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第35話 固定された男

 水の底で、黒い歯車が鳴っていた。


 かちり。


 かちり。


 それは罠の音ではなかった。


 今までのように、壁の裏や床下や金具の奥から聞こえる音ではない。


 ヴァルターの胸の奥から聞こえていた。


 人の身体の中で、金属が噛み合う音。


 呼吸ではない。


 鼓動でもない。


 歯車。


 構造。


 固定された魔力。


 アリアの顔色が変わっていた。


「東さん」


「ああ」


 伊織は銃を構えたまま答えた。


「分かっている」


「いえ」


 アリアはヴァルターを見ていた。


 黒い外套。


 濡れた裾。


 細い指。


 その奥で鳴る、黒い歯車。


「彼は、支配核を外に置いていません」


「どういう意味だ」


「自分の中に固定しています」


 アリアの声が、わずかに低くなった。


「魔力固定化です」


 伊織は目を細める。


「固定化」


「通常なら、術者の寿命を削ります」


 ガルドが木槌を握ったまま顔をしかめた。


「寿命だと?」


「はい」


 アリアは頷く。


「あれは、戦うための術式ではありません」


「なら何だ」


 伊織が聞く。


 アリアは一瞬だけ言葉を探した。


「戻れなくなるための術式です」


 水音が、低く響いた。


 ヴァルターは否定しなかった。


 胸の奥で、歯車がまた鳴る。


 かちり。


「正しい」


 ヴァルターが言った。


「人の身体は揺らぐ。痛む。迷う。疲れる。恐れる」


 黒い線が、彼の背後で広がる。


 歯車。


 鎖。


 細い金属線。


 水路の壁。


 水門。


 足場。


 それらが、ヴァルターの背後でひとつの形になっていく。


「だから、固定した」


 声は静かだった。


 誇りではない。


 狂気でもない。


 ただ、結論を述べる声だった。


「崩れない形にした」


 伊織は銃口を向けたまま、ヴァルターを見る。


「それで人をやめたのか」


「人は、最後に崩れる」


 ヴァルターは言った。


「支えると言う。守ると言う。帰ると言う。だが、痛めば手を放す。恐れれば役目を奪う。迷えば選ばせられる」


 細い指が、胸の歯車に触れた。


「ならば、迷わない形にすればいい」


 伊織は何も言わなかった。


 ヴァルターは伊織を見る。


「君は違うと証明した。面白い」


「面白がるために寿命を削ったのか」


「違う」


 ヴァルターの声が、わずかに沈んだ。


「完成させるためだ」


 背後の構造体が、ゆっくり開いた。


 黒い翼のように。


 いや、翼ではない。


 水路の構造そのものだった。


 水門。


 鎖。


 歯車。


 古い導水管。


 それらを黒い線で結び、ヴァルター自身の支配核を中心に固定している。


 水路が、彼の身体の延長になっていた。


 アリアが小さく息を呑む。


「水路全体を、彼の術式にしている」


「切れるか」


 伊織が聞く。


「外からなら」


「中からは」


「難しいです」


 ヴァルターが微かに笑った。


「難しい、ではない。できない」


 正面水門の鎖が鳴る。


 右の水門。


 左の水門。


 三つが、同時に動く。


 水面に黒い線が浮かぶ。


 伊織はハンドルに手を置く。


 黒鋼装甲輸送車は、まだ動く。


 だが、重い。


 水を吸ったように重い。


「東」


 ヴォルフが低く言った。


「長くは持たん」


「分かってる」


 伊織は周囲を見る。


 ガルドは左腕を押さえている。


 ゼクトは鎖を構えているが、肩の傷が濡れている。


 リナはクロを押さえ、ニコは木札を握り、ミナはトトの手を取っている。


 トトの顔はまだ青い。


 音を一度、失った。


 水音に飲まれた。


 それでも、目は開いている。


 アリアは隣に立つ。


 手首の布は濡れている。


 赤は見えない。


 だが、無事ではない。


 誰も万全ではない。


 それが現実だった。


 伊織は息を吸った。


「ガルド、腕は」


 ガルドは左手を握って開いた。


 一度目は動いた。


 二度目で、顔が歪む。


「折れてねえな」


 ヴォルフが片目で見る。


「折れていないだけだ」


「動く」


「握れていない」


 ガルドは舌打ちした。


「木槌は右で持つ」


 ゼクトが横から言った。


「柄を殺せと言ったろ」


「腕まで殺すつもりはなかった」


「なら、右だけで叩け」


「簡単に言うな」


「簡単じゃねえから言ってる」


 ガルドはゼクトを睨んだ。


 だが、すぐに木槌を握り直した。


 左腕は脇に押しつける。


 右手だけで柄を短く持つ。


「支える手が一本減ったな」


 ヴォルフが言った。


「減ってねえ」


 ガルドは歯を食いしばる。


「使い方が変わっただけだ」


 伊織は頷いた。


「十分だ」


 ヴァルターの背後で、黒い構造体が鳴る。


「十分か」


 ヴァルターは言った。


「では、試そう」



 最初に動いたのは、右の水門だった。


 水ではない。


 鎖が来た。


 水面の下から、黒い鎖が浮き上がる。


 車体を狙っていない。


 ガルドの木槌。


 ゼクトの鎖。


 ヴォルフの骨刃。


 外にある武器だけを絡め取る軌道。


「外の手から潰す気だ」


 アリアが言った。


「分かってる」


 伊織は銃を上げた。


 撃つ。


 だが、その前にヴァルターの指が動いた。


 水面が揺れる。


 銃口の先に、水の膜が立った。


 薄い壁。


 撃てば弾道が曲がる。


 車内へ返る。


 伊織は撃たなかった。


「撃たないのか」


 ヴァルターが言う。


「撃てば返る」


「正しい」


 淡々とした声。


 採点するような声。


 伊織の奥歯が鳴る。


「採点してんじゃねえよ」


 ガルドが低く言った。


 右手だけで木槌を持つ。


 振れない。


 振れば体が流れる。


 だから、押す。


 水面から来る鎖の先を、木槌の頭で押し込む。


 叩かない。


 受ける。


 柄を殺す。


 ゼクトの鎖が横から走る。


 ガルドの木槌に絡む黒い鎖を、さらに外側から絡め取る。


「右へ逃がせ!」


 ゼクトが叫ぶ。


「命令すんな!」


 ガルドが返す。


 それでも右へ逃がした。


 黒い鎖は木槌を噛み損ね、水へ沈む。


 ヴォルフの骨刃がその支点を切った。


 ぱきん。


 音は小さい。


 だが、確かに切れた。


 ヴァルターは表情を変えない。


「では、次」


 左の水門が開く。


 今度は水。


 細い流れではない。


 横から押す水。


 外にいる者を足場ごと流す水だ。


「ガルド、戻れ!」


 伊織が叫ぶ。


 ガルドは一歩下がる。


 だが、遅い。


 左腕が使えない分、重心が崩れる。


 足が水に取られた。


 ゼクトが鎖を飛ばす。


 しかし、ヴァルターの黒い線がその鎖を狙う。


 鎖を支配する気だ。


「ゼクト、引くな!」


 伊織が言った。


「理由は!」


「鎖を取られる!」


 ゼクトは舌打ちした。


 鎖を引かない。


 その代わり、自分の手元で鎖を切った。


 黒い鎖の一片が水へ落ちる。


 ガルドの手前で、鎖の先だけが残る。


 ガルドはそれを右手で掴んだ。


 ゼクトが叫ぶ。


「自分で上がれ!」


「分かってる!」


 ガルドは歯を食いしばり、石の縁へ這い上がった。


 左腕は使わない。


 右腕と膝だけで上がる。


 水がその背を打つ。


 リナがクロを押さえている。


 クロは飛び出そうとしている。


 だが、リナはただ止めない。


「クロ、今出たら流される! ガルドさんは上がってる!」


 クロが低く唸り、止まる。


 選んだ。


 伊織はその一瞬を見た。


 線はまだある。


 細い。


 だが、切れていない。


 ヴァルターの胸の歯車が鳴る。


 かちり。


「面白い」


「そればっかりだな」


 伊織が言う。


「そうだ」


 ヴァルターは答えた。


「君たちは、壊れる直前が最もよく見える」


 その言葉に、アリアの目が細くなった。


「あなたは」


 アリアが言った。


「壊れる前提でしか、人を見ていない」


「壊れる」


 ヴァルターは即答した。


「だから固定する」


「違います」


 アリアは一歩前に出る。


 伊織は止めかける。


 だが、言わない。


 アリアは自分の手首を見てから、ヴァルターを見た。


「壊れたら、直します。ずれたら、結び直します。痛ければ、誰かが気づきます」


 ヴァルターはアリアを見る。


「だから弱い」


「だから続くんです」


 アリアの声は静かだった。


 だが、水音の中でも消えなかった。


 ヴァルターの胸の歯車が、一度だけ強く鳴った。


 かちり。



 正面水門が動いた。


 今度は、水ではない。


 水位が下がった。


 伊織は一瞬、眉を寄せる。


 水を引く。


 なぜ。


 次の瞬間、分かった。


 水が引いたことで、底が見えた。


 水底に埋まっていた歯車。


 黒い線。


 影。


 すべてが現れた。


 隠されていたのではない。


 沈められていた。


 数が多い。


 多すぎる。


 伊織の視界が一気に格子で埋まった。


 線。


 距離。


 角度。


 処理できない。


 右手が冷える。


 頭の奥が軋む。


 アリアが言う。


「見すぎています」


「分かってる」


「一つに絞ってください」


「どれだ」


 伊織の視界には、すべてが本命に見えた。


 ヴァルターがそれを狙っている。


 見える者に、見えすぎる罠を与える。


 伊織の戦術眼そのものを潰しに来た。


 水底の歯車が一斉に鳴る。


 かちり。


 かちり。


 かちり。


 頭の中でも鳴る。


 視界の格子が歪む。


 伊織の銃口がわずかに揺れた。


 アリアが手を伸ばす。


 伊織の右手ではない。


 銃でもない。


 ハンドルでもない。


 伊織の視界の前に、白い袖が入った。


 それだけで、一瞬、見える線が遮られた。


「見るな、ではありません」


 アリアが言った。


「一度、減らしてください」


 伊織は息を吐く。


 視界の線を捨てる。


 全部は見ない。


 必要なものだけ。


 前。


 車体。


 人。


 ヴァルター。


 それ以外を落とす。


 グリッドが消える。


 残ったのは、水底の中央にある大きな歯車だった。


 小さな罠ではない。


 水路全体を動かす主軸。


「中央」


 伊織が言った。


「本命は中央の歯車だ」


 アリアが頷く。


「はい」


 ヴァルターの表情が、ほんの少しだけ動いた。


 当たり。


 伊織は銃を構える。


 だが、中央の歯車は水底。


 撃っても届かない。


 届いても壊せる保証はない。


 ガルドは左腕が使えない。


 ゼクトの鎖は水で重い。


 ヴォルフの骨刃では遠い。


 アリアが触れば、手首が持たない。


 伊織は黒鋼装甲輸送車を見る。


 重い車体。


 移動する結び目。


 鋼鉄。


 撃つためだけではない。


 守るためだけでもない。


 動かすための鋼鉄。


「車体で踏む」


 伊織が言った。


 リナが目を見開く。


「水底の歯車を?」


「ああ」


 アリアが即座に言う。


「車軸に負荷が来ます」


「分かってる」


「鋼鉄への負荷は、あなたに返ります」


「ああ」


「無理をしています」


 伊織は短く笑った。


「今度は本当にしている」


 アリアは一瞬だけ黙った。


「理由は」


「中央を潰せば、水門の三本が止まる」


「他の方法は」


「ない」


 アリアは伊織を見る。


 止める顔ではなかった。


 選ばせる顔だった。


「では、支えます」


「触るな」


「触れません」


 アリアは目を閉じた。


「風で水の抵抗を減らします」


 リナがクロを見る。


「クロ、車体の右。水の流れを教えて」


 クロが低く唸り、右へ移動する。


 ニコが木札を握る。


「車内、全員低く!」


 ミナがトトを抱える。


 トトは水音を聞く。


 今度は音に飲まれていない。


 水が引いた分、音が減った。


 トトの指が中央を示す。


 ミナが叫ぶ。


「真ん中!」


 ガルドが右手だけで木槌を石に押し当てる。


「足場、押さえる!」


 ヴォルフが骨刃を構える。


「左の線を見る」


 ゼクトが鎖を水底へ走らせる。


「右は俺が引く。借りだと思うなよ」


「思わない」


 伊織は言った。


「面倒くせえな!」


 ゼクトが叫ぶ。


 だが、鎖は止まらない。


 伊織はハンドルを握った。


 右手が冷える。


 骨の奥まで。


 それでも、動く。


 黒鋼装甲輸送車が前へ出る。


 水底へ。


 中央の歯車へ。


 ヴァルターの胸の歯車が鳴る。


 かちり。


 水底の歯車が回る。


 車体の下に黒い線が絡む。


 車軸。


 底部。


 影。


 全部を掴みに来る。


 アリアの風が水を割る。


 リナとクロが流れを読む。


 ニコの声が車内を押さえる。


 トトの指が中央を示す。


 ミナがそれを叫ぶ。


 ガルドが足場を押す。


 ヴォルフが線を切る。


 ゼクトの鎖が右を引く。


 伊織は車体を進める。


 半歩。


 さらに半歩。


 水底の歯車に、車輪が乗った。


 黒鋼装甲輸送車が軋む。


 伊織の右手に痛みが走る。


 冷えではない。


 痛み。


 歯を食いしばる。


 潰せ。


 車体が沈む。


 歯車が軋む。


 ヴァルターの胸の歯車が、一瞬乱れた。


 かち、り。


 水底の中央歯車が砕けた。


 鈍い音。


 水門の鎖が止まる。


 右。


 左。


 正面。


 三本の線が、同時に緩んだ。


 黒鋼装甲輸送車は止まった。


 伊織の右手から、感覚が消えた。



 静かだった。


 水音だけがある。


 伊織はハンドルを握ったまま、右手を見た。


 動かない。


 指が、少し遅れる。


 いや。


 遅れるどころではない。


 遠い。


 自分の手ではないようだった。


「東さん」


 アリアの声。


 近い。


 だが、返事が少し遅れた。


「ああ」


「右手」


「動く」


 嘘だった。


 アリアは何も言わなかった。


 ただ、見ていた。


 その視線が痛かった。


 ヴァルターは、水門の前で胸を押さえていた。


 黒い外套の内側で、歯車が乱れている。


 彼も無傷ではなかった。


 中央歯車は、彼自身の構造とつながっていた。


 伊織が潰したのは、水路だけではない。


 ヴァルターの一部でもあった。


 ヴァルターはゆっくり顔を上げた。


「いい」


 その声に、熱があった。


 初めて、はっきりと。


「そこまで来るか」


 胸の歯車が、嫌な音を立てる。


 かちり。


 ぎ、と。


 噛み合わない音。


 アリアが低く言った。


「固定化が崩れています」


「なら終わりか」


 伊織が言う。


「いいえ」


 アリアは首を横に振った。


「崩れる前に、最後の形になります」


 ヴァルターが笑った。


 静かに。


 ほとんど嬉しそうに。


「そうだ」


 水路の壁が震えた。


 壊れた中央歯車の欠片が、水面から浮く。


 ヴァルターの胸の歯車へ吸い込まれていく。


 右水門。


 左水門。


 正面水門。


 すべての黒い線が、彼自身へ戻っていく。


 水路全体を支配するのではない。


 水路全体を、自分の中へ畳んでいる。


 寿命を削る。


 戻れなくなる。


 アリアの言葉が蘇る。


 魔力固定化。


 戻れなくなるための術式。


 ヴァルターは、戻るつもりがない。


「これが、完成形だ」


 ヴァルターが言った。


 胸の歯車が、ひび割れた音を立てる。


 伊織は右手を開こうとした。


 動かない。


 黒鋼拳銃は出せるか。


 分からない。


 黒鋼装甲輸送車は動くか。


 分からない。


 それでも、ここで終わるわけにはいかない。


 背後には帰る場所がある。


 食堂がある。


 割れた皿がある。


 戻ると言った場所がある。


 アリアが、伊織の右手を見ていた。


「東さん」


「分かってる」


「無理をしています」


「ああ」


 今度は、否定しなかった。


 アリアは一歩、前へ出る。


「私もです」


 伊織は彼女を見る。


 アリアは手首を押さえていない。


 隠していない。


「でも、選びます」


 リナがクロの首に手を置く。


「私も」


 ニコが木札を握る。


「私も、声を出します」


 ミナがトトの手を握る。


「私たちも」


 トトが頷く。


 ガルドが左腕を庇いながら立つ。


「右だけでも叩ける」


 ヴォルフが骨刃を構える。


「老いぼれも、まだ見える」


 ゼクトが鎖を鳴らした。


「俺は通りがかりだ」


 誰も否定しなかった。


 伊織は息を吸う。


 右手は動かない。


 だが、線はまだある。


 切れていない。


 ヴァルターの背後で、黒い構造体が完全に組み上がった。


 人の形をしていない。


 水門の骨。


 鎖の腕。


 歯車の胸。


 水路の底から立ち上がる、黒い構造そのもの。


 その中心に、ヴァルターがいる。


 固定された男。


 戻れない男。


 伊織は、左手でハンドルを握った。


 右手は使えない。


 それでも、前を見る。


 黒鋼装甲輸送車が、低く唸った。


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