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第37話 帰る場所へ

 旧水路を出た時、空はまだ曇っていた。


 雨は降っていない。


 だが、風は湿っている。


 水の底の匂いが、まだ車体に残っていた。


 黒鋼装甲輸送車は、ゆっくりと坂を上がった。


 速くは走れない。


 右の車輪が少し軋む。


 車体の底にも、歯車を踏み砕いた時の負荷が残っている。


 伊織は左手だけでハンドルを握っていた。


 右手は膝の上。


 動かないわけではない。


 指先は、かすかに動く。


 だが、遠い。


 自分のものではないような鈍さがあった。


 アリアは助手席側で黙っていた。


 見ている。


 伊織の右手を。


 それを隠そうとは思わなかった。


 隠しても、彼女は気づく。


「痛みは」


 アリアが聞いた。


「遠い」


「感覚は」


「少し戻った」


「本当ですか」


「少しはな」


 アリアは伊織を見た。


 疑っている目だった。


 伊織は前を見たまま言う。


「嘘なら、もっと短く言う」


「覚えておきます」


 アリアはそう言って、視線を外した。


 後部では、トトが湿った木札を両手で包んでいた。


 ミナが布でそれを拭く。


 こつ。


 トトが小さく叩く。


 音はまだ鈍い。


 だが、鳴る。


 ミナはそのたびに頷いた。


「鳴ってる」


 トトも頷く。


 ニコは車内の人数を、もう三度数えていた。


 一人。


 二人。


 三人。


 声には出さない。


 唇だけが動いている。


 リナはクロの背を撫でていた。


 クロは濡れた毛を嫌がって、何度も体を震わせようとする。


 そのたびにリナが押さえた。


「ここでやったら全員濡れる」


 クロが鼻を鳴らす。


「もう濡れてるって顔しない」


 また鼻を鳴らした。


 ガルドは後方の席で、左腕を脇に押しつけていた。


 顔色は悪い。


 それでも、木槌を手放していない。


 ヴォルフがその隣で、片目を細める。


「見せろ」


「帰ってからだ」


「今見せろ」


「年寄りはしつこいな」


「怪我人は口が減らない」


 ガルドは舌打ちした。


 だが、左腕をわずかに上げようとして、顔を歪めた。


 ヴォルフはそれを見逃さなかった。


「折れてはいない」


「だろ」


「だが、筋を痛めている。しばらく大振りはできん」


「……しばらくってどれくらいだ」


「エルナに聞け」


「結局そこかよ」


 ガルドは不満そうに言った。


 だが、それ以上は動かさなかった。


 伊織は前を見る。


 旧水路の出口が見えている。


 その向こうに、街の石壁。


 さらに奥に、ギルドの屋根。


 帰る場所。


 その言葉はもう、胸の中で大きく鳴らなかった。


 代わりに、静かに沈んでいる。


 沈んで、残っている。


 黒鋼装甲輸送車は、水路の外へ出た。


 外の光が、車内へ入る。


 誰も声を上げなかった。


 ただ、全員が少しだけ息を吐いた。



 ギルドの中庭に戻ると、エルナが待っていた。


 腕を組んでいる。


 その隣には、食堂の職員が二人。


 手には布と桶。


 すぐに拭けるように準備してある。


 伊織が車体を止めると、エルナは一歩前へ出た。


「全員、降りたらその場で確認します」


 ガルドが顔をしかめる。


「まず飯じゃねえのか」


「まず怪我です」


「飯も治療の一部だろ」


「黙って腕を出してください」


 ガルドは口を閉じた。


 珍しいことだった。


 伊織は車内側から扉を開ける。


 重い扉が、低い音を立てた。


 リナが先に降り、クロを下ろす。


 クロは地面に降りた瞬間、全身を震わせた。


 水が飛ぶ。


「だから!」


 リナが叫ぶ。


 ニコが肩をすくめる。


 ミナが笑う。


 トトも少しだけ口元を動かした。


 湿った木札が、手の中でこつと鳴る。


 その音を聞いて、エルナの表情がほんの少し緩んだ。


「戻りましたね」


 誰に言ったのか分からなかった。


 トトにか。


 木札にか。


 それとも、全員にか。


 伊織は最後に降りた。


 左手で車体を支え、右手は使わない。


 アリアが見ている。


 エルナも見ている。


「東さん」


 エルナが言った。


「右手も確認します」


「後でいい」


「今です」


 言い方が、アリアと似ていた。


 伊織は少しだけ眉を寄せた。


 アリアが横で静かに言う。


「今です」


「増えたな」


「何がですか」


「そう言う人間が」


 アリアは答えなかった。


 少しだけ、口元が動いた。


 伊織は右手を差し出す。


 エルナは触れる前に、伊織を見る。


「触っても?」


「ああ」


 エルナは慎重に指を取った。


 伊織の鋼鉄ではない。


 ただの手だ。


 それでも、ほんの一瞬だけ、アリアが目を細めた。


 自分が触れなかった場所。


 エルナが治療者として触れる。


 それを、彼女は見ていた。


 エルナは指を曲げ、手首を支え、肘の動きを見る。


「骨ではありません」


「だろうな」


「ただ、魔力の通りがかなり乱れています」


「どれくらいで戻る」


「使わなければ早いです」


「使えば」


「遅いです」


「具体的には」


「使わないでください」


 伊織は黙った。


 エルナはため息をつく。


「具体的に言うと、今日と明日は具現を控えてください。特に右手経由の具現は駄目です」


「二日か」


「最低です」


 アリアが横で言った。


「聞きましたね」


「ああ」


「最低です」


「二回言うな」


「必要です」


 ガルドが少し離れた場所で笑った。


 すぐに顔をしかめる。


 エルナがそちらを見る。


「ガルドさん」


「分かってる」


 ガルドは渋々左腕を出した。


 エルナが確認する。


 腕を持ち上げる。


 ガルドの顔が歪む。


「折れてはいません」


「ほらな」


「靭帯と筋を痛めています。しばらく大振り禁止です」


 ヴォルフが頷いた。


「言った通りだ」


「嬉しそうにすんな」


 ガルドは舌打ちした。


 エルナは包帯を巻きながら言う。


「木槌は片手で扱える範囲だけ。無理をしたら、今度こそ折れます」


「……分かった」


「本当に?」


「分かったって言ってんだろ」


 リナがじっと見た。


「……何だよ」


「聞いてる顔じゃない」


 食堂に笑いが起きた。


 クロが鼻を鳴らす。


 痛みは残っている。


 疲れも残っている。


 だが、戻ってきた。


 それだけで、場の音が違っていた。



 食堂は、まだ少し湿っていた。


 床には新しい布が敷かれている。


 机は戻した。


 椅子も戻した。


 だが、一枚だけ皿が足りない。


 昨日、ヴァルターが落とした白い皿。


 割れた欠片は、伊織が布に包んで持っている。


 エルナはそれを見ると、奥の棚から別の皿を出した。


 同じ形ではない。


 少し古い。


 縁に小さな欠けがある。


「代わりです」


 エルナが言った。


「欠けてるぞ」


 ガルドが言う。


「使えます」


「まあな」


 エルナは皿を机の中央に置いた。


 白い皿ではない。


 少し灰色がかった皿。


 古いが、割れてはいない。


 トトがそれを見て、木札を一度叩いた。


 こつ。


 まだ乾いていない音。


 ニコが笑った。


「これから乾かしましょう」


 ミナが頷く。


「皿も?」


「皿は拭くだけ」


 リナが言う。


「木札は日向に置いたら?」


 トトは木札を胸に抱えた。


 離したくないらしい。


 クロが床の隅へ行き、いつもの場所に丸くなろうとする。


 リナが目を細める。


「そこ、まだ濡れてる」


 クロは構わず座った。


「もう」


 リナは布を持って、クロの下へ敷こうとする。


 クロは不満そうに立ち上がり、また座る。


 それを見て、ガルドが笑う。


「犬にも帰る場所ってやつがあるんだな」


「クロは最初からここを自分の場所だと思ってる」


 リナが言った。


「図々しいな」


 クロがガルドを見た。


 ガルドは視線を逸らす。


「いや、悪口じゃねえ」


 食堂に、小さな笑いが落ちた。


 大きくはない。


 だが、確かにあった。


 伊織は壁際に立っていた。


 いつもの位置だ。


 背を壁に預ける。


 右手はまだ重い。


 左手で布包みを持っている。


 割れた皿の欠片と、ヴァルターの黒い歯車の欠片。


 どちらも、布の中にある。


 アリアが近づいてきた。


「それは」


「残ったものだ」


「保管しますか」


「ああ」


「なぜ」


 伊織は少し考えた。


「忘れないためだ」


 アリアは頷いた。


「食堂を狙われたことを」


「それもある」


「ヴァルターのことを」


「それもある」


「では」


 アリアは布包みを見る。


「自分たちが戻ってきたことも、ですか」


 伊織は答えなかった。


 答えなかったが、否定もしなかった。


 アリアはそれで十分だというように、少しだけ目を伏せた。


「保管場所は」


「食堂じゃない方がいい」


「では、ギルドの記録棚に」


「任せる」


「はい」


 アリアは布包みを受け取ろうとして、止まった。


 右手ではない。


 伊織の左手が差し出している。


 それでも、彼女は一拍置いた。


「持っても?」


「ああ」


 アリアは布包みを受け取った。


 黒い歯車の欠片は、もう鳴らない。


 皿の欠片も、ただの陶片だ。


 だが、重さはあった。



 ゼクトは、食堂には入らなかった。


 中庭の端。


 門のそば。


 濡れた外套を絞りもせず、壁にもたれていた。


 鎖は肩に掛けている。


 去るつもりなのは、見れば分かった。


 伊織は中庭へ出た。


 アリアも後ろに来る。


 リナとクロもついてきた。


 ガルドは食堂の入口から顔だけ出している。


「入らないのか」


 伊織が言った。


「入る理由がねえ」


「飯はある」


「誘ってんのか」


「礼だ」


「いらねえ」


「だろうな」


 ゼクトは舌打ちした。


「面倒だな」


「よく言われる」


 ゼクトは伊織の右手を見た。


「治しとけ」


「お前も肩を見せろ」


「断る」


 アリアが静かに言った。


「傷口が濡れています。放置すると膿みます」


「お前まで言うな」


「事実です」


 ゼクトはしばらく黙った。


 それから、門へ向かって歩き出した。


「借りは取りに来る」


「分かってる」


「その時は敵かもしれねえぞ」


「分かってる」


 ゼクトは振り返らなかった。


「それまで死ぬなよ、鋼鉄」


 鎖の音が、しばらく残った。


 それも、やがて聞こえなくなった。



 夕方になって、食堂に灯りが入った。


 窓の外は薄暗い。


 だが、食堂の中は暖かかった。


 鍋が火にかけられている。


 湯気が上がる。


 湿った木札は、窓辺に置かれていた。


 トトは何度も見に行く。


 まだ乾かない。


 でも、そこにある。


 ニコは机の端で、今日の人数を書きつけている。


 途中で手が止まる。


 そして、もう一度数え直す。


 全員いる。


 それを確認してから、ようやく息を吐く。


 ミナは新しい皿を拭いている。


 リナはクロの毛を拭いている。


 クロは明らかに嫌がっている。


 ガルドは左腕を吊られ、右手だけで匙を持っていた。


「食いにくい」


 ヴォルフが言う。


「なら食うな」


「そういう意味じゃねえ」


「左を使うな」


「分かってる」


 ガルドは匙を握り直す。


 不器用だ。


 だが、食べられないわけではない。


 エルナがその様子を確認して、頷いた。


「骨は折れていません。ただし、安静です」


「三回目だぞ」


「三回言わないと聞かないでしょう」


「聞いてる」


 リナがじっと見た。


「……何だよ」


「聞いてる顔じゃない」


 ガルドは天井を見上げる。


「お前ら、覚えてろよ」


 クロが鼻を鳴らす。


 笑いは長く続かなかった。


 疲れがある。


 痛みがある。


 失ったものもある。


 ヴァルターの黒い歯車の欠片は、記録棚に収められた。


 割れた皿の欠片も、その隣に置かれた。


 完全に元通りではない。


 それでも、食堂には人がいた。


 音があった。


 湯気があった。


 伊織は壁際の席に座っていた。


 いつもの位置だ。


 右手は膝の上。


 左手で器を持つ。


 慣れない。


 少しこぼしそうになる。


 それを見て、アリアが何か言いかける。


 伊織は先に言った。


「言うな」


「まだ何も」


「顔に出ている」


「では、言いません」


 アリアはそう言って、自分の器に視線を戻した。


 少しだけ間が空く。


 それから、彼女は小さく言った。


「必要なら、手伝います」


「必要になったら言う」


「本当に?」


「ああ」


「では、待ちます」


 その言葉に、伊織は少しだけ黙った。


 待つ。


 止めるのではなく。


 奪うのではなく。


 言われるまで、待つ。


 それは、簡単ではない。


 伊織にも。


 アリアにも。


 だが、できるようになり始めている。


 伊織は左手で器を持ち直した。


 今度はこぼさなかった。


 アリアは何も言わなかった。


 ただ、少しだけ息を吐いた。



 夜が深くなった頃、トトの木札が乾いた。


 窓辺で、ミナがそれを見つけた。


「トト」


 トトが駆け寄る。


 木札を手に取る。


 軽く叩く。


 かん。


 乾いた音がした。


 食堂の全員が、一瞬だけそちらを見た。


 トトはもう一度叩いた。


 かん。


 今度は、少し大きい。


 ミナが笑った。


 ニコも笑った。


 リナが拍手しようとして、クロに手を塞がれてやめた。


 ガルドが右手で机を叩く。


「戻ったな」


 ヴォルフが頷く。


「音はな」


「他も戻る」


 ガルドが言った。


 左腕を見ながら。


「たぶん」


 全員がガルドを見た。


 ガルドは顔をしかめる。


「今のはいいだろ」


 少しだけ、笑いが起きた。


 伊織はトトの木札を見る。


 乾いた音。


 水の底では、こつ、としか鳴らなかった。


 それでも音はあった。


 今は、かん、と鳴る。


 戻った。


 全部ではない。


 それでも、戻るものはある。


 伊織は右手を見た。


 指先が、ほんの少し動いた。


 完全ではない。


 だが、少し動いた。


 アリアがそれを見ていた。


 もちろん、見ていた。


「動きましたね」


「ああ」


「少しだけ」


「ああ」


「よかったです」


 その声は、静かだった。


 伊織は右手を握ろうとする。


 まだ弱い。


 だが、指は応えた。


 水の底で切れかけた線が、細く戻るように。


 伊織は何も言わなかった。


 トトの木札が、もう一度鳴った。


 かん。


 食堂の灯りが、少し揺れた。


 誰かが笑った。


 誰かが器を置いた。


 クロが床で鼻を鳴らした。


 アリアが隣にいた。


 伊織はその音を聞いていた。


 帰る場所という言葉は、口にしなかった。


 ただ、その音の中にいた。


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