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第20話 二つの線

 南門へ向かう道は、まだ朝の色をしていなかった。


 夜明け前の薄い光の中で、砂だけが白く浮いている。


 その先に、黒い煙が上がっていた。


 細い煙ではない。


 建物の中で何かが燃えている煙だった。


 伊織は走った。


 隣にアリア。


 後ろに、革盾と木槌を持ったハンターたちが続く。


 金属武器は最低限。


 革盾。

 木の棍棒。

 縄。

 水袋。

 厚手の布。


 いつもの討伐隊ではない。


 火事場へ向かう救助隊だった。


「東さん」


 アリアが息を乱さずに言った。


「南門外の避難小屋は、古い木造です。冬の砂嵐の避難用に作られた建物で、内部に鉄製の補強具が残っている可能性があります」


「ヴァルターが使うか」


「使います」


 即答だった。


 伊織も同意した。


 ヴァルターは、そういう男だ。


 子供がいる場所を選ぶ。

 火を使う。

 金属を仕込む。

 助けに来る者の判断を試す。


 線を引かない。


 だからこそ、こちらが線を引く。


 伊織は右手を握った。


 銃ではない。


 今、必要なのは火力ではない。


 入るための道具。

 煙の中で子供を見つける判断。

 崩れる建物を支える手段。


 そして、戻ること。


 自分を数に入れること。


 南門が見えた。


 その外、少し離れた砂地に、避難小屋がある。


 古い木造の小屋。


 屋根は低く、壁は砂よけの板で厚く張られている。


 その一角から火が上がっていた。


 窓は黒煙を吐き出している。


 周囲に、数人の住人が集まっていた。


 その中の女が、伊織たちを見るなり叫んだ。


「中に子供がいる! 中に、まだ二人!」


 伊織の足が一瞬だけ速くなる。


 アリアが横から言った。


「罠です」


「分かってる」


「でも、子供は本当にいる」


「ああ」


 伊織は小屋を見た。


 入口の扉は閉まっている。


 外から木材が倒れ込んで塞いでいるように見えた。


 だが、違う。


 扉の蝶番が、内側から捻じれている。


 木の扉を、金属の蝶番と留め具が縫いつけていた。


 逃げられないように。


 アリアが顔をしかめる。


「支配核があります」


「どこだ」


「入口ではありません。もっと奥。火元の近くです」


 つまり、子供の近く。


 伊織は奥歯を噛んだ。


 ヴァルターは、助けに来た者に選ばせる。


 核を壊すか。

 子供を助けるか。

 火を消すか。

 扉を破るか。


 時間はない。


「後詰めは外周を固めろ。誰も単独で入るな」


 伊織が言うと、ハンターたちが頷く。


 以前なら、伊織は一人で突っ込んでいた。


 だが今は、違う。


「アリア、煙を逃がせるか」


「できます。ただし、風を強くしすぎると火が回ります」


「弱く、上へ」


「はい」


 アリアが両手を上げる。


 小屋の屋根上へ、細い風が流れた。


 煙が一方向へ逃げる。


 完全ではない。


 だが、入口周辺の視界が少しだけ開いた。


 伊織は右手を開いた。


 黒い粒子が集まる。


 拳銃ではない。

 盾でもない。

 警棒でもない。


 かつて突入訓練で、何度も握った形を思い出す。


 扉を開くための鉄。


 閉ざされた場所に入るための道具。


 誰かを傷つけるためではなく、閉じ込められた誰かのもとへ行くための鋼鉄。


 手の中に現れたのは、黒い金属の棒だった。


 先端が鉤のように曲がっている。


 短い斧にも似ている。


 突入用の破壊工具。


 黒鋼破砕具。


 伊織はそれを扉の隙間に差し込んだ。


 留め具が軋む。


 金属が抵抗する。


 ただの蝶番ではない。


 内側から、何かに引っ張られている。


「東さん、右上です!」


 アリアの声。


 扉の上部に、黒い小さな鎖片があった。


 黒鎖針ではない。


 もっと大きい。


 支配核。


 伊織は破砕具を手放さず、左手で短剣を抜く。


 だが、刃を投げれば火の中で見失う。


 アリアが風を細く絞った。


 小さな風刃が走る。


 黒い鎖片に当たる。


 弾けた。


 その瞬間、蝶番の抵抗が弱まった。


 伊織は破砕具に体重をかけた。


 扉が裂ける。


 木材が割れる。


 熱が顔を叩いた。


 煙。


 焦げた木。


 布の燃える匂い。


 そして、子供の泣き声。


「……助けて!」


 奥だ。


 右奥。


 床に近い位置。


 伊織は布を水袋で濡らし、口元に当てた。


「俺が入る。アリアは入口を維持。後詰めは水を回せ」


「東さん」


 アリアが伊織の背中を見た。


 止める声ではなかった。


 確認する声だった。


「戻りますね」


「ああ」


 伊織は短く答えた。


「戻る」


 それを言ってから、中へ入った。



 避難小屋の中は、煙で暗かった。


 火は左奥の壁を舐めている。


 床には割れた椅子。

 崩れた棚。

 砂避けの布。

 古い鉄のストーブ。


 そのストーブから、黒い鎖のような金属が伸びていた。


 壁の補強具。

 棚の釘。

 扉の金具。


 それらが絡み合い、小さな檻のような形を作っている。


 その中に、子供が二人いた。


 兄妹だろう。


 十歳くらいの少年と、もっと小さい少女。


 少女は咳き込み、少年が必死に庇っている。


 生きている。


 伊織は檻へ向かった。


 だが、足元の床板が軋む。


 床下から、釘が浮いた。


 釘が集まり、細い脚になる。


 小さな刃脚型。


 伊織の足首を狙って跳ねる。


 銃では遅い。


 撃てば床板が弾ける。


 伊織は黒鋼警棒を呼ぼうとした。


 右手に黒い粒子が集まる。


 しかし、煙と熱で集中が乱れる。


 形が揺らいだ。


 その時、入口からアリアの声が飛んだ。


「低く!」


 伊織は反射で身を沈める。


 風が頭上を抜け、刃脚型の接続点を切った。


 金属片が床に散る。


「助かった」


「まだです!」


 檻の奥。


 ストーブの中で、黒い歯車が回っていた。


 支配核。


 火の中にある。


 壊すには、近づく必要がある。


 だが、子供の檻はその手前にある。


 ヴァルターは、壊す順番まで選ばせていた。


 核を壊せば檻は緩むかもしれない。


 だが火に近づけば、子供が煙を吸う時間が伸びる。


 先に子供を出す。


 それが正しい。


 伊織は右手を開いた。


 鋼線拘束具。


 だが、子供の檻に巻けば危険だ。


 締めれば傷つける。


 狙うのは、檻ではない。


 檻を支えている一点。


 黒鎖と釘が交差している結び目。


 伊織は短筒を出し、鋼線を放った。


 黒い線が走る。


 結び目に絡む。


 引く。


 金属が軋む。


 檻が少しだけ開いた。


「出ろ!」


 少年が少女を押し出そうとする。


 だが、少女は動けない。


 咳が止まらない。


 伊織は檻の隙間に肩を入れた。


 熱い。


 金属が服を裂く。


 皮膚が焼ける感覚。


 それでも押し広げる。


 隙間が広がる。


 少年が妹を外へ押し出した。


 伊織は少女を片腕で抱えた。


 軽い。


 軽すぎる。


「兄ちゃんも出ろ」


「足が……」


 少年の右足に、黒い鎖が絡んでいた。


 足首を縫いつけるように。


 小さな黒鎖針の欠片が、床板の隙間に埋まっている。


 そこから伸びた金属糸が、少年の足を固定していた。


 伊織の右手が冷えた。


 ヴァルター。


 最初から、一人を残すように仕込んでいた。


 助ける者に、もう一度選ばせるために。


 抱えた少女を先に出すか。

 少年を外すか。

 火元の核を壊すか。


 一人では全部できない。


 だから、叫ぶ。


「アリア!」


「はい!」


「この子を!」


 伊織は少女を入口へ向けて抱え直す。


 アリアが中へ踏み込んだ。


 煙に咳き込みながらも、両手を伸ばす。


 袖の端が、熱で黒く焦げた。


 白い指先にも煤がついている。


 それでも、アリアは退かなかった。


 伊織は少女を預けた。


「外へ」


「でも――」


「俺は残る」


 アリアの目が揺れた。


 伊織は続けた。


「戻る」


 その一言で、アリアは頷いた。


「必ず」


「ああ」


 アリアは少女を抱え、入口へ戻る。


 その背中を確認してから、伊織は少年の足元に膝をついた。


「痛むか」


「少し」


「名前は」


「カイ」


「カイ。動くな」


 少年は泣きそうな顔で頷いた。


 伊織は黒鎖針の欠片を見る。


 小さい。


 だが、金属糸が足首に巻きついている。


 切れば、糸が締まるかもしれない。


 引けば、足を傷つける。


 なら、核だけを壊す。


 黒鋼警棒。


 右手に粒子が集まる。


 だが、熱が集中を乱す。


 煙が肺を焼く。


 輪郭が崩れかける。


 その時、背中に手はなかった。


 アリアは外にいる。


 支えはない。


 それでいい。


 今は、自分で保つ。


 自分を数に入れた上で、形を保つ。


 伊織は息を止めた。


 南条の声が、遠くで聞こえた気がした。


 ――また行こうな。


 戻る。


 戻って、次へ行く。


 黒い警棒が、右手に形を取った。


 短い。


 不安定。


 だが、崩れない。


 伊織は黒鎖針の欠片を打った。


 一撃。


 小さな核が砕けた。


 金属糸が緩む。


 カイの足が自由になる。


「立てるか」


「う、うん」


 伊織はカイを抱え上げた。


 その瞬間、火元のストーブが大きく軋んだ。


 黒い歯車が高速で回る。


 壁の補強具が外れる。


 天井の梁が落ちかける。


 小屋ごと潰す気だ。


 伊織は出口を見た。


 遠い。


 煙が濃い。


 カイを抱えたまま走れば、梁が先に落ちる。


 アイギス。


 受ける。


 だが、受ければ魔力が削られる。


 それでも、ここしかない。


 伊織は左腕でカイを抱え、右手を上げた。


 黒鋼盾アイギス


 黒い盾が頭上に展開する。


 梁が落ちた。


 重い衝撃。


 盾は壊れない。


 だが、胸の奥から魔力がごっそり抜けた。


「っ……!」


 膝が沈む。


 倒れるな。


 今倒れれば、カイも潰れる。


 伊織は歯を食いしばり、一歩踏み出した。


 さらにもう一本、梁が落ちる。


 アイギスが受ける。


 魔力が削れる。


 視界が白くなる。


 耳の奥で、雨音がした。


 違う。


 これは雨ではない。


 火の音だ。


 ここは廃工場ではない。


 南条はいない。


 自分が抱えているのは、まだ生きている子供だ。


「東さん!」


 入口からアリアの声。


 伊織は顔を上げた。


 アリアが戻ってきていた。


 外へ少女を渡して、戻ったのだ。


 煙に目を赤くし、咳き込みながら、それでもまっすぐこちらへ来る。


 焦げた袖から、細い煙が上がっていた。


「来るな!」


「聞きません!」


 アリアは煙の中へ踏み込み、伊織の背中に手を当てた。


 熱に震える手。


 それでも、確かにそこにあった。


「呼吸を合わせてください!」


「無茶だ」


「あなたに言われたくありません!」


 アリアの魔力が背中から流れ込む。


 細い熱。


 右手の冷えが、わずかに和らぐ。


 アイギスの輪郭が持ち直した。


 だが、アリアの顔色も悪い。


 二人分の消耗が重なる。


 長くは持たない。


「三歩で出ます」


 アリアが言った。


「一」


 伊織は足を出す。


 梁が盾に落ちる。


 耐える。


「二」


 煙の向こうに出口が見える。


 外の光。


 人の声。


 カイが伊織の服を握る。


「三!」


 アリアの風が出口へ向かって煙を押し上げた。


 伊織は走った。


 アイギスを消す。


 最後の一歩で、背後の天井が崩れた。


 熱と煙が背中を叩く。


 だが、外へ出た。


 砂の上に転がる。


 カイを抱えたまま。


 アリアも隣に倒れ込んだ。


 外のハンターたちが駆け寄る。


 少女が泣きながら兄の名前を呼んだ。


「カイ!」


 カイは咳き込みながらも、手を伸ばした。


「ミリ……」


 二人が抱き合う。


 伊織は砂の上に片膝をついた。


 息が苦しい。


 喉が焼ける。


 右手が冷たい。


 アリアが隣で咳き込んでいる。


 袖は焦げ、頬には煤がついていた。


「大丈夫か」


 伊織が聞く。


 アリアは涙目でこちらを睨んだ。


「それは、こちらの台詞です」


「そうだったな」


「戻ると言いました」


「ああ」


「戻りましたね」


「ああ」


 アリアは小さく息を吐いた。


「なら、今回は半分だけ許します」


「半分か」


「残りは後で怒ります」


「分かった」


 アリアはそれで満足したように、少しだけ笑った。



 避難小屋の火は、昼前には消えた。


 焼け跡から、黒い歯車が見つかった。


 火元のストーブに仕込まれていた支配核。


 その周囲には、黒鎖針が三つ。


 うち二つは使用済み。


 一つはまだ残っていた。


 アリアはそれを布に包み、険しい顔をした。


「本当に子供を閉じ込めるためだけに、これを使ったんですね」


 リナがいれば、怒っただろう。


 ガルドがいれば、殴りに行こうとしただろう。


 伊織は黙っていた。


 怒りはある。


 だが、今は燃やさない。


 怒りで動けば、ヴァルターの思う壺だ。


 焼け跡の壁に、黒い文字が刻まれていた。


 焦げた板の上。


 金属片で削ったような文字。


 ――二つの線は守れたか。


 伊織はそれを見た。


 アリアも見た。


 誰も言わなかった。


 ヴァルターは見ている。


 こちらの判断を。


 配置を。


 誰を残し、誰を連れて行ったかを。


 どちらの線を守り、どちらを捨てるのかを。


 伊織は右手を握った。


 守れた。


 完全ではない。


 危なかった。


 アリアが戻らなければ、倒れていたかもしれない。


 だが、治癒室は残した。


 リナとクロとガルドに任せた。


 外の子供も助けた。


 一人ではないからできた。


 ヴァルターが選ばせようとした二つの線。


 そのどちらも、まだ切れていない。


「戻るぞ」


 伊織は言った。


「はい」


 アリアが頷く。


「でも、その前に」


「何だ」


「座ってください」


「今か」


「今です」


「歩ける」


「知っています。歩けることと、座らなくていいことは違います」


 伊織は黙った。


 言い返す力があまり残っていなかった。


 近くの石に腰を下ろす。


 アリアが隣に立ち、手を差し出した。


「手を」


「またか」


「またです」


 伊織は右手を出した。


 アリアはその手を取る。


 指先は冷えていた。


 伊織の手も、アリアの手も。


 魔力がゆっくりと流れる。


 今度は熱ではなく、静かな水のようだった。


「無理をしました」


 アリアが言った。


「お前もな」


「私は必要なことをしました」


「俺もだ」


「……そう返されると困ります」


 アリアは少しだけ目を伏せた。


「でも、戻ってきました」


「ああ」


「それは、よかったです」


 その言葉は小さかった。


 だが、伊織には聞こえた。


 伊織は焼け跡を見た。


 二つの線。


 ギルドと避難小屋。


 どちらも、守るべき場所だった。


 ヴァルターは選ばせようとした。


 片方を捨てさせようとした。


 だが、捨てなかった。


 全部を一人で抱えたわけでもない。


 分けた。


 任せた。


 戻った。


 それだけのことが、以前の伊織にはできなかった。


 アリアの手が、少しだけ強くなる。


「東さん」


「何だ」


「次は、もっと早く支えます」


「危険だ」


「知っています」


「なら」


「でも、あなた一人で支えるよりはましです」


 伊織は何も言えなかった。


 アリアは静かに続けた。


「あなたの鋼鉄は、あなたの意志で形を保つ。なら、私はその意志が折れないように支えます」


 伊織はアリアを見た。


 銀色の髪が、朝の光を受けて揺れている。


 顔には煤が残っている。


 袖も焦げている。


 それでも、目はまっすぐだった。


「それは治療か」


 伊織が聞く。


 アリアは少しだけ間を置いた。


「今は、そういうことにしておきます」


 伊織は小さく息を吐いた。


「そうか」


「はい」


 遠くで、カイとミリの泣き声が聞こえた。


 助かった者の泣き声だった。


 伊織はその声を聞きながら、右手を握る。


 まだ、黒鋼警棒の感触が残っている。


 アイギスの重さも残っている。


 だが、それ以上に、背中に触れたアリアの手の感触が残っていた。


 守る線は、一つではない。


 これからも、増えていく。


 選ばされる。


 試される。


 折ろうとしてくる。


 だが、選ばされるだけでは終わらせない。


 伊織は立ち上がった。


 アリアの手は、最後まで離れなかった。


 南門の向こうで、朝日が砂の街を照らし始めていた。


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