第21話 焦げた袖
ギルドへ戻る頃には、朝日は完全に昇っていた。
砂の街は、いつもの色を取り戻しつつある。
露店の布が開かれ、井戸の周りには水を汲む人影が戻り、遠くでは荷車の車輪が石畳を鳴らしていた。
だが、ギルドの空気だけは違っていた。
南門外の避難小屋。
火事。
閉じ込められた子供。
黒鎖針。
ヴァルターの文字。
それらはもう、ただの噂では済まなくなっていた。
伊織はギルドの扉をくぐった。
右手はまだ冷たい。
喉の奥には煙の痛みが残っている。
隣のアリアは、いつも通りに歩いているように見えた。
だが、袖は焦げていた。
白い布地の端が黒くなり、細い指先にも煤が残っている。
歩幅も、わずかに小さい。
伊織は足を止めた。
「アリア」
「何ですか」
「大丈夫か」
「大丈夫です」
即答だった。
伊織は少しだけ目を細めた。
「それは大丈夫とは違う」
アリアは一瞬、言葉を止めた。
それから、少しだけ困った顔をする。
「覚えましたね」
「お前に言われた」
「便利ではありませんね」
「便利だ」
「周囲が困ります」
「そうだったな」
アリアは小さく息を吐いた。
その息が、少しだけ浅い。
伊織はそれを見逃さなかった。
「座れ」
「東さん」
「今は俺が言う番だ」
「……そう来ましたか」
アリアは反論しようとした。
だが、足元がわずかに揺れた。
ほんの一瞬。
普通なら気づかない程度。
伊織は手を伸ばし、アリアの腕を支えた。
アリアは目を伏せた。
「少しだけです」
「何が」
「少しだけ、頭が痛いです」
「それは大丈夫じゃない」
「分かっています」
その言い方は、少し悔しそうだった。
伊織は近くの椅子を引いた。
アリアは一瞬ためらったが、座った。
そこへリナが治癒室の方から走ってきた。
狸耳がぴんと立っている。
「戻った!」
リナは伊織を見る。
次にアリアを見る。
焦げた袖で、表情が変わった。
「アリアさん、怪我してる?」
「怪我ではありません」
「袖、焦げてる」
「袖です」
「袖だけ焦げるわけないでしょ」
リナはしゃがみ込み、アリアの指先を見た。
煤で黒くなった白い指。
爪の端に小さな傷がある。
「ほら」
「これは」
「これは?」
「……少しだけです」
「二人とも同じこと言う」
リナが呆れたように言った。
伊織は黙った。
アリアも黙った。
クロが治癒室の扉の前で鼻を鳴らした。
同意しているようだった。
◆
治癒室の中は、無事だった。
ミナとトトは寝台の上にいる。
ミナは起きていた。
トトも、声はまだ出ないが、目を開けている。
ガルドは治癒室の入口に座っていた。
手には木槌。
顔はひどく不満そうだった。
「戻ったか」
「ああ」
「こっちは無事だ」
「何かあったか」
「何もなかった、と言いたいところだがな」
ガルドは木槌で床を軽く叩いた。
リナが頷く。
「窓の下で、黒鎖針の匂いがした」
伊織は表情を変えた。
「作動したのか」
「する前にクロが見つけた」
クロが少しだけ胸を張ったように見えた。
リナは治癒室の隅に置いてある小瓶を指した。
中には、黒い鎖の欠片が入っていた。
黒鎖針。
まだ未使用だ。
側面の小さな穴は閉じたまま。
「窓の下の木板の隙間に差し込まれてた。匂いがしたから、クロに見てもらった」
「クロが掘り出して、俺が叩き潰す前にエルナが瓶を持ってきた」
ガルドが言った。
「危なかった」
伊織は瓶を見る。
南門に向かっている間、やはり治癒室側にも仕掛けが来ていた。
ヴァルターは、本当に二つの線を同時に狙っていた。
避難小屋だけではない。
こちらを空けさせ、残した場所を試していた。
「よく見つけた」
伊織が言うと、リナは少しだけ目を丸くした。
「私?」
「ああ」
「……うん」
リナの耳が少し下がった。
照れているらしい。
「匂い、覚えておいてよかった」
クロが鼻を鳴らす。
俺もだ、と言っているようだった。
伊織はクロを見る。
「助かった」
クロは顔を逸らした。
だが、尻尾が一度だけ揺れた。
トトが寝台の上で、小さく手を動かした。
伊織の方へ。
何かを伝えようとしている。
リナが気づいて、そばに寄った。
「トト?」
トトは声を出そうとした。
喉が震えるだけで、音にならない。
それでも、指で空中に何かを書いた。
短い線。
曲がった線。
リナが首を傾げる。
「何? 鎖?」
トトは頷いた。
次に、指を二本立てる。
「二つ?」
頷く。
そして、窓を指した。
リナの顔が変わる。
「黒い鎖が、二つあった?」
トトは頷いた。
アリアがすぐに小瓶を見る。
「一つは見つけました。もう一つある可能性があります」
ガルドが立ち上がった。
「どこだ」
トトは窓の下ではなく、部屋の反対側を指した。
壁。
寝台の影。
アリアが立ち上がろうとする。
伊織が止めた。
「座っていろ」
「ですが」
「俺が見る」
伊織は壁際に近づく。
クロが先に動いた。
寝台の脚元。
木の板と床の隙間。
そこに鼻を近づける。
低く唸った。
伊織は短剣を抜き、木板を慎重に外した。
隙間に、黒い欠片があった。
黒鎖針ではない。
小さな歯車。
黒く焼けた歯車。
大きさは親指の爪ほど。
表面には細い溝があり、古い油の匂いがした。
歯の一部が床板の裏へ噛み込み、そこから髪の毛ほどの黒い金属線が伸びている。
線は床板の奥へ潜り、小さな釘へ絡みついていた。
ただ置かれていたのではない。
寄生するように、木と釘の隙間へ食い込んでいた。
伊織の背筋が冷える。
アリアが椅子から立ち上がりかける。
「支配核です」
「動くか」
「まだです。ですが、命令が入れば、周囲の金属を集めます」
「金属は撤去したはずだ」
「完全には無理です。釘一本、留め具一つでも残っていれば」
アリアは黒い歯車を見つめた。
「黒鎖針は針を撃つ罠。これは周囲の金属へ命令を流す心臓です。作動すれば、残った釘や小さな金具を引き寄せ、治癒室の中で刃を作っていたはずです」
伊織は歯車を布で包み、黒い金属線ごと慎重に切り離した。
無理に引けば、何かが作動するかもしれない。
アリアの指示に従い、線を一本ずつ外す。
最後の一本を外した時、黒い歯車はかすかに震えた。
だが、動かなかった。
伊織はそれを瓶へ入れた。
ヴァルターは黒鎖針だけではなく、支配核まで仕込んでいた。
作動すれば、治癒室の中で構造兵器が生まれていたかもしれない。
リナがトトの手を握った。
「トト、すごい。よく見てたね」
トトは少しだけ目を伏せた。
褒められることに慣れていない顔だった。
ミナが小さく笑う。
その笑いだけで、部屋の空気が少しだけ戻った。
伊織は支配核の瓶を見た。
守れた。
こちらも。
だが、危うかった。
二つの線は、本当にぎりぎりだった。
◆
昼過ぎ、ギルドマスター室には重い空気があった。
机の上には、南門の避難小屋から回収した黒い歯車。
未使用の黒鎖針。
治癒室で見つかった支配核。
それらが布の上に並べられている。
ヴォルフは腕を組んでいた。
ガルドは木槌を床に立てている。
リナは扉の近くに立っていた。
アリアは椅子に座らされている。
伊織がそうさせた。
本人は不満そうだったが、反論しなかった。
エルナが地図を広げる。
「南門外の避難小屋で使用された支配核。中庭で干渉が来た方向。治癒室で見つかった核。この三つを合わせると、干渉方向はすべて北東寄りです」
アリアが地図を見る。
「旧水路跡」
その言葉に、ヴォルフの片目が細くなった。
「やはりそこか」
「何がある」
伊織が聞く。
「昔の水路だ。今はほとんど使われていない。砂で埋まった区画もあるが、地下に古い通路が残っている」
ガルドが続ける。
「子供の頃は近づくなって言われた場所だ。崩れるし、魔獣も入り込む。だが、隠れるには向いてる」
「鉄鎖団の仮拠点か」
「可能性は高い」
アリアが支配核を見る。
「ヴァルター本人がいるとは限りません。ですが、中継核か加工場はあるはずです」
「加工場?」
「黒鎖針や支配核には同じ保存油の匂いがあります。リナさんが嗅ぎ分けたものです。旧陶器工房、ギルド前、南門、治癒室。すべて同じ系統の匂いがするなら、どこかに加工元があります」
リナが頷く。
「うん。同じ匂い。焦げた石みたいな、乾いた油みたいな」
「旧水路跡にそれがあるかもしれない」
伊織が言う。
「はい」
アリアは頷いた。
「少なくとも、そこへ繋がる何かがある」
ヴォルフはしばらく地図を見ていた。
「すぐに攻めるのは危険だ」
「ああ」
伊織は答えた。
即答だった。
ガルドが少し驚いた顔をする。
「珍しいな」
「何が」
「突っ込むって言うかと思った」
「言わない」
リナがぼそっと言った。
「言いそうではあった」
「言わない」
アリアが静かに言う。
「言いそうでした」
「お前までか」
「積み重ねです」
伊織は黙った。
否定できない。
ヴォルフが低く笑ったが、すぐに表情を戻した。
「偵察を出す。だが、金属装備は制限する。入口の確認だけだ。中には入らない」
「俺も行く」
伊織が言うと、アリアがすぐにこちらを見た。
「東さん」
「中には入らない」
「本当に?」
「ああ。今回は見るだけだ」
「……少しは信用します」
「少しだけか」
「積み重ねです」
リナがくすっと笑った。
「便利な言葉」
ガルドが頷く。
「流行りそうだな」
伊織は二人を見た。
何か余計なものが広がっている気がした。
◆
会議の後、伊織はギルドの中庭に出た。
日差しは強くなっていた。
だが、風はまだ冷たい。
中庭の中央には、昨日の囮に使った木箱が残っている。
中身はすでに撤去された。
ただ、箱の底には黒い擦り跡がある。
金属が動いた跡。
ヴァルターが声を通した跡。
――守る線を決めたか。
――では、次は選ばせよう。
伊織は右手を握る。
選ばされた。
だが、捨てなかった。
それは勝ちではない。
だが、負けでもない。
背後で足音がした。
アリアだった。
焦げた袖はまだそのままだ。
着替えればいいのに、なぜかまだ着ている。
「休めと言ったはずだ」
「休んでいます」
「歩いている」
「中庭までです」
「それは休んでいるとは言わない」
「覚えましたね」
「お前が言った」
「はい」
アリアは伊織の隣に立った。
しばらく、二人で木箱を見ていた。
「袖」
伊織が言った。
「はい」
「替えないのか」
アリアは焦げた袖を見た。
黒く焦げた端を、指先でそっとつまむ。
「後で替えます」
「今でもいい」
「今は、少しだけこのままで」
「なぜ」
アリアは答えなかった。
少し考えてから、言った。
「戻った証拠なので」
伊織は黙った。
アリアは続けた。
「あなたが戻ると言って、本当に戻った。私も戻った。その証拠です」
焦げた袖。
火の中へ戻った証拠。
伊織の背中を支えた証拠。
伊織は何も言えなかった。
アリアは少しだけ恥ずかしそうに目を伏せる。
「変ですか」
「いや」
「そうですか」
「ああ」
風が吹いた。
焦げた袖の端が、少しだけ揺れる。
伊織は右手を見る。
まだ冷たい。
だが、昨日ほどではない。
「アリア」
「はい」
「次は、無理をする前に言え」
「それは、こちらの台詞です」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
アリアは小さく笑った。
「たぶん、ですか」
「まだ慣れない」
「では、慣れてください」
「努力する」
「はい」
沈黙が落ちた。
気まずくはなかった。
ただ静かだった。
その時、クロが中庭へ入ってきた。
鼻を鳴らし、二人を見上げる。
続いてリナも来た。
「あ、いた」
リナはアリアの袖を見た。
「まだ着てる」
「後で替えます」
「本当に?」
「本当です」
「ふうん」
リナはにやりとした。
「大事な袖なんだ」
アリアがすぐに反応した。
「そういう意味ではありません」
「まだ何も言ってない」
「言いそうでした」
「最近アリアさん、先読みするね」
「必要なので」
リナは笑った。
クロは鼻を鳴らした。
伊織は、また別の戦いが始まった気がした。
だが、その空気は悪くなかった。
◆
夕方、偵察隊の準備が整った。
旧水路跡へ向かうのは、伊織、アリア、ガルド、クロ。
リナは残る。
不満そうだったが、今回は自分から頷いた。
「私は治癒室とギルドの中を見る。黒鎖針の匂いがしたら、すぐ知らせる」
「ああ」
「勝手に奥まで行かないでよ」
「言われる側になったか」
「そうだよ」
リナは少し笑った。
「イオリさん、ちゃんと戻ってきて」
「ああ」
「アリアさんも」
「はい」
「クロも」
クロは鼻を鳴らした。
当然だ、という顔だった。
ガルドが木槌を肩に担いだ。
「俺の斧、まだ駄目か」
エルナが遠くから言った。
「駄目です」
「聞こえてたのかよ」
「聞こえます」
ガルドは深くため息をついた。
「木槌でどこまでやれるか、見せてやる」
「頼む」
伊織が言うと、ガルドは少しだけ笑った。
「おう」
ギルドの外へ出る。
北東の空は、夕陽で赤く染まっていた。
その向こうに、旧水路跡がある。
ヴァルター本人か。
中継核か。
黒鎖針の加工場か。
何があるかは分からない。
だが、次はただ選ばされるだけではない。
こちらから見に行く。
こちらから、線を引きに行く。
伊織は右手を握った。
黒鋼警棒の感触が、奥で静かに沈んでいる。
アリアが隣に立った。
焦げた袖は、まだそのままだった。
「行きましょう」
「ああ」
クロが前に出る。
ガルドが続く。
伊織は北東へ歩き出した。
砂の街の外れに、古い水路の影が沈んでいる。
そこから、乾いた油と焦げた石の匂いが、風に混じって流れてきた。




