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第24話 支える手

 朝のギルドは、いつもより静かだった。


 騒がしいはずの食堂にも、声の大きいハンターは少ない。


 木の椀が置かれる音。

 椅子を引く音。

 誰かが小さく咳をする音。


 それだけが、妙にはっきり聞こえた。


 昨夜、旧水路跡から持ち帰ったものが、机の上に並べられていた。


 壊れた中継核。


 未完成の黒鎖針。


 黒い歯車。


 ヴァルターが去り際に残した、傷の入った小さな歯車。


 アリアはそれを、布の上に置いて見ていた。


 焦げた袖は、もうない。


 清潔な白い袖に替わっている。


 それだけで、昨日より少し遠くに来たように見えた。


 だが、伊織にはまだ、あの焦げ跡が見えている気がした。


「傷は」


 伊織が聞くと、アリアは歯車から目を離さず答えた。


「腕の火傷なら、問題ありません」


「頭痛は」


「軽くなりました」


「軽く」


「はい」


「残っているのか」


 アリアは少しだけ沈黙した。


「少しだけ」


「それは」


「大丈夫とは違う、ですね」


 先に言われた。


 伊織は黙った。


 アリアは小さく笑った。


「覚えました」


「便利だな」


「不便です」


 アリアはそう言って、黒い歯車を指先で回した。


 歯車の中央には、細い傷がある。


 ただの傷ではない。


 何かの記号のように見える。


 縦に一本。


 そこから、斜めに二本。


 簡単な印。


 だが、妙に目に残る。


「何か分かるか」


「これ自体は、支配核ではありません」


 アリアは言った。


「命令を流すための歯は削られています。金属線もない。つまり、構造兵器の心臓としては使えません」


「なら、なぜ残した」


「目印です」


「目印?」


「おそらく、ヴァルターからの」


 アリアは傷をなぞる。


「この傷は、ただの損傷ではありません。術式の一部です。完全には読めませんが、意味はあります」


「罠か」


「罠か、警告か、あるいは観察の継続か」


 ヴォルフが腕を組み、低く唸った。


「気味が悪いな」


 ガルドは壁に寄りかかっていた。


 まだ木槌を持っている。


 本人は嫌そうだが、もう大斧を持とうとはしなかった。


「俺なら敵に物を残す時は、爆発するか、毒が出るか、殴るかのどれかだ」


「物騒ですね」


 エルナが言った。


「普通だろ」


「普通ではありません」


「そうか?」


 リナは少し離れたところで、黒鎖針の瓶を見ていた。


 鼻を近づけないよう、アリアに言われた距離を守っている。


 クロはその横で座り、瓶を睨んでいた。


 ミナとトトは治癒室にいる。


 今朝は、よく眠っていた。


 それだけで、少し救われる。


 アリアは歯車を布で包んだ。


「この印は、私宛てかもしれません」


 室内の空気が、ほんの少し変わった。


 伊織はアリアを見た。


「なぜそう思う」


「旧水路跡で、ヴァルターは言いました」


 アリアの声は静かだった。


「折るなら、鋼鉄ではなく、支える手からだと」


 その言葉を聞くだけで、伊織の右手が冷える。


 アリアは続けた。


「この歯車には、支配核としての機能がない。けれど、術式の痕跡は残っています。おそらく、解析させるためのものです」


「お前に見せるためか」


「はい」


「触るな」


 伊織は即座に言った。


 アリアの指が止まる。


 リナも、ガルドも、ヴォルフも、伊織を見た。


 伊織は自分の声が硬かったことに気づいた。


 だが、言葉は戻せない。


「触るな。解析もするな。ヴァルターが見せたものなら、狙いはそこだ」


 アリアは伊織を見ていた。


 怒ってはいない。


 ただ、まっすぐに。


「東さん」


「何だ」


「それは、守るためですか」


「ああ」


「それとも、私を動かさないためですか」


 伊織は言葉を失った。


 アリアの声は責めていなかった。


 だからこそ、逃げ場がなかった。


 ガルドが黙る。


 リナも何も言わない。


 クロだけが、低く鼻を鳴らした。


 伊織は歯を噛みしめた。


 守る。


 そう思った。


 だが、それは相手の手を縛ることと似ている。


 違うはずだ。


 違わなければならない。


「……両方かもしれない」


 伊織は言った。


 アリアの目が少しだけ揺れた。


「正直ですね」


「上手く言えない」


「では、私も正直に言います」


 アリアは布で包んだ歯車を見た。


「私は解析します」


「アリア」


「ただし、一人ではしません。直接触れません。魔力を通す前に、隔離します。あなたにも、リナさんにも、クロにも、ヴォルフさんにも確認してもらいます」


「危険だ」


「はい」


「分かっていてやるのか」


「必要なので」


 リナが小さく言った。


「出た」


 アリアはそちらを見る。


「何か?」


「ううん。アリアさんだなって」


 アリアは少し困った顔をした。


 伊織は布に包まれた歯車を見る。


 ヴァルターはアリアを狙う。


 それは分かっている。


 なら、遠ざければいいのか。


 危険なものを見せないようにすればいいのか。


 違う。


 アリアは守られるだけの存在ではない。


 彼女は、自分の意志で戻った。


 火の中に。


 旧水路跡に。


 伊織の背中へ。


 その手を守るということは、握り潰すことではない。


 折れないように、隣に立つことだ。


「条件がある」


 伊織は言った。


「はい」


「解析中、俺もいる」


「はい」


「クロもいる」


 クロが鼻を鳴らした。


「リナも、匂いを見ろ。ただし近づきすぎるな」


「分かった」


「ガルドは扉」


「任せろ」


「ヴォルフは外の警戒を」


 ヴォルフは頷いた。


「任せろ。正面と井戸周りは、昨夜と同じ合図で回す」


「助かる」


「礼は終わってからでいい」


 アリアは少しだけ目を伏せた。


「ありがとうございます」


「礼を言われることじゃない」


「言います」


「そうか」


「はい」


 アリアは布の上から、歯車をもう一度見た。


「では、始めます」



 解析は、地下の保管室で行うことになった。


 ギルドの中で、もっとも金属が少ない部屋。


 木箱と石壁。


 床は古い石。


 窓はない。


 入口にはガルドが立った。


 手には木槌。


 本人はもう文句を言わなかった。


 リナは少し離れた位置で、布を鼻元に当てている。


 クロは部屋の隅で伏せていた。


 アリアは中央の机に、黒い歯車を置いた。


 直接触れない。


 薄いガラスの器に入れ、周囲に淡い魔法陣を描く。


 伊織はその向かいに立った。


 右手は空けている。


 何かあれば、すぐにアイギスを出せる距離。


 アリアは一度、伊織を見た。


「緊張していますか」


「している」


「珍しいですね」


「珍しくない」


「そうですか」


 アリアは小さく息を吸った。


「魔力を通します。強くはありません。表面の痕跡を読むだけです」


「分かった」


「もし、歯車が動いたら」


「止める」


「壊しても構いません」


「いいのか」


「はい。情報より、人です」


 伊織はアリアを見た。


 アリアは歯車を見ている。


 その横顔は静かだった。


 研究者の顔。


 でも、それだけではない。


 火の中から戻ってきた者の顔だった。


 アリアの指先が光る。


 淡い魔力が、ガラス越しに歯車へ触れた。


 黒い歯車の傷が、薄く光る。


 リナの耳が動いた。


「匂い、変わった」


「どう変わった」


 伊織が聞く。


「焦げた石の匂いが強い。あと……雨?」


「雨?」


「変な匂い。濡れてないのに、濡れた鉄みたいな」


 伊織の胸の奥が、かすかに沈んだ。


 雨。


 濡れた鉄。


 南条。


 だが、ここは違う。


 伊織は息を整えた。


 アリアは歯車を見つめている。


「これは……記録です」


「何の」


「魔力反応の記録。旧水路跡で観測した、東さんの鋼鉄の揺らぎ。私の同調の波形。おそらく、あの場で採られていました」


 伊織の右手が冷える。


「つまり、あいつは」


「私たちの連携を記録しています」


 ガルドが低く言った。


「気色悪い野郎だな」


 アリアの額に汗が浮く。


「まだあります」


「無理は」


「まだ大丈夫です」


 伊織が口を開く前に、アリアが続けた。


「これは本当に大丈夫です」


「……分かった」


 歯車の傷が、さらに光る。


 魔法陣の線が揺れた。


 クロが顔を上げる。


 リナが一歩下がる。


「嫌な匂い」


 アリアの目が細くなる。


「術式が開きます」


「止めるか」


「待ってください。一瞬だけ」


「アリア」


「一秒」


 伊織は止めなかった。


 アリアが一秒と言った。


 伊織はそれを数える。


 一。


 歯車の上に、小さな黒い線が浮かび上がった。


 それは地図だった。


 ダストヘイブンの簡略図。


 ギルド。

 南門。

 旧水路跡。


 そして、もう一つ。


 ギルドの東側にある小さな印。


 アリアが息を呑む。


「東倉庫」


 扉の外で、ヴォルフの声がした。


「東倉庫だと?」


 ギルドの東倉庫。


 食料や布、木材を置く場所。


 金属は少ない。


 だから、対策の優先順位は低かった。


 だが、人は出入りする。


 エルナも。

 リナも。

 子供たちも。


 伊織は歯車を見た。


 ヴァルターは次の線を示している。


 いや、見せている。


 こちらがどう動くかを、また観察するために。


 その時、歯車の傷が赤く光った。


 アリアの魔法陣が弾ける。


「下がれ!」


 伊織はアイギスを出した。


 黒い盾が、アリアと歯車の間に展開する。


 歯車から、細い黒線が伸びた。


 針ではない。


 鎖でもない。


 文字のような線。


 それが盾に触れ、ぱきん、と砕ける。


 アイギスの表面に小さな傷が走った。


 魔力が削れる。


 だが、止めた。


 アリアがすぐに魔法陣を閉じる。


 歯車の光が消えた。


 部屋に沈黙が落ちる。


 伊織は息を吐いた。


「一秒」


 アリアは言った。


「守りました」


「ギリギリだ」


「はい」


「次は半秒だ」


「……はい」


 アリアは素直に頷いた。


 リナが胸を押さえた。


「今の、何?」


「たぶん、印を付ける術式です」


 アリアは歯車を睨んだ。


「魔力の接触者に、追跡用の痕跡を残そうとした」


「お前にか」


「はい」


 伊織の声が低くなった。


「やはり罠だった」


「はい。でも、情報は取れました」


「代償が大きい」


「防げました」


「防げなかったら」


「防げるように、あなたがいました」


 伊織は黙った。


 アリアは静かに言う。


「だから、一人では解析しませんでした」


 それは反論ではなかった。


 信頼の言葉だった。


 伊織はアイギスを消した。


 右手が冷たい。


 だが、悪くない冷たさだった。


 倒れるほどではない。


 アリアが言った。


「東倉庫を確認する必要があります」


「すぐ行く」


「はい。ただし」


 アリアは伊織を見た。


「私も行きます」


 伊織は息を止めた。


 断る言葉が口まで来た。


 だが、飲み込んだ。


「分かった」


 アリアがわずかに目を見開く。


「いいんですか」


「嫌だ」


「正直ですね」


「だが、必要だ」


「はい」


「ただし、前には出るな」


「それはあなたもです」


「俺は前に出る」


「出すぎないでください」


「分かった」


「本当に?」


「……努力する」


 リナが小さく笑った。


「そこは本当って言わないんだ」


 伊織は黙った。


 クロが鼻を鳴らした。



 東倉庫は、ギルドの裏手にあった。


 夜になれば、ほとんど人は来ない。


 だが、昼間は食堂や治癒室の物資を取りに、職員が何度も出入りする。


 ヴァルターが次に狙うなら、確かに嫌な場所だった。


 そこに火をつければ、食料が失われる。


 そこに黒鎖針を仕込めば、出入りする者が眠らされる。


 そこに支配核を置けば、木材に残った釘や金具が刃になる。


 伊織たちは、倉庫の前に立った。


 伊織。

 アリア。

 リナ。

 クロ。

 ガルド。


 ヴォルフはギルド正面と井戸周りに人を回している。


 エルナは中の避難誘導。


 子供たちは治癒室から動かさない。


 今度は、全員で一ヶ所に集まらない。


 線を分ける。


 倉庫の扉は閉まっていた。


 錠前は木製に替えられている。


 蝶番も、できるだけ金属を外したはずだった。


 だが、クロが低く唸る。


 リナが鼻を動かした。


「いる」


「どこだ」


「扉じゃない。中。奥の棚」


 アリアが小さく頷く。


「魔力もあります。小さいですが、複数」


 伊織は右手を開く。


 銃ではない。


 黒鋼灯。


 それから、黒鋼警棒。


 倉庫内で撃てば危険だ。


 火薬も使わない。


 音も抑える。


「ガルド、扉」


「任せろ」


 ガルドが木槌ではなく、木製のこじ開け具を扉に差し込んだ。


 それを見て、伊織は少しだけ目を細める。


「慣れてきたな」


「うるせえ」


 扉が静かに開く。


 倉庫の中は暗かった。


 乾いた布の匂い。

 木材の匂い。

 保存食の匂い。


 その奥に、焦げた石と乾いた油の匂い。


 リナが顔をしかめる。


「やっぱりある」


 クロが低く走り出す。


 伊織も続く。


 奥の棚。


 布束の影。


 そこに、黒鎖針が三つあった。


 さらに、その下。


 小さな黒い歯車。


 棚の裏に残っていた釘へ、歯を噛ませている。


 支配核。


 伊織は警棒を握った。


「動く前に壊す」


「待ってください」


 アリアが言った。


「周囲に金属線があります。雑に壊すと、布の中に隠れた針が飛ぶかもしれません」


「解除できるか」


「できます。二秒」


 伊織はアリアを見る。


 アリアも見返した。


「数えますか」


「ああ」


「では、お願いします」


 アリアが指先を動かす。


 一秒。


 二秒。


 細い風が棚の裏へ入った。


 金属線が揺れる。


 黒鎖針の向きがずれる。


 伊織は同時に黒鋼警棒を振り下ろした。


 一撃。


 支配核が割れる。


 黒鎖針は作動しない。


 棚の裏で、乾いた音だけが鳴った。


 ガルドが低く笑う。


「お見事」


 リナが胸を撫で下ろした。


「よかった」


 クロが黒鎖針を咥えようとして、アリアに止められた。


「口で持たないでください」


 クロは不満そうに鼻を鳴らした。


 その時だった。


 倉庫の外で、鐘が鳴った。


 一度。


 二度。


 だが、緊急の鐘ではない。


 発見の合図。


 ヴォルフが昨夜決めた、黒鎖針発見時の合図だった。


 別の場所でも、何かが見つかった。


 伊織は外へ出る。


 ギルド正面の方から、ハンターが走ってきた。


「ギルド裏手の井戸脇で、黒鎖針! 一人倒れています!」


 リナの顔色が変わる。


「井戸……」


 飲み水。


 ギルドだけではない。


 街の者も使う。


 伊織の右手が冷えた。


 ヴァルターは東倉庫だけを示したのではない。


 そこへ向かわせている間に、別の線を見せた。


 だが、今回は違う。


 ヴォルフが正面に残っている。


 エルナが人を動かしている。


 リナが匂いを覚えている。


 クロが探せる。


 アリアが解除できる。


 伊織一人ではない。


「配置は崩すな」


 伊織は言った。


「リナ、井戸の匂いを確認。ただし一人で行くな。ガルドとクロを連れて行け」


「分かった」


「アリアはここで残りを確認」


「はい」


「俺はヴォルフと合流する」


 アリアが伊織を見る。


「一人で?」


「通路までだ」


「本当に?」


「本当だ」


 アリアは少しだけ迷った。


 だが、頷いた。


「分かりました」


 任せる。


 それは、簡単ではない。


 でも必要だった。


 伊織は走った。



 井戸脇の黒鎖針は、作動していた。


 ただし、最悪の形ではなかった。


 倒れていたのは、ギルドの若い職員だった。


 首ではない。


 肩に、細い針の跡がある。


 呼吸は安定している。


 眠らされているだけだ。


 エルナが全員に「黒い鎖片を見たら触るな」と徹底していたため、職員は石畳の隙間にあった欠片に気づいた。


 触れずに知らせに走ろうとした。


 その瞬間、黒鎖針が一本だけ作動した。


 それでも、彼が声を上げたおかげで、井戸周りはすぐに封鎖された。


 水には、何も入っていなかった。


 井戸そのものは守られた。


 だが、一人が倒れた。


 伊織は眠る職員を見下ろした。


 右手が冷える。


「命は」


「ある」


 ヴォルフが答えた。


「治癒師も確認した。針は浅い。睡眠薬に近いらしい」


「そうか」


 よかった。


 そう思った。


 だが、それだけでは終わらなかった。


 ヴァルターは、こちらの防衛網を試している。


 守れたか。


 どこまで守れたか。


 誰が倒れ、誰が動き、誰が遅れるか。


 それを見ている。


 リナとガルド、クロが遅れて到着した。


 リナは眠っている職員を見て、唇を噛んだ。


「私が先にいれば」


「違う」


 伊織は言った。


「お前は東倉庫に必要だった」


「でも」


「彼が声を上げた。ヴォルフが封鎖した。お前は今から匂いを確認する。それでいい」


 リナは少しだけ目を伏せた。


「……分かった」


 クロが井戸の縁を嗅ぐ。


 リナも距離を保って匂いを取る。


「水の中にはない。石畳の隙間だけ。あと、井戸の裏の木箱」


「ガルド」


「おう」


 ガルドが木箱を動かす。


 その裏に、小さな黒い歯車が噛んでいた。


 石と古い釘の隙間に、寄生するように。


 まだ作動していない。


 ヴォルフが短く舌打ちした。


「二段目か」


「そういう男だ」


 伊織は言った。


 ガルドが木槌を構える。


 リナが匂いを見て、クロが位置を示す。


 伊織は黒鋼警棒を出した。


 アリアはまだ東倉庫だ。


 だが、今はここにいる者で止める。


「リナ、針は」


「ない。これは動かす核だけ」


「クロ」


 クロが鼻を鳴らす。


 間違いない。


 伊織は一撃で支配核を砕いた。


 黒い歯車が割れる。


 何も動かなかった。


 井戸の水面は、静かなままだった。


 リナが息を吐いた。


「よかった」


「ああ」


 だが、眠る職員の存在が、その言葉を軽くはしなかった。


 防いだ。


 けれど、無傷ではない。


 伊織は職員を見た。


「助けられたな」


 リナが顔を上げる。


「え?」


「この人が声を上げたから、井戸は守れた」


「……うん」


「後で礼を言う」


 ヴォルフが頷いた。


「起きたらな」


「ああ」



 しばらくして、アリアが倉庫側から戻ってきた。


 顔色は少し悪い。


 それでも、歩き方はしっかりしていた。


「東倉庫は確認しました。残りはありません」


「無理は」


「していません」


「本当に」


「本当です」


 アリアは少しだけ笑った。


「半拍、遅れていませんでした」


「数えた」


「はい」


「そうか」


「はい」


 それから、アリアは眠る職員を見た。


 表情が引き締まる。


「針は」


「肩だ」


 伊織が答える。


「命に別状はない」


「そうですか」


 アリアは膝をつき、職員の状態を確認した。


「大丈夫です。眠りは深いですが、脈は安定しています。数時間で目を覚ますはずです」


 リナが胸を撫で下ろした。


 クロも鼻を鳴らす。


 ヴォルフが瓶の黒鎖針を見た。


「これで終わりだと思うか」


「思わない」


 伊織は答えた。


「だが、今日は防いだ」


 そこで一度、言葉を切る。


 眠る職員を見る。


「全部ではない」


 ヴォルフは頷いた。


「そうだな。今日は防いだ。だが、無傷ではない」


 その言葉は、静かだった。


 勝利ではない。


 終わりでもない。


 だが、守れた一日だった。


 伊織は井戸を見る。


 水面は暗い。


 だが、揺れていない。


 黒い針は沈んでいない。


 街の水は守られた。


 アリアが隣に立つ。


「東さん」


「何だ」


「私は、狙われていますね」


「ああ」


「怖くないとは言いません」


 伊織はアリアを見る。


 アリアは井戸を見ていた。


「ですが、何も見ない方が怖いです」


「そうか」


「はい」


 伊織はしばらく黙った。


「なら、見る時は呼べ」


「はい」


「一人で見るな」


「はい」


「俺も一人で行かない」


 アリアがこちらを見る。


 少しだけ驚いた顔だった。


「今、言いましたね」


「ああ」


「覚えておきます」


「そうしろ」


 アリアは小さく笑った。


 その笑みは、昨日より少しだけ強かった。



 夜になり、ギルドの見回りが増えた。


 井戸。

 東倉庫。

 治癒室。

 食堂の裏口。

 屋根の梁。


 黒鎖針と支配核への警戒は、街の者にも伝えられた。


 小さな黒い鎖片を見つけても触らないこと。


 焦げた石のような匂いがしたら知らせること。


 金属片が不自然に噛み込んでいたら近づかないこと。


 エルナが書いた注意書きが、ギルドの壁に貼られた。


 リナはそれを見て、少しだけ胸を張った。


「匂い担当って書いてある」


「正式な役ではありません」


 エルナが言う。


「でも書いてある」


「分かりやすさ重視です」


「じゃあ正式でいいよね」


「調子に乗らないでください」


 リナは笑った。


 クロはその下で丸くなっている。


 今日も撫でられすぎて、少し疲れているようだった。


 眠らされた職員は、治癒室で眠っている。


 命に別状はない。


 だが、その寝息は、ヴァルターが残した小さな傷だった。


 全員が無事だったわけではない。


 だからこそ、次はもっと早く見つける必要がある。


 アリアは注意書きを見ていた。


 その横に、伊織が立つ。


「支える手を狙う」


 アリアが小さく言った。


「はい?」


「ヴァルターの言葉です」


「ああ」


「私の手だけではありませんね」


 伊織は黙った。


 アリアは壁の注意書きを見た。


「リナさんの鼻。クロの牙。ガルドさんの木槌。エルナさんの注意書き。ヴォルフさんの合図。職員の声。全部、あなたを支える線です」


「そうだな」


「なら、私だけを遠ざけても意味がありません」


「ああ」


「分かりましたか」


「分かった」


「本当に?」


「本当だ」


 アリアは満足したように頷いた。


 伊織は少しだけ息を吐いた。


「でも、お前を狙うなら守る」


「はい」


「それは変わらない」


「変えなくていいです」


 アリアは静かに言った。


「私も、あなたを守ります」


 伊織は何も言えなかった。


 食堂の方から、リナの声がした。


「二人とも、また真面目な顔してる!」


 クロが鼻を鳴らす。


 ガルドが笑う。


 エルナが「廊下で立ち話をするなら椅子を使ってください」と言う。


 ヴォルフが奥から低く言った。


「立ち話が長い奴ほど、肝心な時に足が遅い」


 ガルドが笑う。


「説教が増えたな、爺さん」


「お前が減らんからだ」


 その全部が、妙に温かかった。


 伊織は壁の注意書きを見た。


 黒鎖針に注意。


 支配核に注意。


 不審な匂いに注意。


 その下に、リナが勝手に小さく書き足していた。


 ひとりで行かない。


 伊織はそれを見て、少しだけ目を細めた。


 誰が書いたかは、聞かなくても分かった。


「いい注意書きだな」


 伊織が言うと、リナが食堂から顔を出した。


「でしょ」


 アリアが少しだけ笑う。


「必要ですね」


「ああ」


 伊織は頷いた。


 ひとりで行かない。


 それは、簡単な言葉だった。


 だが、伊織にとっては難しい言葉だった。


 それでも、今なら少しだけ分かる。


 守る線は、一人で引くものではない。


 支える手は、一つではない。


 ヴァルターが切りに来るなら、こちらは結び直す。


 何度でも。


 その夜、ギルドの灯りは遅くまで消えなかった。


 戦いは続いている。


 傷も残った。


 それでも、誰も一人ではなかった。


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