第33話 帰る場所
裏道は、細かった。
黒鋼装甲輸送車の両側で、石壁が擦れる。
乾いた音がした。
ぎり、と。
壁に残った古い砂が落ちる。
伊織は速度を落とした。
急がなければならない。
だが、急ぎすぎれば罠を踏む。
ヴァルターは、それを待つ。
帰る場所。
その言葉が、胸の奥で重く残っていた。
守る場所ではない。
戻る場所。
誰かがいて、灯りがあり、食器の音がして、クロが床で鼻を鳴らし、リナが余計なことを言い、アリアが何かを観察し、ニコが札を並べ、ミナとトトが端の席に座る。
いつの間にか、そうなっていた場所。
ギルドの食堂。
伊織はハンドルを握る手に力を込めた。
右手は動く。
遅れはほとんどない。
だが、冷えていた。
「無理をしています」
助手席側で、アリアが言った。
「分かってる」
「分かっていても、止まらない顔です」
「止まらない」
「理由は」
「食堂を狙われる」
アリアは黙った。
それだけで伝わった。
車内の奥で、トトが木札を握った。
鳴らさない。
ただ、握っている。
ニコは扉の近くに座っていた。
顔色は悪い。
それでも、木札を手放していない。
リナはクロの首に手を置いている。
クロは低く唸っていた。
「匂いが変」
リナが言った。
「どこだ」
「ギルドの方。火の匂いじゃない。油でもない」
「金属か」
「ううん」
リナは少し顔をしかめた。
「食べ物の匂いに、黒い匂いが混ざってる」
食べ物。
伊織の胸が冷えた。
食堂。
鍋。
皿。
椅子。
机。
それらに、ヴァルターの線が絡む。
生活の道具が、罠になる。
それは銃より嫌だった。
「急ぐ」
伊織が言った。
アリアは伊織を見た。
「急ぎましょう」
◆
裏門の内側へ戻った時、ギルドは静かすぎた。
いつもなら、誰かの声がする。
食堂の奥から皿の音がする。
エルナの指示が飛ぶ。
リナが何か言う。
クロが鼻を鳴らす。
その全部がない。
静かだった。
ただ、食堂の扉だけが半分開いていた。
開いている。
そのことが、嫌だった。
伊織は車体を中庭に止めた。
「食堂の扉に線がある可能性が高い。勝手に近づくな。俺が確認する」
ニコが頷く。
トトが木札を一度鳴らした。
かん。
前。
リナがクロを見た。
「クロ、まだ」
クロは前足を踏み出しかけて、止まった。
リナは続ける。
「床の匂いが変。先に鼻だけ」
クロが低く身を沈め、鼻先を地面へ近づける。
止められたのではない。
役目を変えた。
伊織は車内側から扉を開けた。
「俺が開ければ通る」
リナとクロが降りる。
ニコはまだ降りない。
トトとミナも車内に残る。
アリアは降りた。
手首は布の中。
見えない。
だが、伊織は見ていた。
アリアも、それに気づいていた。
中庭に出ると、食堂の匂いがした。
スープ。
焼いたパン。
昨日の茶。
木の机。
灰。
その中に、黒い油の匂いが混じっている。
リナが顔をしかめた。
「嫌な混ざり方」
「場所は」
「食堂の中。入口じゃなくて……奥」
伊織は食堂の扉を見る。
半分開いている。
扉の金具は古い。
蝶番。
取っ手。
閂。
全部、金属だ。
ヴァルターが好む場所だ。
だが、そこではない。
入口を見せて、奥を狙う。
いつもの手だ。
「ガルド」
「おう」
ガルドは木槌を握っていた。
「入口は叩くな」
「理由は」
「見せ餌だ。奥に線がある」
「分かった」
ガルドは木槌を下ろした。
ヴォルフが左側から扉の内側を見ている。
「食堂に人は?」
「見えん」
「エルナは」
「中だ」
伊織の右手が冷えた。
「生きているか」
「声はない」
その時、食堂の奥から、皿が落ちる音がした。
からん。
一度だけ。
ニコが車内で木札を握った。
トトが顔を上げる。
伊織は一歩前へ出た。
アリアがこちらを見た。
伊織は自分の足を止めた。
「走らない」
自分に言い聞かせるように言った。
「走れば、扉の線を踏む」
アリアは頷いた。
「行きましょう」
◆
食堂の中は、いつもの食堂だった。
だからこそ、異様だった。
机がある。
椅子がある。
昨日、リナが座っていた椅子。
クロが丸くなっていた床の隅。
ニコが札を並べていた机。
ミナとトトが並んで座っていた長椅子。
アリアが、気づけばいつも選ぶようになった壁際の席。
伊織が背を壁に預けて座る場所。
全部が、そこにある。
なのに、少しだけずれていた。
椅子の向き。
皿の位置。
鍋の蓋。
壁に掛けた小さな鐘。
その全部が、ほんのわずかに違う。
誰かが生活の形を、罠の形に並べ直していた。
エルナは食堂の奥にいた。
倒れてはいない。
柱の横に立っている。
ただし、手を動かせない。
治療箱の留め金から、黒い線が伸びていた。
その線が、食堂の机の足、椅子の金具、鍋の吊り金具へつながっている。
エルナは伊織を見ると、短く言った。
「近づかないでください」
声は落ち着いている。
だが、顔色は白い。
「理由は」
伊織が聞いた。
エルナは一瞬だけ目を見開いた。
それから、すぐに答える。
「私が動くと、鍋の吊り金具が落ちます。鍋ではなく、その下の床板が開きます」
「床下か」
「おそらく」
アリアが小さく頷いた。
「線が、床下へ沈んでいます」
伊織は視界の奥で、食堂を薄く区切った。
机。
椅子。
柱。
鍋。
床板。
距離。
角度。
生活の道具が、線になる。
嫌な景色だった。
「動くな。理由は、床下の線がまだ読めない」
「分かりました」
エルナは頷いた。
その時、壁際の椅子が一つ、かたりと動いた。
アリアの席だった。
伊織はそちらを見る。
椅子の背に、小さな黒い歯車が付いている。
歯車の傷。
縦に一本。
斜めに二本。
そして、丸い印。
席。
場所。
誰がどこに座るかを見ている。
アリアが息を呑む。
「私の席です」
「座るな」
「理由は」
「背もたれに線がある。触れれば手首に来る」
「はい」
アリアは止まった。
止められたのではない。
選んだ。
次に、長椅子が軋んだ。
ミナとトトがよく座る場所。
車内のトトが、木札を握りしめた。
ミナも小さく息を呑んだ。
トトは車内にいる。
だが、自分の席が罠になっていることは分かった。
木札が一度鳴った。
かん。
前。
ニコが言った。
「トトが、前に何かあるって」
「前?」
リナがクロを見る。
クロは食堂の床を嗅ぐ。
そして、子供たちの長椅子ではなく、その前の机へ鼻を向けた。
「机の下」
リナが言った。
「黒い匂い。子供の席じゃない。前の机」
ヴァルターは、子供の席を見せた。
だが、本命は机の下。
その机には、昨日まで木札が置かれていた。
ニコの連絡札。
伊織はニコを見る。
ニコは車内にいる。
だが、顔が白い。
「私の札の場所です」
「ああ」
伊織は頷いた。
「だが、お前はそこにいない」
「はい」
「今は車内にいる」
「はい」
「声を出せるか」
ニコは息を吸った。
震えている。
だが、出る。
「出せます」
「食堂の中に聞こえるように。机に近づくなと言え」
ニコは車内から身を乗り出さずに、声を張った。
「机の下に線があります! 近づかないでください!」
声は食堂に届いた。
壁に返り、床を滑る。
エルナが頷く。
「聞こえました」
ニコは木札を握りしめた。
震えは残っている。
だが、届いた。
◆
ガルドは食堂の入口で止まっていた。
入れば、床板を踏む。
踏めば、支点が動く。
だが、外からでは届かない。
ガルドは木槌を構える。
ヴォルフが言った。
「振るな」
「理由は」
「天井の吊り金具が見える。木槌を振れば、風で揺れる」
「そこまで見るのかよ」
「見る」
ガルドは舌打ちした。
「じゃあどうする」
ヴォルフは床を見る。
「柄を殺せ」
ガルドの眉が動く。
ゼクトの言葉。
力任せだ。支点を見るなら、叩く前に柄を殺せ。
ガルドは木槌を握り直した。
大きく振らない。
柄を短く持つ。
叩くのではなく、押し込む。
木槌の頭を床板の隙間に当てる。
ぐ、と押す。
床板がわずかに浮いた。
その下に、黒い歯車が見える。
「見えた」
ガルドが言った。
伊織は頷く。
「壊せるか」
「叩けばな」
「叩くな」
「分かってる」
ガルドは木槌の頭で歯車を押さえた。
ヴォルフが骨刃を横から入れる。
歯車の噛みを外す。
リナが言う。
「クロ、右。違う、もっと下」
クロが低く唸る。
アリアが柱のそばへ寄った。
触れない。
ただ、魔力の流れを読む。
「床下の線、二本。一本は鍋。一本は机」
「エルナは」
「治療箱です。箱を閉じられています」
エルナが低く言った。
「開ければ、机の下の線が動きます」
まただ。
選ばせる。
治療箱を開けるか。
机を守るか。
アリアの席を触らせるか。
子供の席を見せ餌にするか。
ヴァルターは、戻る場所そのものを使っていた。
伊織は右手を上げた。
黒鋼拳銃。
撃てる。
だが、食堂の中だ。
皿。
鍋。
机。
エルナ。
撃てば、どこかを壊す。
帰る場所を、自分で壊す。
それを、ヴァルターは待っている。
「銃は使わない」
伊織は言った。
アリアがこちらを見る。
「理由は」
「食堂を壊す」
「はい」
伊織は銃を消した。
右手は冷えたままだ。
だが、少しだけ軽くなった。
「じゃあどうする」
ガルドが言う。
伊織は周囲を見る。
机。
椅子。
鍋。
皿。
床。
誰かが戻る場所。
壊さない。
だが、罠だけを外す。
「音で見る」
伊織は言った。
トトが顔を上げた。
ミナがその手を握る。
「トト、食堂の音を聞けるか」
トトは木札を握った。
だが、食堂の中には金属音が多すぎる。
木札では紛れる。
トトは少し考えた。
そして、木札を置いた。
代わりに、ミナの手を握る。
一度。
ミナが言う。
「前」
二度。
「右」
三度。
「後ろ」
トトが目を閉じた。
聞く。
木札ではなく、食堂そのものの音を。
鍋の吊り金具。
机の足。
椅子の金具。
床下。
その中から、黒い線の音だけを探す。
トトがミナの手を二度握った。
「右」
リナが言う。
「右の机」
クロが鼻を鳴らす。
ガルドが動く。
「理由は」
伊織が言う。
「右の机の足に黒い線。支点は床下じゃねえ。机の横板だ」
「やれ」
ガルドは木槌を振らない。
柄を短く持ち、机の横板を押した。
ぎし、と木が鳴る。
黒い歯車が、机の影から少し浮く。
ヴォルフの骨刃が入る。
ぱきん。
線が一本切れた。
鍋の吊り金具が揺れる。
エルナが動きかける。
「動くな」
伊織が言う。
すぐに続ける。
「鍋の線が残っている。今動けば床板が開く」
「分かりました」
エルナは止まる。
その顔に、わずかに悔しさがあった。
治療箱を開けたい。
怪我人を助けたい。
でも、今は止まる。
止められたのではない。
理由を聞いて、選んだ。
◆
その時、食堂の奥から拍手が聞こえた。
一度。
二度。
三度。
全員が動きを止めた。
伊織は食堂の奥を見る。
そこに、ヴァルターがいた。
黒い外套。
細い指。
無駄のない立ち方。
いつからそこにいたのか分からない。
食堂の奥。
いつもなら、追加の皿が積まれている棚の前。
昨日までは誰も気にしなかった場所。
そこに、当然のように立っていた。
ヴァルターは皿を一枚、指先で押さえていた。
皿は白い。
その縁に、黒い歯車がひとつ乗っている。
「壊さないのか」
ヴァルターが言った。
「撃てば早い」
伊織は答えない。
「君なら撃てる。鍋も机も皿も壊せる。帰る場所を、自分の手で壊せる」
ヴァルターは静かに言った。
「守るために」
伊織の右手が冷えた。
だが、銃は出さなかった。
アリアが一歩前に出かける。
伊織は言う。
「無理をしている」
「はい」
「理由は」
「彼の手元を読みたい」
「時間は」
「一秒」
「許す」
アリアは食堂の柱に触れた。
一秒。
「離せ」
アリアは離す。
「皿ではありません」
「何だ」
「皿の下。棚の支え」
ガルドが動こうとする。
ヴァルターの指が皿を押さえる。
「動けば、皿が落ちる」
ニコが車内から声を張った。
「皿は見せ餌です!」
ヴァルターの目がわずかに動く。
ニコは続ける。
「棚の支えが本命です! 皿が落ちても、そっちを見ないでください!」
声が震えている。
でも、届く。
トトがミナの手を二度握る。
「右!」
リナが叫ぶ。
「クロ、右!」
クロが右へ走る。
ヴァルターの皿が落ちた。
がしゃん。
食堂に音が響く。
全員の目が一瞬、皿へ引かれかける。
だが、クロは右へ走っている。
リナが見ている。
ミナが叫んでいる。
ニコが声を出している。
ガルドは皿を見なかった。
木槌を短く持ち、棚の右下を押し込む。
ヴォルフの骨刃が支えを抜く。
黒い歯車が浮く。
伊織は右手を上げた。
銃ではない。
黒鋼警棒。
撃たない。
壊さない。
届かせる。
警棒の先で、浮いた歯車だけを弾いた。
ヴァルターの指が止まる。
初めて、わずかに。
本当にわずかに。
表情が動いた。
ガルドの木槌が床を押さえる。
アリアの風が最後の線を切る。
ぱきん。
鍋の吊り金具が止まる。
床板も開かない。
机も倒れない。
皿だけが割れていた。
食堂は、残っていた。
◆
ヴァルターは割れた皿を見た。
それから、伊織を見る。
「壊さずに守るか」
「全部は無理だ」
伊織は言った。
「皿は割れた」
「皿で済ませた」
ガルドが低く言った。
ヴァルターはガルドを見る。
次に、ニコを見る。
トトを見る。
ミナを見る。
リナとクロを見る。
アリアを見る。
最後に、伊織を見る。
「帰る場所は、物ではないと」
ヴァルターが言った。
伊織は答えなかった。
答えれば、整いすぎる。
代わりに、エルナが静かに治療箱を開けた。
今度は、何も起きなかった。
エルナは布を取り出し、アリアの手首へ歩いた。
「手を出してください」
アリアは逆らわなかった。
ミナとトトが長椅子を見た。
罠はもう動かない。
それでも、すぐには座らない。
ニコがそっと言った。
「あとで、みんなで拭きましょう」
ミナが頷いた。
トトも頷いた。
リナが割れた皿を見る。
「皿、一枚だけ」
クロが鼻を鳴らした。
ガルドが木槌を肩に担ぐ。
「皿なら、俺が弁償する」
ヴォルフが片目で見た。
「お前が割ったわけじゃない」
「気分だ」
「なら払え」
「そこは止めろよ」
少しだけ、空気が戻った。
ヴァルターはそれを見ていた。
不快そうではない。
興味深そうでもない。
ただ、測っていた。
「次で終わりにしよう」
ヴァルターが言った。
伊織は目を細める。
「どこで」
「旧水路の底」
ヴァルターは細い指で、割れた皿の欠片を一つ拾った。
「君たちの線が、どこまで水に耐えるかを見る」
「逃げるのか」
「整える」
ヴァルターはそう言った。
黒い歯車が、彼の足元で回る。
だが、消えない。
ヴァルターは歩いた。
食堂の奥の扉へ。
背中を見せる。
伊織は撃たない。
食堂だ。
帰る場所だ。
ここでは撃たない。
ヴァルターはそれを知っている。
だから背を向ける。
扉の向こうで、黒い粒子が舞った。
姿が消える直前、ヴァルターは振り向かずに言った。
「壊さずに守れるか。次は、水の中で試す」
声が消えた。
食堂には、割れた皿の音の余韻だけが残った。
◆
誰もすぐには動かなかった。
食堂は壊れていない。
だが、傷ついていた。
机はずれている。
椅子は傾いている。
皿は割れている。
床には砂が入っている。
帰る場所は、無傷ではなかった。
それでも、残っていた。
伊織は割れた皿を見る。
それから、食堂全体を見る。
ここに戻ってきた。
まだ戻れる。
その事実だけで、胸の奥が少し重くなった。
重いのに、息ができた。
アリアが隣に立つ。
何も言わない。
伊織も、何も言わなかった。
旧水路。
底。
水。
ヴァルターの最終戦場。
次で、終わりにする。
そう言った。
伊織は右手を開く。
遅れはない。
冷えだけが残っている。
「片づけてから行く」
伊織が言った。
ガルドが顔をしかめる。
「今からか?」
「ここをこのままにして行かない」
ニコが頷いた。
「私もやります」
ミナが手を上げる。
「私も」
トトが木札を一度鳴らす。
かん。
クロが鼻を鳴らす。
リナが笑った。
「クロもやるって」
「犬に何をさせる」
ガルドが言う。
「見張り」
「適任だな」
ヴォルフが割れた皿を拾った。
「手を動かせ。急ぐ時ほど、元の形を見てから出る」
エルナが静かに頷く。
「食堂を戻しましょう」
アリアは巻かれた手首を見る。
伊織は先に言った。
「無理をしている」
「まだ何もしていません」
「これからする顔だ」
アリアは少しだけ目を伏せた。
「では、軽いものだけ」
「理由は」
「ここを戻してから行きたいからです」
伊織は頷いた。
「いい」
アリアは小さく笑った。
今度は、無理な笑いではなかった。
食堂に、人の動く音が戻った。
椅子を直す音。
皿を拾う音。
木札が鳴る音。
クロが床を嗅ぐ音。
ガルドが文句を言う声。
リナが笑う声。
エルナが指示する声。
アリアが静かに息を吐く音。
伊織は割れた皿の欠片を拾った。
白い皿。
黒い歯車の傷が、縁に少し残っている。
伊織はそれを見て、握りつぶさなかった。
布に包む。
証拠として。
記憶として。
ここを狙われたことを、忘れないために。
外では、風が砂を運んでいた。
旧水路の方角から、湿った空気がわずかに流れてくる。
次は水の底。
ヴァルターが整えた場所。
伊織は食堂を見た。
帰る場所。
壊さずに守る。
今度こそ。
そう思った。
だが、声には出さなかった。




