第18話 踏み越えさせない線
夜明け前のダストヘイブンは、まだ眠っていた。
砂を含んだ風が、路地の隙間を低く流れている。
宿の窓から見えた空には、二つの月が薄く残っていた。東の地平線だけが、わずかに白み始めている。
伊織は外套を羽織り、階段を下りた。
クロが足元を歩く。
宿の主人はまだ起きていない。
厨房の火も入っていない。
だが、ギルドへ続く道には、夜通し見張りに立っていたハンターの影があった。屋根の上にも、二つの人影が見えた。
ヴァルターが動いた。
治癒室への脅迫。
証拠品保管庫の金属蜘蛛。
線を引かない男。
伊織は右手を握った。
まだ、黒鋼警棒の感触が残っている。
完全ではない。
握れば崩れる。
打てば揺らぐ。
それでも、前よりは少しだけ形に近づいている。
夢の中で、雨が降っていた。
七メートル。
撃てたはずの距離。
南条の笑った顔。
――あの店、また行こうな。
南条は、死ぬ話をしなかった。
次の飯の話をした。
それを、伊織はずっと引きずっている。
生きろ、と言われた気がした。
だから、まだここにいる。
クロが足を止めた。
伊織も止まる。
ギルドの建物が見えた。
窓の明かりは、まだ消えていない。
治癒室。
証拠品保管庫。
屋根。
門。
地下通路。
守る場所がある。
前へ出る前に、守る場所を数える。
それが、今の伊織にできる最初のことだった。
「行くぞ」
クロが鼻を鳴らした。
返事に聞こえた。
◆
ギルドの中は、夜の匂いが残っていた。
眠れなかった者たちの息。
冷えたスープ。
油の切れたランタン。
湿った革鎧。
食堂には、数人のハンターが仮眠を取っている。
壁際にはガルドが座っていた。
腕を組み、目を閉じている。
眠っているようにも見える。
だが、伊織が近づくと、片目を開けた。
「早いな」
「確認に来た」
「寝てねえ顔だ」
「夢は見た」
「それは寝たうちに入るのか?」
「知らない」
ガルドは小さく笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
「治癒室は無事だ。リナと子供たちもいる。見張りは二人。俺もここから動いてねえ」
「助かる」
「礼を言われる筋合いじゃねえ。俺も気に食わねえだけだ」
「そうか」
「証拠品保管庫は封印を増やした。屋根にも二人。地下通路はエルナが鍵を変えた」
「早いな」
「あの受付嬢、怒ると仕事が速えんだ」
伊織は少しだけ頷いた。
クロが治癒室の方へ鼻を向ける。
嫌な匂いはしないらしい。
その時、廊下の奥からアリアが歩いてきた。
髪は簡単に結ばれている。
目元に少し疲れがあった。
だが、歩き方はしっかりしていた。
「東さん」
「起きていたのか」
「確認作業をしていました」
「寝ていないな」
「あなたに言われたくありません」
「そうだな」
アリアは伊織の顔を見た。
「夢を見たんですね」
伊織は少しだけ黙った。
「ああ」
「悪い夢ですか」
「古い夢だ」
アリアはそれ以上聞かなかった。
ただ、伊織の左手に視線を落とした。
手袋をしていない左手。
薄い傷跡が、掌の端に残っている。
アリアは一瞬だけ目を止めた。
だが、何も言わなかった。
伊織も隠さなかった。
クロが二人の間で鼻を鳴らした。
重い空気を嫌ったようだった。
「治癒室を見る」
伊織が言うと、アリアは頷いた。
「一緒に行きます」
◆
治癒室の中は、静かだった。
ミナとトトは眠っている。
首元の魔法印は薄くなっていた。完全には消えていないが、アリアの封印で暴走は抑えられているらしい。
リナは椅子に座って、二人の寝台の間にいた。
眠っていない。
眠るつもりもなかったのだろう。
狸耳は少し伏せている。
尻尾は膝の上で丸まっていた。
伊織が入ると、リナは顔を上げた。
「おはよう、でいいのかな」
「まだ夜だ」
「じゃあ、何て言えばいいの」
「知らない」
「相変わらず不親切」
リナは少し笑った。
それから、伊織の顔を見て首を傾げた。
「昨日より、少し怖くない顔してる」
「そうか」
「うん。まだ怖いけど」
「そうか」
「そこは否定してよ」
「事実なら仕方ない」
リナは小さく笑った。
アリアが寝台の横へ行き、双子の状態を確認する。
手をかざし、魔力の流れを見る。
「安定しています。薬の反応も弱まっています」
「本当?」
「はい。ただ、しばらくは安静が必要です」
リナはほっと息を吐いた。
「よかった」
その声は、ひどく柔らかかった。
アリアは少しだけ表情を緩めた。
「リナさんも休んでください」
「無理」
「即答ですね」
「この子たちが起きるまでは無理」
「倒れます」
「倒れないように座ってる」
「そういう問題ではありません」
リナはアリアを見上げた。
「アリアさんも寝てないでしょ」
「私は必要な確認をしていました」
「言い方が違うだけで、寝てないよね」
「……そうとも言います」
リナが勝ったように少し笑った。
アリアは軽く咳払いした。
伊織は窓へ近づいた。
木板で塞がれている。
外からは見えない。
だが、隙間はある。
ここに鎖片が置かれていた。
ヴァルターは、ここまで近づける。
それを示した。
「伊織さん」
リナが小さく呼んだ。
「何だ」
「今日、来ると思う?」
「来る」
リナの耳が伏せた。
アリアも伊織を見る。
「断言しますね」
「来なければ、脅しの意味が薄い」
「はい。私も同意見です」
「でも、こっちは守る場所を決めてる」
リナは双子の手を握ったまま言った。
「だから、私はここから動かない」
伊織は少しだけリナを見た。
「正しい」
「でしょ」
「勝手に動かなければな」
「信用ないなあ」
「積み重ねだ」
リナは頬を膨らませた。
アリアが小さく笑った。
クロは寝台の下へ入り込み、丸くなった。
守るように。
その時だった。
ギルド全体が、低く鳴った。
木ではない。
石でもない。
金属が、建物の奥で軋む音。
伊織は顔を上げた。
アリアの表情が変わる。
「始まりました」
リナが双子を抱き寄せる。
クロが寝台の下から飛び出した。
廊下の向こうで、ハンターの怒号が響く。
「外壁の鉄材が動いてるぞ!」
「扉を押さえろ!」
伊織は治癒室の扉へ向かった。
そこで足を止める。
前へ出るな。
まず数えろ。
治癒室。
双子。
リナ。
アリア。
クロ。
廊下。
出入口。
ここが線だ。
踏み越えさせない場所。
「治癒室を中心に守る」
伊織は言った。
「外には出ない」
アリアが一瞬だけ目を見開いた。
リナも驚いた顔をした。
クロだけが、少し満足そうに鼻を鳴らした。
「東さん」
アリアが言った。
「はい。それが正しいです」
「配置を」
「私が扉の後ろで支援します。リナさんは子供たちのそばから動かないでください。クロは廊下の低い位置。東さんは前。ガルドさんが来るまで、ここで止めます」
「分かった」
リナが頷いた。
「私は動かない。でも、何か手伝えるなら言って」
「声をかけ続けてください」
アリアが言った。
「子供たちが目を覚ました時、あなたの声が一番効きます」
「……うん」
リナはミナとトトの手を握った。
「ミナ、トト、大丈夫。リナ姉がここにいるからね」
伊織は扉を開けた。
廊下に出る。
ギルドの壁のあちこちから、金属音が響いていた。
釘が抜ける音。
蝶番が軋む音。
古い補強材が曲がる音。
武器庫の方から、剣が鞘を叩くような音が聞こえる。
ギルドそのものが、牙を剥き始めていた。
◆
廊下の先で、鉄の蝶番が床に落ちた。
ひとつ。
ふたつ。
それらは床の上で震え、近くに落ちていた釘や鎖片を引き寄せた。
かちり。
かちり。
金属同士が組み合わさる。
刃を広げた形の何かが、廊下を這い始めた。
左右に伸びた刃の脚。
中央には古い鍵束と鉄板。
前面には折れた短剣の刃。
「刃脚型……いえ、即席の構造兵器です」
アリアが低く言った。
「ヴァルターが、ここにある金属で組ませています」
狙いは、治癒室。
伊織は右手を開いた。
スタングレネードは違う。
あれは人間や獣の感覚を奪う道具だ。
目も耳もない金属片には効きにくい。
銃も違う。
廊下は狭い。
弾けば破片が飛ぶ。
後ろには治癒室がある。
なら、止める。
鋼線拘束具。
黒い短筒が右手に生まれる。
伊織は刃脚型の前ではなく、廊下の左右の柱へ向けて鋼線を放った。
黒い線が走り、柱と柱の間に張られる。
即席の障壁。
刃脚型が突っ込んだ。
鋼線が軋む。
脚の刃が線を削る。
「強引に切るつもりです!」
アリアが後ろから言う。
「分かってる」
伊織は鋼線を引き、角度を変えた。
脚そのものではなく、進路をずらす。
床を滑らせる。
壁へぶつける。
金属の体が石壁に衝突し、火花が散った。
だが、壊れない。
むしろ、壁から剥がれた鉄の補強具を取り込み、脚を増やした。
「増えたぞ」
「構造支配です。周囲の金属を取り込んでいます」
「面倒だな」
「はい」
廊下の奥から、さらに二体が現れた。
小型。
だが速い。
床を這い、壁を走る。
伊織はアイギスを出しかけた。
だが、連続で受ければ削られる。
守るための盾。
だが、受け続ける盾ではない。
伊織は一体目の跳躍にだけ合わせた。
右手の前に黒い薄板。
刃脚がアイギスに当たる。
盾は傷つかない。
胸の奥から、魔力が抜ける。
すぐに消す。
長くは出さない。
二体目はクロが横から弾いた。
牙ではなく、体当たり。
金属音が響く。
クロの足が床を滑る。
「クロ!」
リナの声が治癒室から響いた。
クロは踏みとどまり、低く唸った。
アリアの風が廊下を走る。
接続点を狙う細い風。
一体の脚が外れ、床に転がる。
だが、その脚はすぐに震え、別の本体へ吸い寄せられた。
「切り離しても戻るのか」
「命令が残っている限り、再接続します」
「なら、命令の中心を壊す」
「中央の核です。鍵束の奥、黒い歯車」
伊織は目を細めた。
核。
小さい。
動きも速い。
銃なら撃てる。
だが、撃てば破片が飛ぶ。
治癒室の扉まで距離が近い。
ここで必要なのは、叩き落とす道具。
黒鋼警棒。
伊織は右手を握った。
黒い粒子が集まる。
細長い輪郭。
手首に馴染む重さ。
訓練場で掴みかけた感触。
枯れ井戸跡で、ゼクトの刃を弾いた感触。
殺すためではない。
止めるため。
落とすため。
形になれ。
黒い警棒が、右手に現れた。
まだ揺らいでいる。
だが、昨日より長く保っていた。
伊織は前へ出た。
一体目の刃脚を払う。
金属音。
手首に重みが来る。
警棒は崩れない。
二撃目。
核の手前に伸びた脚を叩き落とす。
三撃目。
中央の黒い歯車へ向けて振る。
刃脚型が身体を沈め、躱そうとする。
その瞬間、右手の警棒が揺らいだ。
輪郭が崩れかける。
まずい。
伊織は奥歯を噛んだ。
背中に、温かいものが触れた。
アリアの手だった。
「呼吸を合わせてください」
「何をする」
「支えます」
アリアの声は近かった。
戦闘の中なのに、妙に静かだった。
「補給か」
「正確には、同調です。あなたの形を、こちらから支えます」
「危険は」
「あります」
「なら――」
「今、必要です」
アリアの手から、細い熱が流れ込む。
右手の冷えが、少しだけ和らいだ。
崩れかけていた黒鋼警棒の輪郭が、もう一度固まる。
伊織は息を吐いた。
アリアの呼吸が、背中越しに分かる。
一度。
二度。
合わせる。
右手の警棒が、わずかに重くなった。
刃脚型が跳ぶ。
伊織は警棒を振った。
黒い棒が、中央の歯車を正確に打つ。
硬い音。
黒い歯車が弾けた。
刃脚型の動きが止まる。
脚がばらばらに崩れ、床へ落ちた。
アリアの手が背中から離れる。
伊織の警棒も、同時に粒子になって崩れた。
だが、今度は完全に失敗した感覚ではなかった。
叩けた。
止められた。
「今のは」
伊織が言う。
アリアは少しだけ息を乱していた。
「同調補助です。長くはできません」
「負担は」
「あります」
「やめろと言えば」
「聞きません」
「だろうな」
「はい」
クロが短く吠えた。
廊下の奥。
残り二体が、合体し始めていた。
壊れた脚。
剥がれた蝶番。
落ちた短剣。
釘。
鎖。
それらが集まり、さっきより大きな形へ変わる。
治癒室の扉の内側で、リナの声が聞こえる。
「大丈夫。大丈夫だから。ミナ、トト、耳塞いでて」
双子が起きたのかもしれない。
伊織は一歩も下がらなかった。
「アリア」
「はい」
「次で止める」
「分かりました」
アリアはもう一度、伊織の背中に手を当てた。
今度は迷いがない。
細い熱が流れ込む。
伊織は右手を握る。
黒鋼警棒。
形になれ。
黒い棒が現れる。
前よりも少しだけ安定している。
完全ではない。
だが、今は十分だ。
大型化した刃脚型が突進した。
伊織は真正面から受けなかった。
アイギスなら受けられる。
だが、受ければ削られる。
だから、ずらす。
警棒で刃脚を横へ弾く。
鋼線拘束具で床の柱に絡める。
クロが低く飛び込み、片脚の動きを止める。
アリアの風が核を露出させる。
全員で、一体を止める。
伊織は踏み込んだ。
警棒を振り下ろす。
黒い歯車が砕けた。
金属の体が崩れる。
釘が床に散らばる。
鎖が静かに落ちる。
ギルドの廊下に、ようやく静寂が戻った。
伊織は警棒を握ったまま立っていた。
一秒。
二秒。
三秒。
それから、黒鋼警棒は静かに崩れた。
黒い粒子が朝の薄闇に溶けていく。
アリアの手も、背中から離れた。
伊織は振り返る。
「大丈夫か」
「それは私の台詞です」
「顔色が悪い」
「あなたもです」
アリアは少しだけ笑った。
疲れた笑みだった。
だが、確かに笑っていた。
「でも、止められました」
「ああ」
クロが足元に戻ってきた。
左前脚に小さな傷がある。
伊織がしゃがむと、クロは顔を逸らした。
「後で見せろ」
クロは鼻を鳴らした。
嫌そうだった。
治癒室の扉が少し開く。
リナが顔を出した。
「終わった?」
「この場は」
「その言い方、嫌なんだけど」
「事実だ」
「知ってる。でも嫌」
リナは伊織の後ろに立つアリアを見た。
それから、伊織の背中を見た。
何かを察したように、少しだけ目を細める。
「アリアさん、今、何したの?」
「魔力同調です」
「手、背中に当ててたよね」
「必要な処置です」
「ふうん」
「何ですか」
「別に」
「別に、という顔ではありません」
「アリアさんも、だいぶ分かりやすくなってきたね」
アリアは黙った。
伊織はよく分からなかったので、床の金属片を見ることにした。
◆
ギルドの外から、拍手が聞こえた。
一度。
二度。
乾いた音。
廊下の全員が振り向いた。
朝の薄明かりの中、正面扉がゆっくりと開く。
開けた者はいない。
蝶番が勝手に軋み、扉が左右へ押し開かれていく。
その向こうに、男が立っていた。
長い外套。
整えられた髪。
細い手袋。
感情の薄い目。
軽さがない。
笑っていないのに、相手を見下ろしている。
ガルドが低く言った。
「見張りはどうした」
男は視線だけを向けた。
「眠っている」
少し間を置いて、付け加える。
「殺してはいない。今はまだ」
食堂の空気が冷えた。
男はギルドの敷居の前で足を止めた。
中には入らない。
ただ、こちらを見ていた。
「見事だ」
男は静かに言った。
「ただの火器使いではないらしい」
ヴォルフとガルドが食堂側から駆けつける。
ガルドが斧を構えた。
「ヴァルターか」
「そう呼ばれている」
男はあっさり答えた。
アリアの顔が硬くなる。
「構造支配を遠隔で維持していたのですか」
「維持ではない。命令を与えただけだ。あの程度の鉄屑なら、考えさせる必要もない」
ヴァルターの視線が、床に散らばる金属片へ落ちる。
まるで壊れた道具を見るような目だった。
命がないものを見る目。
そして、同じ目で伊織を見る。
測っている。
使えるか。
壊せるか。
折れるか。
その基準で見ている。
「東伊織」
名前を呼ばれた瞬間、右手の奥が冷えた。
「君の鋼鉄は、内側から生まれる」
ヴァルターは続けた。
「記憶。意志。感情。なるほど、不安定だが面白い」
伊織は黙っていた。
「私の鋼鉄は、外側を従える」
ヴァルターが指を動かす。
床に落ちていた釘が一本、わずかに震えた。
伊織が一歩前に出る。
クロが唸る。
ヴァルターは手を下ろした。
「安心したまえ。今日はここまでだ」
「何をしに来た」
伊織が聞く。
「確認だ」
「確認?」
「君が、どこに線を引くのか」
ヴァルターの目が、治癒室の扉へ動いた。
リナが双子を庇うように立つ。
アリアがすぐにその視線を遮った。
伊織はヴァルターから目を逸らさない。
「ここだ」
伊織は言った。
「ここから先は、越えさせない」
ヴァルターは初めて、薄く笑った。
「言葉はいい」
彼は踵を返しかけ、最後にもう一度だけ振り返った。
「オルドレインは君を欲しがっている」
アリアの肩がわずかに揺れた。
「だが、私は違う」
それだけ言って、ヴァルターは外へ出た。
扉が勝手に閉まる。
食堂の空気が冷えた。
ガルドが低く唸る。
「何が違うんだ、あの野郎」
誰も答えなかった。
答えが分からなかった。
それが、余計に嫌だった。
追うべきか。
伊織は一瞬考えた。
だが、動かなかった。
治癒室がある。
守る場所がある。
ここを離れない。
アリアが静かに息を吐いた。
「追わないのですね」
「ああ」
「正しい判断です」
「だろうな」
「ですが、珍しいです」
「積み重ねだ」
アリアは少しだけ目を丸くした。
それから、小さく笑った。
「はい」
クロが伊織の足元に寄ってきた。
リナが治癒室の扉から、まだ外を見ている。
「今のが、ヴァルター?」
「ああ」
「嫌な人」
「そうだな」
「ゼクトより嫌」
「分かりやすい分、厄介だ」
伊織は床に散った金属片を見た。
ギルドそのものを武器に変える男。
線を引かない男。
そして、「だが、私は違う」と言った男。
その先を言わなかった。
言わないまま去った。
伊織は右手を握った。
黒鋼警棒の感触は、まだ掌に残っている。
今度は崩れなかった。
ほんの数秒だけ。
それでも、守る線の上に立つには十分だった。
◆
戦闘後の治癒室は、さっきよりも静かだった。
ミナとトトはまた眠っている。
リナは二人のそばで、クロの前脚に布を巻いていた。
「動かないで」
クロは不満そうに顔を逸らす。
「えらいえらい。すごく強かったよ」
クロの耳が少しだけ動いた。
「褒められるのは嫌いじゃないんだ」
クロは聞こえないふりをした。
伊織は椅子に座っていた。
今度は自分から座った。
アリアがその前に立っている。
「手を出してください」
「魔力補給か」
「はい」
アリアは少し間を置いた。
「それと、確認です」
「何の」
「同調の影響です。先ほど、戦闘中に無理に繋ぎましたから」
「負担は」
「少しあります。でも、問題ありません」
「それは大丈夫とは違う」
アリアは伊織を見た。
「覚えましたね」
「便利だからな」
「不便です。周囲が」
「そうだったな」
伊織は右手を出した。
アリアはその手を取った。
いつもの魔力補給より、少しだけ指が深く重なった。
伊織の手は冷えていた。
アリアの手は、思ったより温かい。
だが、その指先も、わずかに冷えていた。
魔力が流れ込む。
熱ではない。
水でもない。
細い光の糸のようなものが、手のひらから右腕へ入ってくる。
右手の奥で沈んでいた鋼鉄の感触が、少しだけ静まった。
「痛みますか」
アリアが聞いた。
「少しな」
「なら、もう少しこのままで」
「治療か」
「治療です」
クロが鼻を鳴らした。
リナもこちらを見ていた。
アリアは二人の視線を感じたのか、少しだけ耳を赤くした。
「治療です」
「二回言ったな」
「必要な確認です」
「そうか」
「そうです」
リナがにやにやしている。
「いいね、治療」
アリアが静かにリナを見た。
「必要な処置です」
「うんうん。必要だよね」
「何か含みがありますね」
「ないよ」
「あります」
伊織は二人を見た。
何か、また別の戦いが始まりそうだった。
だが、今は手を離さなかった。
魔力が戻ってくる。
右手の冷えが少しずつ引いていく。
その代わり、胸の奥に残っているものは消えない。
ヴァルターの言葉。
――だが、私は違う。
その先が、分からない。
分からないまま、去った。
伊織はアリアの手を握り返した。
ほんの少しだけ。
アリアの指が、ぴくりと動いた。
「東さん?」
「折れない」
伊織は言った。
アリアはしばらく黙っていた。
それから、静かに頷いた。
「はい」
リナも、クロも、何も言わなかった。
窓の外では、夜明けの光が街の砂を照らし始めていた。
守る場所は、増えた。
守る線も、増えた。
それは面倒だった。
だが、もう悪いことではなかった。
伊織は右手の奥に残る黒鋼警棒の感触を確かめた。
次は、もっと長く保つ。
次は、もっと確かに止める。
撃つためではなく。
守るために。
踏み越えさせない線の上で、伊織は静かに息を吐いた。




