第31話 必要な位置
アリアは、手首の布を巻き直していた。
治癒室の窓から、薄い朝の光が入っている。
白い布。
その下に、赤が残っている。
エルナは黙って薬草を潰し、皿の上で練っていた。
ミナとトトは、部屋の端で木札を磨いている。
ニコは椅子に座り、連絡用の札を並べていた。
誰も大きな声を出さない。
昨日の疲れが残っている。
それでも、誰も寝込んではいなかった。
伊織は扉の横に立っていた。
治癒室に入らない。
入れば、アリアがこちらを見る。
見るなと言えば、余計に見る。
だから、扉の横に立つ。
見張りのように。
逃げ道を塞がない位置に。
「入らないんですか」
アリアが言った。
伊織は少しだけ目を細めた。
「気づいていたのか」
「気づきます」
「手首は」
「問題ありません」
エルナが薬草を混ぜる手を止めた。
「問題はあります」
アリアは少しだけ眉を下げた。
「動きます」
「動くことと、問題がないことは違います」
エルナの声は静かだった。
だが、強い。
アリアは反論しなかった。
伊織は治癒室に入った。
床板が軽く鳴る。
アリアは布を巻いた手を膝の上に置いた。
隠そうとはしない。
それが、昨日までとは少し違っていた。
「今日は解析しない」
伊織が言った。
アリアは顔を上げる。
「必要ならします」
「必要でもだ」
「それは違います」
即答だった。
伊織は黙る。
アリアの目は逸れない。
「私の手が狙われるなら、私が見ます」
「だから止める」
「止めれば、ヴァルターの思う通りです」
治癒室が静かになった。
ミナが木札を握ったまま、こちらを見ている。
トトも顔を上げていた。
ニコは並べていた札から手を離した。
アリアは続ける。
「彼は、あなたに選ばせたいのではありません。私を止めるか、使うか。あなたにそれを選ばせたい」
伊織の右手がわずかに動いた。
まだ、少し遅れる。
「なら、使わない」
「それも選択です」
「怪我をしている」
「はい」
「狙われている」
「はい」
「それでも前に出るのか」
「前に出るのではありません」
アリアは巻かれた手首を見る。
「必要な位置にいます」
その声は、弱くなかった。
「危険な位置だ」
「あなたがいつも立っている場所です」
伊織は言葉を失った。
アリアは淡々としていた。
責めてはいない。
ただ、事実を言っている。
「あなたは、守ると言いながら、自分を数に入れていません」
以前、彼女が言った言葉が戻ってくる。
今度は、少し形を変えて。
「今度は、私を数から外そうとしています」
伊織の胸の奥が、重くなった。
守る。
その言葉は、便利だ。
相手を下げる理由になる。
相手を止める理由になる。
相手の役目を奪う理由にもなる。
それを、ヴァルターは見ている。
支える手を狙う。
痛みを隠す手を狙う。
そして、伊織に選ばせる。
使うか。
止めるか。
伊織はゆっくり息を吐いた。
「どうしたい」
アリアの表情が、わずかに変わった。
「私に聞くんですか」
「ああ」
「止めないんですか」
「止めたい」
「正直ですね」
「だが、聞く」
アリアはしばらく伊織を見ていた。
その沈黙は、長かった。
けれど、不快ではなかった。
「解析します」
アリアは言った。
「ただし、一人ではしません」
「ああ」
「車体には触れます。ですが、長くは触れません」
「ああ」
「私が無理をしたら」
「止める」
「違います」
アリアは首を横に振る。
「止める前に、言ってください」
「何を」
「今、無理をしています、と」
伊織はアリアを見る。
「それで止まるのか」
「止まらないかもしれません」
「意味がない」
「あります」
アリアは静かに言った。
「私は、無理をしていることに気づかない時があります。必要だと思うと、痛みを後回しにする。だから、言ってください。止めるためではなく、私が選ぶために」
伊織は黙った。
守るとは、止めることではない。
選ぶ前に奪うことではない。
選ぶための材料を渡すこと。
相手が立つ場所を、勝手に決めないこと。
伊織はようやく頷いた。
「分かった」
アリアは小さく息を吐いた。
「では、行きましょう」
「まだだ」
伊織はエルナを見る。
「手当てが終わってからだ」
エルナが頷いた。
「当然です」
アリアは少し不満そうにした。
ミナが小さく笑った。
トトも、木札を一度だけ鳴らした。
かん。
肯定の音だった。
◆
黒鋼装甲輸送車は、中庭に置かれていた。
昨日よりも、少しだけ馴染んで見える。
黒い車体。
厚い装甲。
小さな窓。
触れれば弾く鋼鉄。
伊織が開ければ通る箱。
アリアだけが同調できる外装。
ヴォルフは車体の前に立っていた。
ガルドは後ろで木槌を肩に担いでいる。
リナとクロは左側。
ニコは扉の横。
ミナとトトは治癒室の入口で待機していた。
エルナは食堂側に人を下げている。
伊織は車体の横に立った。
アリアはその隣に来る。
新しい布を巻いた手首。
赤は見えない。
だが、隠れているだけだ。
「触る時間は短く」
伊織が言った。
「はい」
「痛みが出たら」
「言います」
「出なくても、俺が見て言う」
「はい」
アリアは車体に手を伸ばした。
その瞬間。
伊織の視界の奥で、地面が薄く区切られた。
線。
距離。
角度。
昔、画面の向こうで何度も見た戦場の感覚が、現実の中庭に重なる。
車体。
治癒室。
井戸。
食堂裏。
旧水路へ続く路地。
人の配置が、点ではなく線に見えた。
アリアの手が車体に触れる。
線が一本、明るくなる。
だが、その周囲に、細い黒い線が浮いた。
見えたわけではない。
そう処理しただけだ。
伊織の身体が、危険の形を先に読んだ。
「待て」
伊織が言った。
アリアの手が止まる。
触れる直前。
「何か」
「車体じゃない」
伊織は周囲を見る。
地面の格子が、頭の奥で揺れる。
三歩。
右。
石。
古い釘。
昨日、車体が止まった時に擦った壁の欠片。
「右下」
リナが先に言った。
クロも低く唸っている。
「焦げた油の匂い。薄いけどある」
伊織は頷いた。
「アリアを触らせる前に、周囲を見ろ」
ガルドが木槌を下ろす。
「支点か」
「たぶんな」
「最近、そればっかりだな」
「慣れたか」
「嫌になるくらいにはな」
ガルドは右下の石へ近づく。
触らない。
木槌の柄で、石の周囲を軽く叩く。
こん。
音が鈍い。
「下だ」
ヴォルフが言った。
「石を浮かせるな。横を削れ」
「分かってる」
ガルドは木槌を握り直した。
その顔には、以前のような不満だけではなかった。
自分の役目を知っている顔だった。
木槌が落ちる。
石の横が割れた。
中から、小さな黒い歯車が覗いた。
だが、歯車は砕けなかった。
代わりに、細い線がアリアの足元へ走る。
伊織は一歩踏み出しかけた。
アリアが先に言った。
「止まってください」
伊織は止まる。
アリアは自分の足元を見る。
「これは、私に触らせるための線です」
「触らなければいい」
「いいえ」
アリアは首を横に振る。
「触らなければ、車体の異常を読めません。触れば、私の手に負荷が来ます」
伊織は奥歯を噛んだ。
選ばせる。
まただ。
今度は中と外ではない。
アリア自身に選ばせる。
触るか。
触らないか。
痛みを負うか。
役目を放すか。
ヴァルターの声が聞こえる気がした。
次は、支える手に聞こう。
伊織はアリアを見る。
「無理をしている」
アリアは少しだけ目を見開いた。
伊織は続ける。
「今、無理をしようとしている」
「はい」
「それでも触るか」
アリアは車体を見た。
黒い装甲。
中に昨日の音が残っているような、重い箱。
それから、自分の手首を見る。
「触ります」
伊織は止めなかった。
「なら、時間を決める」
「三秒」
「一秒だ」
「二秒」
「一・五」
アリアは一瞬だけ黙った。
「細かいですね」
「数える」
アリアは少しだけ笑った。
「知っています」
伊織は右手を開いた。
遅れはある。
だが、数えることはできる。
アリアが車体に手を置いた。
黒い装甲が、その手を受け入れる。
同時に、地面の歯車が動いた。
黒い線がアリアの手首へ伸びる。
伊織は数えた。
一。
アリアの眉がわずかに動く。
二ではない。
一と半分。
「離せ」
アリアは手を離した。
その瞬間、ガルドの木槌が歯車の支点を砕いた。
リナが叫ぶ。
「クロ、左!」
クロが飛ぶ。
左の壁際で、もう一つの小さな歯車が浮いていた。
ヴォルフの骨刃がそれを横から弾く。
黒い線が切れた。
アリアは手首を押さえる。
赤は滲んでいない。
だが、顔色は少し白い。
「無理をしている」
伊織が言った。
「はい」
アリアは素直に認めた。
「ですが、止まれました」
「ああ」
「あなたが数えたからです」
伊織は何も言わなかった。
アリアも、それ以上言わなかった。
それで十分だった。
◆
壊れた歯車は二つだった。
一つはアリアの足元。
もう一つは左の壁際。
どちらも小さい。
だが、傷は深い。
アリアは布越しに歯車を見た。
伊織は隣に立つ。
「読めるか」
「少しだけ」
「手は」
「見ています」
アリアは先に言った。
伊織は黙った。
アリアは小さく息を吐き、歯車の傷を見た。
縦に一本。
斜めに二本。
その下に、手の形。
五本の指。
そのうち一本に、小さな傷がついている。
支える手。
その指を折る印。
リナが顔をしかめた。
「嫌な印」
「はい」
アリアは静かに答えた。
嫌悪ではなく、確認の声だった。
ニコが一歩近づく。
「アリアさんの手を、狙っているんですか」
「おそらく」
アリアが言う。
ニコは木札を握った。
「手って、ひとつじゃないですよね」
アリアがニコを見る。
ニコは少し慌てたように続ける。
「あ、いや、その。アリアさんの手は大事です。でも、支える手はアリアさんだけじゃなくて」
ミナが頷いた。
「私も、トトの手を握れる」
トトが木札を一度鳴らした。
かん。
リナがクロの首に手を置く。
「私はクロを押さえられる」
ガルドが木槌を肩に担ぐ。
「俺は支点を砕ける」
ヴォルフが低く言った。
「俺は動かずに見る」
エルナが治療箱を持ってくる。
「私は、怪我を止めます」
アリアは黙っていた。
伊織も黙っていた。
ニコは少しだけ笑う。
「だから、アリアさんだけが支える手じゃないです」
アリアの表情が、ほんの少しだけ揺れた。
その揺れを、伊織は見た。
彼女は、自分の役目を疑わない。
必要なら痛みを後回しにする。
支えるためなら、手を差し出す。
だが、それは時に、自分だけが支えなければならないという形になる。
ヴァルターはそこを見た。
伊織も、今ようやく見た。
「そうだな」
伊織は言った。
アリアではなく、ニコに。
ニコは少しだけ背筋を伸ばした。
「はい」
アリアは巻かれた手首を見た。
それから、周囲を見る。
ミナ。
トト。
リナとクロ。
ニコ。
ガルド。
ヴォルフ。
エルナ。
最後に、伊織。
「私は」
アリアが言った。
「自分が支えなければならないと、思いすぎていたのかもしれません」
それは小さな声だった。
だが、全員に聞こえた。
伊織は頷く。
「俺もだ」
アリアが伊織を見る。
「あなたも?」
「ああ」
「自覚があったんですか」
「最近だ」
リナが小さく吹き出した。
クロが鼻を鳴らす。
ガルドが肩をすくめる。
「最近でも上等だ」
ヴォルフが言った。
「気づかねえまま死ぬ奴の方が多い」
場が、少しだけ緩んだ。
だが、完全には緩まない。
歯車の印が、そこにある。
手。
傷ついた指。
次の標的は明確だった。
その時、旧水路へ続く路地から、金属が擦れるような音がした。
全員が顔を向ける。
黒い外套は見えない。
だが、路地の壁に何かが刺さっていた。
黒い鎖の切れ端。
ゼクトのものだった。
伊織は近づく。
触らない。
アリアが見た。
「自分で切った跡です」
「指差しか」
「はい」
鎖の端は、旧水路ではなく、ギルドの裏門を指していた。
その先。
街の外へ続く細い道。
アリアの顔が変わる。
「誘導です」
「ヴァルターか」
「おそらく」
ヴォルフが低く唸った。
「表を固めさせて、裏か」
ガルドが木槌を握る。
「追うか」
伊織は鎖の切れ端を見た。
黒い鎖。
自分で切った跡。
ゼクトは姿を見せない。
だが、指は差した。
仲間ではない。
味方でもない。
だが、あの男なら正面から斬る。
子供を線の餌にするような真似は、しない。
そんな気がした。
伊織は周囲を見る。
全員が、こちらを見ている。
以前なら、伊織は一人で動いていた。
今は違う。
「追う」
伊織は言った。
アリアが口を開きかける。
伊織は先に言った。
「一人では行かない」
アリアは口を閉じた。
少しだけ、笑った。
「はい」
「アリアは」
「行きます」
「無理をしている」
「しています」
「それでもか」
「それでもです」
伊織はアリアを見る。
止めたい。
だが、止めない。
代わりに、条件を出す。
「触れるのは一・五秒まで」
「細かいですね」
「数える」
「知っています」
伊織は黒鋼装甲輸送車を見る。
冷たい車体。
移動する結び目。
触れられる者は限られている。
動かせるのは伊織だけ。
だが、その中で鳴る音は、伊織だけのものではない。
伊織は扉を開けた。
「乗れ」
誰も急がなかった。
リナがクロを先に乗せる。
ニコが木札を握る。
トトがミナの手を取る。
ガルドが外に立つ。
ヴォルフが裏門を見る。
アリアは最後に車体へ触れた。
一瞬だけ。
伊織は数えた。
一。
それより早く、アリアは手を離した。
「大丈夫です」
伊織はアリアを見た。
「今のは、本当に大丈夫です」
アリアが言う。
伊織は頷いた。
それならいい。
今は信じる。
◆
裏門へ向かう途中、伊織の視界がまた薄く区切られた。
線。
距離。
角度。
旧水路への道。
裏門から外へ続く道。
倉庫の影。
逃げ道。
誘導先。
全部が、頭の奥でつながっていく。
ヴァルターは、アリアの手を狙う。
だが、それだけではない。
支える手が複数あると知れば、今度はその全てを揺らす。
アリアだけではない。
ニコの声。
トトの音。
リナとクロの感知。
ガルドの支点。
ヴォルフの目。
エルナの手当て。
全部を見ている。
伊織はハンドルを握った。
右手の遅れは、少し戻っている。
だが、完全ではない。
それでも、以前とは違う。
遅れた分を、誰かが埋める。
誰かの痛みを、誰かが見る。
支える手は、一つではない。
その手を折りに来るなら。
こちらは、手を重ねる。
黒鋼装甲輸送車が、裏門へ向かってゆっくり動き出した。
アリアは助手席側で、手首を膝の上に置いている。
伊織は横目でそれを見た。
アリアも、気づいた。
「見ていますね」
「ああ」
「私も見ています」
「何を」
「あなたが、一人で行こうとする瞬間を」
伊織は少しだけ口元を動かした。
「忙しいな」
「必要です」
いつもの言葉。
だが、今は少しだけ違って聞こえた。
伊織は前を見る。
裏門の向こうで、風が砂を巻いていた。
黒い鎖の切れ端が、車内の床で小さく鳴る。
ゼクトの指差し。
ヴァルターの誘導。
アリアの手。
伊織はハンドルを握る。
次は、支える手の番だ。
だが、その手はもう、一人のものではない。




