第32話 裏門の先
裏門は、半分だけ開いていた。
誰が開けたのかは分からない。
風が通るたび、古い蝶番が小さく鳴る。
ぎい、と。
鳴って。
止まる。
また鳴る。
その音だけで、裏門の向こうが空いていることが分かった。
伊織は黒鋼装甲輸送車を門の手前で止めた。
すぐには出ない。
外は細い道だった。
右に古い倉庫。
左に崩れた石壁。
その先に、街の外へ抜ける細い道。
さらに向こうに、旧水路へ続く低い斜面が見える。
風が砂を運んでいる。
砂の中に、黒い粒が混じっていた。
黒鎖の欠片。
ヴァルターのものではない。
ゼクトのものだ。
車内の床で、黒い鎖の切れ端が小さく揺れた。
かたり。
トトがそれを見た。
木札を握る。
鳴らさない。
聞いている。
伊織はハンドルに手を置いたまま、外を見た。
視界の奥で、道が薄く区切られる。
線。
距離。
角度。
倉庫の影。
石壁の欠け。
水路へ降りる坂。
逃げ道。
誘導先。
誘導されている。
それは分かっていた。
だが、誘導だと分かっていても、行くしかない場所がある。
アリアは助手席側に座っていた。
手首は膝の上。
新しい布が巻かれている。
伊織は横目で見た。
「見ていますね」
アリアが言った。
「ああ」
「今のところ、大丈夫です」
「今のところ、か」
「はい」
正直になった。
それだけで、伊織は少しだけ息を吐けた。
後部では、リナがクロの首を押さえている。
クロは低く唸っていた。
外へ出たがっている。
だが、飛び出さない。
リナが止めているからだ。
ニコは扉の近くで木札を握っている。
ミナとトトは奥にいる。
ガルドは外。
車体の後ろ、木槌を肩に担いでいる。
ヴォルフは少し離れて、裏門の左側に立っている。
全員が同じ場所にいるわけではない。
だが、全員が線の上にいた。
「出るぞ」
伊織が言った。
誰も返事を急がなかった。
リナがクロを見る。
クロが鼻を鳴らす。
ニコが木札を握り直す。
トトが一度だけ頷く。
アリアが小さく息を吸う。
「はい」
それで十分だった。
伊織はアクセルを踏んだ。
黒鋼装甲輸送車が、裏門を抜けた。
◆
外に出た瞬間、音が変わった。
ギルドの中庭では、車体の低い響きが壁に返っていた。
外では、音が散る。
砂に吸われる。
石壁に当たり、倉庫の木戸に触れ、細い道の奥へ消えていく。
トトが顔を上げた。
木札を一度鳴らす。
かん。
前。
すぐに二度。
かん。
かん。
右。
リナが言った。
「右。倉庫の影」
クロが唸る。
「金属の匂い。薄い。黒鎖じゃない。古い釘と……油」
伊織は速度を落とした。
右の倉庫。
戸は閉じている。
だが、下の隙間から黒い線が一本、地面へ伸びているように見えた。
見えたわけではない。
そう処理しただけだ。
「ガルド」
「分かってる」
車外でガルドが答えた。
倉庫へ近づく。
ただし、扉には触れない。
木槌の柄で地面を叩く。
こん。
鈍い。
「下だな」
ガルドが言う。
「支点か」
伊織が聞く。
「支点だ」
ガルドは即答した。
「本体じゃねえ。こういうのは、支えてる根っこから砕く」
木槌が落ちる。
石畳が割れた。
下から黒い歯車が覗く。
だが、その瞬間、倉庫の木戸が内側から開いた。
誰かが開けたのではない。
金具が引かれた。
戸板が外へ倒れる。
ガルドの頭上へ。
「ガルド!」
リナが叫ぶ。
伊織は動きかけた。
だが、ヴォルフの骨刃が先に飛んだ。
木戸の蝶番を横から弾く。
倒れる角度がずれた。
ガルドは一歩下がり、木槌を振り上げる。
木戸を砕かない。
支えていた鉄の留め具を叩いた。
金具が壊れる。
戸板は横へ落ちた。
砂が舞う。
ガルドは肩で息をした。
「今のは、危ねえな」
ヴォルフが低く言う。
「だから一人で突っ込むな」
「突っ込んでねえ」
「近づきすぎだ」
「分かってる」
ガルドは珍しく言い返さなかった。
伊織はハンドルを握ったまま、歯を噛んだ。
自分が動けば早かった。
だが、動かなかった。
ヴォルフが間に合った。
ガルドも自分で処理した。
それでいい。
そう思うのに、右手がまだ動きたがる。
アリアが横から言った。
「無理をしています」
伊織は視線を向ける。
「俺がか」
「はい」
「分かるのか」
「見ていますから」
短い返し。
それだけで、伊織は右手を少しだけ開いた。
「そうか」
「はい」
アリアは前を見た。
伊織も前を見る。
倉庫の下の歯車は、ガルドが砕いた。
だが、道の先。
旧水路へ降りる斜面の入口。
そこに、黒い鎖がもう一つ落ちていた。
切れ端。
ゼクトの指差しは、まだ続いている。
◆
斜面の前で、黒鋼装甲輸送車は止まった。
この先は、車体がぎりぎり通れる幅しかない。
左右は石壁。
上は崩れた水路橋。
下は乾いた排水路。
馬車なら引き返す場所だ。
装甲輸送車なら通れる。
だが、通れば後戻りが難しい。
ヴァルターが誘導するには、ちょうどいい。
伊織はハンドルから手を離した。
「降りる」
アリアがこちらを見る。
「全員では?」
「全員では行かない」
伊織は周囲を見る。
「ニコ、ミナ、トトは車内。リナとクロは車体の外、右側。ガルドは後方。ヴォルフは左。アリアは俺の隣」
「はい」
アリアは迷わず答えた。
伊織は続ける。
「ただし、触れるのは俺が言った時だけだ」
「一・五秒」
「それ以下だ」
「厳しくなりましたね」
「学習した」
アリアは少しだけ目を伏せた。
笑ったのかもしれない。
伊織は見なかった。
見ると、止めたくなる。
リナが扉を開けようとして、手を止めた。
「あ」
ドアノブを見ている。
触れば弾かれる。
伊織は車内側から扉を開けた。
「俺が開ければ通る」
「便利だけど、めんどくさい」
「そうだな」
リナはクロを先に降ろした。
クロは地面に鼻を近づける。
砂。
油。
鉄。
黒鎖。
それから、別の匂い。
血ではない。
古い革。
汗。
人の匂い。
「誰かいる」
リナが言った。
「ヴァルターか」
「違うと思う。もっと荒い」
ガルドが木槌を握る。
「ゼクトか」
その時だった。
斜面の下から、鎖が鳴った。
じゃら、と。
重い音ではない。
短く、乾いた音。
警告のように。
伊織は銃を出さなかった。
右手を下ろしたまま、斜面の下を見る。
黒い影が、石壁の間から出てきた。
鎖を片手に持つ男。
《鎖刃》ゼクト。
外套は裂けている。
肩に傷がある。
だが、立っている。
目は、伊織ではなく、装甲輸送車を見ていた。
「妙な箱だな」
ゼクトが言った。
声は低い。
だが、ヴァルターのような冷たさではない。
熱が残っている声だった。
「お前が呼んだのか」
伊織が聞く。
「呼んじゃいねえ」
「指は差した」
「道を示しただけだ」
「同じだ」
「違う」
ゼクトは鎖を肩に掛けた。
「呼ぶってのは、責任を持つ奴がやることだ。俺はまだ、そこまでお前らの味方じゃねえ」
ガルドが木槌を担ぐ。
「じゃあ何だ。気まぐれか」
「気に食わなかった」
ゼクトは短く言った。
「何が」
伊織が聞く。
ゼクトの目が、車内の方へ動いた。
ミナ。
トト。
ニコ。
子供と、怪我人と、声を出す者たち。
「餌にするものを間違えてる」
ゼクトの声が、少しだけ低くなった。
「鉄鎖団にも、やっていいことと悪いことがある」
リナが目を見開いた。
ガルドが鼻を鳴らす。
「盗賊が言う台詞か」
「盗賊じゃねえ」
「似たようなもんだろ」
「違う」
ゼクトはガルドを睨む。
だが、本気の殺気ではなかった。
伊織はゼクトを見た。
あの男なら正面から斬る。
子供を線の餌にするような真似は、しない。
その直感は、外れていなかった。
「ヴァルターはどこだ」
伊織が聞く。
ゼクトは斜面の奥を顎で示した。
「水路の下だ。だが、真っ直ぐ行けば噛まれる」
「罠か」
「罠しかねえ」
「なぜ教える」
ゼクトは少しだけ笑った。
楽しくはなさそうだった。
「お前に負けられると困る」
「何故だ」
「俺がまだ勝ってねえ」
ガルドが呆れた顔をした。
「分かりやすいな、お前」
「悪いか」
「いや。嫌いじゃねえ」
ゼクトは顔をしかめた。
そのやり取りの間も、伊織は斜面の奥を見ていた。
視界が薄く区切られる。
線。
距離。
角度。
水路の入口。
崩れた壁。
鎖の届く範囲。
黒い線の走り方。
だが、その奥だけが読めない。
暗い。
情報が欠けている。
ヴァルターはそこにいる。
あるいは、そこにいると思わせている。
ゼクトが鎖を持ち上げた。
「手を出すな」
伊織は言った。
ゼクトが眉を上げる。
「あ?」
「手を出せば、味方になる」
「ならねえ」
「なら、情報だけでいい」
ゼクトは伊織を見た。
しばらく沈黙する。
それから、低く笑った。
「面倒な男だな」
「よく言われる」
「誰にだよ」
アリアが小さく言った。
「周囲にです」
リナが頷く。
「たぶん全員に」
クロが鼻を鳴らした。
ゼクトは一瞬だけ、変な顔をした。
敵陣で受ける空気ではなかったのだろう。
だが、すぐに表情を戻した。
「ヴァルターは、支える手を狙っている」
「知っている」
伊織が言う。
「違う」
ゼクトは首を振った。
「支える手を折るんじゃねえ。支える手に、掴ませる」
アリアの表情が変わった。
「掴ませる?」
「お前らの誰かに、誰かを止めさせる。助けるふりをして、役目を奪わせる。そういう線を張ってる」
伊織はアリアを見る。
アリアも伊織を見た。
守るために止める。
助けるために奪う。
それが、ヴァルターの次の手。
「やはり」
アリアが言った。
「私を止めさせるつもりです」
「違うかもしれねえ」
ゼクトが言った。
全員がそちらを見る。
「お前だけじゃない」
ゼクトはリナを見た。
「犬を止める手」
リナの手がクロの首に触れる。
ゼクトはニコを見る。
「声を止める手」
ニコが木札を握る。
トトを見る。
「音を止める手」
トトが木札を抱える。
ガルドを見る。
「支点を砕く手」
ヴォルフを見る。
「動かねえ目」
最後に伊織を見る。
「全部だ」
ゼクトは鎖を下ろした。
「奴は、誰か一人を折る気じゃねえ。誰かが誰かを止める形を作る」
伊織の胸の奥が冷えた。
ヴァルターらしい。
本人を折るのではない。
周囲の手で折らせる。
支えるための手に、役目を奪わせる。
守るという言葉を使わせる。
伊織はアリアを見た。
アリアはもう手首を隠していない。
だが、無理をしている。
止めたい。
その気持ちは消えない。
だからこそ、危ない。
「東さん」
アリアが言った。
「分かってる」
「本当に?」
「ああ」
伊織は短く答えた。
「止める前に、言う」
アリアは頷いた。
「はい」
ゼクトが二人を見ていた。
「妙な関係だな」
「そうか」
「戦友にしちゃ近い。恋人にしちゃ殺気がある」
リナが咳き込んだ。
ニコが目を丸くする。
アリアの表情が一瞬止まった。
伊織はゼクトを見た。
「今それを言う必要があるか」
「ねえな」
「なら黙れ」
「分かった」
ゼクトは素直に黙った。
ガルドが腹を抱えかけて、ヴォルフに睨まれてやめた。
空気が一瞬だけ緩んだ。
だが、すぐに戻る。
斜面の下から、金属音がした。
かちり。
全員が止まる。
かちり。
もう一度。
アリアが低く言った。
「来ます」
トトが木札を握る。
ニコも木札を握る。
リナがクロの首から手を離した。
クロは前に出ない。
ただ、低く身を伏せる。
ガルドが木槌を構える。
ヴォルフが骨刃を握る。
ゼクトが鎖を鳴らす。
伊織は右手を開いた。
遅れは、ほとんどない。
だが、焦ってはいけない。
ヴァルターは焦らせる。
選ばせる。
止めさせる。
だから、先に決める。
「誰かを止める時は、理由を言え」
伊織が言った。
皆がこちらを見る。
「危ないから、では足りない。何が危ないかを言え。役目を奪うな。選べるように言え」
アリアが静かに頷いた。
ニコも頷いた。
リナはクロを見てから、頷いた。
ガルドが木槌を肩に置く。
「難しいな」
「難しい」
伊織は言った。
「だが、やる」
ゼクトが小さく笑った。
「やっぱり面倒だ」
「黙れ」
「まだ喋ってねえ」
「喋る前に黙れ」
ゼクトは今度こそ黙った。
◆
斜面の下の暗がりで、黒い歯車が一つ浮いた。
続いて、二つ。
三つ。
細い線が、地面を走る。
車体へ。
アリアへ。
リナの手へ。
ニコの木札へ。
トトの木札へ。
ガルドの木槌へ。
ヴォルフの骨刃へ。
伊織の右手へ。
全員の支える手へ。
伊織の視界が、薄く区切られる。
線。
距離。
角度。
敵の動きが、点ではなく線に見えた。
どこへ向かうか。
どこで止まるか。
どこを塞げば遅れるか。
ゲームの記憶ではない。
だが、身体はそれに近い処理をしていた。
伊織はハンドルから手を離した。
銃は出さない。
まだ早い。
アリアが車体に手を伸ばす。
伊織は言った。
「無理をしている」
「はい」
「理由は」
「車体への線を読むためです。触れる時間は一秒」
「一秒なら許す」
「はい」
アリアが触れる。
一秒。
離す。
「右下。車輪ではありません。車輪を見せて、狙いは扉です」
「扉か」
伊織は扉を見る。
開閉部。
伊織が開ければ通る。
勝手に開ければ弾く。
そこを狙う。
閉じ込めるためではない。
誰かに開けさせるためだ。
「ニコ、扉に近づくな」
伊織が言った。
「理由は?」
ニコが聞いた。
その声に、伊織は一瞬だけ止まった。
そうだ。
言う。
「ドアノブに線が来ている。触れば、木札の輪にも絡む」
「分かりました」
ニコは下がった。
トトが木札を一度鳴らす。
かん。
前。
リナが言う。
「クロ、前じゃない。右の匂い」
クロが一瞬前へ出かける。
リナが手を伸ばしかけて、止めた。
「右に黒い油。前は誘い」
クロはリナを見た。
それから右へ伏せる。
止められたのではない。
選んだ。
◆
ガルドが木槌を振り上げる。
ゼクトが叫んだ。
「そこじゃねえ!」
ガルドが止まる。
「理由は!」
ガルドが怒鳴り返す。
ゼクトは一瞬、言葉に詰まった。
それから、舌打ちする。
「木槌の柄に線が来てる! 振り下ろせば手首を取られる!」
ガルドは手元を見た。
黒い線が、柄の鉄輪に絡みかけている。
「先に言え!」
「今言った!」
「遅え!」
「お前が早え!」
伊織は言った。
「柄を捨てろ」
「壊すぞ」
「理由は」
「支点は石の下だ。柄が取られる前に、柄ごと叩き折る」
「やれ」
ガルドは木槌を半回転させた。
柄ではなく、頭の側面で石を叩く。
柄の鉄輪が弾けた。
黒い線が外れる。
支点が露出する。
ヴォルフの骨刃が横から入る。
黒い歯車が浮く。
ゼクトの鎖がそれを絡め取った。
伊織はゼクトを見る。
ゼクトは舌打ちした。
「今のは手が滑った」
「そうか」
「そうだ」
誰も突っ込まなかった。
◆
アリアが短く言う。
「次、左上」
ヴォルフが動かないまま、視線だけ上げる。
崩れた水路橋の下。
古い鉄片が一本、揺れている。
落ちれば、車体の上に当たる。
だが、狙いは車体ではない。
音。
落下音でトトの合図を潰す気だ。
「トト」
伊織が言う。
トトが顔を上げる。
「大きな音が来る。合図を変えられるか」
トトは少し考えた。
木札を握る。
鳴らさない。
代わりに、ミナの手を二度握った。
ミナが目を見開く。
「二回。右」
トトが頷く。
音が潰されるなら、触れる。
木札ではなく、手。
ミナの手が、トトの音になった。
鉄片が落ちた。
がん、と大きな音が響く。
車内の木札の音は消えた。
だが、ミナが叫ぶ。
「右!」
リナが反応する。
クロが右へ飛ぶ。
黒い歯車が、壁際から飛び出す。
クロの爪が地面を削る。
リナが叫ぶ。
「支点、壁の中!」
ガルドが走る。
ゼクトが鎖を投げる。
ヴォルフが骨刃を構える。
アリアが一秒だけ車体に触れる。
伊織は数える。
一。
「離せ」
アリアが離す。
「線は切れます。ですが、今は――」
「俺が撃つ」
伊織は右手を上げた。
黒鋼拳銃。
視界が区切られる。
距離、十八メートル。
角度、右下。
壁の割れ目。
支点ではない。
支点を動かす歯。
撃つのはそこだ。
引き金を引く。
銃声。
黒い弾丸が壁の割れ目を抜いた。
歯車の歯だけが砕ける。
本体は残る。
だが、動きが止まる。
ガルドの木槌が支点を砕いた。
ゼクトの鎖が残りを引きずり出す。
ヴォルフの骨刃が黒い線を断つ。
アリアの風が最後の糸を切った。
ぱきん。
音は小さかった。
だが、全員に聞こえた。
◆
暗がりが沈黙した。
砂が流れる。
黒い歯車の欠片が、地面に落ちている。
伊織は銃を下ろした。
誰も倒れていない。
誰も役目を奪われていない。
止めた。
ただし、理由を言って。
止められた者は、選んだ。
ヴァルターの線は、完全には通らなかった。
旧水路の奥から、声がした。
「なるほど」
ヴァルターの声。
姿は見えない。
だが、近い。
「手を重ねるか」
伊織は暗がりを見る。
撃たない。
まだ距離が読めない。
「なら、次は手ではない」
アリアが息を止めた。
ニコが木札を握る。
トトがミナの手を握る。
リナがクロの背に触れる。
ガルドが木槌を担ぐ。
ヴォルフが目を細める。
ゼクトが鎖を鳴らす。
伊織は右手を開いた。
「何を狙う」
暗がりから、乾いた笑いが返った。
「帰る場所だ」
風が吹いた。
砂が舞う。
声が途切れる。
ヴァルターの気配が遠ざかる。
だが、最後の言葉だけが残った。
帰る場所。
ギルド。
治癒室。
食堂。
子供たち。
黒鋼装甲輸送車。
そして、伊織がようやく得かけている場所。
伊織の右手が、冷えた。
アリアがそれを見た。
「東さん」
「分かってる」
「無理をしています」
「ああ」
伊織は認めた。
認めたうえで、前を見た。
「戻る」
誰も異を唱えなかった。
ゼクトだけが、少し離れた場所で鎖を肩に掛けていた。
「俺は行かねえぞ」
「来いとは言っていない」
「言うなよ」
「言わない」
ゼクトはしばらく伊織を見た。
それから、ふいと視線を逸らす。
「裏道を使え。表はもう見られてる」
「なぜ教える」
「気まぐれだ」
「そうか」
「それと」
ゼクトはガルドを見た。
「木槌の振り方が雑だ」
ガルドの眉が跳ねた。
「あ?」
「力任せだ。支点を見るなら、叩く前に柄を殺せ」
ガルドは舌打ちした。
「……覚えとく」
ゼクトは短く笑った。
それから、鎖を鳴らし、斜面の影へ消えた。
今度は追わなかった。
追う時ではない。
伊織は黒鋼装甲輸送車に乗り込んだ。
アリアも乗る。
リナとクロ。
ニコ。
ミナとトト。
ガルドは外を守る。
ヴォルフは裏道を見る。
全員の位置が、また線になる。
伊織はハンドルを握った。
冷たい。
だが、手は動く。
車体が低く唸る。
帰る場所を狙う。
ヴァルターはそう言った。
伊織は正面を見た。
帰る場所。
その言葉が胸の奥で重く沈む。
守る場所ではない。
戻る場所。
失いたくない場所。
今度は、そこを狙ってくる。
黒鋼装甲輸送車が、裏道へ向かって走り出した。




