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第34話 水の底

 食堂を出る前に、伊織はもう一度だけ振り返った。


 机は戻した。


 椅子も戻した。


 割れた皿の欠片は布に包んだ。


 床の砂は、リナとミナが掃いた。


 トトは何も言わず、最後まで床の音を聞いていた。


 クロは入口で丸くなりかけて、リナに首を引かれて起きた。


 いつもの食堂に近い。


 だが、完全には戻らない。


 傷はある。


 ずれもある。


 それでも、帰れる場所として残っていた。


 伊織はそれを見てから、食堂を出た。


 黒鋼装甲輸送車は、中庭で低く唸っていた。


 空は曇っている。


 風が湿っていた。


 旧水路の方から来る風だ。


 乾いた砂の匂いの奥に、水の匂いが混じっている。


 この街で、初めて嗅ぐ種類の匂いだった。


「水の底、か」


 ガルドが木槌を肩に担ぎながら言った。


「嫌な場所だな」


 ヴォルフが片目で旧水路の方角を見た。


「音が返る。足場が悪い。逃げ道も読みにくい」


「最悪だな」


「敵にとっても、味方にとってもな」


 伊織は車体に手を置いた。


 冷たい。


 だが、昨日までより馴染んでいる。


 動かすのは自分だ。


 だが、中で鳴る音は自分だけのものではない。


 リナがクロを車内へ先に乗せる。


 ニコは木札を二枚持っていた。


 一枚は手元。


 もう一枚は予備。


 ミナはトトの隣に座る。


 トトは木札を持っていなかった。


 代わりに、小さな布を握っている。


 湿った場所では木の音が鈍る。


 そう判断したのだろう。


 アリアは助手席側に乗った。


 手首には新しい布。


 エルナが強めに巻いたものだ。


 赤は見えない。


 伊織はそれを見た。


 アリアも見られていることに気づいた。


「今のところは大丈夫です」


「今のところ、は信用しない」


「では、見ていてください」


「ああ」


 それ以上は言わなかった。


 言わなくても、十分だった。


 伊織は運転席に座る。


 ハンドルを握る。


 黒鋼装甲輸送車が低く震えた。


 帰る場所を背にして、水の底へ向かう。


 戻るために行く。


 それが、今の線だった。



 旧水路の入口は、街の北側にあった。


 石で組まれた低い門。


 半分は砂に埋もれ、半分は黒い苔に覆われている。


 かつて水が流れていた場所。


 今は細い水だけが底を這っている。


 門の上には古い文字が刻まれていた。


 アリアがそれを見る。


「旧式の水制御陣です。今はほとんど死んでいます」


「ほとんど、か」


「完全には死んでいません」


 伊織は車体を止めた。


 門の奥は暗い。


 黒鋼装甲輸送車がぎりぎり通れる幅だった。


 だが、天井が低い。


 入れば、車体の上部が擦れる。


 速度は出せない。


 中で方向転換も難しい。


 ヴァルターが選ぶには、いい場所だった。


 リナが窓から外を見る。


「匂いが多すぎる。水、苔、錆、古い木、黒い油」


 クロが低く唸る。


 トトは目を閉じていた。


 木札は鳴らさない。


 水音を聞いている。


 ぽた。


 ぽた。


 奥から水が落ちる音。


 右から流れる音。


 遠くで反響する音。


 トトの指がミナの手の上で止まった。


 ミナが小さく言う。


「音が、遅れて返ってるって」


「どこから」


 伊織が聞く。


 トトは少し考え、ミナの手を一度握る。


「前」


 二度。


「右」


 そして、長く一度。


 ミナが眉を寄せる。


「下……?」


 トトが頷く。


 前。


 右。


 下。


 伊織は門の奥を見る。


 視界の奥で、暗がりが薄く区切られる。


 線。


 距離。


 角度。


 だが、水が邪魔をする。


 反射。


 反響。


 足場のずれ。


 陸の戦場とは違う。


 頭の中の格子が、わずかに歪む。


 伊織はハンドルを握り直した。


「水で読みにくい」


 アリアが言った。


「分かるのか」


「あなたの右手が止まりました」


「見てるな」


「必要です」


 伊織は短く息を吐いた。


「入る」


 誰も止めなかった。


 黒鋼装甲輸送車は、旧水路へ入った。



 中は、暗かった。


 車体の前照灯に似た黒い光が、伊織の意思に応じて低く灯る。


 明るすぎない。


 明るすぎれば、水面に反射して目を潰す。


 細い光が、石壁と浅い水面を舐める。


 車輪が水を踏む。


 ばしゃり。


 低い音。


 それが水路の奥へ伸び、遅れて返ってくる。


 トトが目を開いた。


 ミナの手を握る。


 二度。


「右」


 リナがクロを見る。


 クロは鼻を上げる。


「右、匂い薄い。でも音がある」


 伊織は速度を落とす。


 右の壁。


 苔。


 水滴。


 古い排水口。


 その中に、黒い歯車が半分だけ埋まっていた。


 伊織は銃を出しかける。


 やめた。


 水がある。


 跳弾。


 反射。


 車内の誰かに返る可能性がある。


「撃たない」


 自分に言った。


 アリアが頷く。


「排水口の縁です。支点だけなら、外せます」


「触るな」


 伊織は言った。


 アリアは手を止める。


「触りません。風だけです」


 風が細く走った。


 水面がわずかに揺れる。


 排水口の苔が剥がれた。


 黒い歯車が見える。


 ガルドが車外にいた。


 濡れた足場で木槌を構える。


 だが、振らない。


 木槌の柄を短く持つ。


 ゼクトに言われたことを、もう使っている。


「柄を殺す、だったな」


 ガルドが呟く。


 木槌の頭を排水口の縁に当てる。


 押す。


 石が軋む。


 ヴォルフの骨刃が横から入る。


 歯車の噛みが外れた。


 ぱきん。


 小さい音。


 水音に紛れそうな音。


 だが、トトは聞いていた。


 ミナの手を一度握る。


「前、止まった」


 伊織は車体を進める。


 その瞬間、後方で水が跳ねた。


 リナが叫ぶ。


「後ろ!」


 クロが振り向く。


 車体の後ろ、通ってきた水面から黒い線が立ち上がっている。


 前を処理させて、後ろを閉じる。


 いつもの手。


 ガルドは振り返りかける。


 ヴォルフが言う。


「戻るな。足場が取られる」


「理由は見えてる」


 ガルドは戻らない。


 代わりに、木槌の柄で壁を叩いた。


 どん。


 どん。


 合図。


 ニコがそれを拾う。


「後方、閉じています!」


 車内に声が通る。


 伊織はバックしない。


 戻れば挟まれる。


「前へ出る」


 伊織が言った。


 アリアが水面を見る。


「前方にも線が来ます」


「来る前に抜ける」


「はい」


 トトがミナの手を握る。


 一度。


「前」


 少し間を置いて、三度。


「後ろ」


 次に、何度も細かく握る。


 ミナが戸惑う。


「水……水の下?」


 伊織は水面を見る。


 見えない。


 だが、波が違う。


 車体の下。


 水の下で歯車が動いている。


 車輪を取るつもりだ。


「車輪じゃない」


 伊織は言った。


 アリアが顔を上げる。


「車輪を見せて、車軸です」


「だろうな」


 伊織はハンドルを握る。


 右手は冷えている。


 だが、遅れない。


 黒鋼装甲輸送車の底が、低く唸る。


 車軸を狙う線が水中から伸びる。


 伊織は速度を上げない。


 むしろ落とした。


 重さを水に預ける。


 車体を沈ませるのではない。


 押さえる。


 車輪が滑る前に、重心を落とす。


 アリアが助手席で目を閉じる。


 触れていない。


 だが、車体の流れを感じている。


「右前、少し浮きます」


「分かった」


「左後ろ、遅れます」


「任せる」


 伊織はハンドルを切った。


 ほんの少し。


 車体が水を押す。


 黒い線が車軸へ絡む前に、水流が変わった。


 線がずれる。


 ガルドの木槌が水面を叩く。


 水が跳ねる。


 支点が見えた。


 ヴォルフの骨刃が入る。


 ぱきん。


 車体の下の線が切れた。


 黒鋼装甲輸送車は止まらなかった。



 水路の奥で、灯りが見えた。


 小さな黒い灯り。


 火ではない。


 歯車の反射だった。


 広い場所に出る。


 旧水路の底。


 丸い貯水槽のような空間。


 天井は高い。


 中央に浅い水が溜まり、その周囲を石の足場が囲んでいる。


 壁には古い水門が三つ。


 右。


 左。


 正面。


 どれも閉じている。


 だが、金具は生きている。


 ヴァルターが整えた場所。


 そう分かった。


 黒鋼装甲輸送車は、貯水槽の入口で止まった。


 伊織は降りない。


 すぐには。


 見る。


 読む。


 焦らない。


 水面に、細い歯車がいくつも浮いている。


 沈んでいるものもある。


 壁の金具。


 水門の鎖。


 足場の鉄輪。


 全部が、線になる。


 正面の水門の前に、ヴァルターが立っていた。


 黒い外套。


 細い指。


 無駄のない立ち方。


 足元の水は、彼だけを避けるように静かだった。


「来たか」


 ヴァルターが言った。


「整えたと言ったな」


 伊織が返す。


「ああ」


 ヴァルターは片手を上げた。


 壁の歯車が、かちりと鳴る。


「ここは、線がよく見える」


 水面に波紋が広がる。


 波紋は円ではなく、線になった。


 水が、罠を隠すのではない。


 水そのものが線になる。


「君たちは手を重ねた。場所を守った。壊さずに済ませた」


 ヴァルターは淡々と言う。


「では、水の中ではどうする」


 水門の一つが、わずかに開いた。


 水が流れ込む。


 浅い水位が、少しずつ上がる。


 ミナが息を呑む。


 トトが目を閉じる。


 水音が増える。


 ぽた。


 ざあ。


 こぽ。


 音が多すぎる。


 木札は鳴らない。


 ミナの手も、今は足りない。


 水の音が、すべてを飲み込む。


 ヴァルターはトトを見た。


「音を持つ子は、水で沈む」


 次にニコを見る。


「声を持つ者は、反響で迷う」


 リナを見る。


「匂いは湿気で流れる」


 ガルドを見る。


「木槌は足場を壊す」


 ヴォルフを見る。


「目は水面に騙される」


 アリアを見る。


「手は冷えれば鈍る」


 最後に伊織を見る。


「鋼鉄は沈む」


 水位が上がる。


 黒鋼装甲輸送車の車輪が、半分水に沈む。


 伊織はハンドルを握った。


 重い。


 だが、動く。


 ヴァルターは言った。


「選べ。車内を残すか。外の者を残すか。水は待たない」


 伊織は黙った。


 また選ばせる。


 だが、同じではない。


 ここでは水がある。


 音が流れる。


 匂いが散る。


 足場が崩れる。


 時間が削られる。


 共同体の線を、環境ごと切りに来ている。


 アリアが手首を見る。


 伊織はそれを見た。


 言いかける。


 止めるな。


 奪うな。


 理由を言え。


 伊織は言った。


「触るな。まだ早い」


 アリアは頷いた。


「はい」


 短い。


 それでよかった。


 トトが木札を置いた。


 水の音を聞く。


 聞く。


 聞く。


 だが、音が多すぎた。


 水。


 石。


 鎖。


 車体。


 全部がひとつの音になって、耳の奥へ押し込まれる。


 トトの指が止まった。


 木札も鳴らせない。


 ミナの手も握れない。


 ただ、目を見開いたまま、水面を見ていた。


「トト?」


 ミナが肩を抱く。


 トトは答えない。


 指だけが、小さく震えていた。


 その一拍の遅れで、ガルドの足場が沈んだ。


「っ、まずい!」


 ガルドの膝が水に落ちる。


 木槌が石に当たり、鈍い音を立てた。


 ヴォルフが動く。


 だが、水面が跳ねた。


 視線が切れる。


 ゼクトの鎖が飛んだ。


 けれど、いつもより遅い。


 ガルドの左腕が水に引かれた。


「ガルド!」


 リナが叫ぶ。


 ゼクトが鎖を巻きつけ、引き戻す。


 ガルドは石の上に転がった。


 左腕を押さえている。


「折れたか」


 ヴォルフが聞く。


「折れてねえ」


 ガルドは歯を食いしばった。


「たぶん」


「たぶんで動くな」


「うるせえ」


 ヴァルターは静かに見ていた。


 表情は変わらない。


 だが、言葉の通りだった。


 音は水で沈んだ。


 足場は水で崩れた。


 対応は、遅れた。


 完璧には捌けなかった。


 伊織の右手が冷える。


 だが、今は動く。


「トト」


 伊織が呼んだ。


 トトは反応しない。


 ミナがトトの顔を覗き込む。


 そして、すぐに叫んだ。


「見てます!」


「何を」


「トト、右を見てる!」


 音ではない。


 手でもない。


 視線。


 トトの視線を、ミナが声にした。


 伊織は右を見る。


 水面の揺れ。


 排水口。


 そこに、黒い線が集まっている。


 右下。


 抜け道。


 水を逃がす場所。


「右下、排水口!」


 ミナが叫ぶ。


 リナがクロを押さえる。


「クロ、右!」


 クロは水に鼻を近づける。


 唸る。


 アリアが目を開ける。


「排水口です。開ければ水が逃げます」


「場所は」


「右下。ですが、金具が水中です」


 伊織は銃を出す。


 水中。


 見えない。


 撃てば跳ねる。


 だが、今は撃つしかない。


 視界が区切られる。


 距離。


 角度。


 水の屈折。


 狙点がずれる。


 VRの記憶が重なる。


 水中射撃の補正。


 ゲームでは簡単だった。


 現実は、違う。


 伊織は一度、銃を下げた。


 アリアが言う。


「撃たないんですか」


「見えない」


「では、見えるようにします」


 アリアが手を伸ばす。


 伊織は止めかける。


 だが、彼女は車体に触れなかった。


 風を水面に這わせた。


 水面が一瞬だけ平らになる。


 反射が消える。


 水中の金具が見えた。


「今」


 アリアが言う。


 伊織は撃った。


 黒い弾丸が水面を割る。


 角度を変えながら、金具へ届く。


 鈍い音。


 排水口の留め具が砕けた。


 水が右下へ流れ始める。


 水位が下がる。


 黒鋼装甲輸送車の車輪が、石床を噛んだ。


 車体が止まる。


 水流が弱まる。


 ガルドは左腕を押さえたまま、片膝をついている。


 ゼクトが鎖を引き戻す。


 ヴォルフが息を吐く。


 リナがクロを抱えていた。


 ニコは木札を握ったまま、震えている。


 トトはまだ、水面を見ている。


 ミナがその肩に手を置いている。


 アリアは、手首を押さえていない。


 風だけで済ませた。


 伊織はそれを見た。


 今は、何も言わなかった。


 言わなくても、アリアは分かっていた。



 ヴァルターは、水門の前に立っていた。


 水位は下がっている。


 黒い外套の裾が濡れていた。


 それでも、姿勢は崩れていない。


「水を逃がしたか」


 ヴァルターが言った。


「沈めるには足りなかったな」


 伊織が返す。


「沈めるつもりはなかった」


 ヴァルターは静かに言った。


「見るためだ」


「何を」


「君が何を壊すか」


 ヴァルターは水面を見る。


 割れた金具。


 砕けた排水口。


 沈んだ足場。


 ガルドの左腕。


 壊れたものはある。


 傷ついた者もいる。


 だが、人は流されなかった。


 車体も残っている。


 食堂でもそうだった。


 皿一枚で済ませた。


 ここでは、皿では済まなかった。


 伊織はそれを見た。


 水の怖さは、残った。


「なるほど」


 ヴァルターは呟いた。


「壊すものを選ぶ」


「違う」


 伊織は言った。


 ヴァルターが顔を上げる。


「守るために、何を壊していいかを考える」


「同じだ」


「違う」


 伊織は右手を下ろす。


「お前は選ばせる。俺たちは、考える」


 ヴァルターは黙った。


 初めて、少しだけ沈黙が長かった。


 その沈黙の中で、ゼクトが鎖を鳴らす。


「いい加減、出てこいよ。細工屋」


 ヴァルターはゼクトを見る。


「君は、まだそこにいるのか」


「気まぐれが長引いてる」


「鉄鎖団に戻れなくなる」


「戻る気があればな」


 空気が冷えた。


 ゼクトの言葉は、冗談ではなかった。


 ヴァルターは目を細める。


「そうか」


 その一言で、水路の奥の歯車が一斉に鳴った。


 かちり。


 かちり。


 かちり。


 水門が三つ、同時に動く。


 右。


 左。


 正面。


 伊織の視界が一瞬で線に埋まる。


 多すぎる。


 水。


 鎖。


 歯車。


 足場。


 車体。


 人。


 全部が線になる。


 処理が追いつかない。


 右手が冷える。


 頭の奥で、グリッドが歪む。


 その時、トトが目を開いた。


 木札はない。


 音も出さない。


 水音の中で、ただ一つ、違うものを見ていた。


 トトはミナの手を握らなかった。


 代わりに、伊織を指差した。


 いや。


 伊織ではない。


 伊織の足元。


 黒鋼装甲輸送車の下。


 そこに、本命があった。


 車体でも、人でもない。


 影。


 水の底に映る、車体の影。


 その影に、黒い歯車が噛んでいる。


 ヴァルターは、鋼鉄そのものに触れられない。


 だから、影に線をかけた。


 動きを奪うために。


 伊織は息を止めた。


「アリア」


「見えました」


 アリアは短く答えた。


「触るな」


「触りません」


「風か」


「いいえ」


 アリアは手首ではなく、自分の足元を見た。


「光です」


 水面に映る光。


 黒鋼装甲輸送車の影。


 天井から落ちるわずかな光。


 アリアは風で水面を揺らした。


 影が歪む。


 歯車の噛みがずれる。


 伊織はハンドルを握った。


 今だ。


 車体を前へ。


 ほんの半歩。


 影がずれる。


 ヴァルターの線が外れる。


 ゼクトの鎖が水中へ走る。


 ガルドは左腕を庇いながら、右手だけで木槌を押す。


 ヴォルフの骨刃が歯車の横を抜く。


 リナがクロを右へ逃がす。


 ニコが声を出す。


「車体、前へ! 半歩です!」


 トトが頷く。


 ミナが叫ぶ。


「半歩!」


 伊織は黒鋼装甲輸送車を動かした。


 半歩。


 それだけ。


 だが、十分だった。


 影がずれる。


 歯車が外れる。


 水門の三つの線が、空を切った。


 ぱきん。


 小さな音。


 水音の奥で、確かに聞こえた。


 ヴァルターの仕掛けが、初めて大きく崩れた。


 水門の鎖が止まる。


 歯車が水へ落ちる。


 黒い線がほどけていく。


 貯水槽の水が、静かになった。



 ヴァルターは動かなかった。


 ただ、伊織たちを見ていた。


 今度は、測る目ではなかった。


 少し違う。


 理解しようとしている目だった。


「影まで動かすか」


 ヴァルターが言った。


「動かしたのは車体だ」


 伊織は答えた。


「影を見つけたのは、こっちじゃない」


 ヴァルターはトトを見た。


 トトはミナの後ろに隠れない。


 ただ、ヴァルターを見ている。


 顔は青い。


 それでも、見ている。


 ニコがその前に立つ。


 声は出さない。


 だが、立っている。


 リナとクロが横にいる。


 アリアは伊織の隣にいる。


 ガルドとヴォルフ。


 そして、ゼクト。


 線は、まだある。


 切れていない。


 だが、無傷ではない。


 ヴァルターは静かに息を吐いた。


「面白い」


 その声に、初めて少しだけ熱があった。


「だが、ここまでだ」


 ヴァルターの指が動く。


 水面に落ちていた歯車の欠片が、一斉に沈んだ。


 逃げるのではない。


 次の形へ移る。


 伊織は右手を上げた。


 黒鋼拳銃。


 今度は撃てる。


 水は落ち着いている。


 距離も読める。


 だが、アリアが言った。


「待ってください」


「理由は」


「彼はまだ、本体の線を出していません」


 ヴァルターの口元が、わずかに動いた。


 当たりだった。


 伊織は銃を下ろさない。


 だが、撃たない。


 ヴァルターは正面水門の前で、片手を胸に当てた。


 黒い歯車が、外套の内側で鳴る。


 かちり。


 かちり。


 今までの罠の音ではない。


 身体の中から鳴る音。


 ヴァルター自身の支配核。


 アリアの顔色が変わった。


「東さん」


「何だ」


「彼自身が、構造体です」


 ヴァルターが微笑む。


「ようやく見たか」


 水門の奥で、黒い影が広がる。


 歯車。


 鎖。


 細い金属線。


 それらが、ヴァルターの背後でゆっくり組み上がっていく。


 人ではない。


 兵器でもない。


 水路そのものを背負った構造体。


 ヴァルターはその前に立つ。


「次で終わりだ」


 伊織は銃を構えた。


 右手は冷えている。


 だが、震えていない。


 黒鋼装甲輸送車が低く唸る。


 アリアが隣に立つ。


 リナとクロが身を低くする。


 ニコが木札を握る。


 トトが水音を聞く。


 ミナがその手を握る。


 ガルドが左腕を押さえながら、木槌を構える。


 ヴォルフが骨刃を構える。


 ゼクトが鎖を鳴らす。


 帰る場所は背後にある。


 水の底に、敵がいる。


 伊織は息を吸った。


 次で、終わらせる。


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