表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
35/69

第33話 帰る場所

 裏道は、細かった。


 黒鋼装甲輸送車の両側で、石壁が擦れる。


 乾いた音がした。


 ぎり、と。


 壁に残った古い砂が落ちる。


 伊織は速度を落とした。


 急がなければならない。


 だが、急ぎすぎれば罠を踏む。


 ヴァルターは、それを待つ。


 帰る場所。


 その言葉が、胸の奥で重く残っていた。


 守る場所ではない。


 戻る場所。


 誰かがいて、灯りがあり、食器の音がして、クロが床で鼻を鳴らし、リナが余計なことを言い、アリアが何かを観察し、ニコが札を並べ、ミナとトトが端の席に座る。


 いつの間にか、そうなっていた場所。


 ギルドの食堂。


 伊織はハンドルを握る手に力を込めた。


 右手は動く。


 遅れはほとんどない。


 だが、冷えていた。


「無理をしています」


 助手席側で、アリアが言った。


「分かってる」


「分かっていても、止まらない顔です」


「止まらない」


「理由は」


「食堂を狙われる」


 アリアは黙った。


 それだけで伝わった。


 車内の奥で、トトが木札を握った。


 鳴らさない。


 ただ、握っている。


 ニコは扉の近くに座っていた。


 顔色は悪い。


 それでも、木札を手放していない。


 リナはクロの首に手を置いている。


 クロは低く唸っていた。


「匂いが変」


 リナが言った。


「どこだ」


「ギルドの方。火の匂いじゃない。油でもない」


「金属か」


「ううん」


 リナは少し顔をしかめた。


「食べ物の匂いに、黒い匂いが混ざってる」


 食べ物。


 伊織の胸が冷えた。


 食堂。


 鍋。


 皿。


 椅子。


 机。


 それらに、ヴァルターの線が絡む。


 生活の道具が、罠になる。


 それは銃より嫌だった。


「急ぐ」


 伊織が言った。


 アリアは伊織を見た。


「急ぎましょう」



 裏門の内側へ戻った時、ギルドは静かすぎた。


 いつもなら、誰かの声がする。


 食堂の奥から皿の音がする。


 エルナの指示が飛ぶ。


 リナが何か言う。


 クロが鼻を鳴らす。


 その全部がない。


 静かだった。


 ただ、食堂の扉だけが半分開いていた。


 開いている。


 そのことが、嫌だった。


 伊織は車体を中庭に止めた。


「食堂の扉に線がある可能性が高い。勝手に近づくな。俺が確認する」


 ニコが頷く。


 トトが木札を一度鳴らした。


 かん。


 前。


 リナがクロを見た。


「クロ、まだ」


 クロは前足を踏み出しかけて、止まった。


 リナは続ける。


「床の匂いが変。先に鼻だけ」


 クロが低く身を沈め、鼻先を地面へ近づける。


 止められたのではない。


 役目を変えた。


 伊織は車内側から扉を開けた。


「俺が開ければ通る」


 リナとクロが降りる。


 ニコはまだ降りない。


 トトとミナも車内に残る。


 アリアは降りた。


 手首は布の中。


 見えない。


 だが、伊織は見ていた。


 アリアも、それに気づいていた。


 中庭に出ると、食堂の匂いがした。


 スープ。


 焼いたパン。


 昨日の茶。


 木の机。


 灰。


 その中に、黒い油の匂いが混じっている。


 リナが顔をしかめた。


「嫌な混ざり方」


「場所は」


「食堂の中。入口じゃなくて……奥」


 伊織は食堂の扉を見る。


 半分開いている。


 扉の金具は古い。


 蝶番。


 取っ手。


 閂。


 全部、金属だ。


 ヴァルターが好む場所だ。


 だが、そこではない。


 入口を見せて、奥を狙う。


 いつもの手だ。


「ガルド」


「おう」


 ガルドは木槌を握っていた。


「入口は叩くな」


「理由は」


「見せ餌だ。奥に線がある」


「分かった」


 ガルドは木槌を下ろした。


 ヴォルフが左側から扉の内側を見ている。


「食堂に人は?」


「見えん」


「エルナは」


「中だ」


 伊織の右手が冷えた。


「生きているか」


「声はない」


 その時、食堂の奥から、皿が落ちる音がした。


 からん。


 一度だけ。


 ニコが車内で木札を握った。


 トトが顔を上げる。


 伊織は一歩前へ出た。


 アリアがこちらを見た。


 伊織は自分の足を止めた。


「走らない」


 自分に言い聞かせるように言った。


「走れば、扉の線を踏む」


 アリアは頷いた。


「行きましょう」



 食堂の中は、いつもの食堂だった。


 だからこそ、異様だった。


 机がある。


 椅子がある。


 昨日、リナが座っていた椅子。


 クロが丸くなっていた床の隅。


 ニコが札を並べていた机。


 ミナとトトが並んで座っていた長椅子。


 アリアが、気づけばいつも選ぶようになった壁際の席。


 伊織が背を壁に預けて座る場所。


 全部が、そこにある。


 なのに、少しだけずれていた。


 椅子の向き。


 皿の位置。


 鍋の蓋。


 壁に掛けた小さな鐘。


 その全部が、ほんのわずかに違う。


 誰かが生活の形を、罠の形に並べ直していた。


 エルナは食堂の奥にいた。


 倒れてはいない。


 柱の横に立っている。


 ただし、手を動かせない。


 治療箱の留め金から、黒い線が伸びていた。


 その線が、食堂の机の足、椅子の金具、鍋の吊り金具へつながっている。


 エルナは伊織を見ると、短く言った。


「近づかないでください」


 声は落ち着いている。


 だが、顔色は白い。


「理由は」


 伊織が聞いた。


 エルナは一瞬だけ目を見開いた。


 それから、すぐに答える。


「私が動くと、鍋の吊り金具が落ちます。鍋ではなく、その下の床板が開きます」


「床下か」


「おそらく」


 アリアが小さく頷いた。


「線が、床下へ沈んでいます」


 伊織は視界の奥で、食堂を薄く区切った。


 机。


 椅子。


 柱。


 鍋。


 床板。


 距離。


 角度。


 生活の道具が、線になる。


 嫌な景色だった。


「動くな。理由は、床下の線がまだ読めない」


「分かりました」


 エルナは頷いた。


 その時、壁際の椅子が一つ、かたりと動いた。


 アリアの席だった。


 伊織はそちらを見る。


 椅子の背に、小さな黒い歯車が付いている。


 歯車の傷。


 縦に一本。


 斜めに二本。


 そして、丸い印。


 席。


 場所。


 誰がどこに座るかを見ている。


 アリアが息を呑む。


「私の席です」


「座るな」


「理由は」


「背もたれに線がある。触れれば手首に来る」


「はい」


 アリアは止まった。


 止められたのではない。


 選んだ。


 次に、長椅子が軋んだ。


 ミナとトトがよく座る場所。


 車内のトトが、木札を握りしめた。


 ミナも小さく息を呑んだ。


 トトは車内にいる。


 だが、自分の席が罠になっていることは分かった。


 木札が一度鳴った。


 かん。


 前。


 ニコが言った。


「トトが、前に何かあるって」


「前?」


 リナがクロを見る。


 クロは食堂の床を嗅ぐ。


 そして、子供たちの長椅子ではなく、その前の机へ鼻を向けた。


「机の下」


 リナが言った。


「黒い匂い。子供の席じゃない。前の机」


 ヴァルターは、子供の席を見せた。


 だが、本命は机の下。


 その机には、昨日まで木札が置かれていた。


 ニコの連絡札。


 伊織はニコを見る。


 ニコは車内にいる。


 だが、顔が白い。


「私の札の場所です」


「ああ」


 伊織は頷いた。


「だが、お前はそこにいない」


「はい」


「今は車内にいる」


「はい」


「声を出せるか」


 ニコは息を吸った。


 震えている。


 だが、出る。


「出せます」


「食堂の中に聞こえるように。机に近づくなと言え」


 ニコは車内から身を乗り出さずに、声を張った。


「机の下に線があります! 近づかないでください!」


 声は食堂に届いた。


 壁に返り、床を滑る。


 エルナが頷く。


「聞こえました」


 ニコは木札を握りしめた。


 震えは残っている。


 だが、届いた。



 ガルドは食堂の入口で止まっていた。


 入れば、床板を踏む。


 踏めば、支点が動く。


 だが、外からでは届かない。


 ガルドは木槌を構える。


 ヴォルフが言った。


「振るな」


「理由は」


「天井の吊り金具が見える。木槌を振れば、風で揺れる」


「そこまで見るのかよ」


「見る」


 ガルドは舌打ちした。


「じゃあどうする」


 ヴォルフは床を見る。


「柄を殺せ」


 ガルドの眉が動く。


 ゼクトの言葉。


 力任せだ。支点を見るなら、叩く前に柄を殺せ。


 ガルドは木槌を握り直した。


 大きく振らない。


 柄を短く持つ。


 叩くのではなく、押し込む。


 木槌の頭を床板の隙間に当てる。


 ぐ、と押す。


 床板がわずかに浮いた。


 その下に、黒い歯車が見える。


「見えた」


 ガルドが言った。


 伊織は頷く。


「壊せるか」


「叩けばな」


「叩くな」


「分かってる」


 ガルドは木槌の頭で歯車を押さえた。


 ヴォルフが骨刃を横から入れる。


 歯車の噛みを外す。


 リナが言う。


「クロ、右。違う、もっと下」


 クロが低く唸る。


 アリアが柱のそばへ寄った。


 触れない。


 ただ、魔力の流れを読む。


「床下の線、二本。一本は鍋。一本は机」


「エルナは」


「治療箱です。箱を閉じられています」


 エルナが低く言った。


「開ければ、机の下の線が動きます」


 まただ。


 選ばせる。


 治療箱を開けるか。


 机を守るか。


 アリアの席を触らせるか。


 子供の席を見せ餌にするか。


 ヴァルターは、戻る場所そのものを使っていた。


 伊織は右手を上げた。


 黒鋼拳銃。


 撃てる。


 だが、食堂の中だ。


 皿。


 鍋。


 机。


 エルナ。


 撃てば、どこかを壊す。


 帰る場所を、自分で壊す。


 それを、ヴァルターは待っている。


「銃は使わない」


 伊織は言った。


 アリアがこちらを見る。


「理由は」


「食堂を壊す」


「はい」


 伊織は銃を消した。


 右手は冷えたままだ。


 だが、少しだけ軽くなった。


「じゃあどうする」


 ガルドが言う。


 伊織は周囲を見る。


 机。


 椅子。


 鍋。


 皿。


 床。


 誰かが戻る場所。


 壊さない。


 だが、罠だけを外す。


「音で見る」


 伊織は言った。


 トトが顔を上げた。


 ミナがその手を握る。


「トト、食堂の音を聞けるか」


 トトは木札を握った。


 だが、食堂の中には金属音が多すぎる。


 木札では紛れる。


 トトは少し考えた。


 そして、木札を置いた。


 代わりに、ミナの手を握る。


 一度。


 ミナが言う。


「前」


 二度。


「右」


 三度。


「後ろ」


 トトが目を閉じた。


 聞く。


 木札ではなく、食堂そのものの音を。


 鍋の吊り金具。


 机の足。


 椅子の金具。


 床下。


 その中から、黒い線の音だけを探す。


 トトがミナの手を二度握った。


「右」


 リナが言う。


「右の机」


 クロが鼻を鳴らす。


 ガルドが動く。


「理由は」


 伊織が言う。


「右の机の足に黒い線。支点は床下じゃねえ。机の横板だ」


「やれ」


 ガルドは木槌を振らない。


 柄を短く持ち、机の横板を押した。


 ぎし、と木が鳴る。


 黒い歯車が、机の影から少し浮く。


 ヴォルフの骨刃が入る。


 ぱきん。


 線が一本切れた。


 鍋の吊り金具が揺れる。


 エルナが動きかける。


「動くな」


 伊織が言う。


 すぐに続ける。


「鍋の線が残っている。今動けば床板が開く」


「分かりました」


 エルナは止まる。


 その顔に、わずかに悔しさがあった。


 治療箱を開けたい。


 怪我人を助けたい。


 でも、今は止まる。


 止められたのではない。


 理由を聞いて、選んだ。



 その時、食堂の奥から拍手が聞こえた。


 一度。


 二度。


 三度。


 全員が動きを止めた。


 伊織は食堂の奥を見る。


 そこに、ヴァルターがいた。


 黒い外套。


 細い指。


 無駄のない立ち方。


 いつからそこにいたのか分からない。


 食堂の奥。


 いつもなら、追加の皿が積まれている棚の前。


 昨日までは誰も気にしなかった場所。


 そこに、当然のように立っていた。


 ヴァルターは皿を一枚、指先で押さえていた。


 皿は白い。


 その縁に、黒い歯車がひとつ乗っている。


「壊さないのか」


 ヴァルターが言った。


「撃てば早い」


 伊織は答えない。


「君なら撃てる。鍋も机も皿も壊せる。帰る場所を、自分の手で壊せる」


 ヴァルターは静かに言った。


「守るために」


 伊織の右手が冷えた。


 だが、銃は出さなかった。


 アリアが一歩前に出かける。


 伊織は言う。


「無理をしている」


「はい」


「理由は」


「彼の手元を読みたい」


「時間は」


「一秒」


「許す」


 アリアは食堂の柱に触れた。


 一秒。


「離せ」


 アリアは離す。


「皿ではありません」


「何だ」


「皿の下。棚の支え」


 ガルドが動こうとする。


 ヴァルターの指が皿を押さえる。


「動けば、皿が落ちる」


 ニコが車内から声を張った。


「皿は見せ餌です!」


 ヴァルターの目がわずかに動く。


 ニコは続ける。


「棚の支えが本命です! 皿が落ちても、そっちを見ないでください!」


 声が震えている。


 でも、届く。


 トトがミナの手を二度握る。


「右!」


 リナが叫ぶ。


「クロ、右!」


 クロが右へ走る。


 ヴァルターの皿が落ちた。


 がしゃん。


 食堂に音が響く。


 全員の目が一瞬、皿へ引かれかける。


 だが、クロは右へ走っている。


 リナが見ている。


 ミナが叫んでいる。


 ニコが声を出している。


 ガルドは皿を見なかった。


 木槌を短く持ち、棚の右下を押し込む。


 ヴォルフの骨刃が支えを抜く。


 黒い歯車が浮く。


 伊織は右手を上げた。


 銃ではない。


 黒鋼警棒。


 撃たない。


 壊さない。


 届かせる。


 警棒の先で、浮いた歯車だけを弾いた。


 ヴァルターの指が止まる。


 初めて、わずかに。


 本当にわずかに。


 表情が動いた。


 ガルドの木槌が床を押さえる。


 アリアの風が最後の線を切る。


 ぱきん。


 鍋の吊り金具が止まる。


 床板も開かない。


 机も倒れない。


 皿だけが割れていた。


 食堂は、残っていた。



 ヴァルターは割れた皿を見た。


 それから、伊織を見る。


「壊さずに守るか」


「全部は無理だ」


 伊織は言った。


「皿は割れた」


「皿で済ませた」


 ガルドが低く言った。


 ヴァルターはガルドを見る。


 次に、ニコを見る。


 トトを見る。


 ミナを見る。


 リナとクロを見る。


 アリアを見る。


 最後に、伊織を見る。


「帰る場所は、物ではないと」


 ヴァルターが言った。


 伊織は答えなかった。


 答えれば、整いすぎる。


 代わりに、エルナが静かに治療箱を開けた。


 今度は、何も起きなかった。


 エルナは布を取り出し、アリアの手首へ歩いた。


「手を出してください」


 アリアは逆らわなかった。


 ミナとトトが長椅子を見た。


 罠はもう動かない。


 それでも、すぐには座らない。


 ニコがそっと言った。


「あとで、みんなで拭きましょう」


 ミナが頷いた。


 トトも頷いた。


 リナが割れた皿を見る。


「皿、一枚だけ」


 クロが鼻を鳴らした。


 ガルドが木槌を肩に担ぐ。


「皿なら、俺が弁償する」


 ヴォルフが片目で見た。


「お前が割ったわけじゃない」


「気分だ」


「なら払え」


「そこは止めろよ」


 少しだけ、空気が戻った。


 ヴァルターはそれを見ていた。


 不快そうではない。


 興味深そうでもない。


 ただ、測っていた。


「次で終わりにしよう」


 ヴァルターが言った。


 伊織は目を細める。


「どこで」


「旧水路の底」


 ヴァルターは細い指で、割れた皿の欠片を一つ拾った。


「君たちの線が、どこまで水に耐えるかを見る」


「逃げるのか」


「整える」


 ヴァルターはそう言った。


 黒い歯車が、彼の足元で回る。


 だが、消えない。


 ヴァルターは歩いた。


 食堂の奥の扉へ。


 背中を見せる。


 伊織は撃たない。


 食堂だ。


 帰る場所だ。


 ここでは撃たない。


 ヴァルターはそれを知っている。


 だから背を向ける。


 扉の向こうで、黒い粒子が舞った。


 姿が消える直前、ヴァルターは振り向かずに言った。


「壊さずに守れるか。次は、水の中で試す」


 声が消えた。


 食堂には、割れた皿の音の余韻だけが残った。



 誰もすぐには動かなかった。


 食堂は壊れていない。


 だが、傷ついていた。


 机はずれている。


 椅子は傾いている。


 皿は割れている。


 床には砂が入っている。


 帰る場所は、無傷ではなかった。


 それでも、残っていた。


 伊織は割れた皿を見る。


 それから、食堂全体を見る。


 ここに戻ってきた。


 まだ戻れる。


 その事実だけで、胸の奥が少し重くなった。


 重いのに、息ができた。


 アリアが隣に立つ。


 何も言わない。


 伊織も、何も言わなかった。


 旧水路。


 底。


 水。


 ヴァルターの最終戦場。


 次で、終わりにする。


 そう言った。


 伊織は右手を開く。


 遅れはない。


 冷えだけが残っている。


「片づけてから行く」


 伊織が言った。


 ガルドが顔をしかめる。


「今からか?」


「ここをこのままにして行かない」


 ニコが頷いた。


「私もやります」


 ミナが手を上げる。


「私も」


 トトが木札を一度鳴らす。


 かん。


 クロが鼻を鳴らす。


 リナが笑った。


「クロもやるって」


「犬に何をさせる」


 ガルドが言う。


「見張り」


「適任だな」


 ヴォルフが割れた皿を拾った。


「手を動かせ。急ぐ時ほど、元の形を見てから出る」


 エルナが静かに頷く。


「食堂を戻しましょう」


 アリアは巻かれた手首を見る。


 伊織は先に言った。


「無理をしている」


「まだ何もしていません」


「これからする顔だ」


 アリアは少しだけ目を伏せた。


「では、軽いものだけ」


「理由は」


「ここを戻してから行きたいからです」


 伊織は頷いた。


「いい」


 アリアは小さく笑った。


 今度は、無理な笑いではなかった。


 食堂に、人の動く音が戻った。


 椅子を直す音。


 皿を拾う音。


 木札が鳴る音。


 クロが床を嗅ぐ音。


 ガルドが文句を言う声。


 リナが笑う声。


 エルナが指示する声。


 アリアが静かに息を吐く音。


 伊織は割れた皿の欠片を拾った。


 白い皿。


 黒い歯車の傷が、縁に少し残っている。


 伊織はそれを見て、握りつぶさなかった。


 布に包む。


 証拠として。


 記憶として。


 ここを狙われたことを、忘れないために。


 外では、風が砂を運んでいた。


 旧水路の方角から、湿った空気がわずかに流れてくる。


 次は水の底。


 ヴァルターが整えた場所。


 伊織は食堂を見た。


 帰る場所。


 壊さずに守る。


 今度こそ。


 そう思った。


 だが、声には出さなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ