。
窓。
扉。
車輪。
全部が、ほどけていく。
水の跡も、傷も、そのまま魔力の粒になって消えていく。
最後に、ハンドルの形だけが一瞬残った。
左手で握った冷たさが、掌に戻る。
そして、それも消えた。
中庭には、何も残らなかった。
いや。
車輪の跡だけが残っていた。
濡れた土に、浅く二本。
伊織はそれを見ていた。
ヴォルフが横に来る。
「惜しいか」
「少しな」
「また出せる」
「ああ」
「右手が戻ればな」
伊織は右手を見る。
指先を少し動かす。
動いた。
弱いが、動いた。
「戻す」
ヴォルフは頷いた。
「なら休め」
「そればかりだな」
「休めと言われるうちは、生きている」
伊織は何も言わなかった。
その言い方は、妙に重かった。
ヴォルフは中庭の端を見る。
ゼクトが去った門の方角。
「鎖の男は戻ると思うか」
「分からない」
「戻らないと言う奴ほど、道を覚えている」
「経験か」
「年寄りはだいたい経験で喋る」
伊織は少しだけ口元を動かした。
「医者みたいなことも言う」
「それも経験だ」
◆
午後、アリアは記録棚の前にいた。
黒い歯車の欠片を収めた箱ではなく、その隣の古い地図を見ている。
東部の地図。
森。
街道。
古い遺跡。
エルフの居住地を示す淡い印。
伊織は近づいた。
「何を見ている」
アリアは少しだけ肩を揺らした。
気づいていなかったらしい。
珍しい。
「東部の古地図です」
「東部」
「旧水路の構造に、似た記号がありました」
アリアの指が、森の奥にある淡い印の手前で止まった。
「そこは」
「古いエルフの水制御陣です」
「知っている場所か」
アリアはすぐには答えなかった。
「……知っているべき場所です」
その声は静かだった。
だが、少し硬い。
伊織は地図を見る。
見ても、土地勘はない。
ただ、アリアが見ている場所だけは分かる。
東部の森。
エルフの印。
アリアの過去につながる場所。
鉄鎖団の知識につながるかもしれない場所。
「行くのか」
伊織が聞いた。
アリアは地図を見たまま、首を横に振った。
「今は、行きません」
「今は」
「はい」
短い返事だった。
いつものように理由を足さなかった。
その短さだけが、妙に残った。
伊織はアリアを見る。
アリアの指は、まだ地図の上で止まっている。
触れてはいない。
だが、離れてもいない。
「一人では行くな」
伊織は言った。
アリアは、少しだけ目を伏せた。
「それは、私が決めます」
空気がわずかに止まった。
きつい言い方ではない。
拒絶でもない。
だが、そこには線があった。
伊織が踏み込めない線。
アリア自身が越えるかどうかを決める線。
伊織は黙った。
アリアも、しばらく黙っていた。
やがて、彼女は地図から指を離した。
「必要なら、話します」
「ああ」
「今は、まだ」
「分かった」
分かった。
そう言ったが、分かったわけではなかった。
ただ、待つことにした。
止めるのではなく。
聞き出すのでもなく。
アリアが話すまで、待つ。
地図の上には、東部の森が残っていた。
淡い印。
古い水制御陣。
そして、アリアがまだ触れなかった場所。
◆
夕方、食堂で小さな会議が開かれた。
会議と言っても、全員が椅子に座って茶を飲んでいるだけだった。
エルナが記録を読む。
ヴァルターの撃退。
旧水路の封鎖。
黒歯車片の保管。
負傷者の経過観察。
黒鋼装甲輸送車の消失確認。
ガルドの大振り禁止。
トトの木札乾燥完了。
そこまで読み上げて、エルナは少しだけ間を置いた。
「以上です」
ガルドが右手を上げる。
「木槌は?」
「大振り禁止です」
「小振りは?」
「片手で扱える範囲なら」
「中振りは?」
「禁止です」
「厳しいな」
「当然です」
リナが笑いを堪えている。
クロは床で完全に寝ている。
トトは木札を膝に置いて、指で端を撫でていた。
ニコが記録帳を閉じる。
「ヴァルターの件は、これで終わりなんですよね」
食堂が少し静かになった。
終わり。
その言葉は、まだ軽くはなかった。
伊織は記録棚の方を見る。
黒い歯車。
割れた皿。
箱の中にある。
「少なくとも、あいつはもういない」
伊織は言った。
「でも、同じものが出てこないとは限らない」
ニコが小さく頷く。
「はい」
「だから記録する」
エルナが続けた。
「次に誰かが同じものを見た時、早く気づけるように」
ニコは記録帳を抱えた。
「私、書きます」
「頼む」
伊織が言うと、ニコは少し驚いた顔をした。
それから、背筋を伸ばす。
「はい」
トトが木札を鳴らした。
かん。
ニコが笑う。
「ありがとう」
ミナが言う。
「トト、今のは応援?」
トトが頷く。
ガルドが茶を飲みながら言った。
「応援なら、俺にもくれ」
トトは少し考えた。
かん。
ガルドが頷く。
「よし」
ヴォルフが言う。
「安静の応援だ」
ガルドが顔をしかめる。
「そういう意味かよ」
食堂に笑いが戻る。
大きくはない。
それでも、昨日より少し長かった。
◆
夜。
伊織は食堂の外に出た。
中庭には、車体の跡がまだ残っている。
二本の浅い跡。
月は雲に隠れていた。
風は少し乾いてきている。
水の匂いは、もうほとんどしない。
クロが後ろからついてきた。
音もなく。
伊織の横で座る。
黒い毛。
黒い目。
伊織は左手でその頭を撫でた。
クロは鼻を鳴らした。
「右じゃなくて悪いな」
クロはもう一度、鼻を鳴らす。
どちらでもいい、という顔だった。
伊織は中庭を見る。
黒鋼装甲輸送車はもうない。
だが、跡はある。
戻ってきた跡。
戦った跡。
消えたあとに残るもの。
足音がした。
アリアだった。
手には、小さな布を持っている。
「冷えます」
「そうか」
「右手に巻きますか」
「大げさだ」
「では、左手に」
「なぜ」
「冷えているように見えます」
伊織は自分の左手を見る。
車体の冷たさが、まだ掌に残っている気がした。
アリアは伊織の隣に立つ。
近い。
だが、触れない。
「巻いても?」
伊織は少しだけ黙った。
それから、左手を出した。
「ああ」
アリアは布を巻いた。
右手ではない。
左手。
ハンドルを握っていた手。
最後に水の底から帰ってきた手。
布は温かくはない。
だが、冷たくもなかった。
「きつくないですか」
「大丈夫だ」
「本当に?」
「本当だ」
「嘘なら」
「もっと短く言う」
アリアは少しだけ笑った。
声には出さない。
ただ、表情だけで。
クロが二人の間で鼻を鳴らした。
食堂の中から、木札の音が聞こえた。
かん。
伊織はその音を聞いた。
アリアも、同じ方を見ていた。
左手の布は、まだ少しだけ温かい。
右手の感覚も、少しだけ戻っている。
今は、それでよかった。




