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第29話 移動する結び目

 翌朝、右手の遅れは消えていなかった。


 握る。


 開く。


 遅れる。


 昨夜よりはましだった。


 だが、完全ではない。


 伊織は廊下の中央で、右手を下ろした。


 使える。


 だが、最初に使うな。


 ヴォルフの言葉が、まだ耳に残っている。


 食堂の方では、エルナが職員に配置を伝えていた。


 声は落ち着いている。


 紙を持つ手も揺れていない。


 井戸小道にはヴォルフ。


 食堂裏にはガルド。


 治癒室前にはアリア。


 リナとクロは巡回。


 ニコは連絡係。


 ミナとトトは治癒室の中で、木札を握っている。


 昨日と同じ配置。


 だが、同じではない。


 ヴァルターは、もう見ている。


 結び目を。


 そのあいだを。


 人が動く距離を。


 声が届くまでの時間を。


 伊織は廊下の奥を見た。


 治癒室。


 食堂。


 井戸。


 そのあいだには、線がある。


 動かなければ、届かない。


 動けば、切られる。


 なら、どうする。


 胸の奥に、昨日から沈んでいる鋼鉄の形があった。


 まだ、輪郭ははっきりしない。


 ただ、重い。


 撃つ形ではなかった。


 斬る形でもない。


 運ぶ形。


 中に入れる形。


 守りながら動く形。


「東さん」


 アリアが声をかけた。


 伊織は振り向く。


 アリアは白い袖の上に、薄い布を巻いていた。


 手首の布。


 前より少し厚い。


「右手は」


「遅れている」


「隠さなくなりましたね」


「必要だからな」


「はい」


 アリアは小さく頷いた。


「無理に前へ出ないでください」


「分かってる」


「本当に?」


「本当だ」


 アリアは伊織の右手を見た。


 伊織も、それを止めなかった。


 見られて困るものではない。


 見ていてもらう必要がある。


「来ます」


 アリアが言った。


「分かるのか」


「検知印の色が、全部薄く動いています」


「全部か」


「はい」


 伊織は息を止めた。


 治癒室。


 井戸小道。


 食堂裏。


 全部。


 ヴァルターは予告通り、一つでは来ない。


 廊下の奥で、ニコが顔を上げた。


 木札を握っている。


 リナがクロの首筋に手を置く。


 ガルドが木槌を肩から下ろした。


 ヴォルフが壁から背を離す。


 次の瞬間。


 鐘が鳴った。


 一度ではない。


 三方向から。


 食堂裏。


 井戸小道。


 治癒室。


 同時だった。



 最初に声を出したのはニコだった。


「三箇所! 食堂裏、井戸小道、治癒室前! 近づかないで!」


 声は震えていた。


 だが、昨日より通った。


 エルナが即座に手を上げる。


「食堂内の方は動かないでください。治癒室へは職員を追加しない。井戸側は封鎖」


 ガルドの声が食堂裏から飛ぶ。


「こっちは本物だ! 支配核が二つある!」


 ヴォルフの低い声が井戸側から響く。


「井戸小道、床下に反応。水には近づけるな」


 アリアが治癒室前の検知印を見る。


 青い線が、黒く滲んでいた。


「こちらも本物です」


 リナがクロと廊下を走る。


 いや、走りすぎない。


 クロと並んで、足を抑えている。


 それでも速い。


「匂いが分かれてる!」


 リナが叫んだ。


「食堂裏と井戸、あと、廊下の下!」


 伊織は動かなかった。


 動きたかった。


 足が前へ出そうになる。


 だが、出ない。


 今ここで一箇所へ走れば、他が切れる。


 ヴァルターの狙いは、それだ。


 全員が正しく動いている。


 誰も間違っていない。


 それでも、三箇所は遠い。


 人の足では、間に合わない。


 その時、廊下の奥で木札が鳴った。


 かん。


 治癒室の中だ。


 続けて二度。


 かん。

 かん。


 トトの音。


「二回は右。練習した通り」


 リナが小さく言った。


 伊織は治癒室を見る。


 中では、ミナとトトが壁際に下がっているはずだ。


 ニコも今日は外にいる。


 治癒室内には子供二人と、怪我人が数名。


 声ではなく、音が届く。


 しかし、同時に食堂裏でも金属音が走った。


 かちり。


 かちり。


 井戸側では、石畳が軋んだ。


 ヴォルフが叫ぶ。


「水路側からも来るぞ!」


 線が切られる。


 動く途中で。


 声が届く前に。


 伊織は右手を握った。


 遅れる。


 まだ遅れる。


 それでも、動くしかない。


 踏み出そうとした瞬間、ヴォルフの声が飛んだ。


「東!」


 伊織は止まった。


 ヴォルフは井戸側からこちらを見ていた。


 距離がある。


 だが、片目は伊織を捉えている。


「一箇所へ走るな!」


「なら、どうする」


 伊織の声は低かった。


 ヴォルフは一瞬だけ黙った。


「動くな、と言いたいがな」


 昨日と同じ言葉。


 だが、続きは違った。


「それじゃ、もう守れん」


 伊織は廊下を見た。


 治癒室。


 食堂。


 井戸。


 それぞれのあいだに、線がある。


 動かなければ、届かない。


 動けば、切られる。


 なら。


 線ごと動かす。


 胸の奥で沈んでいた鋼鉄の形が、ゆっくり浮いた。


 撃つための鋼鉄ではない。


 壊すための鋼鉄でもない。


 運ぶための鋼鉄。


 人を中に入れ、線ごと動かすための箱。


 伊織の記憶の奥で、重い音がした。


 車輪。


 装甲板。


 狭い車内。


 雨の夜、突入前に聞いた無線の音。


 VRで何度も走らせた、黒い装甲輸送車の形。


 右手が冷える。


 だが、今度の冷えは違った。


 何かを撃つためではない。


 誰かを運ぶための冷えだった。


「下がれ」


 伊織は言った。


 アリアが顔を上げる。


「何を」


「動く結び目を作る」


 アリアの目がわずかに見開かれた。


 だが、すぐに理解した。


「形は」


「輸送車」


「大きいですね」


「ああ」


「右手は」


「遅れている」


「では、私も支えます」


 アリアは伊織の背ではなく、一歩前に出た。


 伊織の右手の先。


 まだ何もない空間。


 そこへ、手を伸ばす。


「外装の流れを整えます」


「危険だ」


「必要です」


「アリア」


「あなた一人では、形が揺れます」


 言い切った。


 伊織はそれ以上止めなかった。


 止めれば、遅れる。


「やるぞ」


「はい」



 黒い粒子が、廊下の中央に集まり始めた。


 最初は、影のようだった。


 次に、鉄の匂いがした。


 黒い骨組み。


 低い車体。


 厚い装甲板。


 小さな窓。


 大きすぎない。


 だが、人を入れられる。


 守るための箱。


 黒鋼装甲輸送車。


 伊織の右手から、魔力が抜けていく。


 指先が遅れる。


 手首が冷える。


 それでも形を保つ。


 アリアが車体の側面に手を当てた。


 白い袖が揺れる。


 手首に巻いた布の端が、かすかに赤く滲んだ。


 伊織はそれに気づいた。


「手首」


「後で見ます」


「今だ」


「今は、車体です」


 アリアは短く答えた。


 魔力の線が車体の表面を走る。


 ただの鉄ではない。


 伊織の記憶の形と、アリアの魔力制御が噛み合っていく。


 装甲板の輪郭が安定する。


 床板が低く鳴った。


 重さが、廊下に落ちる。


 ただの車ではない。


 人を乗せるための空洞が、装甲板の内側に生まれていく。


 狭い。


 だが、閉じ込めるための狭さではない。


 守るための狭さだった。


 車輪が地面を噛む。


 低い駆動音が、ギルドの廊下に響いた。


 ガルドが食堂裏から叫ぶ。


「何だそりゃ!」


「乗れ!」


 伊織が叫ぶ。


「誰をだ!」


「線ごとだ!」


「分かるか!」


 怒鳴りながらも、ガルドは理解した。


 食堂裏の支配核の一つを木槌で砕き、周囲の職員を下がらせる。


「エルナ! 怪我人と子供をこっちへ!」


「治癒室から先です!」


 エルナがすぐに返す。


「ニコさん、誘導!」


「はい!」


 ニコが木札を叩く。


 かん。


「治癒室の方! こちらへ! 一人ずつ、走らないで!」


 トトの木札が中から応える。


 かん。

 かん。


 二度。


 右。


 リナが顔を上げる。


「トト、右側に何か聞いてる!」


「右か」


 伊織は装甲輸送車の扉を開けた。


「ミナ、トト、乗れ!」


 治癒室の扉が開く。


 ミナがトトの手を引いて出てくる。


 トトは木札を握っていた。


 声は出ない。


 だが、目は外を見ている。


 トトが木札を三度叩いた。


 かん。

 かん。

 かん。


 後ろ。


 クロが反応した。


 治癒室の背後、床下の金具が動いている。


 リナが叫ぶ。


「後ろ! 床下!」


 アリアが車体から手を離さず、風を飛ばす。


「ガルドさん!」


「支点だな!」


 ガルドが木槌を握り直した。


「分かってる。こういうのは、本体じゃねえ!」


 木槌が床下の支点を砕いた。


 金具の音が止まる。


 伊織はミナとトトを車内へ押し込む。


 ニコが肩を押さえながら、怪我人の一人を支える。


「ニコ、無理をするな」


「走ってません」


「支えるのも無理だ」


「声を出します」


 ニコはそう言って、木札を叩いた。


「怪我人、こちらです! 足元、気をつけて!」


 声が通る。


 震えている。


 だが、通る。


 エルナが怪我人を一人ずつ装甲輸送車へ誘導する。


 ヴォルフは井戸側から戻ってこない。


 井戸を空けないためだ。


 それでいい。


 全員が一箇所へ集まる必要はない。


 だが、切られそうな線は、車内に入れる。


 動かす。


 守る。


「リナ!」


 伊織が呼ぶ。


「クロと乗れ!」


「でも匂いは」


「中から見ろ」


「匂いは中からじゃ――」


 トトが木札を二度叩いた。


 かん。

 かん。


 右。


 クロが車内へ飛び込んだ。


 リナがその後に続く。


「分かった。中からでも、クロが聞く」


 リナはクロの首に手を置く。


 クロが低く唸る。


 外の匂いを追うのではない。


 音を聞く。


 車体を通して伝わる振動を拾う。


 トトの木札。


 クロの耳。


 リナの鼻。


 全部が、車内で繋がる。


 伊織は運転席へ乗り込んだ。


 見慣れた形。


 だが、完全に同じではない。


 現実の記憶。


 VRの記憶。


 突入車両の記憶。


 輸送の記憶。


 すべてが混ざっている。


 黒鋼装甲輸送車。


 伊織はハンドルを握った。


 右手が遅れる。


 だが、握れる。


 アリアが助手席側に乗り込む。


 手首の布に、赤が滲んでいる。


「アリア」


「後で見ます」


「二度目だ」


「今は前です」


 アリアは窓の外を見た。


「井戸側、動きます」


 ヴォルフの声が外から飛んだ。


「東! 井戸側の床が沈む!」


 ヴァルターの次の手。


 箱に入れたなら、道を沈める。


 伊織は歯を噛んだ。


 装甲輸送車が低く唸る。


「全員、掴まれ」


 伊織が言った。


 ミナがトトを抱く。


 ニコが木札を握る。


 リナがクロを抱える。


 エルナが怪我人を押さえる。


 アリアが車体に手を当てる。


 ガルドが外で木槌を構える。


 ヴォルフが井戸側の石畳に立つ。


 伊織はアクセルを踏んだ。


 黒鋼装甲輸送車が動き出した。



 車体は重かった。


 だが、遅くはない。


 廊下には入れない。


 だから中庭へ出る。


 壁際を抜ける。


 井戸小道へ向かう。


 通常の馬車なら、曲がりきれない。


 だが、この車体は伊織の具現だ。


 形は、必要に合わせてわずかに変わる。


 幅を保つ。


 車輪を噛ませる。


 装甲板が壁を擦る。


 火花が散る。


 だが、止まらない。


 ヴァルターの支配核が、井戸小道の石畳を動かす。


 石が沈む。


 穴ではない。


 段差。


 車輪を取るための段差。


 アリアが言った。


「右前、落ちます」


 伊織はハンドルを切る。


 右手が遅れる。


 半拍。


 足りない。


 アリアの手が車体の内側に触れた。


 車体の重心が、わずかに整う。


 右前輪が沈みかける。


 だが、落ちない。


 ガルドが外から叫ぶ。


「支点見えた!」


「砕け!」


「言われなくても!」


 木槌の音。


 石が割れる。


 沈みかけた道が止まる。


 装甲輸送車が、井戸小道を越えた。


 ヴォルフが横に飛び退く。


 その片目が、車体を見ていた。


「なるほどな」


 低く言った。


「そう来たか」


 その声が、伊織に届いた。


 伊織は答えなかった。


 前を見る。


 旧水路へ続く細い路地の入口。


 そこに、黒い外套があった。


 足音はなかった。


 気配もなかった。


 最初からそこに立っていたようにも見えたし、今この瞬間に景色の中から浮き上がったようにも見えた。


 ヴァルターだった。


 黒い外套。


 細い指。


 無駄のない立ち方。


 目は、驚いていない。


 ただ、測っていた。


 車体の幅。


 速度。


 魔力の揺れ。


 中にいる人数。


 アリアの手首。


 伊織の右手。


 すべてを、見ていた。


「線を、箱に入れたか」


 ヴァルターが言った。


 声は静かだった。


 嫌悪も、怒りもない。


 ただ、興味だけがあった。


「そう来るか」


 伊織はハンドルを握ったまま、ヴァルターを見た。


 撃たない。


 追わない。


 今は、運ぶ。


 ヴァルターの口元が、わずかに動いた。


「なら、次は箱の中で選ばせる」


 黒い歯車が、彼の足元で砕けた。


 煙ではない。


 砂のような黒い粒子。


 視界が一瞬、遮られる。


 伊織は追わなかった。


 追えば、線が切れる。


 粒子が晴れた時、ヴァルターはいなかった。


 路地の入口には、小さな黒い歯車が一つ残っていた。


 そこには、傷が刻まれている。


 縦に一本。


 斜めに二本。


 そして、箱のような四角。


 中に、小さな点が三つ。


 アリアがそれを見た。


 顔色が変わる。


 伊織は言った。


「読むな」


「ですが」


「今は運ぶ」


 アリアは一瞬だけ黙った。


 それから頷いた。


「はい」


 装甲輸送車の中で、トトが木札を一度叩いた。


 かん。


 前。


 伊織は前を見た。


 ギルドの正門が開いている。


 エルナが外から人を下げている。


 ヴォルフが井戸側を封鎖している。


 ガルドが木槌を担ぎ、車体の後ろを守っている。


 リナがクロの首に腕を回し、外の匂いを探っている。


 ニコが青い顔で、それでも木札を握っている。


 ミナがトトの手を握っている。


 アリアが血の滲む手首を隠そうともせず、車体の揺れを整えている。


 全員が、中にいるわけではない。


 だが、線は繋がっている。


 黒鋼装甲輸送車は、中庭の中央で止まった。


 止まったのではない。


 守るために、そこに立った。


 伊織はハンドルから手を離した。


 右手は冷えている。


 遅れも残っている。


 だが、今は届いた。


 治癒室から。


 食堂へ。


 井戸へ。


 そのあいだへ。


 伊織は車内を見た。


 誰も、泣いていなかった。


 誰も、勝ったとは言わなかった。


 ただ、全員が息をしていた。


 それでよかった。


 その時、アリアが小さく息を吐いた。


 手首の布に、赤が広がっていた。


「アリア」


「後で」


「今だ」


 伊織の声が低くなる。


 アリアは少し困ったように笑った。


「……はい」


 リナがすぐに布を取る。


 エルナが治療具を持ってくる。


 トトが木札を握ったまま、アリアの手首を見ている。


 ニコがぽつりと言った。


「みんな、どこか痛いんですね」


 誰もすぐには答えなかった。


 伊織は自分の右手を見る。


 遅れている手。


 アリアの滲む手首。


 ニコの肩。


 トトの震える指。


 リナの白くなった唇。


 それぞれの傷。


 それでも、線は切れていない。


 外では、風が砂を運んでいた。


 旧水路へ続く路地には、もう誰もいない。


 だが、ヴァルターの言葉だけが残っている。


 ――次は箱の中で選ばせる。


 伊織は黒鋼装甲輸送車の内壁に手を置いた。


 冷たい。


 重い。


 だが、確かにそこにある。


 移動する結び目。


 作った。


 だが、まだ守りきったわけではない。


 伊織は顔を上げた。


 次は、箱の中だ。


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