第25話 目を覚ました者
ニコが目を覚ましたのは、昼前だった。
治癒室の天井が見える。
木の梁。
白い布。
窓から入る、薄い光。
しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
肩が重い。
喉が乾いている。
体の奥に、眠りの残りが沈んでいた。
ニコはまばたきをした。
そして、思い出した。
井戸。
石畳の隙間。
黒い鎖片。
声を上げようとしたこと。
肩に、何かが刺さったこと。
「気がついたか」
低い声がした。
部屋の隅に、ヴォルフが座っていた。
片目の老ハンター。
椅子に腰を下ろし、腕を組んでいる。
眠っていたようにも見えた。
だが、たぶん違う。
この男は、眠っているような顔で周囲を見ている。
ニコは、そう思った。
「……ヴォルフさん」
「無理に起きるな」
ニコは身体を起こそうとして、肩の痛みに顔をしかめた。
ヴォルフの言う通り、起きるのはやめた。
天井を見たまま、最初に聞いた。
「井戸は」
ヴォルフは少しだけ目を細めた。
「無事だ」
「水は」
「汚されていない」
ニコは息を吐いた。
自分でも分かるくらい、深く。
「よかった」
ヴォルフはしばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「お前のおかげだ」
ニコは目を動かした。
「僕、針にやられました」
「ああ」
「倒れました」
「ああ」
「役に立てたんですか」
ヴォルフは椅子から立った。
寝台の横まで来る。
大きな影が、白い布の上に落ちた。
「倒れる前に声を出した」
「でも」
「それで井戸が止まった」
ニコは言葉を失った。
ヴォルフは続けた。
「礼は、お前が言われる側だ」
「礼……ですか」
「そうだ」
ニコは目を伏せた。
少しだけ笑おうとして、失敗した顔になった。
「すみません。変な感じです」
「慣れろ」
「慣れるものですか」
「何度かやればな」
「何度も眠らされるのは嫌です」
「なら、次は倒れる前に逃げろ」
ニコは小さく息を吐いた。
今度は、少し笑えた。
「はい」
ヴォルフは頷いた。
「それでいい」
扉が軽く叩かれた。
ヴォルフが振り向く。
伊織が入ってきた。
後ろにはリナもいる。
リナの耳は少し下がっていた。
クロは扉の外で伏せている。
治癒室に入ると邪魔になると分かっている顔だった。
「起きたか」
伊織が言う。
「はい」
ニコは慌てて起きようとした。
伊織が手で制した。
「そのままでいい」
「でも」
「寝てろ」
「……はい」
伊織は寝台の横に立った。
短い沈黙。
ニコは少し緊張した。
元の世界のことは知らない。
だが、伊織が戦う人間だということは分かる。
その人が、まっすぐこちらを見ている。
「井戸を守ったな」
伊織は言った。
ニコは目を丸くした。
「僕が、ですか」
「ああ」
「でも、僕は」
「声を上げた」
「それだけです」
「それでいい」
伊織の声は、いつも通り短かった。
だが、軽くはなかった。
「戦えなくても、守れることはある」
ニコは黙った。
リナが寝台の横へ来た。
「目、覚めてよかった」
「リナさん」
「よかった。本当に」
リナはそう言ってから、少し黙った。
耳がさらに下がる。
「私、井戸の見回り、もっと早く回せばよかった」
ニコは首を横に振った。
「違います」
「でも」
「僕が一人で行ったから」
リナが顔を上げる。
「一人で?」
「はい」
ニコは視線を落とした。
「エルナさんの注意書き、読んでました。黒い鎖片を見たら触るなって。でも、もう一つ」
「もう一つ?」
「リナさんが書き足したやつ」
リナの耳がぴんと立った。
「ひとりで行かない?」
ニコは苦笑した。
「はい。あれ、ちゃんと読んでなかったです」
リナはしばらくニコを見ていた。
怒るかと思った。
だが、リナは怒らなかった。
少し困ったように笑った。
「じゃあ、次から読んで」
「はい」
「声を出す前に、人も呼んで」
「はい」
「眠らされる前に」
「できれば、そうしたいです」
リナは小さく笑った。
ニコも、少し笑った。
伊織はそのやり取りを聞いていた。
ひとりで行かない。
昨夜、壁に書かれた小さな言葉。
リナの落書きのような注意書き。
それが、もうただの落書きではなくなっていた。
ルールになった。
線になった。
ニコは小さく息を吐く。
「でも、井戸が無事でよかった」
「ああ」
伊織が答えた。
「お前が声を出したからだ」
ニコは少しだけ目を伏せた。
「……なら、よかったです」
その言葉は弱かった。
けれど、確かだった。
◆
治癒室を出ると、廊下の壁に例の注意書きが貼られていた。
黒鎖針に注意。
支配核に注意。
不審な匂いに注意。
ひとりで行かない。
最後の一行だけ、少し文字が丸い。
リナの字だった。
リナはその前で立ち止まった。
「もう少し大きく書こうかな」
「そうしろ」
伊織が言った。
「本当に?」
「ああ」
「怒らない?」
「必要だ」
リナは少しだけ笑った。
「じゃあ、もっと大きく書く」
クロが鼻を鳴らした。
賛成らしい。
伊織は注意書きを見た。
ひとりで行かない。
簡単な言葉。
だが、ニコはそこを読み落とした。
その結果、倒れた。
それでも、声を上げた。
だから井戸は守られた。
完全ではない。
だが、無意味でもない。
倒れた者も、線の一部だった。
伊織はそう思った。
言葉にはしなかった。
言葉にすると、少し整いすぎる気がした。
リナがこちらを見る。
「イオリさん」
「何だ」
「ニコ、役に立ったよね」
「ああ」
「戦えないけど」
「ああ」
「私も、最初は戦えなかった」
「今も前に出るな」
「分かってる」
リナは少し口を尖らせた。
「でも、匂いは分かる」
「ああ」
「ニコは声を出した」
「ああ」
「クロは噛む」
クロが低く鳴った。
少し誇らしげだった。
「アリアさんは解析する」
「ああ」
「ガルドさんは木槌」
「本人には言うな」
「言う」
「やめろ」
リナは笑った。
クロも鼻を鳴らした。
廊下の空気が、少しだけ軽くなった。
だが、伊織の右手はまだ冷えている。
ヴァルターは終わっていない。
むしろ、こちらをさらに見ている。
誰が動き、誰が倒れ、誰が声を上げるか。
それを見て、次の手を決める男だ。
だから、気を緩めるわけにはいかない。
けれど、ニコが目を覚ました。
それは、確かに救いだった。
◆
午後、アリアは地下の保管室にいた。
一人ではない。
伊織がいる。
クロもいる。
リナも、鼻元に布を当てて少し離れた場所に立っている。
ガルドは扉の外。
ヴォルフは廊下の曲がり角。
昨日決めた条件は、そのまま残っていた。
アリアはそれを破らなかった。
伊織も、破らせなかった。
机の上には、ヴァルターが残した傷入りの歯車。
そして、井戸脇から回収した黒鎖針の欠片。
アリアは薄いガラス越しに、それらを見ている。
「始めます」
「ああ」
「今回は、深くは読みません」
「どこまでだ」
「表面の残留だけです。昨日のような術式展開までは開きません」
「半秒」
伊織が言った。
アリアが少しだけ眉を上げる。
「一秒ではなく?」
「昨日は一秒で来た」
「そうですね」
「次は半秒だ」
「分かりました」
アリアは指先を上げた。
「数えますか」
「ああ」
リナが小さく笑った。
「それ、合図みたいになってる」
「合図だ」
伊織は言った。
アリアは否定しなかった。
魔力がガラス越しに歯車へ触れる。
薄い光。
焦げた石の匂い。
濡れた鉄に似た匂い。
リナの耳が動く。
「昨日より薄い」
アリアが頷く。
「残留だけです」
伊織は数える。
半秒。
「切れ」
アリアは魔力を切った。
光は消えた。
何も起きない。
部屋にいる全員が、わずかに息を吐いた。
「読めたか」
「少しだけ」
アリアは紙に簡単な線を書く。
縦線。
そこから斜めに伸びる線。
もう一つ、横へ伸びる短い線。
「これは、場所を示す印ではありません」
「違うのか」
「はい。どちらかというと、関係を示しています」
「関係?」
「線と線が結ばれる点。集まる場所。支点」
リナが首を傾げる。
「支点って?」
「支える場所です」
アリアは言った。
「昨日まで、ヴァルターは支える手を狙うと言いました。ですが、こちらがそれを複数に分けた。なら次は、その手が集まる場所を見ます」
伊織は黙った。
ヴァルターの考え方が、少しだけ見える。
嫌な見え方だった。
アリアは紙にもう一つ線を引いた。
「まだ、具体的な場所は分かりません。ただ、ギルド内か、その周辺です」
「食堂か」
伊織が言う。
「可能性はあります」
「治癒室は」
「あります」
その言葉で、リナの顔が変わった。
治癒室。
ミナ。
トト。
ニコ。
怪我人と子供が集まる場所。
守るべきものが集まる場所。
同時に、支える側も何度も足を運ぶ場所。
線を結ぶ場所。
アリアは続けた。
「ただし、断定はできません。ここで決め打ちすると、また選ばされます」
「なら、どうする」
「候補を絞りすぎない。食堂、治癒室、井戸、東倉庫。そこを結ぶ動線を見る必要があります」
ヴォルフの声が扉の外から響いた。
「防衛準備だな」
「はい」
アリアが答える。
「ただ、詳細は全員で決めるべきです。ここで急ぐと、ヴァルターの思う壺です」
伊織は頷いた。
すぐに動きたくなる。
だが、動けば読まれる。
だから、まず共有する。
一人で決めない。
「夕方に集める」
伊織は言った。
「食堂でいいですか」
アリアが聞く。
「食堂は人が集まりすぎる」
「では、ギルド裏の中庭」
「そこだ」
リナが小さく手を上げた。
「私も?」
「ああ」
「ニコは?」
伊織は少し考えた。
「起きていられるなら、少しだけ」
リナの目が明るくなった。
「うん。聞いてくる」
「走るな」
「分かってる」
リナはそう言って、少し早足で出て行った。
クロがその後を追おうとして、伊織を見た。
「行け」
クロは鼻を鳴らし、リナについていった。
アリアがその背中を見送る。
「倒れた人も、会議に入れるんですね」
「本人が来られるならな」
「良いと思います」
「そうか」
「はい」
アリアは紙を畳んだ。
「線の一部ですから」
伊織は何も言わなかった。
ただ、頷いた。
◆
夕方までの間に、リナが小さなものを見つけた。
場所は、ギルドの裏手ではない。
井戸でもない。
東倉庫でもない。
治癒室へ向かう裏路地。
石壁の隙間に、黒い鎖の切れ端が刺さっていた。
リナは一人で行かなかった。
クロを連れ、近くの職員を呼んだ。
それから伊織を呼んだ。
その順番を守った。
伊織が来た時、リナは壁から一歩離れて立っていた。
「触ってない」
「よくやった」
「書いてあったから」
リナは少しだけ笑った。
ひとりで行かない。
その言葉は、もう効いていた。
伊織は壁を見る。
黒い鎖の切れ端。
ヴァルターの支配核とは違う。
黒鎖針とも違う。
もっと荒い。
裂け目が粗く、切断面に妙な力の癖がある。
自分から千切ったような跡。
アリアが遅れてやってきた。
ガラスの小瓶を持っている。
彼女は鎖片を見て、すぐに言った。
「ゼクトです」
「分かるのか」
「彼の鎖は、切断面に癖があります。外から切られたのではなく、自分で切った跡です」
「警告か」
伊織が聞く。
アリアは鎖片の根元を見る。
そこに、小さな傷があった。
縦に一本。
横に短く一本。
ヴァルターの印とは違う。
もっと乱暴で、雑だ。
だが、方向だけは分かる。
治癒室の方へ向いていた。
「いえ」
アリアは言った。
「指差しでしょう」
「指差し」
「はい。あちらを見ろ、ということです」
リナが治癒室の方を見る。
「ゼクト、味方なの?」
「違う」
伊織は即答した。
アリアも頷いた。
「味方ではありません。ただ、ヴァルターのやり方を嫌っている」
「じゃあ、なんで教えるの」
リナが聞く。
伊織は鎖片を見た。
ゼクトの顔が浮かぶ。
軽口。
黒鎖。
笑っているのに、目だけ笑っていない男。
「気に食わないからだろう」
「それだけ?」
「たぶん」
リナは少し考えた。
「変な人」
「ああ」
クロが鼻を鳴らした。
同意らしい。
伊織は鎖片を瓶へ入れた。
治癒室の方へ視線を向ける。
ミナ。
トト。
ニコ。
怪我人。
子供。
倒れた者。
声を上げた者。
そこは、守るべきものが集まる場所だった。
同時に、誰かが誰かを支える場所でもある。
線が結ばれる場所。
ヴァルターが次に見るなら。
そこかもしれない。
「決めつけるな」
伊織は自分に言うように呟いた。
アリアが頷いた。
「はい。ですが、候補には入ります」
「ああ」
リナが小さく言った。
「守らないと」
「ああ」
「でも、一人で行かない」
「ああ」
リナは強く頷いた。
「分かった」
◆
中庭に人が集まったのは、夕暮れ前だった。
大人数ではない。
伊織。
アリア。
リナ。
ガルド。
エルナ。
ヴォルフ。
そして、寝台から起きられるようになったニコ。
肩には布が巻かれている。
まだ顔色は白い。
だが、自分の足で立っていた。
「無理するな」
伊織が言うと、ニコは少し笑った。
「座って聞きます」
ヴォルフが椅子を出した。
「倒れたら面倒だ」
「はい」
ニコは素直に座った。
リナがその隣に立つ。
クロは二人の足元に伏せた。
アリアは机の上に紙を広げる。
ギルドの簡単な見取り図。
食堂。
治癒室。
井戸。
東倉庫。
裏路地。
中庭。
線で結ぶ。
人が行き来する道。
物が運ばれる道。
怪我人が運ばれる道。
子供たちが通る道。
線が重なる場所が、いくつかあった。
その一つが、治癒室前の廊下だった。
もう一つが、食堂の裏口。
そして、中庭から井戸へ続く小道。
「ここから先は、明日決めましょう」
アリアは言った。
「今日は、候補を確認するだけです」
ガルドが腕を組む。
「珍しいな。すぐ決めないのか」
「決め急ぐと、選ばされます」
伊織が答えた。
ガルドは少し笑った。
「なるほどな」
ヴォルフが頷く。
「悪くない。考える時間を作るのも、防衛だ」
エルナが紙に印をつける。
「人の移動を明日から少し変えます。治癒室へ行く時は二人一組。井戸は時間を決めて確認。東倉庫は閉鎖」
ニコが小さく手を上げた。
「僕は」
全員がニコを見る。
ニコは少し緊張した顔をした。
「何かできますか」
リナが何か言おうとする。
だが、ヴォルフが先に言った。
「声を出せ」
ニコは目を瞬かせる。
「声、ですか」
「お前の役目だ」
ヴォルフは短く言った。
「見つけたら触らない。走らない。一人で行かない。声を出す」
ニコは少しだけ笑った。
「はい」
リナが頷く。
「私も呼ぶ」
「お願いします」
「こっちも」
ニコとリナが短く笑う。
伊織はそれを見ていた。
倒れた者も、線の一部だった。
そして、目を覚ました者は、また線に戻る。
無理に前へ出るのではない。
自分の場所で、声を出す。
それでいい。
アリアが伊織を見る。
「東さん」
「何だ」
「次は、準備ですね」
「ああ」
「一人で決めませんね」
「ああ」
「本当に?」
「本当だ」
アリアは満足したように頷いた。
伊織は見取り図を見る。
線が重なっている。
そこに、ヴァルターは来る。
たぶん。
だが、今度はこちらも見ている。
誰か一人ではない。
声を出したニコも。
匂いを拾うリナも。
牙を持つクロも。
木槌を握るガルドも。
紙に印をつけるエルナも。
黙って全体を見るヴォルフも。
そして、隣に立つアリアも。
全員が、線の一部だった。
夕暮れの光が、中庭に落ちている。
ギルドの壁に貼られた注意書きが、風で少し揺れた。
ひとりで行かない。
伊織はその文字を見た。
それから、静かに頷いた。
「明日、準備を始める」
誰も異を唱えなかった。
戦いは、まだ終わっていない。
だが、目を覚ました者がいた。
声を上げた者がいた。
それだけで、今日の線は切れなかった。




