第17話 雨と鉛
夢の中では、雨が降っている。
決まって、そうだ。
記憶の中の雨は、いつも音が大きすぎる。
トタン屋根を叩く音。
泥水を踏む音。
無線の雑音。
煙草の匂い。
火薬の匂い。
それだけが、あの夜の全部だった。
東伊織は、また夢を見ていた。
◆
川崎の廃工場だった。
武装した男が三人。
人質が二人。
交渉は、すでに決裂していた。
出動命令が出たのは、深夜零時を回った頃だった。
伊織はシャワーを浴びている途中だった。髪もろくに乾かさないまま装備を整え、車に乗り込む。身体は動いていたが、頭は半分だけ眠っていた。
南条は助手席で煙草を吸っていた。
装備中に煙草を吸うのは規律違反だ。
だが、南条に規律を言える人間はいなかった。
少なくとも、この班では。
「人質の情報は」
伊織が聞くと、南条はタブレットを渡してきた。
画面には二枚の写真があった。
四十代の男と、三十代の女。
会社員と経理担当。
金曜の残業帰りに巻き込まれた、ただの一般人だった。
「犯人側は」
「三人。元暴力団。武装は拳銃一丁。さっき爆発物も確認された。ただし、起爆装置の詳細は不明」
「爆発物」
「即席だ。精度は低いと見てる。ただし、コンクリートの壁には当然効く」
南条は煙草を窓の外へ弾いた。
「東」
「何だ」
「今夜、何か嫌な感じがするか」
伊織は窓の外を見た。
雨が降り始めていた。
「ある」
「俺もだ」
それだけ言って、南条は目を閉じた。
眠っているわけではない。
考えている顔だった。
南条が黙る時は、たいてい考えている。
答えを探しているのではなく、覚悟を整えている。
伊織は前を向いた。
雨は、強くなっていた。
◆
現場に着いた時、廃工場はすでに包囲されていた。
古い鉄骨の建物。
屋根の一部が崩れている。
入口は三つ。
正面。
東側。
裏手。
情報では、人質は二階に拘束されている。
指揮官からの確認は短かった。
「一班は正面。二班は東側で陽動。東と南条は裏手から二階へ。人質を確保次第、正面に合流」
「了解」
南条が言った。
伊織は黙って頷いた。
作戦に問題はない。
嫌な感じが、あるだけだ。
三分後、陽動が始まった。
伊織と南条は裏手に回った。
雨で足元が滑る。
錆びた鉄の匂いがした。
工場の壁は古く、隙間から内部の声が漏れてくる。
怒鳴り声。
泣き声。
それだけで、中の状況は分かる。
裏口の鍵は、南条が三秒で外した。
無言で先に入る。
伊織が続く。
建物の中は暗かった。
雨音が屋根を叩いている。
足元には水たまりがある。
懐中電灯は使わない。
工場内に差し込むわずかな外光だけで動く。
一階は広い。
廃材が積まれ、通路が複雑に入り組んでいた。
鉄の階段を上る。
二階。
南条が先に角を確認する。
指で合図した。
一人いる。
伊織は動いた。
後ろから近づき、首に腕を回す。
三秒。
音はなかった。
南条が頷く。
奥の部屋に近づく。
扉の隙間から、声が聞こえた。
男の声。
一人。
そして、女の泣き声。
南条が扉の横に張りつく。
伊織も反対側に位置を取る。
三。
二。
一。
扉が蹴破られた。
南条が先に入る。
銃声。
一発。
伊織は壁に体をつけたまま、角から覗いた。
男は倒れていた。
腕を撃たれ、床に伏せている。
南条が人質に近づいた。
縄を切る。
女が泣きながら立ち上がった。
男の方は、意識が朦朧としている。
「行ける?」
南条が女に聞く。
「は、はい……」
「俺の後ろについて来い。東、先導する」
伊織が先頭に出た。
その瞬間だった。
下から、音がした。
爆発音ではない。
もっと小さい。
くぐもった、金属の音。
起爆装置の音を、伊織は知っていた。
「南条――」
声が出るより先に、階段の踊り場に人影が現れた。
三人目。
情報通り、犯人は三人だったはずだ。
だが、その三人目がまだ動いていた。
手に、黒い箱を持っている。
起爆装置。
「動くな! 動いたら押す!」
男は叫んだ。
目が据わっている。
追い詰められた人間の目だ。
交渉の余地がない目だった。
伊織は銃口を向けた。
狙える。
頭部。
右腕。
どちらでも、一発で止められる。
距離は七メートル。
条件は悪くない。
だが、男の親指は起爆スイッチに触れていた。
もし、撃った瞬間に痙攣すれば。
もし、倒れる時に腕が動けば。
もし、その親指が、わずかに沈めば。
「東」
南条が低く言った。
「人質を連れて先に行け」
「お前は」
「俺が交渉する」
「一人では――」
「それが命令だ」
南条の声に、力があった。
有無を言わせない声だった。
こういう時の南条には、逆らえない。
伊織は動いた。
人質の女の腕を取り、男の横を抜ける。
階段へ向かう。
後ろで南条が話し始めた。
低い声。
落ち着いた声。
怒鳴らず、急かさず、男の言葉に耳を傾けるように話す南条の声が、遠ざかっていく。
伊織は階段を降りた。
人質を連れて、一階へ出た。
裏口まで、五メートル。
そこで、足が止まった。
止まってしまった。
動かそうとした。
動かなかった。
理由を探した。
見つからなかった。
本能が止めていた。
いや、違う。
恐怖が、止めていた。
南条がいなくなることへの恐怖。
「行って!」
女が叫んだ。
「早く!」
伊織は動けなかった。
その時、二階から声が聞こえた。
男の怒鳴り声。
南条の声は聞こえなくなっていた。
交渉が、破綻した。
分かった。
「逃げろ」
伊織は女の背中を裏口へ向かって押した。
「走れ!」
女が走り出した瞬間、爆発音がした。
一階の壁が揺れた。
天井から埃が落ちた。
爆発は小規模だった。
外壁までは抜けない。
だが、建物の内部には十分だった。
伊織は階段に向かって走った。
命令違反だった。
人質を確保したら、合流する。
そう指示されていた。
だが、走っていた。
二階に戻った。
煙が充満している。
天井の一部が落ちていた。
男は倒れていた。
南条は、壁際にいた。
立っていた。
立っているように、見えた。
近づく。
南条の右手が、壁を押さえていた。
左手は、腹を押さえていた。
爆発の破片が刺さっていた。
「南条」
南条は伊織を見た。
笑っていた。
信じられないことに、笑っていた。
「命令を無視するな」
「うるさい」
伊織は南条の腕を取り、肩を貸した。
南条の体が、思っていたより重かった。
重くなっていた。
「歩けるか」
「歩ける」
「本当か」
「……たぶん」
伊織は南条を支えて、廊下に出た。
煙が濃い。
建物全体に軋む音がある。
二次崩壊の可能性があった。
急がなければならなかった。
階段まで、三メートル。
南条の足が、一度だけ止まった。
「南条」
「……動く。大丈夫だ」
動いた。
階段を降りながら、伊織は南条の腹の傷を確認した。
深い。
分かった。
分かってしまった。
一階に出た。
外から、仲間たちが駆け込んでくる声がした。
「東!」
「南条が傷を負った。腹部。早く」
声は出た。
それだけは出た。
あとは何も言えなかった。
南条が伊織の肩に寄りかかったまま、少しだけ笑った。
「なあ」
「何だ」
「俺、今夜外食しようと思ってたんだよな」
「……うるさい」
「予約入れてた。お前の好きな店」
「……知らない」
「嘘つけ。知ってるだろ」
南条の声が、かすかに変わった。
笑ったまま、変わった。
「東」
「何だ」
「あの店、また行こうな」
伊織は何も言えなかった。
言えなかった。
声が出なかった。
目が熱かった。
「……ああ」
ようやく、それだけ言った。
南条は目を閉じた。
笑ったまま。
それが、最後だった。
◆
病院の廊下は白かった。
蛍光灯の下で、伊織は椅子に座っていた。
手術は四時間かかった。
それだけの時間があった。
それだけの時間、考えた。
七メートル。
狙える距離だった。
撃てた。
撃てたはずだった。
あの時、伊織は撃てなかった。
人型の標的に向けると、引き金が遅れる。
射撃訓練で、南条に指摘されていたことだった。
「人を撃つのに躊躇がある方が、人間らしい」
南条はそう言っていた。
だが、その躊躇が南条を死なせた。
それとも、撃っていれば、起爆スイッチが押されたのか。
分からない。
永遠に、分からない。
だから余計に、考え続ける。
医師が出てきた。
言葉は短かった。
伊織は聞いた。
理解した。
何も感じなかった。
感じ方を、忘れていた。
廊下の窓から、夜明けの空が見えた。
雨は上がっていた。
◆
三日後、伊織は上官に呼ばれた。
内容は短かった。
命令違反。
単独での引き返し。
それが南条の死を招いた可能性。
逆に、それが南条を助けた可能性。
調査中だから、今は動くな。
それだけだった。
伊織は何も言わなかった。
言うべき言葉が見つからなかった。
南条は命令通りに行けと言った。
伊織は逆らった。
結果は変わらなかった。
では、何が間違っていたのか。
撃てなかったことか。
足が止まったことか。
最初から、引き返すべきではなかったのか。
答えはない。
ある夜、伊織は自室の机の前に座っていた。
手元に、仕事で使っていた小さなナイフがあった。
何をするつもりだったのかは、今もよく分からない。
ただ、何かを確かめたかった。
生きている感覚なのか。
罰なのか。
それすら分からなかった。
刃を、左手のひらに当てた。
浅く引いた。
痛みがあった。
血が出た。
それで、止めた。
南条が生きていたら、怒る。
そう思った。
「余計なお世話をするのが俺の仕事だから」
そう言いながら、たぶん本気で怒る。
伊織はナイフを置いた。
傷は浅かった。
それでも、跡は残った。
残り続けた。
消えなかった。
◆
辞表を出したのは、それから二週間後だった。
上官は引き止めなかった。
引き止める理由が、どちらにもなかった。
その後のことは、あまり覚えていない。
小さなアパート。
食事をしていたのか。
眠っていたのか。
起きていたのか。
分からない。
分かるのは、ゲームだけだった。
フルダイブVR。
『STEEL REQUIEM』。
荒廃した世界で、銃を持って戦う。
その世界では、躊躇いは敵だ。
引き金を引けば、標的は倒れる。
倒れれば、次へ進める。
そこには、間に合わなかった夜も、足が止まった廊下も、白い病院の椅子もない。
あるのは、撃つことと、撃たないこと。
その二択だけだった。
だから、伊織は撃ち続けた。
南条の代わりに。
南条が守れなかった時間の分だけ。
撃ち続けていれば、何かが償えると思っていた。
今になって思えば、そんなことはない。
だが、あの頃は、そう思うしかなかった。
◆
夢が、終わる。
いつも同じ場所で終わる。
廃工場。
煙。
雨。
南条の笑顔。
「あの店、また行こうな」
南条は、最後まで死ぬ話をしなかった。
次の飯の話をした。
また行こうと言った。
それはたぶん、南条なりの命令だった。
生きろ、という意味だった。
目が覚めた。
天井が見える。
ダストヘイブンの宿の天井だ。
木製の梁。
薄い染み。
知らない街の、知らない天井。
だが、見慣れた天井になりつつある。
クロが足元で丸まっている。
寝息は静かだった。
伊織は右手を見た。
何もない。
ただの手だ。
だが、奥に何かがある。
記憶の重さが、形になりかけている。
鋼鉄の感触。
あの世界で撃ち続けた感触。
雨と、鉛の重さ。
銃は捨てられなかった。
あの夜から、伊織の体は、銃を持っていない自分を忘れた。
手が空になるたびに、何かが足りない感覚が来た。
それが、この世界でも続いている。
銃を出す。
銃を出さない。
もう、その二択だけではなくなりつつある。
今は、選ぶことができる。
止めることも。
守ることも。
引かない線を決めることも。
それは、あの廊下では持っていなかったものだ。
伊織は左手を見た。
薄い傷跡が、ある。
消えなかった。
消えなくていい。
残っていれば、忘れない。
南条が死んだ夜を。
足が動かなかった廊下を。
七メートルの距離を。
笑ったまま目を閉じた顔を。
伊織は体を起こした。
クロが顔を上げる。
「起こしたか」
クロは鼻を鳴らした。
違う、と言っているようだった。
窓の外には、まだ暗い空があった。
二つの月が、薄く残っている。
ヴァルターは近い。
線を引かない男が、来る。
伊織は右手を握った。
南条。
お前が最後に飯の話なんかするから、俺はまだここにいる。
あの店には、もう行けない。
お前とは行けない。
でも、俺はまだ生きている。
だから、今度は俺が守る番だ。
守れなかった七メートルの代わりに。
笑って目を閉じたお前の代わりに。
守る場所を決める。
踏み越えさせない線を、引く。
それが、お前の「また行こうな」への、俺なりの返事だ。
クロが立ち上がった。
隣に来た。
温かい。
「行くぞ」
クロが、小さく鼻を鳴らした。
返事に聞こえた。
気のせいではないかもしれない。
伊織は窓の外を見た。
夜明けが、近かった。




