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第22話 旧水路跡

 旧水路跡は、街の北東にあった。


 かつてダストヘイブンに水を引いていたという、古い地下水路。


 今では大半が砂に埋まり、入口は崩れ、使われなくなって久しい。


 近づく者は少ない。


 子供は近づくなと言われる場所。


 ハンターでさえ、好んで入る場所ではない。


 伊織たちは、その入口の前に立っていた。


 夕陽が、砂の街の外れを赤く染めている。


 崩れかけた石造りの門。


 半分埋もれた階段。


 奥から吹いてくる風は冷たく、乾いた油と焦げた石の匂いを含んでいた。


 クロが低く唸った。


「当たりだな」


 ガルドが木槌を肩に担ぎながら言った。


 いつもの大斧ではない。


 木で作られた、厚く重い槌。


 本人はまだ不満そうだったが、文句は言わなかった。


 アリアは入口の石壁に手を当て、魔力の流れを読んでいた。


 焦げた袖は、まだそのままだ。


 伊織はそこに一瞬だけ目を向けた。


「替えなかったのか」


「帰ってから替えます」


「そうか」


「今は、これでいいです」


 アリアはそう言って、石壁から手を離した。


 顔は静かだ。


 だが、目は鋭い。


「内部に魔力の揺れがあります。自然なものではありません」


「支配核か」


「はい。複数あります」


 複数。


 伊織は旧水路跡の暗がりを見る。


 ヴァルター本人がいるとは限らない。


 だが、ここがただの廃墟ではないことは分かった。


「作戦を確認する」


 伊織は言った。


 ガルドが頷く。


「奥までは行かない、だったな」


「ああ」


 伊織は入口の闇を見たまま答えた。


「中継核の位置を確認する。破壊できる距離なら壊す。無理なら印だけ残して撤退する。ヴァルター本人がいたら、戦わず下がる」


「本当に下がるんだな?」


 ガルドが少し疑うように言った。


「下がる」


 アリアが横で小さく言った。


「本当に?」


「本当だ」


「……少しは信用します」


「少しだけか」


「積み重ねです」


 ガルドが笑った。


「便利だな、それ」


 クロが鼻を鳴らす。


 伊織は一歩、階段へ足を下ろした。


 冷たい空気が、足元から這い上がってくる。


 地下へ続く暗がり。


 そこは、ヴァルターの線の内側だった。


 だが、今度はこちらから入る。


 選ばされるためではない。


 何を仕込まれているのか、こちらの目で見るために。


「行くぞ」


 クロが先頭に出た。


 伊織、アリア、ガルドが続く。


 四人は、旧水路跡の闇へ入った。



 地下水路の中は、思っていたより広かった。


 石造りの壁。


 半分崩れた天井。


 足元には乾いた泥と砂が積もっている。


 水の流れはもうない。


 だが、壁の下部にはかつて水が流れていた跡が残っていた。


 苔は枯れ、乾いた黒い染みになっている。


 奥から、かすかな金属音が聞こえた。


 かちり。


 かちり。


 風の音ではない。


 何かが、ゆっくりと噛み合う音。


 その時、クロが一瞬だけ足を止めた。


 黒鎖針の匂いを追う時とは違う。


 耳だけを、奥ではなく右手の崩れた通路へ向けている。


「どうした」


 伊織が聞くと、クロは低く喉を鳴らした。


 敵意ではない。


 警戒。


 だが、すぐに鼻先を床へ戻した。


 伊織は右手の通路を一度だけ見た。


 闇があるだけだった。


 今は、進むしかない。


 伊織は右手を開いた。


 銃ではない。


 この狭い地下で銃を撃てば、跳弾の危険がある。


 支配核を撃てても、破片が味方に飛ぶ。


 今は、照らす。


 黒い粒子が手の中に集まり、小さなライトの形になる。


 かつて装備に取りつけていた、小型の突入灯に近い。


 照らすだけの単純な道具。


 その分、形は安定したが、それでも魔力はわずかに削られる。


 黒鋼灯。


 淡い白い光が、水路の奥を切り取った。


 ガルドが感心したように言う。


「そんなのも出せるのか」


「必要ならな」


「便利だな」


「魔力は使う」


「便利じゃねえな」


 アリアが小さく言った。


「長くは使わないでください」


「分かってる」


「本当に?」


「本当だ」


 アリアは少しだけ伊織を見た。


 それから、小さく頷いた。


 クロが足を止めた。


 鼻先を床へ近づける。


 低く唸る。


「黒鎖針か」


 伊織が聞くと、クロは短く鼻を鳴らした。


 伊織はしゃがみ込み、床の砂を指で払った。


 黒い鎖片。


 指の第一関節ほどの小さな欠片が、石の隙間に埋め込まれていた。


 側面には小さな穴。


 未使用。


 黒鎖針だ。


「踏ませるつもりか」


 ガルドが顔をしかめる。


「いや」


 伊織は周囲を見た。


 黒鎖針の向きは、足元ではない。


 壁際。


 人の首の高さ。


 通路を抜けたところで、横から撃つ角度。


「通過した相手を眠らせる配置だ」


「嫌な置き方だな」


「ヴァルターらしい」


 アリアが黒鎖針を布で包み、慎重に外した。


「まだ命令は通っていません。ですが、近くに支配核があるはずです」


「どこだ」


 アリアは壁を見る。


 石の継ぎ目。


 そこに、黒い油の染みがあった。


 伊織は短剣の先で、石の隙間を軽く削る。


 中に、小さな黒い歯車が噛んでいた。


 親指の爪ほど。


 歯の一部が、石壁の奥に残った古い鉄筋へ食い込んでいる。


 そこから細い黒い金属線が伸び、黒鎖針へ繋がっていた。


「支配核」


 伊織が言う。


「はい」


 アリアが頷く。


「黒鎖針を起動するための小型核です。これが命令を受けると、針が射出される」


「壊すか」


「待ってください」


 アリアは魔法陣を指先で描き、支配核の周囲へ淡い光を通した。


 黒い歯車が、わずかに震える。


 だが、動かない。


「記録を取ります」


「方向か」


「はい。命令がどこから来るのか、痕跡が残っているかもしれません」


 アリアの額に、薄く汗が浮いた。


 まだ本調子ではない。


 伊織は言った。


「無理はするな」


「分かっています」


「それは」


「大丈夫とは違う、ですね」


 アリアは少しだけ笑った。


「今回は、分かっています」


 伊織は何も言わなかった。


 アリアは記録を終え、支配核を布で包んで外した。


 黒鎖針も瓶へ入れる。


「北東ではありません」


「何?」


「この核への命令痕は、奥から来ています」


 アリアが水路の奥を見る。


「つまり、ここは単なる入口ではありません。内部に中継核があります」


 ガルドが木槌を握り直した。


「奥まで行くなって話だったが」


 伊織は水路の奥を見た。


 暗い。


 だが、そこから乾いた油の匂いが流れてくる。


 クロもそちらを睨んでいた。


 ここで戻る選択もある。


 だが、中継核を放置すれば、ギルド周辺への干渉は続く。


 確認だけでは足りない。


 ただし、深追いではない。


 目的を更新するだけだ。


「中継核を確認する」


 伊織は言った。


「破壊できるなら壊す。無理なら戻る。ヴァルターがいたら、戦わず下がる」


 アリアが伊織を見る。


「今の言葉、覚えておきます」


「覚えておけ」


 ガルドが木槌を担ぎ直す。


「じゃあ、行くか」


 クロが先へ進んだ。



 水路の奥は、途中から人工の通路ではなくなっていた。


 壁の一部が崩れ、さらに古い空間へ繋がっている。


 丸い広間。


 天井は高く、中心には干上がった円形の水槽がある。


 その周囲に、鉄製の水門がいくつも並んでいた。


 錆びている。


 折れている。


 だが、まだ形を残している。


 そして、その中央に作業台があった。


 木の台ではない。


 古代遺物の金属板を組み合わせた黒い台。


 その上には、黒鎖針が何十本も並んでいた。


 小さな黒い鎖片。


 針を撃つ罠具。


 未完成のものもある。


 その横には、黒い歯車。


 支配核。


 親指の爪ほどのものから、拳ほどの大きさのものまである。


 アリアが息を呑んだ。


「加工場……」


 ガルドが低く言った。


「当たりどころじゃねえな」


 伊織は作業台へ近づいた。


 だが、途中で足を止める。


 作業台の周囲には、床に細い溝が刻まれていた。


 魔法陣ではない。


 金属線を這わせるための溝。


 支配核から、周囲の水門へ命令を流すための道。


「踏むな」


 伊織が言うと、ガルドが足を止めた。


「罠か」


「ああ」


 アリアが周囲を見回す。


「ここは、単なる加工場ではありません。水路全体を支配する中継点です」


「この水門を動かすのか」


「はい。今は水がありませんが、鉄製の門、鎖、滑車、古い補強具が残っている。ヴァルターにとっては十分です」


 その時、作業台の上にあった黒い歯車が、ひとつ震えた。


 かちり。


 かちり。


 かちり。


 音が、広間に響く。


 伊織は右手を握った。


 黒鋼警棒の感触が奥に沈む。


 ガルドが木槌を構える。


 アリアが後ろへ下がり、風を纏う。


 クロが唸る。


 作業台の奥。


 黒い外套の男が、影の中に立っていた。


 いつからいたのか。


 分からない。


 ヴァルター。


 その姿を見た瞬間、広間の空気が冷えた。


「来たか」


 ヴァルターは静かに言った。


「予想より少し早い」


「待っていたのか」


 伊織が言う。


「遠隔では分からないものがある」


 ヴァルターは伊織の右手を見た。


「君の鋼鉄が揺らぐ瞬間。彼女がそれを支える瞬間。それは、近くで見なければ測れない」


 アリアの表情が強張る。


 伊織は一歩前へ出た。


「観察のために、子供を使ったのか」


「必要だった」


「必要?」


「君が守ると言ったからだ。言葉の重さを見るには、選ばせるのが一番いい」


 ヴァルターは作業台の黒鎖針に指を滑らせた。


 黒い鎖片が小さく震える。


「二つの線は守れたか」


 伊織は答えない。


 ヴァルターは続けた。


「治癒室。避難小屋。子供。仲間。自分。守るものが増えれば、線も増える。線が増えれば、必ず切れる場所が出る」


「切らせない」


 伊織は言った。


 ヴァルターは、薄く笑った。


「言葉はいい」


 その声に温度はなかった。


 だが、薄い愉悦だけが、目の奥に浮かんでいた。


「東伊織。君はまだ、自分が配置できると思っている。任せれば守れると思っている。だが、配置とは弱点を晒すことでもある」


 ヴァルターが指を鳴らした。


 広間の外で、金属音が走った。


 通ってきた水路の奥。


 入口側。


 黒鎖針の音。


 アリアが顔を変える。


「入口側に反応!」


「戻るぞ!」


 ガルドが叫ぶ。


 だが、同時に広間の水門が軋んだ。


 錆びた鉄門が、ゆっくりと動き出す。


 出口へ向かう通路を塞ぐように。


 ガルドが木槌で水門を叩いた。


 鈍い音。


 だが、水門は止まらない。


「くそっ!」


 伊織はヴァルターを見る。


「ギルドか」


「さて」


 ヴァルターは薄く笑った。


「君はどちらを選ぶ?」


 まただ。


 選ばせる。


 入口側の黒鎖針。


 広間の中継核。


 ヴァルター本人。


 逃げ道。


 どれかを選べば、どれかを捨てる形になる。


 伊織は一瞬だけ息を止めた。


 前なら、ヴァルターへ突っ込んでいた。


 あるいは入口へ走っていた。


 だが、今は違う。


 全部を一人でやらない。


 配置する。


「ガルド!」


「おう!」


「出口を開けろ。水門の支点を叩け。門そのものじゃない。下の歯車だ!」


「分かった!」


 ガルドが床に近い位置へ木槌を振り下ろす。


 鈍い音。


 鉄ではなく、支点を支えている古い石材が割れた。


 水門の動きが一瞬鈍る。


「アリア!」


「はい!」


「入口側の黒鎖針を止める。風で射線を逸らせるか」


「できます。ただし、位置が必要です」


「クロに拾わせる」


 伊織は即座に言った。


「クロ。匂いを追え。針の位置だけでいい」


 クロは返事の代わりに走った。


 暗い水路へ、黒い影が低く滑る。


 アリアが魔力を練る。


 伊織は視線だけで通路の幅を測った。


「左壁、右壁、天井近く。三か所なら、風でいけるな」


 アリアが一瞬だけ伊織を見た。


「まだ位置は分かっていません」


「分かる。ヴァルターなら首の高さを狙う。通路幅は四メートル弱。お前の風なら届く」


「……東さん」


「詠唱は二秒。風を絞れば射線をずらすだけでいい。切る必要はない」


 アリアの眉が、わずかに上がった。


「なぜ、私の詠唱時間を知っているんですか」


「数えた」


「いつ」


「ずっと」


 アリアは一瞬、言葉を失った。


 だが、すぐに前を向いた。


「……分かりました。二秒ください」


「ああ」


 クロが短く吠えた。


 位置が決まった。


 左。

 右。

 天井近く。


 伊織が低く言う。


「今だ」


 アリアの指先が動いた。


 一秒。


 二秒。


 細い風が水路へ走った。


 見えない刃ではない。


 射線をずらす風。


 黒鎖針が作動する音がした。


 小さな針が射出される。


 だが、風に押され、壁へ突き刺さった。


「止めました!」


 伊織は頷いた。


 次は、中継核。


 広間の中央、作業台の下。


 そこに拳ほどの黒い歯車が噛んでいる。


 床の溝から、周囲の水門へ金属線が伸びている。


 あれを壊せば、広間の支配は止まる。


 だが、ヴァルターがその前に立っている。


「分担するか」


 ヴァルターが言った。


「悪くない。だが、分担すれば、君自身は薄くなる」


 彼が指を動かした。


 作業台の黒鎖針が一斉に震える。


 未完成品まで動き始める。


 針ではない。


 鎖。


 刃。


 細い金属脚。


 それらが集まり、作業台の上で大きな構造体を作る。


 蜘蛛でも刃脚型でもない。


 人の上半身に似たもの。


 腕が四本。


 頭部はない。


 胸の中心に黒い歯車。


 構造兵器。


 その歯車が、ゆっくり回った。


 ガルドが舌打ちする。


「でけえな」


 構造兵器が動いた。


 速い。


 四本の腕が、別々の角度から伸びる。


 伊織は銃を出しかけた。


 だが、やめた。


 ここで撃てば、作業台の黒鎖針が散る。


 未使用の針が飛び、誰かを眠らせる可能性がある。


 黒鋼警棒。


 右手に黒い粒子が集まる。


 細長い棒が形を取る。


 いつもより重い。


 ヴァルターの支配が、空間そのものに満ちている。


 形が揺らぐ。


「ほう」


 ヴァルターが目を細めた。


「やはり干渉はできる」


 黒鋼警棒の輪郭が、わずかに歪む。


 伊織の右手が冷える。


 アリアが気づいた。


「東さん!」


「構うな。入口を見ろ」


「ですが」


「任せた」


 その一言で、アリアが息を呑んだ。


 そして、頷いた。


「はい!」


 伊織は構造兵器へ踏み込んだ。


 一撃目。


 伸びた腕を払う。


 警棒が金属腕を打つ。


 腕は砕けない。


 だが、軌道が逸れる。


 二撃目。


 胸の歯車を狙う。


 別の腕が割り込む。


 金属音。


 右手にしびれ。


 警棒の輪郭が揺らぐ。


 ヴァルターが静かに言う。


「君の鋼鉄は、意志で形を保つ。なら、その意志を揺らせばいい」


 構造兵器の腕が、伊織の肩を狙う。


 アイギスを出すか。


 いや、受ければ魔力が削られる。


 避ける。


 伊織は身を沈め、腕をやり過ごす。


 だが、足元の金属線が動いた。


 床から細い黒線が伸び、伊織の足を絡め取る。


 まずい。


 構造兵器の腕が上から落ちる。


 その瞬間、黒い影が飛び込んだ。


 クロ。


 牙で金属線を噛み、引きちぎる。


 火花が散る。


「クロ!」


 クロは唸った。


 行け。


 そう言っているようだった。


 伊織は踏み込む。


 だが、警棒が崩れかける。


 右手の奥が冷たい。


 ヴァルターの干渉が強い。


 アリアの手は背中にない。


 入口側の黒鎖針を抑えている。


 ガルドは水門を止めている。


 クロは足元の線を噛み切っている。


 全員が、それぞれの線を守っている。


 なら、自分の線は自分で保て。


 伊織は息を止めた。


 七メートル。


 雨。


 南条の声。


 あの時、撃てなかった。


 今度は、引け。


 引き金ではなく、守るための鋼鉄を。


 戻る。


 守る。


 今度は、一人ではない。


 黒鋼警棒の輪郭が、かすかに戻った。


 構造兵器の胸へ、伊織は警棒を叩き込んだ。


 硬い音。


 黒い歯車にひびが入る。


 ヴァルターの眉が、わずかに動いた。


「なるほど」


 構造兵器が後退する。


 だが、崩れない。


 胸の歯車が、ひび割れたまま回っている。


 ヴァルターが指を動かす。


 床の中継核がさらに回転した。


 周囲の水門が一斉に動く。


 天井の鎖。


 壁の補強具。


 干上がった水槽の底に残っていた鉄板。


 それらが浮き上がり始める。


 アリアが叫んだ。


「東さん! 中継核を止めないと、水路全体が動きます!」


「分かった!」


 だが、中継核までは構造兵器が邪魔をしている。


 ヴァルターはその奥。


 余裕のある顔。


 伊織は右手を握り直す。


 黒鋼警棒では届かない。


 銃では危険。


 鋼線拘束具。


 VRで、古代兵器の核を抜くために使った形だ。


 狙うのは構造兵器ではない。


 中継核そのもの。


 黒い短筒が右手に生まれる。


 伊織は構造兵器の脇を抜ける一瞬を待った。


 ガルドの木槌が水門の支点を叩く。


 水門が大きく揺れる。


 その振動で、構造兵器の姿勢がわずかに崩れた。


 今。


 伊織は鋼線を放った。


 黒い線が走る。


 構造兵器の脇を抜け、作業台の下へ潜り込む。


 中継核の歯車に絡む。


「引くぞ!」


 伊織が叫ぶ。


 ガルドが理解した。


「おう!」


 木槌の柄に鋼線を巻く。


 伊織とガルドが同時に引いた。


 中継核が軋む。


 床に噛み込んでいた黒い歯車が、悲鳴のような音を立てる。


 ヴァルターの表情が初めて変わった。


「それを選ぶか」


「壊す」


 伊織は言った。


 アリアが風を通す。


 鋼線に沿って、細い風が走る。


 中継核の周囲に絡んだ黒い金属線が切れる。


 クロが飛び込み、露出した線を噛み切る。


 ガルドが木槌を振り下ろした。


 床が割れる。


 中継核が半分浮いた。


 伊織は右手に力を込めた。


 鋼線が食い込む。


 黒い歯車が、床から剥がれた。


 その瞬間、広間中の金属が一斉に落ちた。


 水門が止まる。


 天井の鎖が落ちる。


 構造兵器が膝をついたように崩れかける。


 だが、ヴァルターが手を伸ばした。


 崩れかけた構造兵器の胸に、新しい黒鎖針が刺さる。


 それが即席の支配核になった。


 構造兵器が再び動き出す。


「予備核か!」


 ガルドが叫ぶ。


 ヴァルターは静かに言った。


「備えは必要だ」


 構造兵器が最後の腕を振り上げる。


 狙いは伊織ではない。


 アリア。


 入口側の黒鎖針を抑え続けていたアリアへ。


 伊織の体が動いた。


 アイギス。


 盾を出す。


 だが距離がある。


 間に合うか。


 その時、広間の奥から黒い鎖が走った。


 ヴァルターのものではない。


 もっと荒い。


 もっと乱暴な鎖。


 黒鎖が構造兵器の腕に絡みつき、横へ引いた。


 腕がアリアの横を逸れる。


 金属音。


 広間の奥で、男の声がした。


「おいおい、女を狙うのは趣味が悪いぜ」


 ゼクトだった。


 黒い外套。


 曲刀。


 両腕の黒鎖。


 軽く笑っているが、目は笑っていない。


 ヴァルターがゆっくり振り向く。


「ゼクト」


「よう、ヴァルター。相変わらず陰気な遊びしてんな」


「命令外の行動だ」


「お前の命令を聞く筋合いはねえよ」


 空気が変わった。


 ガルドが木槌を構え直す。


「何でお前がここにいる」


 ゼクトは肩をすくめた。


「散歩だ」


「嘘つけ」


「じゃあ見物」


「もっと嘘だ」


 ゼクトは笑った。


 それから伊織を見る。


「黒鉄。少しは頭を使うようになったじゃねえか」


「邪魔をしに来たのか」


「半分な」


「残りは」


「こいつが気に食わねえ」


 ゼクトの黒鎖が鳴る。


 ヴァルターは静かに言った。


「子供を使ったことか」


「分かってんなら聞くな」


「合理的だった」


「だから気に食わねえんだよ」


 二人の間に、明確な亀裂が見えた。


 鉄鎖団の中にも、線がある。


 ゼクトは、そこを越えられない。


 ヴァルターは、最初から引いていない。


 ヴァルターが指を動かす。


 構造兵器が再び立ち上がる。


 ゼクトが黒鎖を構える。


 だが、ヴァルターは戦わなかった。


 彼は作業台の奥へ一歩下がる。


「中継核は失った。今日の観察は十分だ」


「逃げるのか」


 伊織が言う。


「撤収だ」


 ヴァルターは訂正するように言った。


「逃げる者は恐れる。私は結果を持ち帰る」


「何の結果だ」


「君は、線を分けられる。仲間に任せられる。だが、自分の鋼鉄が揺らいだ時、まだ一人で支えようとする」


 ヴァルターの目が、アリアへ向いた。


「そこに、彼女が入る」


 アリアの表情が固まる。


「面白い。折るなら、鋼鉄ではなく、支える手からだ」


 伊織の右手が冷えた。


 ヴァルターはそれを見て、薄く笑った。


「いい反応だ」


 ゼクトが黒鎖を振った。


「喋りすぎだ」


 黒鎖がヴァルターへ走る。


 だが、ヴァルターの足元にあった黒い歯車が砕けた。


 黒煙。


 視界が塞がる。


 煙の向こうで、何かが折り畳まれるような音がした。


 金属が擦れ、薄い板が重なり、空間そのものが閉じていくような音。


 伊織は踏み出そうとして、足を止めた。


 追うな。


 本能がそう告げていた。


 アリアが風を起こす。


 煙が裂ける。


 そこに、ヴァルターはいなかった。


 代わりに、黒い歯車がひとつ、床の上を転がってきた。


 からん、と乾いた音を立てて、伊織の足元で止まる。


 歯車の中央には、細い傷が刻まれていた。


 まるで、次の線を示す印のように。


 作業台も、半分が崩れている。


 残ったのは壊れた黒鎖針と、砕けた支配核。


 そして、ゼクトだけだった。


 ゼクトは伊織を見る。


「追うなよ」


「言われなくても」


「へえ」


 ゼクトは少しだけ驚いたように笑った。


「本当に少しは変わったな」


「お前に言われる筋合いはない」


「だな」


 ガルドが一歩前に出る。


「おい、ゼクト」


「何だ。今日はずいぶん可愛い得物じゃねえか、ガルド」


「殺すぞ」


「その木槌でか?」


「この木槌で頭を割る」


「怖えな。冗談が冗談に聞こえねえ」


 軽口。


 だが、ゼクトの視線は一瞬だけアリアへ向いた。


「銀髪の姫さん」


「その呼び方をやめてください」


「悪いな。……あいつに狙われんなよ」


「分かっています」


「分かってねえよ。ヴァルターは、嫌な場所だけ正確に突く」


 ゼクトは伊織を見る。


「黒鉄。次は、お前の線じゃない。お前を支えてる線を切りに来る」


 伊織は黙っていた。


 ゼクトは肩をすくめる。


「じゃあな。今日は貸しにしといてやる」


「借りた覚えはない」


「そう言うと思った」


 ゼクトは笑い、黒鎖を壁に引っかける。


 軽く跳び上がり、水路の奥へ消えた。


 鎖の音だけが残る。


 じゃらり。


 じゃらり。


 やがて、それも消えた。



 広間には、壊れた支配核と黒鎖針だけが残った。


 アリアは壁に手をつき、少しだけ息を乱している。


 伊織はそちらへ行こうとして、足を止めた。


 右手が冷たい。


 魔力の消耗もある。


 ヴァルターの干渉も残っている。


 アリアが顔を上げた。


「大丈夫です」


「それは大丈夫とは違う」


「……はい」


 今回は、アリアは否定しなかった。


 伊織は近づき、手を差し出す。


「戻るぞ」


「はい」


 アリアはその手を取った。


 指先は冷たい。


 だが、しっかり握り返してきた。


 ガルドが壊れた中継核を布で包む。


「証拠は持って帰るぞ」


「ああ」


 クロが作業台の下から、小さな黒い部品を咥えて出てきた。


 未完成の黒鎖針。


 まだ針は入っていない。


 だが、側面には細い溝が刻まれていた。


 アリアがそれを見る。


「加工元の証拠です」


「持ち帰る」


 伊織は頷いた。


 作業台は壊した。


 中継核も破壊した。


 ヴァルターは逃がした。


 ゼクトは介入した。


 勝ちではない。


 だが、初めてこちらから踏み込み、ヴァルターの線を一本切った。


 それだけは確かだった。


 水路を出る頃、外はほとんど夜になっていた。


 冷えた風が吹く。


 砂の向こうに、ダストヘイブンの灯りが見える。


 帰る場所の灯りだった。


 伊織はその灯りを見た。


 ヴァルターの言葉が耳に残っている。


 ――折るなら、鋼鉄ではなく、支える手からだ。


 伊織はアリアの手を離さなかった。


 アリアも、離さなかった。


 クロが前を歩く。


 ガルドが木槌を担いで後ろを守る。


 旧水路跡の闇は背後に沈んでいた。


 その中で、砕けた支配核がまだ微かに黒い油の匂いを放っている。


 伊織は右手を握った。


 次にヴァルターが狙う線は、分かった。


 なら、今度はそこを守る。


 選ばされる前に。


 切られる前に。


 こちらから、守る形を作る。


 夜の砂を踏みしめ、伊織は帰る場所へ歩いた。


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