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第17話 雨と鉛

 夢の中では、雨が降っている。


 決まって、そうだ。


 記憶の中の雨は、いつも音が大きすぎる。


 トタン屋根を叩く音。

 泥水を踏む音。

 無線の雑音。

 煙草の匂い。

 火薬の匂い。


 それだけが、あの夜の全部だった。


 東伊織は、また夢を見ていた。



 川崎の廃工場だった。


 武装した男が三人。


 人質が二人。


 交渉は、すでに決裂していた。


 出動命令が出たのは、深夜零時を回った頃だった。


 伊織はシャワーを浴びている途中だった。髪もろくに乾かさないまま装備を整え、車に乗り込む。身体は動いていたが、頭は半分だけ眠っていた。


 南条は助手席で煙草を吸っていた。


 装備中に煙草を吸うのは規律違反だ。


 だが、南条に規律を言える人間はいなかった。


 少なくとも、この班では。


「人質の情報は」


 伊織が聞くと、南条はタブレットを渡してきた。


 画面には二枚の写真があった。


 四十代の男と、三十代の女。


 会社員と経理担当。


 金曜の残業帰りに巻き込まれた、ただの一般人だった。


「犯人側は」


「三人。元暴力団。武装は拳銃一丁。さっき爆発物も確認された。ただし、起爆装置の詳細は不明」


「爆発物」


「即席だ。精度は低いと見てる。ただし、コンクリートの壁には当然効く」


 南条は煙草を窓の外へ弾いた。


「東」


「何だ」


「今夜、何か嫌な感じがするか」


 伊織は窓の外を見た。


 雨が降り始めていた。


「ある」


「俺もだ」


 それだけ言って、南条は目を閉じた。


 眠っているわけではない。


 考えている顔だった。


 南条が黙る時は、たいてい考えている。


 答えを探しているのではなく、覚悟を整えている。


 伊織は前を向いた。


 雨は、強くなっていた。



 現場に着いた時、廃工場はすでに包囲されていた。


 古い鉄骨の建物。


 屋根の一部が崩れている。


 入口は三つ。


 正面。

 東側。

 裏手。


 情報では、人質は二階に拘束されている。


 指揮官からの確認は短かった。


「一班は正面。二班は東側で陽動。東と南条は裏手から二階へ。人質を確保次第、正面に合流」


「了解」


 南条が言った。


 伊織は黙って頷いた。


 作戦に問題はない。


 嫌な感じが、あるだけだ。


 三分後、陽動が始まった。


 伊織と南条は裏手に回った。


 雨で足元が滑る。


 錆びた鉄の匂いがした。


 工場の壁は古く、隙間から内部の声が漏れてくる。


 怒鳴り声。

 泣き声。


 それだけで、中の状況は分かる。


 裏口の鍵は、南条が三秒で外した。


 無言で先に入る。


 伊織が続く。


 建物の中は暗かった。


 雨音が屋根を叩いている。


 足元には水たまりがある。


 懐中電灯は使わない。


 工場内に差し込むわずかな外光だけで動く。


 一階は広い。


 廃材が積まれ、通路が複雑に入り組んでいた。


 鉄の階段を上る。


 二階。


 南条が先に角を確認する。


 指で合図した。


 一人いる。


 伊織は動いた。


 後ろから近づき、首に腕を回す。


 三秒。


 音はなかった。


 南条が頷く。


 奥の部屋に近づく。


 扉の隙間から、声が聞こえた。


 男の声。


 一人。


 そして、女の泣き声。


 南条が扉の横に張りつく。


 伊織も反対側に位置を取る。


 三。


 二。


 一。


 扉が蹴破られた。


 南条が先に入る。


 銃声。


 一発。


 伊織は壁に体をつけたまま、角から覗いた。


 男は倒れていた。


 腕を撃たれ、床に伏せている。


 南条が人質に近づいた。


 縄を切る。


 女が泣きながら立ち上がった。


 男の方は、意識が朦朧としている。


「行ける?」


 南条が女に聞く。


「は、はい……」


「俺の後ろについて来い。東、先導する」


 伊織が先頭に出た。


 その瞬間だった。


 下から、音がした。


 爆発音ではない。


 もっと小さい。


 くぐもった、金属の音。


 起爆装置の音を、伊織は知っていた。


「南条――」


 声が出るより先に、階段の踊り場に人影が現れた。


 三人目。


 情報通り、犯人は三人だったはずだ。


 だが、その三人目がまだ動いていた。


 手に、黒い箱を持っている。


 起爆装置。


「動くな! 動いたら押す!」


 男は叫んだ。


 目が据わっている。


 追い詰められた人間の目だ。


 交渉の余地がない目だった。


 伊織は銃口を向けた。


 狙える。


 頭部。


 右腕。


 どちらでも、一発で止められる。


 距離は七メートル。


 条件は悪くない。


 だが、男の親指は起爆スイッチに触れていた。


 もし、撃った瞬間に痙攣すれば。


 もし、倒れる時に腕が動けば。


 もし、その親指が、わずかに沈めば。


「東」


 南条が低く言った。


「人質を連れて先に行け」


「お前は」


「俺が交渉する」


「一人では――」


「それが命令だ」


 南条の声に、力があった。


 有無を言わせない声だった。


 こういう時の南条には、逆らえない。


 伊織は動いた。


 人質の女の腕を取り、男の横を抜ける。


 階段へ向かう。


 後ろで南条が話し始めた。


 低い声。


 落ち着いた声。


 怒鳴らず、急かさず、男の言葉に耳を傾けるように話す南条の声が、遠ざかっていく。


 伊織は階段を降りた。


 人質を連れて、一階へ出た。


 裏口まで、五メートル。


 そこで、足が止まった。


 止まってしまった。


 動かそうとした。


 動かなかった。


 理由を探した。


 見つからなかった。


 本能が止めていた。


 いや、違う。


 恐怖が、止めていた。


 南条がいなくなることへの恐怖。


「行って!」


 女が叫んだ。


「早く!」


 伊織は動けなかった。


 その時、二階から声が聞こえた。


 男の怒鳴り声。


 南条の声は聞こえなくなっていた。


 交渉が、破綻した。


 分かった。


「逃げろ」


 伊織は女の背中を裏口へ向かって押した。


「走れ!」


 女が走り出した瞬間、爆発音がした。


 一階の壁が揺れた。


 天井から埃が落ちた。


 爆発は小規模だった。


 外壁までは抜けない。


 だが、建物の内部には十分だった。


 伊織は階段に向かって走った。


 命令違反だった。


 人質を確保したら、合流する。


 そう指示されていた。


 だが、走っていた。


 二階に戻った。


 煙が充満している。


 天井の一部が落ちていた。


 男は倒れていた。


 南条は、壁際にいた。


 立っていた。


 立っているように、見えた。


 近づく。


 南条の右手が、壁を押さえていた。


 左手は、腹を押さえていた。


 爆発の破片が刺さっていた。


「南条」


 南条は伊織を見た。


 笑っていた。


 信じられないことに、笑っていた。


「命令を無視するな」


「うるさい」


 伊織は南条の腕を取り、肩を貸した。


 南条の体が、思っていたより重かった。


 重くなっていた。


「歩けるか」


「歩ける」


「本当か」


「……たぶん」


 伊織は南条を支えて、廊下に出た。


 煙が濃い。


 建物全体に軋む音がある。


 二次崩壊の可能性があった。


 急がなければならなかった。


 階段まで、三メートル。


 南条の足が、一度だけ止まった。


「南条」


「……動く。大丈夫だ」


 動いた。


 階段を降りながら、伊織は南条の腹の傷を確認した。


 深い。


 分かった。


 分かってしまった。


 一階に出た。


 外から、仲間たちが駆け込んでくる声がした。


「東!」


「南条が傷を負った。腹部。早く」


 声は出た。


 それだけは出た。


 あとは何も言えなかった。


 南条が伊織の肩に寄りかかったまま、少しだけ笑った。


「なあ」


「何だ」


「俺、今夜外食しようと思ってたんだよな」


「……うるさい」


「予約入れてた。お前の好きな店」


「……知らない」


「嘘つけ。知ってるだろ」


 南条の声が、かすかに変わった。


 笑ったまま、変わった。


「東」


「何だ」


「あの店、また行こうな」


 伊織は何も言えなかった。


 言えなかった。


 声が出なかった。


 目が熱かった。


「……ああ」


 ようやく、それだけ言った。


 南条は目を閉じた。


 笑ったまま。


 それが、最後だった。



 病院の廊下は白かった。


 蛍光灯の下で、伊織は椅子に座っていた。


 手術は四時間かかった。


 それだけの時間があった。


 それだけの時間、考えた。


 七メートル。


 狙える距離だった。


 撃てた。


 撃てたはずだった。


 あの時、伊織は撃てなかった。


 人型の標的に向けると、引き金が遅れる。


 射撃訓練で、南条に指摘されていたことだった。


「人を撃つのに躊躇がある方が、人間らしい」


 南条はそう言っていた。


 だが、その躊躇が南条を死なせた。


 それとも、撃っていれば、起爆スイッチが押されたのか。


 分からない。


 永遠に、分からない。


 だから余計に、考え続ける。


 医師が出てきた。


 言葉は短かった。


 伊織は聞いた。


 理解した。


 何も感じなかった。


 感じ方を、忘れていた。


 廊下の窓から、夜明けの空が見えた。


 雨は上がっていた。



 三日後、伊織は上官に呼ばれた。


 内容は短かった。


 命令違反。


 単独での引き返し。


 それが南条の死を招いた可能性。


 逆に、それが南条を助けた可能性。


 調査中だから、今は動くな。


 それだけだった。


 伊織は何も言わなかった。


 言うべき言葉が見つからなかった。


 南条は命令通りに行けと言った。


 伊織は逆らった。


 結果は変わらなかった。


 では、何が間違っていたのか。


 撃てなかったことか。


 足が止まったことか。


 最初から、引き返すべきではなかったのか。


 答えはない。


 ある夜、伊織は自室の机の前に座っていた。


 手元に、仕事で使っていた小さなナイフがあった。


 何をするつもりだったのかは、今もよく分からない。


 ただ、何かを確かめたかった。


 生きている感覚なのか。


 罰なのか。


 それすら分からなかった。


 刃を、左手のひらに当てた。


 浅く引いた。


 痛みがあった。


 血が出た。


 それで、止めた。


 南条が生きていたら、怒る。


 そう思った。


「余計なお世話をするのが俺の仕事だから」


 そう言いながら、たぶん本気で怒る。


 伊織はナイフを置いた。


 傷は浅かった。


 それでも、跡は残った。


 残り続けた。


 消えなかった。



 辞表を出したのは、それから二週間後だった。


 上官は引き止めなかった。


 引き止める理由が、どちらにもなかった。


 その後のことは、あまり覚えていない。


 小さなアパート。


 食事をしていたのか。

 眠っていたのか。

 起きていたのか。


 分からない。


 分かるのは、ゲームだけだった。


 フルダイブVR。


 『STEEL REQUIEM』。


 荒廃した世界で、銃を持って戦う。


 その世界では、躊躇いは敵だ。


 引き金を引けば、標的は倒れる。


 倒れれば、次へ進める。


 そこには、間に合わなかった夜も、足が止まった廊下も、白い病院の椅子もない。


 あるのは、撃つことと、撃たないこと。


 その二択だけだった。


 だから、伊織は撃ち続けた。


 南条の代わりに。


 南条が守れなかった時間の分だけ。


 撃ち続けていれば、何かが償えると思っていた。


 今になって思えば、そんなことはない。


 だが、あの頃は、そう思うしかなかった。



 夢が、終わる。


 いつも同じ場所で終わる。


 廃工場。


 煙。


 雨。


 南条の笑顔。


「あの店、また行こうな」


 南条は、最後まで死ぬ話をしなかった。


 次の飯の話をした。


 また行こうと言った。


 それはたぶん、南条なりの命令だった。


 生きろ、という意味だった。


 目が覚めた。


 天井が見える。


 ダストヘイブンの宿の天井だ。


 木製の梁。


 薄い染み。


 知らない街の、知らない天井。


 だが、見慣れた天井になりつつある。


 クロが足元で丸まっている。


 寝息は静かだった。


 伊織は右手を見た。


 何もない。


 ただの手だ。


 だが、奥に何かがある。


 記憶の重さが、形になりかけている。


 鋼鉄の感触。


 あの世界で撃ち続けた感触。


 雨と、鉛の重さ。


 銃は捨てられなかった。


 あの夜から、伊織の体は、銃を持っていない自分を忘れた。


 手が空になるたびに、何かが足りない感覚が来た。


 それが、この世界でも続いている。


 銃を出す。


 銃を出さない。


 もう、その二択だけではなくなりつつある。


 今は、選ぶことができる。


 止めることも。

 守ることも。

 引かない線を決めることも。


 それは、あの廊下では持っていなかったものだ。


 伊織は左手を見た。


 薄い傷跡が、ある。


 消えなかった。


 消えなくていい。


 残っていれば、忘れない。


 南条が死んだ夜を。


 足が動かなかった廊下を。


 七メートルの距離を。


 笑ったまま目を閉じた顔を。


 伊織は体を起こした。


 クロが顔を上げる。


「起こしたか」


 クロは鼻を鳴らした。


 違う、と言っているようだった。


 窓の外には、まだ暗い空があった。


 二つの月が、薄く残っている。


 ヴァルターは近い。


 線を引かない男が、来る。


 伊織は右手を握った。


 南条。


 お前が最後に飯の話なんかするから、俺はまだここにいる。


 あの店には、もう行けない。


 お前とは行けない。


 でも、俺はまだ生きている。


 だから、今度は俺が守る番だ。


 守れなかった七メートルの代わりに。


 笑って目を閉じたお前の代わりに。


 守る場所を決める。


 踏み越えさせない線を、引く。


 それが、お前の「また行こうな」への、俺なりの返事だ。


 クロが立ち上がった。


 隣に来た。


 温かい。


「行くぞ」


 クロが、小さく鼻を鳴らした。


 返事に聞こえた。


 気のせいではないかもしれない。


 伊織は窓の外を見た。


 夜明けが、近かった。

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