第36話 結び直す者たち
水路の底で、黒い構造体が立ち上がっていた。
人の形ではない。
水門の骨。
鎖の腕。
歯車の胸。
水路の壁から伸びた細い金属線が、束になってヴァルターの背中へ入っている。
その中心に、ヴァルターがいた。
黒い外套。
細い指。
濡れた裾。
胸の奥で鳴る、割れかけた歯車。
かちり。
ぎ。
噛み合わない音が、旧水路に響く。
「これが、完成形だ」
ヴァルターは言った。
その声は静かだった。
だが、静かすぎた。
人の声というより、構造物が鳴っているようだった。
伊織は左手でハンドルを握っていた。
右手は動かない。
感覚が遠い。
黒鋼拳銃を出そうとしても、指先がついてこない。
黒鋼装甲輸送車も、さっき中央歯車を踏み潰した負荷で軋んでいる。
ガルドは左腕を脇に押しつけている。
木槌は右手だけ。
アリアの手首は限界に近い。
トトの顔は青い。
ニコの声も震えている。
ゼクトの肩の傷からは、水で薄まった血が流れていた。
誰も万全ではない。
ヴァルターは、それを見ていた。
「手は折れた。音は沈んだ。声は震えた。鋼鉄は重くなった」
黒い構造体の背後で、水門の鎖が鳴る。
「それでも、まだ立つか」
伊織は答えなかった。
答える代わりに、周囲を見る。
線はある。
まだある。
ただし、細い。
いくつも切れかけている。
だが、切れてはいない。
アリアがヴァルターを見ていた。
「東さん」
「何だ」
「あれは、強い構造です」
「弱点は」
アリアは少しだけ息を吸った。
「変われないことです」
ヴァルターの胸の歯車が鳴った。
かちり。
アリアは続ける。
「彼は水路を自分の中へ畳みました。だから、水路の線は彼の中にあります」
「外からは切れると言ったな」
「はい」
「だが、あいつは中にいる」
「そうです」
アリアの目が、わずかに鋭くなる。
「でも、水路そのものは外です」
伊織はヴァルターを見る。
水路を自分の中へ畳んだ。
なら、水路はヴァルターの内側になった。
だが、同時に水路は外にある。
壁。
水門。
排水口。
石柱。
影。
それらは、今もこの場所に存在している。
外だ。
そして、ヴァルターにつながっている。
「外を突けば、中に届く」
伊織が言った。
アリアは頷いた。
「はい。ただし、彼もそれを分かっています」
ヴァルターが静かに言った。
「当然だ」
黒い構造体の鎖腕が動く。
水面を叩く。
波が走る。
足場が揺れる。
「だから、外を消す」
右の水門が閉じる。
左の水門が開く。
正面の水門の奥で、歯車が逆回転する。
水路の壁から、黒い線が伸びた。
石柱。
排水口。
天井の鎖。
足場。
外へ通じる支点を、すべて巻き込んでいく。
伊織の視界が線で埋まる。
多い。
多すぎる。
だが、もう全部は見ない。
アリアの袖が、さっき視界を遮った感覚を思い出す。
一度、減らす。
必要なものだけを見る。
外。
水路。
ヴァルターに通じている外。
その一点。
伊織は水面を見た。
中央歯車は砕いた。
排水口も壊した。
水門の鎖は三つ。
だが、ヴァルターの胸の歯車が乱れた時、一番遅れて震えた場所があった。
右下。
古い排水口。
さっき伊織が撃ち抜いた留め具の奥。
あそこだけ、黒い線がまだ細く残っている。
壊れた場所。
だから、ヴァルターは油断する。
壊した場所は、もう使えないと。
違う。
壊れた場所だから、構造が外に開いている。
「右下の排水口」
伊織が言った。
アリアが目を向ける。
「さっき開けた場所です」
「あそこは外だ」
「はい」
「そして、あいつの中に通じている」
アリアは一瞬、目を見開いた。
それから、静かに頷いた。
「勝ち筋です」
ヴァルターの指が動いた。
聞こえている。
当然だ。
構造体となった彼は、水路の音をすべて拾っている。
「遅い」
ヴァルターが言った。
水面から鎖が立ち上がる。
右下の排水口を塞ぐための鎖。
伊織は左手でハンドルを握る。
右手は使えない。
黒鋼装甲輸送車を動かすには足りない。
いや。
一人では足りない。
「全員で右下を開ける」
伊織が言った。
声は大きくなかった。
だが、全員に届いた。
「俺は車体を半歩動かす。左手だけでは足りない。アリア、水の抵抗を減らせ。触るな」
「はい」
「リナ、クロ。右の流れを見る」
「分かった」
「ニコ、車内へ伝えろ。全員、低く。扉から離れろ」
「はい」
「トト、音じゃなくて水の空白を見ろ。ミナ、声にしろ」
ミナが頷いた。
トトも頷いた。
「ガルド、右の足場を押さえろ。叩くな。押せ」
「右だけでな」
「右だけでだ」
ガルドが笑った。
「上等だ」
「ヴォルフ、排水口の縁を見る」
「見える」
「ゼクト」
ゼクトが鎖を鳴らした。
「俺は通りがかりだ」
「なら、通りがかりで石柱を引け。車体には触るな」
「命令すんな」
「頼む」
ゼクトが一瞬、黙った。
それから舌打ちした。
「……面倒な頼み方すんじゃねえよ」
鎖が走る。
車体ではない。
右の石柱へ。
もう一本は、水路の壁の古い鉄輪へ。
ゼクトの鎖は、ヴァルターの黒い線と絡む直前で止まった。
引きすぎれば取られる。
引かなければ届かない。
その境目を、ゼクトは見ている。
ヴァルターの構造体が動いた。
鎖腕が振り下ろされる。
狙いは排水口ではない。
ガルド。
右腕一本で足場を押さえる男。
そこを潰しに来た。
「ガルド、上!」
リナが叫ぶ。
「理由は言わなくても見えてる!」
ガルドは右手だけで木槌を構える。
振らない。
押し込む。
木槌の頭を石床へ噛ませる。
鎖腕が落ちる。
ヴォルフの骨刃が横から入った。
鎖腕そのものは切れない。
だが、噛み合う歯を一つ外す。
鎖の軌道がずれた。
ガルドの肩を掠める。
水が跳ねる。
ガルドは倒れない。
「左は?」
ヴォルフが聞く。
「邪魔だ」
ガルドは歯を食いしばった。
「でも折れてねえ」
「あとで見せろ」
「医者か、お前は」
「年寄りはだいたい医者みたいなことを言う」
ガルドは笑いかけた。
だが、すぐ顔をしかめた。
痛みはある。
それでも立っている。
伊織はハンドルを握る。
左手だけ。
重い。
車体が言うことを聞かない。
右手なら、もっと細かく動かせる。
だが、右手は遠い。
左手でやるしかない。
アリアが目を閉じた。
風が水面を這う。
触れていない。
手首を使わない。
水の抵抗だけをずらす。
「右前、軽くなります」
「分かった」
「左後ろ、重いままです」
「ゼクト」
「分かってる!」
ゼクトの鎖が石柱を引く。
車体に触れず、車体の進む道を変える。
ガルドが足場を押す。
ヴォルフが歯車の噛みを外す。
リナがクロを見て叫ぶ。
「右、流れが変わる!」
クロが低く吠える。
ニコが車内へ声を通す。
「全員、右に寄らないで! 左へ低く!」
ミナがトトを見る。
トトは水面を見ている。
音ではない。
空白。
水音がない場所。
そこに排水口がある。
トトが指を立てた。
右下。
ミナが叫ぶ。
「右下、今!」
伊織は車体を動かした。
半歩。
いや、半歩にも満たない。
左手だけでは足りない。
車体が震える。
ヴァルターの黒い線が車軸へ絡む。
伊織の右手に、痛みが戻った。
動かないはずの右手に、痛みだけが戻る。
歯を食いしばる。
動け。
少しでいい。
だが、右手は動かない。
その時、アリアが言った。
「右手ではありません」
伊織は息を止める。
「車体です。あなたの右手ではなく、車体そのものが覚えています」
黒鋼装甲輸送車。
移動する結び目。
伊織が作った鋼鉄。
伊織だけが動かせる。
だが、その中で鳴る音は、伊織だけのものではない。
車体は覚えている。
ニコの音。
トトの合図。
ミナの声。
リナとクロの感知。
ガルドの木槌。
ヴォルフの骨刃。
ゼクトの鎖。
アリアの風。
伊織は左手でハンドルを握ったまま、息を吸った。
右手ではない。
一人の力ではない。
線を結ぶ。
「押せ」
伊織が言った。
誰に向けた言葉か分からない。
だが、全員が動いた。
ガルドが右手で木槌を押し込む。
ヴォルフが骨刃を噛ませる。
ゼクトが鎖を引く。
アリアが風を流す。
リナがクロを右へ逃がす。
ニコが声を張る。
ミナがトトの指を読む。
トトが水の空白を見続ける。
黒鋼装甲輸送車が、ほんの少し前へ出た。
半歩。
足りない。
ヴァルターの鎖腕が、排水口を塞ぐ。
遅い。
このままでは届かない。
ヴァルターの声が響く。
「固定された構造は崩れない」
伊織は前を見た。
ヴァルター。
黒い構造体。
戻れない男。
その胸で、歯車が割れかけている。
崩れない。
違う。
崩れた時に、戻れないだけだ。
伊織は左手でハンドルを握り直した。
黒鋼装甲輸送車が低く唸る。
全員の線が、車体に集まる。
今、この一歩だけ。
伊織は言った。
「次で終わりだ」
ヴァルターの言葉ではない。
今度は、こちらの言葉だった。
車体が前へ出た。
一歩。
排水口の縁に、黒鋼装甲輸送車の前輪がかかった。
同時に、ゼクトの鎖が石柱を引く。
ガルドの木槌が足場を押す。
ヴォルフの骨刃が歯車の噛みを外す。
アリアの風が水を割る。
トトの指が、空白を指す。
ミナが叫ぶ。
「そこ!」
ニコの声が重なる。
「右下、開きます!」
リナがクロを押さえる。
「今!」
伊織は車体を沈めた。
押し潰すのではない。
ずらす。
排水口の縁。
水路の外。
ヴァルターの内側へ通じる外。
そこに、車体の重さを乗せる。
黒い線が悲鳴のように鳴った。
かちり。
ぎ。
ばきん。
排水口の奥で、何かが外れた。
それは水路の音ではなかった。
ヴァルターの胸から聞こえた。
◆
黒い構造体が揺れた。
水門の骨がずれる。
鎖の腕が軋む。
歯車の胸が、噛み合わなくなる。
ヴァルターは初めて、一歩よろめいた。
ほんの一歩。
だが、それは決定的だった。
「外から」
ヴァルターが呟いた。
その声には、驚きがあった。
「外から、中へ」
伊織はハンドルを握ったまま、荒く息をした。
「お前がつなげた」
ヴァルターの胸の歯車に、ひびが入る。
「そうか」
ヴァルターは静かに言った。
「構造を閉じたつもりだった」
黒い線がほどけていく。
「だが、閉じたことで、外が残った」
アリアが言う。
「固定されたものは、外からのずれに弱い」
ヴァルターはアリアを見た。
「君は」
少しだけ、言葉を探した。
「よく見ている」
「私だけではありません」
アリアは答えた。
その声は、震えていなかった。
「みんなで見ました」
ヴァルターは、ゆっくり周囲を見る。
伊織。
アリア。
リナとクロ。
ニコ。
ミナとトト。
ガルド。
ヴォルフ。
ゼクト。
誰も完全ではない。
誰も万全ではない。
だが、誰か一人でもない。
ヴァルターの胸の歯車が、また鳴った。
今度は、壊れる音だった。
かち。
ばきん。
黒い構造体の鎖腕が落ちた。
水面に沈む。
水門の骨が崩れる。
歯車がばらばらと落ちる。
ヴァルターはその中心に立っていた。
固定された男。
戻れない男。
だが、もう構造は支えていなかった。
「人は崩れる」
ヴァルターが言った。
声は、少しだけ人のものに戻っていた。
「だから、固定した」
伊織は答える。
「崩れた時に、戻れないだけだ」
ヴァルターは沈黙した。
それから、ほんのわずかに笑った。
嘲笑ではない。
納得に近いものだった。
「戻れる場所がある者の言葉だ」
伊織は何も言わなかった。
言えば、整いすぎる。
ヴァルターは水面を見る。
胸の歯車は割れている。
魔力固定化。
戻れなくなるための術式。
その代償が、今、彼の身体を崩している。
アリアが低く言った。
「もう保ちません」
ヴァルターは頷いた。
「そうだろうな」
ゼクトが一歩前へ出る。
「ヴァルター」
ヴァルターはゼクトを見る。
「戻る気はあるか」
ゼクトの声は低かった。
ライバルへの声ではない。
同じ鉄鎖団にいた者への声だった。
ヴァルターは少しだけ首を傾ける。
「戻る?」
「ああ」
「どこへ」
ゼクトは黙った。
ヴァルターは静かに言った。
「君には、まだあるのか」
ゼクトの鎖が小さく鳴った。
答えはなかった。
ヴァルターはそれ以上聞かなかった。
水面の黒い線が、彼の足元へ戻っていく。
消えていく。
いや、ほどけている。
伊織は銃を出そうとした。
右手は動かない。
左手で出せるか。
分からない。
だが、もう必要なかった。
ヴァルターは攻撃してこない。
攻撃できないのではない。
しない。
「君たちは、構造ではなかった」
ヴァルターが言った。
「線だった」
水音が戻る。
ただの水音。
罠の音ではない。
「線は、切れる」
ヴァルターは続けた。
「だが、結び直す」
アリアが小さく息を呑んだ。
ヴァルターは、自分の胸に手を当てた。
割れた歯車の音が、静かになる。
「それを、見落とした」
黒い外套が、水に濡れて重くなっている。
彼の足元から、黒い粒子が少しずつ剥がれていく。
魔力固定化が解けている。
寿命を削った術式が、術者ごと崩れている。
ゼクトがもう一歩踏み出した。
「おい」
ヴァルターは首を横に振った。
「近づくな。まだ残っている」
「何が」
「固定の残滓だ。触れれば、君の鎖を持っていく」
ゼクトは立ち止まった。
唇を噛む。
「最後まで面倒な奴だな」
「君ほどではない」
ヴァルターが言った。
ゼクトは一瞬、何かを言いかけた。
言わなかった。
伊織は二人を見ていた。
敵。
敵同士。
だが、それだけではない。
どの世界にも、戻れない者はいる。
伊織は右手を見た。
動かない。
それでも、ここにいる。
戻る場所がある。
ヴァルターには、それがなかった。
あるいは、失った。
だから、固定した。
崩れない形に。
戻れない形に。
水路の奥で、最後の歯車が落ちた。
かん。
小さな音。
ヴァルターの身体が、わずかに傾く。
アリアが一歩動きかける。
伊織は止めない。
だが、アリアは自分で止まった。
ヴァルターは、それを見ていた。
「選ぶか」
アリアは頷いた。
「はい」
「良いことだ」
ヴァルターの声は、遠かった。
「選べるうちは」
黒い粒子が舞う。
水路の暗がりへ溶けていく。
ヴァルターの輪郭が薄くなる。
胸の歯車が、最後に一度だけ鳴った。
かちり。
それきり、音は途絶えた。
黒い外套も、細い指も、無駄のない立ち姿も、水の底にほどけて消えた。
残ったのは、小さな歯車の欠片だけだった。
割れた黒い歯車。
もう回らない。
ヴァルターは、そこにはいなかった。
◆
しばらく、誰も動かなかった。
水路の底に、ただ水音だけが残っていた。
黒い歯車は沈んだ。
鎖の腕は崩れた。
水門は止まっている。
ヴァルターはいない。
だが、戦いが終わったという実感は、すぐには来なかった。
ニコが最初に息を吐いた。
震える息だった。
それを聞いて、トトが木札を探した。
湿って、音は出ない。
それでも、トトは木札を一度だけ叩いた。
かすれた音がした。
かん、ではない。
こつ、と。
小さい。
だが、確かに鳴った。
ミナが泣きそうな顔で笑った。
「鳴った」
トトが頷いた。
リナがクロを抱きしめる。
クロは嫌そうに鼻を鳴らしたが、逃げなかった。
ガルドがその場に座り込んだ。
「終わったか」
ヴォルフが片目で見る。
「腕を見せろ」
「今かよ」
「今だ」
「折れてねえって」
「折れていないかは、あとでエルナが決める」
ガルドは舌打ちした。
「年寄りが医者みたいなことを言うな」
「だから言っただろう」
ガルドは笑った。
すぐに顔をしかめた。
「……たぶん、折れてねえ」
「その言い方をやめろ」
場に、少しだけ息が戻った。
ゼクトは離れた場所に立っていた。
鎖を肩に掛けている。
何も言わない。
伊織は彼を見る。
「戻るのか」
「どこへだ」
ゼクトが言う。
その声は、いつもより低かった。
「鉄鎖団か」
「さあな」
「来るか」
言ってから、伊織は自分でも少し驚いた。
ゼクトも眉を上げた。
「呼ぶのは責任を持つ奴がやることだ、って言っただろ」
「ああ」
「責任取る気か」
「今はない」
「正直だな」
「だが、借りはある」
ゼクトは短く笑った。
「なら、そのうち取りに行く」
「そうしろ」
「その時は敵かもしれねえぞ」
「分かってる」
「面倒な男だ」
「よく言われる」
ゼクトは鎖を鳴らし、背を向けた。
今度は止めなかった。
彼はまだ、線の外にいる。
だが、完全に切れたわけではなかった。
アリアが伊織の右手を見ている。
「東さん」
「ああ」
「右手を見せてください」
「動く」
「嘘です」
即答だった。
伊織は黙った。
アリアは続ける。
「嘘をつくなら、もう少し上手くしてください」
「努力する」
「しなくていいです」
アリアは伊織の右手を見た。
触れようとして、止まる。
伊織の鋼鉄は、他人を弾く。
だが、今は鋼鉄ではない。
ただの手だ。
それでも、アリアは無理に触れなかった。
「痛みは」
「遠い」
「感覚は」
「戻る」
「断定ですか」
「願望だ」
アリアは小さく息を吐いた。
「では、戻しましょう」
その言い方が、少しだけおかしかった。
まるで、壊れた椅子を直すように。
ずれた机を戻すように。
伊織は笑わなかった。
だが、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「帰るぞ」
伊織が言った。
誰も異を唱えなかった。
黒鋼装甲輸送車は、水路の底で低く唸った。
右手は使えない。
だから、伊織は左手でハンドルを握る。
アリアが隣で水路の出口を見ている。
リナとクロが前方を嗅ぐ。
ニコが車内の人数を数える。
ミナとトトが湿った木札を布で拭く。
ガルドが左腕を庇いながら乗り込む。
ヴォルフが最後に水路の奥を見た。
ゼクトの姿はもうない。
それでも、どこかで鎖が一度だけ鳴った気がした。
黒鋼装甲輸送車がゆっくり動き出す。
水路の底から。
帰る場所へ。
伊織は前を見た。
右手はまだ動かない。
左手だけが、ハンドルの冷たさを知っている。
車内で、湿った木札が小さく鳴った。
こつ。
乾いた音ではなかった。
それでも、音はあった。
黒鋼装甲輸送車は、水の底を抜けていく。
線は、まだ切れていなかった。




