第27話 最初の本物
朝のギルドは、動きが変わっていた。
誰かが大声で命令したわけではない。
ただ、人の流れが少し違う。
井戸へ向かう者は二人。
治癒室へ入る者も二人。
食堂裏口には、青い線の入った紙片。
廊下の壁には、少し大きく書き直された注意書き。
黒鎖針に注意。
支配核に注意。
不審な匂いに注意。
ひとりで行かない。
その最後の一行は、昨日よりも濃かった。
リナの字だ。
伊織はそれを見てから、廊下の中央に立った。
ここなら、食堂にも、治癒室にも、井戸へ向かう裏口にも動ける。
前に出すぎない位置。
待つ位置。
あまり好きな位置ではない。
だが、必要な位置だった。
アリアは治癒室前の検知印を確認していた。
清潔な白い袖。
焦げ跡はもうない。
その代わり、手首には薄い布が巻かれている。
火傷の跡を隠すためではない。
作業中に擦らないためだと本人は言った。
伊織はそれ以上聞かなかった。
「色は」
「変化なしです」
アリアは紙片に触れず、近くで目を細めた。
「まだ正常です」
「まだ、か」
「はい」
アリアは顔を上げる。
「今日は来ると思います」
「理由は」
「昨日は測定でした。測ったなら、次は使います」
「そうだな」
短い会話。
そこに、不安はあった。
だが、慌てはない。
アリアも、それを分かっている顔だった。
食堂側では、ニコが木札を首から下げていた。
連絡係。
走らないための札。
声を出すための札。
本人はまだ少し照れくさそうだが、昨日より背筋が伸びている。
リナがその横で、クロの首筋を撫でていた。
「ニコ、今日は倒れないでね」
「倒れたくて倒れたわけじゃありません」
「分かってる」
「リナさんも、一人で走らないでください」
「分かってるって」
「本当ですか」
「昨日も聞いたよ、それ」
「昨日も怪しかったので」
リナは少し口を尖らせた。
クロが鼻を鳴らす。
ニコの味方らしい。
ガルドは食堂裏の方にいた。
木槌を肩に担いでいる。
もう文句を言わなくなった。
それでも、顔はまだ少し不満そうだった。
ヴォルフは井戸へ続く小道側に立っている。
動いていない。
だが、全体を見ていた。
エルナは食堂の入口で、職員に確認事項を伝えている。
誰がどこへ行くか。
誰と組むか。
誰が声を聞いたら止まるか。
昨日までより、ギルドは少しだけ固くなった。
だが、息苦しくはない。
線が引かれたからだ。
どこへ行けばいいか。
誰を呼べばいいか。
分からないまま立ち尽くす時間が減った。
それだけで、人は少し動ける。
治癒室の中では、リナがミナとトトに木札を渡していた。
「これは、声が出ない時に落とすやつ」
リナが言った。
「落とす?」
ミナが聞く。
「そう。床に落とすと音がする。叩いてもいい」
トトは小さな木札を両手で受け取った。
薄い板。
紐がついている。
首から下げるには軽い。
手で握るには、少しだけ硬い。
トトはそれを見つめた。
リナが少し身をかがめる。
「声、無理に出さなくていいよ」
トトがリナを見る。
「音でいい。落とせばいい。叩けばいい。クロが気づく。私も気づく。イオリさんも、たぶんすごい顔して来る」
ミナが少し笑った。
トトも、ほんの少しだけ笑った。
リナは満足そうに頷く。
「それで仕事になる」
治癒室の入口で、伊織はそれを聞いていた。
トトがこちらを見る。
伊織は頷いた。
「落とせ」
トトは木札を握りしめた。
声にはならない。
だが、頷いた。
◆
最初の異変は、昼前に起きた。
場所は、井戸へ続く小道だった。
中庭から井戸へ向かう道。
昨日、目印の縄を張った場所。
その縄が、切れていた。
ただ切れていたのではない。
縄の切り口が、すべて同じ角度だった。
斜めに、細く、正確に。
乱暴に断たれたものではない。
測るために切ったような角度だった。
最初に見つけたのは、井戸の水を汲みに来た職員だった。
その職員は立ち止まった。
触らなかった。
一人で近づかなかった。
昨日までなら、縄を拾っていたかもしれない。
今日は違った。
「縄が切れてます!」
声が上がる。
ニコが反応した。
立ち上がる。
リナも動きかけた。
だが、今度はリナ自身が止まった。
一拍。
クロを見る。
ニコを見る。
ニコが息を吸った。
「井戸小道! 印が変わりました! 近づかないで!」
声は昨日より短かった。
まだ少し震えている。
だが、届いた。
食堂の椅子が引かれる。
エルナが手を上げる。
「井戸側へ近づかないでください。食堂内で待機」
ガルドが食堂裏から顔を出す。
「俺は?」
ヴォルフが低く言った。
「動くな。食堂裏を空けるな」
「了解」
ガルドは不満そうにしながらも、戻った。
伊織は走り出しかけた。
だが、足を止める。
全員で走るな。
ヴォルフの声が頭に残っていた。
「ヴォルフ」
「俺が見る」
「リナ、クロ」
「行く」
「一人で行くな」
「クロがいる」
「ニコも声を続けろ」
「はい!」
伊織はアリアを見る。
アリアは検知印を持っていた。
「私も行きます」
「ああ」
伊織とアリアは、井戸小道へ向かった。
走りすぎない。
だが、遅くもない。
そこに着いた時、ヴォルフはすでに縄の手前に立っていた。
触れていない。
片目だけで、切り口を見ている。
リナとクロは距離を置いて匂いを取っていた。
「匂いは」
伊織が聞く。
「ある」
リナは小さく答えた。
「でも、薄い。黒鎖針ほど強くない。焦げた石と……乾いた油。あと、金属を削った匂い」
アリアが検知印を近づける。
青い線が、わずかに黒ずんだ。
「本物です」
「黒鎖針か」
「違います」
アリアは目を細めた。
「微細な支配核の破片です。針ではありません。人を眠らせるためのものではない」
「何のためだ」
「遅らせるためです」
伊織は縄を見る。
切られた縄。
変色した印。
全員の足を一瞬止める。
人を集める。
視線を向けさせる。
伊織は治癒室の方を見た。
「陽動か」
アリアの顔が変わった。
「可能性が――」
乾いた音が、廊下の奥から響いた。
かん、と。
一度。
続けて、二度。
かん。
かん。
治癒室の方だった。
トトの木札。
伊織は振り返った。
「治癒室!」
今度は走った。
◆
治癒室の中で、最初に音に気づいたのはトトだった。
ミナは薬草の匂い袋を畳んでいた。
ニコは寝台の端に座り、肩の布を直していた。
トトは木札を握っていた。
最初の音は、寝台の下からした。
ことり。
誰かが物を落とした音ではない。
寝台の留め具が、ひとりでに動いた音だった。
トトは顔を上げた。
次に、窓枠から乾いた音がした。
釘が一本、ほんの少し浮いた。
かちり。
扉の金具が噛み合う。
閉じようとしている。
部屋そのものが、内側から口を閉じようとしていた。
ミナが気づいた。
「何?」
トトは声を出そうとした。
喉が震えた。
音にはならなかった。
だから、木札を落とした。
かん。
床に当たる。
もう一度拾おうとして、手が震える。
拾えない。
トトは足で木札を押した。
かん。
もう一度。
ニコが顔を上げた。
「外に知らせる」
ニコは立ち上がろうとして、ふらついた。
肩に痛みが走る。
だが、声は出した。
「治癒室! 扉が――」
その声とほぼ同時に、扉の金具がさらに噛み合った。
ぎ、と音がした。
閉じる。
内側から。
逃げ道を塞ぐように。
ミナがトトの手を握る。
トトは木札を見た。
落としたままの木札。
仕事はした。
そう思ったのかもしれない。
だが、顔は青かった。
◆
伊織が治癒室前に着いた時、扉は半分閉じかけていた。
誰かが押しているのではない。
金具が勝手に噛み合っている。
扉の縁に残った金属片。
窓枠の釘。
寝台の留め具。
治癒道具の細い針金。
それらが、細い黒い線に引かれている。
伊織は銃を出さなかった。
撃てない。
中に子供がいる。
ニコがいる。
治癒道具がある。
火薬も使えない。
黒鋼警棒では遅い。
扉は閉じている。
隙間が消える。
アイギス。
伊織の右手に、黒い薄板が生まれた。
軽い。
不壊。
ただし、受けた力の分だけ魔力を削る盾。
伊織はそれを扉の隙間へ差し込んだ。
黒い盾が、扉と枠の間に噛む。
次の瞬間、重い圧力が来た。
扉が閉じようとする力。
部屋の金具が、全て同じ方向へ動く力。
アイギスがそれを受ける。
伊織の右手が冷えた。
骨の奥まで。
「くっ」
声が漏れる。
押し返すのではない。
止める。
隙間を保つ。
それだけなのに、魔力が削られていく。
アリアが追いついた。
リナとクロも来る。
ガルドが食堂側から駆け込んでくる。
「どうする!」
「中に子供がいる。壊すな」
「分かってる!」
ガルドは木槌を握り直した。
リナが匂いを取る。
「扉じゃない。横。壁の下」
クロが低く唸り、治癒室の外壁沿いへ走る。
アリアは扉の金具を見た。
「支配核は外側にあります。内側の金属へ線だけ通している」
「位置は」
「クロとリナが追っています」
指先の感覚が遠くなった。
握っているはずの盾の縁が、少しずつ自分のものではなくなっていく。
アイギスにかかる力が増した。
扉の隙間が狭くなる。
中からミナの声がした。
「イオリ!」
「離れてろ!」
「トトが……」
「離れろ!」
ミナの気配が下がる。
トトの木札が、床で小さく鳴った。
かん。
伊織は奥歯を噛んだ。
守る。
閉じさせない。
隔離させない。
背中の布が、かすかに擦れた。
熱ではない。
けれど、そこだけ冷えが止まった。
アリアだった。
何も言わない。
伊織も、振り向かなかった。
一・八秒。
数えなくても、分かった。
アリアの魔力が、背中から右腕へ薄く流れる。
補うのではない。
支える。
アイギスの縁が、わずかに安定した。
扉の圧力を受ける黒い薄板が、震えを止める。
「線を切ります」
アリアが言った。
短い。
それだけ。
伊織は答えなかった。
答える余裕はない。
だが、背中で聞いていた。
アリアの指先が動く。
魔法陣は大きくない。
狙うのは、扉ではない。
扉を動かしている黒い線。
アリアの風が、細く走った。
リナが叫ぶ。
「右下! 木箱の裏!」
指先が震えていた。
それでも、示した場所はぶれなかった。
クロが吠えた。
ガルドが走る。
木箱を蹴り飛ばす。
その奥に、小さな黒い歯車があった。
壁の古い釘に噛み、そこから細い金属線を治癒室へ伸ばしている。
ガルドが木槌を振り上げる。
「これか!」
「支点を!」
伊織が叫ぶ。
「本体じゃない! 噛んでる釘ごと砕け!」
「おう!」
木槌が落ちた。
釘ごと、壁の石が割れる。
黒い歯車が揺らぐ。
同時に、アリアの風が金属線を切った。
ぱきん。
乾いた音。
扉の圧力が抜ける。
アイギスにかかっていた重さが消えた。
伊織は一歩、前につんのめった。
アリアの手が背中に残る。
支えたのは、魔力だけではなかった。
伊織は盾を消し、扉を押し開けた。
治癒室の中。
ミナがトトの手を握っている。
トトは床の木札を見ていた。
ニコが寝台の端に立ち、肩を押さえている。
顔色は悪い。
だが、目は開いていた。
全員、生きている。
伊織は息を吐いた。
「怪我は」
ミナが首を横に振る。
「ない」
ニコも頷いた。
「大丈夫です」
トトは声を出せなかった。
ただ、木札を指差した。
伊織はそれを見る。
床に落ちた小さな札。
その音が、治癒室を守った。
「よくやった」
伊織は言った。
トトは目を見開いた。
それから、ほんの少しだけ頷いた。
ミナがトトの手を握り直した。
リナが治癒室に飛び込みかけて、入口で止まった。
一人で行かない。
そう言われたばかりだからだ。
クロが先に入る。
リナはその後に続いた。
「トト!」
トトはリナを見た。
泣いてはいない。
けれど、唇が震えていた。
リナはしゃがみ、トトの目線に合わせる。
「音、聞こえた」
トトは小さく頷いた。
「すごく、聞こえた」
トトはもう一度、頷いた。
クロがトトの膝に鼻を押しつける。
トトはその頭に、そっと手を置いた。
◆
支配核は砕けていた。
ガルドの一撃で、外側の支点ごと壊れている。
だが、中心部の一部だけが残っていた。
小さな歯車。
黒い油の匂い。
そこに、傷がある。
アリアはそれを布に乗せて見ていた。
伊織は右手を握った。
まだ冷たい。
アイギスで受けた分の魔力が削られている。
ただ、立てないほどではない。
アリアがそれに気づいている。
だが、今は何も言わない。
それでよかった。
「どうだ」
伊織が聞く。
アリアは歯車を見たまま答えた。
「ヴァルターの印です」
縦に一本。
斜めに二本。
そして、小さな点が三つ。
前とは違う。
点が増えている。
「三つ」
リナが言った。
「はい」
アリアは頷いた。
「次は、一つではありません」
ガルドが舌打ちする。
「同時に来るってことか」
「可能性が高いです」
ヴォルフが静かに言った。
「今日は一つ目か」
「最初の本物、ですね」
アリアが言う。
その声は硬かった。
偽物ではなかった。
測定でもなかった。
今度は、本当に閉じに来た。
治癒室を。
子供たちを。
倒れた者を。
伊織は治癒室の扉を見た。
中では、ミナがトトの手を握っている。
トトは、落とした木札をまだ拾えずにいた。
ニコが青い顔で、廊下に立っている。
リナはクロの首に腕を回していた。
誰も、何も言わなかった。
伊織は右手を握ろうとした。
指先は、まだ少し遅れた。
結び目は、まだ解けていない。
だが、次にかかる力は、一つではない。




