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第28話 線のあいだ

 夜になっても、右手の感覚は戻りきらなかった。


 握る。


 開く。


 握る。


 開く。


 半拍、遅れる。


 伊織はギルド裏の中庭で、ひとり右手を動かしていた。


 月は細い。


 砂を含んだ夜風が、壁の上を撫でていく。


 治癒室の灯りはまだ消えていない。


 ミナとトトは眠ったはずだ。


 ニコも、肩の傷を押さえながら寝台に戻った。


 リナとクロは、さっきまで治癒室の前にいた。


 今は食堂の床で丸くなっている。


 たぶん、クロが先に寝たふりをした。


 リナがその横で、眠気に負けた。


 伊織は右手を握った。


 指先が遅れる。


 アイギスで受けた力が、まだ残っている。


 扉が閉じようとした力。


 部屋の金具が、一斉に噛み合おうとした力。


 それを受けた分だけ、魔力が削られた。


 盾は壊れない。


 だが、使う者は削れる。


 分かっていたことだ。


 それでも、実際に残ると重い。


「右手、遅れていますね」


 背後から声がした。


 アリアだった。


 足音は小さかった。


 気づけなかったわけではない。


 気づいていた。


 ただ、振り向かなかった。


「気のせいだ」


「嘘です」


「早いな」


「見れば分かります」


 アリアは隣に立った。


 白い袖。


 手首には薄い布。


 治癒室前で伊織の背に触れた手だ。


 今は、その手を袖の中に隠している。


「どのくらい遅れていますか」


「半拍」


「半拍は大きいです」


「ああ」


「隠すつもりでしたか」


「必要があれば言う」


「必要です」


 伊織は右手を開いた。


 やはり少し遅れた。


 アリアはそれを見ていた。


 近すぎず、遠すぎず。


 研究者の目で。


 仲間の目で。


 伊織は小さく息を吐いた。


「よく分かるな」


 アリアは答えなかった。


 ただ、右手を見ていた。


 その沈黙で十分だった。


 ずっと見ていたのだ。


 伊織がアリアの詠唱を数えていたように。


 アリアも、伊織の右手を見ていた。


 何を出す時に冷えるのか。


 何を受けると遅れるのか。


 どこから無理になるのか。


 伊織は右手を下ろした。


「明日は前に出すぎない」


「本当に?」


「本当だ」


「……信じます」


「少しだけか」


「今日は、もう少し」


 アリアはそう言ってから、少しだけ視線を逸らした。


 夜風が袖を揺らす。


 伊織は治癒室の灯りを見た。


「次は同時に来る」


「はい」


「治癒室。井戸。食堂裏」


「おそらく」


「そこだけとは限らない」


 アリアは頷いた。


「結び目が固いと分かれば、今度はそのあいだを見ます」


「あいだ」


「人が動く場所です。声が届くまでの距離。誰かが誰かのもとへ向かう途中」


 伊織は黙った。


 そこを切られたら。


 治癒室を守っても、そこへ向かえない。


 井戸を守っても、知らせが届かない。


 食堂を守っても、人が動けない。


 結び目だけを固めても、線の途中が切れれば、同じことだ。


「嫌な男だな」


「はい」


 アリアは短く答えた。


「ですが、分かっているなら備えられます」


「そうだな」


「右手を使わない備えも、必要です」


 伊織はアリアを見た。


「使えないとは言っていない」


「使えます。でも遅れています」


「……そうだな」


 認めるのは、少し苦かった。


 だが、言わなければならない。


 言わないことが、誰かを遅らせる。


「明日は、俺が一番に壊しに行く形にはしない」


 アリアは静かに頷いた。


「はい」


「代わりに、見る」


「配置を?」


「ああ」


「では、私も見ます」


「何を」


「あなたが、前に出ようとする瞬間を」


「そこを見るな」


「必要です」


「そうか」


「はい」


 アリアは少しだけ笑った。


 月の光で、表情は薄く見えた。


 だが、その笑みは確かだった。



 翌朝、ギルドはさらに静かになっていた。


 静かというより、音の出方が変わった。


 椅子を引く音が小さい。


 扉を開ける前に、誰かが一度止まる。


 廊下を曲がる時、一人で進まない。


 昨日までの注意が、行動になっていた。


 エルナは食堂の入口に立ち、木札を配っていた。


 連絡用の札。


 大きいものではない。


 だが、落とせば音がする。


 叩けば、もっと響く。


 ニコはその束を抱えていた。


 肩に巻いた布はまだ残っている。


 動くと少し顔をしかめる。


 だが、目はしっかりしていた。


「走るな」


 ヴォルフが言った。


「はい」


「痛むなら座れ」


「はい」


「声は出るか」


「出ます」


「なら十分だ」


 ニコは小さく頷いた。


 リナが横から覗き込む。


「緊張してる?」


「してます」


「正直」


「隠すと分かるって言われました」


「誰に?」


「エルナさんに」


 エルナが紙から目を離さず言った。


「顔に出ます」


「だそうです」


 ニコは少し困ったように笑った。


 リナも笑った。


 クロが二人の足元で鼻を鳴らす。


 伊織は廊下の中央に立っていた。


 前に出すぎない。


 昨日と同じ場所。


 だが、今日は少し違う。


 右手が完全ではない。


 だから、ここにいる意味が重い。


 アリアは治癒室前と食堂裏の検知印を見ている。


 ガルドは食堂裏。


 ヴォルフは井戸小道へ続く角。


 エルナは食堂入口。


 リナとクロは巡回。


 ニコは連絡係。


 ミナとトトは治癒室の中で、逃げる練習をもう一度確認していた。


 守る場所は三つ。


 だが、伊織はそのあいだを見ていた。


 治癒室から食堂へ向かう廊下。


 食堂裏から井戸へ抜ける細道。


 中庭から治癒室へ戻る裏通路。


 人が動く場所。


 声が走る場所。


 線のあいだ。


「東」


 ヴォルフが呼んだ。


 伊織は視線だけ向ける。


「右手は」


「使える」


「そういう答えはいらん」


 伊織は少し沈黙した。


「遅れている」


「なら、最初に使うな」


「ああ」


「使う時は、最後だ」


「分かった」


 ヴォルフはそれ以上言わなかった。


 代わりに、壁へ背を預けた。


 待つ姿勢。


 伊織はその姿を見た。


 動かないことにも、役目がある。


 それを、ヴォルフは知っている。


 伊織はまだ、慣れていない。



 異変は、昼前に起きた。


 最初は、音ではなかった。


 匂いだった。


 リナが廊下の途中で足を止めた。


 クロも同時に止まる。


 場所は、治癒室と食堂をつなぐ短い廊下。


 普段なら、職員が茶や薬草を運ぶ道だ。


 リナは壁に近づきすぎないように、半歩下がった。


 クロが床を嗅ぐ。


「匂いが薄い」


 リナが言った。


 近くの職員が動きかける。


 ニコがすぐに声を出した。


「待ってください。一人で近づかないで!」


 その職員は止まった。


 ニコ自身の声も震えていた。


 けれど、止めた。


 リナがニコを見る。


「言えるようになったね」


「震えてます」


「届いてる」


 リナはそう言って、廊下の先を見た。


「クロ、右」


 クロが右へ動く。


 その瞬間、廊下の奥で金具が鳴った。


 かちり。


 次に、棚が動いた。


 誰も触れていない木棚が、横へ滑る。


 廊下を塞ぐように。


 さらに、壁に掛けてあった古い鎖が落ちた。


 鉄ではない。


 だが、留め具に金属が残っている。


 それが黒い線に引かれ、床へ這った。


 リナとクロの間に、棚が滑り込んだ。


 分断。


 クロが向こう側で唸る。


 リナは一歩、前へ出かけた。


 だが、走らなかった。


 足を止めた。


 壁に手を当てる。


 向こう側で、クロが唸っている。


 行かない。


 一人では行かない。


 それが、こんなに苦しいとは思わなかった。


「クロ」


 リナの声が震えた。


 クロが向こう側で爪を立てる。


 がり、と木が削れる音。


 リナは匂いを取る。


「そこじゃない。少し下。床の近く」


 クロがまた爪を立てた。


 がり。


 今度は短い。


 位置を教えている。


 伊織は廊下の中央でそれを見ていた。


 右手の指が、まだ自分のものではなかった。


 動かせる。


 棚を壊すことも、盾で押し返すこともできる。


 だが、今ここで使えば、どこか別の場所で遅れる。


 誰かの声に、届かなくなる。


 そんな気がした。


 伊織は踏み出しかけた。


「東」


 ヴォルフの声が低く飛んだ。


 伊織は止まった。


「今のお前が前に出れば、線が一本減る」


「動ける」


「動けるのと、動いていいのは違う」


 伊織は歯を噛みしめた。


 廊下の向こうでクロが唸っている。


 リナは壁に手を当てている。


 ニコは周囲の職員を止めている。


 アリアは検知印を持って走ってくる。


 ガルドは食堂裏から動けない。


 伊織が出れば早い。


 たぶん、早い。


 だが、早いだけでは足りない。


 伊織はリナを見た。


 何も言わない。


 リナが気づいた。


 息を吸う。


 止まる。


 それでいい。


 伊織は次にアリアを見た。


 アリアは頷いた。


 検知印を廊下の床へ近づける。


 青い線が黒く滲んだ。


「支配核は、この廊下の中ほどです。ですが、壁の中に噛んでいます」


「見えないのか」


「まだ」


 ニコが周囲を見ていた。


 人を近づけない。


 声を出す。


 それが役目だ。


 だが、廊下の金具がさらに動いた。


 棚の向こうで、クロが一瞬見えなくなる。


 リナの顔色が変わった。


 それでも走らない。


「クロ!」


 向こう側から、低い唸り。


 生きている。


 動ける。


 だが、届かない。


 ニコが一歩、前に出た。


 声を出そうとした。


 だが、廊下の奥で金具が一斉に鳴った。


 かちり。


 かちり。


 かちり。


 音が重なり、声が散った。


 ニコの声が、廊下に吸われる。


 届かない。


 ニコは木札を握った。


 首から下げていた札を外す。


 壁へ叩きつけた。


 かん。


 音が通る。


 もう一度。


 かん。


 もう一度。


 かん。


 廊下の向こうで、クロが反応した。


 爪音が返る。


 がり。


 かん。


 がり。


 ニコは叩きながら、ふと思った。


 これは、トトの音だ。


 声が出ない時の音。


 届かない時の音。


 誰かに、自分がここにいると知らせる音。


 ニコはもう一度、木札を叩いた。


 かん。


 今度は、震えが少し減っていた。


「位置が分かる」


 アリアが言った。


 ニコの木札。


 クロの爪。


 二つの音が、廊下の両側から支点を示している。


 リナが匂いを拾う。


「床じゃない。壁の下。棚の裏側。クロの爪の、少し上」


 伊織はガルドを見る。


 ガルドはまだ食堂裏にいる。


 伊織は声を張った。


「ガルド!」


「聞こえてる!」


「食堂裏から回れるか」


「遠回りなら行ける!」


「行け。壊すのは棚じゃない。壁の支点だ」


「また支点かよ!」


「そこだ」


「分かった!」


 ガルドの足音が遠ざかる。


 伊織はアリアを見る。


 アリアは検知印を床に置き、風を絞っていた。


「線を切れるか」


「音で位置を取れれば」


 ニコが叩く。


 かん。


 クロが返す。


 がり。


 リナが目を閉じる。


「もう少し右」


 ニコが叩く場所を変える。


 かん。


 クロの爪が止まる。


 次に、二度。


 がり。

 がり。


 アリアが息を吸った。


「そこです」


 魔法陣は小さかった。


 大きな術式ではない。


 細い風。


 針より細く、糸より鋭い。


 壁の下部へ滑り込む。


 同時に、反対側からガルドの声が聞こえた。


「見えたぞ!」


「支点ごとだ!」


「分かってる!」


 木槌の音。


 どん、と重い衝撃。


 壁の中で、何かが割れた。


 アリアの風が黒い線を切る。


 ぱきん。


 棚の動きが止まった。


 床を這っていた留め具が、力を失う。


 クロが向こう側から棚を押した。


 リナもこちら側から押す。


 二人ではない。


 一人と一匹。


 間にあった棚が、少しずつずれた。


 隙間が開く。


 クロがそこから頭を出した。


 リナは飛びつかなかった。


 まず手を伸ばした。


 クロがその手に鼻を押しつける。


 それから、リナは膝をついた。


「……よかった」


 小さな声だった。


 クロは鼻を鳴らした。


 分かっている。


 そういう顔だった。


 ニコは木札を握ったまま、壁に背を預けて座り込んだ。


 倒れてはいない。


 肩で息をしている。


 だが、目は開いている。


 伊織は近づいた。


「立てるか」


「少し待てば」


「座ってろ」


「はい」


 ニコは木札を見た。


「今の音」


「ああ」


「トトの音でした」


「そうだな」


「真似したつもりは、なかったんですけど」


「届いた」


 ニコは小さく頷いた。


「なら、よかったです」


 その言葉は、前よりも少しだけ強く聞こえた。



 支配核は、壁の中にあった。


 黒い歯車は小さい。


 だが、昨日より精密だった。


 壁の古い釘。


 棚の留め具。


 廊下の金具。


 それらを使い、通路を閉じるためだけに組まれていた。


 殺すためではない。


 眠らせるためでもない。


 遅らせるため。


 分けるため。


 声を届かなくするため。


 アリアは布越しに、砕けた核を見ていた。


 表情が変わる。


「どうした」


 伊織が聞く。


 アリアは歯車の一部を見せた。


 そこに、小さなくぼみがあった。


 指で押したような、浅い跡。


 黒い油に混じって、わずかに艶が違う。


「これは、遠隔で刻んだものではありません」


「直接か」


「はい」


 アリアは布を少し近づける。


 触れない。


 ただ、魔力の残りを読む。


「温度が、まだ少し残っています」


 廊下が静かになった。


 ガルドの顔から笑いが消える。


 リナがクロの首に手を回す。


 ヴォルフが壁から背を離した。


「近くにいたのか」


 伊織が言う。


「少なくとも、この核はそう遠くない時間に仕込まれています」


「見ていたな」


「はい」


 アリアは頷いた。


「おそらく」


 伊織は廊下の奥を見る。


 誰もいない。


 だが、さっきまでいた気配だけが、壁の冷たさに残っているようだった。


 ヴァルターは出てこない。


 声もない。


 黒い外套もない。


 だが、近づいている。


 観察から、測定へ。


 測定から、本物へ。


 そして今度は、間を切りに来た。


 人が動く場所を。


 声が届くまでの距離を。


 誰かが誰かのもとへ向かう途中を。


 アリアは歯車の傷を見た。


 縦に一本。


 斜めに二本。


 その横に、細い線。


 結び目ではない。


 点と点の間に刻まれた線。


 伊織は黙っていた。


 リナとクロが、まだ廊下の途中にいる。


 ニコが木札を握って座っている。


 ガルドが木槌を肩に戻す。


 ヴォルフは伊織を見た。


「動くな、と言いたいがな」


 伊織は何も言わなかった。


「それじゃ守れん時もある」


 右手の感覚は、まだ少し遅れていた。


 伊織は廊下の奥を見た。


 治癒室。


 食堂。


 井戸。


 そのあいだに、いくつもの線がある。


 動かなければ、届かない。


 動けば、切られる。


 なら。


 伊織は答えを出さなかった。


 ただ、胸の奥で、鋼鉄の形がひとつ沈んだ。


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