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第23話 焦げた袖を脱ぐ夜

 ギルドへ戻った時、夜はすっかり街に降りていた。


 ダストヘイブンの灯りは少ない。


 油の節約なのか、夜目の利く種族が多いからなのか、通りの明かりは控えめだった。


 それでも、ギルドの窓には灯りがあった。


 食堂の窓。

 治癒室の窓。

 廊下の奥。


 いくつかの灯りが、砂を含んだ夜の中でぼんやりと揺れている。


 伊織はその灯りを見ながら、足を止めた。


 帰ってきた。


 ただ、それだけのことだった。


 だが、その言葉は、胸の奥で思ったより重かった。


 クロが先に階段を上がり、扉の前で振り返った。


 早く入れ。


 そんな顔をしている。


 ガルドが木の得物を肩から下ろし、大きく息を吐いた。


「やっと帰ってきたな」


「ああ」


「俺は二度と、こんなもんで古代水門なんか叩かねえ」


「助かった」


「そこは否定しろ」


「事実だ」


「そうかよ」


 ガルドは不満そうに言いながらも、少しだけ口元を緩めた。


 アリアは黙っていた。


 焦げた袖は、まだそのままだ。


 白かった布地の端は黒くなり、細い煤が風に揺れている。


 水路の暗がりでも見えていた。


 帰り道でも、伊織の視界の端に何度も映った。


 火の中へ戻った証拠。


 アリアが伊織の背中を支えた証拠。


 そして、二人とも戻ってきた証拠。


 アリアは扉を見上げ、少しだけ息を吐いた。


「帰ってきましたね」


「ああ」


「本当に」


「ああ」


 短い会話だった。


 それ以上は要らなかった。


 ギルドの扉が内側から開いた。


 出てきたのはリナだった。


 狸耳がぴんと立っている。


 その後ろから、ミナとトトも顔を覗かせていた。


 ミナは毛布を肩にかけている。


 トトはまだ少し顔色が悪い。


 だが、二人とも起きていた。


「遅い」


 リナは最初にそう言った。


 怒っているようにも見えた。


 泣きそうにも見えた。


 たぶん、どちらも本当だった。


「戻った」


 伊織が言うと、リナは唇を結んだ。


「知ってる。見たら分かる」


「そうか」


「そうだよ」


 リナは伊織を見た。


 次にアリアを見た。


 焦げた袖を見て、眉を寄せる。


「まだ替えてない」


「後で替えます」


 アリアが答える。


「ずっと言ってない?」


「今度こそ替えます」


「本当?」


「本当です」


 リナはじっとアリアを見た。


 それから、小さく息を吐いた。


「じゃあ、信じる。少しだけ」


「そこまで疑われることをしましたか」


「しました」


 リナとアリアが見つめ合う。


 クロが二人の間をすり抜けて、治癒室へ向かった。


 ミナがぱっと顔を明るくする。


「クロ!」


 声は小さい。


 けれど、はっきりしていた。


 クロは一瞬だけ足を止めた。


 そして、何でもないように歩いた。


 だが、尻尾が少しだけ揺れた。


 トトも手を伸ばす。


 クロは仕方なさそうに近づいた。


 ミナが頭を撫でる。


 トトも恐る恐る背中に触れる。


 クロは嫌そうな顔をした。


 でも、逃げなかった。


「人気者だな」


 伊織が言うと、クロは鼻を鳴らした。


 不本意だ。


 そう言っているようだった。


 リナが笑った。


「嬉しいくせに」


 クロは顔を逸らした。


 ミナがまた笑う。


 トトも、声にならない息だけで笑った。


 その小さな笑い声が、ギルドの入口に広がった。


 戦いの匂いが、少しだけ薄まった。



 食堂には、温かいスープが用意されていた。


 エルナが厨房に立っていたらしい。


 いつもの受付の顔ではなく、少し疲れた顔で、木の椀を並べている。


「全員分あります。先に食べてください」


 ガルドが目を丸くした。


「エルナ、お前が作ったのか」


「悪いですか」


「いや。毒が入ってないか心配で」


「入れればよかったですね」


「冗談だ」


「私も冗談です」


「目が本気だったぞ」


「気のせいです」


 ガルドは木槌を壁に立てかけ、素直に椀を受け取った。


 伊織も椀を受け取る。


 湯気が上がっていた。


 具は少ない。


 乾燥肉と豆。


 砂漠の街らしい薄い味。


 だが、温かかった。


 伊織は一口飲んだ。


 喉の奥に残っていた煙の痛みが、少しだけ和らぐ。


「熱い」


 リナが言った。


「冷ましてから飲め」


 伊織が言う。


「子供扱い?」


「火傷する」


「それはそうだけど」


 リナは椀に息を吹きかけた。


 その隣で、ミナが真似をする。


 トトも真似をする。


 三人で、ふうふうとスープを冷ましている。


 アリアはその様子を見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。


 伊織は気づいた。


 アリアは気づかれていることに気づき、すぐに椀へ視線を落とした。


「何ですか」


「いや」


「何か言いたそうでした」


「温かいなと思っただけだ」


 アリアは椀を見た。


「はい」


 短く答えた。


 リナが耳を動かす。


「今の、スープの話?」


「そうだ」


「本当に?」


「本当だ」


「ふうん」


 リナの目が少し楽しそうになる。


 アリアが静かに言った。


「リナさん」


「なに?」


「含みがあります」


「ないよ」


「あります」


 クロが食堂の床で丸くなり、鼻を鳴らした。


 また始まった。


 そんな顔だった。


 食堂の端では、片目の老ハンターが静かに椀を傾けていた。


 ヴォルフ。


 かつてこの支部をまとめていた古株で、今は若手の指導役に退いている男だった。


 普段は必要以上に口を出さない。


 だが、昨夜のような非常時には、誰より早く人を動かす。


 伊織が目を向けると、ヴォルフは短く頷いた。


「正面と井戸周りは見ておく。お前は食え」


「ああ」


「倒れられると面倒だ」


「よく言われる」


「なら直せ」


 ガルドが笑った。


「無理だな」


「即答するな」


 ヴォルフはそう言って、また椀に口をつけた。


 ガルドがスープを飲みながら笑う。


「いいじゃねえか。生きて帰ってきたんだ。少しくらい騒げ」


 エルナが言った。


「騒ぎすぎるなら外でお願いします」


「厳しいな」


「建物内の金属撤去と点検で徹夜した身にもなってください」


「悪かった」


 ガルドは素直に謝った。


 珍しい。


 エルナもそれ以上は言わなかった。


 食堂には、久しぶりに普通の音が戻っていた。


 椀が置かれる音。

 誰かが息を吹きかける音。

 クロが床で鼻を鳴らす音。

 リナが子供たちに「ゆっくりね」と言う声。

 ヴォルフが静かに椀を置く音。


 伊織はその中に座っていた。


 戦場ではない。


 廃工場でもない。


 雨も降っていない。


 目の前には温かいスープがある。


 隣にはアリアがいる。


 足元にはクロがいる。


 少し離れて、リナと子供たちがいる。


 ガルドが木槌に文句を言い、エルナがそれを淡々とさばいている。


 食堂の端には、ヴォルフがいる。


 帰ってきたな。


 伊織は心の中で、そう思った。


 言葉にはしなかった。


 まだ、少しだけ照れくさかった。



 食事が終わると、アリアは立ち上がった。


「着替えてきます」


 リナがすぐに反応した。


「やっと?」


「はい」


「本当に?」


「本当です」


「見張ってようか」


「必要ありません」


「逃げない?」


「逃げません」


「袖を替えるだけなのに、逃げるって言われるのも変だね」


「誰のせいですか」


 リナは笑った。


 アリアは少しだけ頬を赤くし、それから奥の休憩室へ向かった。


 伊織はその背中を見送った。


 焦げた袖が揺れている。


 その先端は、夜の灯りを吸って黒く見えた。


 クロが伊織の足元へ来た。


 座る。


 見上げる。


「何だ」


 クロは鼻を鳴らした。


 行かないのか。


 そう聞かれた気がした。


「着替えだぞ」


 クロはまた鼻を鳴らした。


 そうじゃない。


 そんな顔だった。


 伊織は少しだけ黙った。


 それから立ち上がった。


「少し見てくる」


 リナがにやりとした。


「見てくるって、何を?」


「様子だ」


「様子ね」


「そうだ」


「ふうん」


 伊織はリナを見た。


「何だ」


「別に」


「別に、という顔じゃない」


「アリアさんの真似?」


「違う」


 リナは笑った。


「行ってらっしゃい」


 伊織は返事をせず、休憩室の方へ向かった。


 後ろでクロが満足そうに鼻を鳴らした。



 休憩室の扉は、少しだけ開いていた。


 中には小さな灯りがある。


 アリアは椅子に座り、焦げた袖を見ていた。


 着替えの服は膝の上にある。


 だが、袖を外す手が止まっていた。


 伊織は扉を軽く叩いた。


「入るぞ」


 アリアが顔を上げた。


「はい」


 伊織は中へ入った。


 休憩室は狭い。


 木の椅子が二つ。

 小さな机。

 水差し。

 壁際には布の棚。


 戦いの音はない。


 外の食堂から、リナと子供たちの声がかすかに聞こえる。


 アリアは焦げた袖を指先でつまんでいた。


「替えないのか」


「替えます」


「そうか」


「……替えます」


 二度言った。


 でも、手は動かない。


 伊織は机のそばに立った。


「惜しいのか」


 アリアは少しだけ黙った。


 それから、静かに頷いた。


「はい」


「袖がか」


「はい」


「焦げている」


「だからです」


 アリアは焦げた端を見た。


「ここが焦げた時、私は戻っていました」


「ああ」


「あなたが戻ると言って、本当に戻った。私も、戻った」


「ああ」


「だから、これは証拠です」


 伊織は何も言わなかった。


 アリアは続けた。


「戦闘記録としては、保存価値があります」


「研究か」


「……今は、そういうことにしておきます」


 伊織は少しだけ息を吐いた。


「便利な言い方だな」


「あなたもよく使います」


「そうか」


「はい」


 アリアはようやく袖の留め具を外した。


 白い布がゆっくりと腕から離れる。


 煤が机に少し落ちた。


 アリアの腕には、小さな赤みがあった。


 火の熱が残した跡。


 深い傷ではない。


 だが、無傷ではなかった。


 伊織は眉を寄せた。


「怪我してる」


「軽い火傷です」


「怪我だ」


「はい」


 今回は、アリアは否定しなかった。


 伊織は水差しから布を濡らし、差し出した。


「冷やせ」


「ありがとうございます」


 アリアは布を受け取り、腕に当てた。


 少しだけ肩の力が抜ける。


「痛むか」


「少し」


「それは少しじゃないかもしれない」


「そこまで覚えなくても」


「便利だ」


「不便です」


 アリアは小さく笑った。


 その笑みは疲れていた。


 けれど、柔らかかった。


 伊織は机の上に置かれた焦げた袖を見る。


 アリアはそれを丁寧に畳み始めた。


 焦げた端が崩れないように。


 煤が広がらないように。


 まるで壊れやすい紙を扱うように。


「捨てないのか」


 伊織が聞いた。


「捨てません」


「使えないだろう」


「はい」


「なら」


「記録です」


「研究のか」


 アリアは手を止めた。


 少しだけ考える。


 それから、焦げた袖を見たまま言った。


「たぶん、私のです」


 伊織は黙った。


 アリアの声は小さかった。


 けれど、はっきりしていた。


「私はずっと、あなたを観察していました。鋼鉄の具現。魔力の流れ。右手の冷え。戦闘中の判断。無理をする癖」


「癖か」


「癖です」


「そうか」


「でも、旧水路跡で分かりました」


 アリアは伊織を見る。


「あなたも、私を見ていたんですね」


 伊織は少しだけ目を伏せた。


「戦闘中は必要だ」


「射程も」


「ああ」


「詠唱時間も」


「ああ」


「ずっと」


「ああ」


 アリアは焦げた袖を両手で包んだ。


「それが、少し……」


 言葉が止まる。


 伊織は待った。


 急かさなかった。


 アリアは視線を逸らした。


「困りました」


「なぜ」


「分かりません」


「そうか」


「はい」


 その沈黙は、悪くなかった。


 食堂の方から、ミナの笑い声が聞こえた。


 トトの小さな息の音。


 リナの「クロ、逃げない」という声。


 クロの低い唸り。


 伊織は扉の方を見た。


「クロが捕まっている」


「助けに行きますか」


「いや」


「見捨てるんですか」


「今はリナたちに任せる」


 アリアは小さく笑った。


「変わりましたね」


「そうか」


「はい」


 伊織はアリアの手元を見た。


 焦げた袖は、きれいに畳まれていた。


「それ、どこに置く」


「私の荷物に」


「そうか」


「はい」


 アリアは少し迷ってから、言った。


「東さん」


「何だ」


「次に戦う時、私の詠唱時間が変わるかもしれません」


「なぜ」


「同調の負担で、少し遅れることがあります」


「どのくらい」


「半拍ほど」


「分かった」


「……数え直すんですか」


「ああ」


 アリアは目を伏せた。


 耳が少し赤い。


「そうですか」


「ああ」


「では、私も見ます」


「何を」


「あなたが無理をするまでの時間です」


「それは測らなくていい」


「必要です」


「そうか」


「はい」


 伊織は困った。


 たぶん顔にも出ていた。


 アリアはそれを見て、また少し笑った。


 その笑みが、焦げた袖よりもずっと柔らかく見えた。



 食堂へ戻ると、クロは本当に捕まっていた。


 ミナが頭を撫で、トトが背中を撫で、リナが尻尾の付け根あたりを撫でている。


 クロは完全に諦めた顔をしていた。


 逃げようと思えば逃げられる。


 だが、逃げない。


 伊織はその前に立った。


「何をしている」


 リナが振り返る。


「治療」


「どこが」


「心の」


「クロのか」


「私たちの」


 リナはさらりと言った。


 伊織は少し黙った。


 それは、たぶん間違っていなかった。


 クロも分かっているのか、逃げなかった。


 ミナが笑う。


「クロ、あったかい」


 トトも頷く。


 クロは鼻を鳴らした。


 嫌そうだ。


 けれど、尻尾は少しだけ揺れている。


 アリアが隣に来た。


 着替えた服は清潔だった。


 焦げた袖はもうない。


 そのはずなのに、伊織の目には、まだそこに焦げ跡が残っているように見えた。


 ガルドは少し離れた席で木槌を磨いている。


 木槌を磨く意味があるのかは分からない。


 本人は真剣だった。


 エルナは帳簿を書いている。


 時々、こちらを見て、少しだけ表情を緩める。


 ヴォルフは食堂の端で、壁に背を預けていた。


 眠っているようにも見えた。


 だが、入口が開くたび、片目だけがわずかに動く。


 伊織は食堂を見渡した。


 騒がしい。


 落ち着かない。


 だが、不快ではなかった。


 クロが伊織を見る。


 助けろ。


 そう言っているようだった。


 伊織はしゃがみ、クロの頭に手を置いた。


「人気者だな」


 クロは低く唸った。


 伊織は、そのまま頭を撫でた。


 硬い毛。


 温かい体温。


 生きている重さ。


 リナが伊織を見た。


「イオリさんも撫でるんだ」


「たまにはな」


「クロ、嬉しい?」


 クロは顔を逸らした。


 ミナが笑う。


 トトも、少しだけ声にならない笑いを漏らす。


 伊織はクロの頭を撫でながら、小さく呟いた。


「帰ってきたな」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


 クロにか。


 自分にか。


 それとも、もうここにはいない誰かにか。


 アリアが隣で静かに聞いていた。


 リナは何も言わなかった。


 ミナとトトも、ただクロを撫でていた。


 ギルドの灯りが、食堂の床に柔らかく落ちている。


 外では、砂を含んだ夜風が吹いている。


 ヴァルターはまだいる。


 鉄鎖団も消えていない。


 次に狙われる線も、分かっている。


 それでも、今だけは。


 今だけは、ここに帰ってきたことを、確かめてよかった。


 クロが鼻を鳴らした。


 伊織の手の下で、目を閉じる。


 アリアが小さく笑った。


 リナも笑った。


 食堂の端で、ヴォルフが静かに椀を置いた。


 何も言わなかった。


 だが、その沈黙も悪くなかった。


 ギルドの夜は、少しだけ温かかった。



 その夜、アリアは自分の荷物の奥に、焦げた袖をしまった。


 ただ丸めるのではなく、きれいに畳んで。


 煤が他の布に移らないよう、薄い紙に包んで。


 その紙の端に、短く文字を書く。


 帰還。


 それだけだった。


 研究記録ではない。


 戦闘記録でもない。


 アリア自身のための、たった二文字。


 灯りを消す前に、アリアは少しだけその紙包みに触れた。


 火の中へ戻った夜。


 伊織が戻ると言って、本当に戻った夜。


 伊織が自分の詠唱時間を、ずっと数えていたと知った夜。


 そのすべてが、焦げた袖の中に残っている気がした。


「……治療です」


 誰に言うでもなく、アリアは小さく呟いた。


 すぐに、自分で少しだけ首を振る。


「いえ」


 灯りが揺れる。


 アリアは紙包みをしまい、蓋を閉じた。


「記録です」


 そう言い直した声は、少しだけ柔らかかった。


 部屋の外で、クロが鼻を鳴らした気がした。


 アリアは聞かなかったことにした。


 その夜、ギルドは久しぶりに静かだった。


 誰かが傷を抱えたまま眠り、誰かが誰かの帰りを確かめ、誰かが焦げた袖をしまった。


 戦いは終わっていない。


 けれど、帰る場所はここにあった。


 夜の灯りの中で、その事実だけが、静かに息をしていた。


ここまで読んでくださりありがとうございます。

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