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第15話 子供のいない場所

 壁に刻まれた文字は、夕暮れの赤い光の中で黒く沈んでいた。


 ――黒鉄の異邦人へ。

 ――次は、子供のいない場所でやろうぜ。


 ゼクト。


 差出人の名前はない。


 だが、名前などなくても分かる。


 あの軽い声。

 黒い鎖。

 曲刀。

 笑っているのに、どこか冷えた目。


 旧陶器工房の奥で、伊織はしばらくその文字を見ていた。


 ミナとトトは無事に保護された。


 リナは二人を抱きしめたまま、まだ離れようとしない。双子もリナの服を掴み、声を出せないトトは、代わりに小さな手で何度もリナの袖を握っていた。


 助かった。


 少なくとも、今は。


 だが、鉄鎖団は終わっていない。


 オルドレインの印も、薬瓶も、魔法印具も残っている。


 そして、ゼクトは見ていた。


 どこかで。


 この騒ぎを。


 子供を巻き込まない場所でやろう。


 その言葉だけを見れば、外道ではないようにも思える。


 だが、鉄鎖団の鎖は子供たちを縛っていた。


 ゼクト自身が直接やっていないとしても、同じ組織の刃であることに変わりはない。


 伊織は壁から視線を外した。


「戻るぞ」


 アリアが頷いた。


 クロが伊織の右手を嗅ぎ、低く鼻を鳴らす。


 黒鋼盾アイギスを使った後の魔力消費が、まだ残っているのだろう。


 胸の奥が空いている。


 足に重さがある。


 だが、歩ける。


 リナがこちらを見た。


「……行くの?」


「今は行かない」


「今は、って顔してる」


「そうか」


「そういう顔だよ」


 リナはミナとトトを抱き寄せたまま、唇を噛んだ。


「ゼクトって人、危ないんでしょ」


「ああ」


「なら、行かない方がいい」


「向こうが来る」


「だったら逃げればいい」


「逃げても、別の場所で誰かが巻き込まれる」


 リナは黙った。


 アリアが静かに言った。


「東さん一人で行かせるつもりはありません」


「そうだね。絶対そうして」


 リナは即答した。


 その素直さに、アリアが少しだけ瞬いた。


「……はい」


「この人、自分だけで何とかしようとする顔してるもん」


 リナが伊織を指差す。


「初対面でも分かるのか」


「分かるよ。そういう人、何人も見てきたから」


 リナの声が少しだけ低くなった。


「守るって言って、勝手にいなくなる人」


 伊織は返事をしなかった。


 アリアも何も言わない。


 ただ、クロが伊織の足元に座り、動かなかった。


 置いていくな。


 そう言っているようだった。



 ギルドへ戻る頃には、夜が近かった。


 救出されたミナとトトは治癒室へ運ばれた。


 リナはそのまま付き添った。


 治癒師に邪魔だと言われても、部屋の隅に座って動かなかった。


「邪魔なら小さくなるから」


 そう言って、実際に膝を抱えて小さく座った。


 ミナはその姿を見て、少しだけ笑った。


 それだけで、リナは泣きそうな顔になった。


 伊織は治癒室の外でそれを見ていた。


 子供のいない場所。


 ゼクトの言葉が、まだ頭に残っている。


「東」


 ガルドが声をかけてきた。


 肩の包帯は新しく巻き直されている。


 顔は険しい。


「ギルドマスターが呼んでる」


「ああ」


 伊織は歩き出した。


 アリアとクロも続く。


 リナが治癒室から顔を出した。


「イオリさん」


 伊織は振り返る。


「行くなら、私にも言って」


「今回は来るな」


「まだ何も言ってない」


「顔が言っている」


「それ、私の台詞」


 リナはむっとした顔をした。


 だが、双子の方を見て、唇を結んだ。


「……分かった。今回は、ここにいる」


 意外なほどあっさり引いた。


 伊織が少しだけ眉を動かすと、リナは不満そうに言った。


「何、その顔」


「いや」


「私だって、行っちゃいけない時くらい分かるよ」


「そうか」


「でも、勝手に死んだら怒るから」


「死ぬ予定はない」


「そういう人ほど死ぬの」


 リナの耳が伏せられる。


 アリアがその横顔を見た。


 そして、少しだけ静かな声で言った。


「行かせません」


 リナがアリアを見る。


 アリアは表情を変えずに続けた。


「東さんは、無茶をします。ですが、今回は私もクロもいます。ガルドさんもいます」


「……うん」


 リナは小さく頷いた。


「お願い」


 アリアは少しだけ目を伏せた。


「はい」


 そのやり取りを見て、伊織は少し不思議な気持ちになった。


 リナとアリア。


 まったく違う二人だ。


 だが、今だけは同じものを見ているように見えた。


 クロが鼻を鳴らした。


 早く行け、と言っているようだった。



 ギルドマスター室には、ヴォルフとガルド、数人の上位ハンターがいた。


 机の上には、旧陶器工房で回収した書類が広げられている。


 鉄鎖団の帳簿。

 オルドレイン式の保存箱。

 薬品管理表。

 黒鎖で刻まれた挑発文の写し。


 ヴォルフは低く言った。


「ゼクトが動く」


「もう動いている」


 伊織が言うと、ヴォルフは頷いた。


「だろうな。捕虜の口封じ、倉庫の監視、旧陶器工房の挑発。奴はこの街の近くにいる」


「場所は」


「向こうから指定してきた」


 ヴォルフは机の上に一枚の紙を置いた。


 黒い鎖の欠片に結びつけられていたものだという。


 紙には乱暴な文字で、場所だけが書かれていた。


 南門外。

 枯れ井戸跡。

 深夜。


 子供が近づくような場所ではない。


 街の外れ、使われなくなった石切場の近くだ。


 ガルドが舌打ちした。


「誘いに乗る必要はねえ」


 ヴォルフも同意するように腕を組んだ。


「罠の可能性が高い」


「行かなければ?」


 伊織が聞く。


「別の形で来るだろうな」


 ヴォルフは答えた。


「奴は遊び半分に見えるが、仕事は果たす。お前の戦力確認。できれば捕獲。最低でも警告。それが目的だ」


 アリアが静かに言った。


「そして、鉄鎖団内の誰かに対する示威でもあるかもしれません」


「どういう意味だ」


 伊織が問う。


「ゼクトは自分の行動を見せています。子供のいない場所で戦う、とわざわざ伝えてきた。それは東さんへの挑発であると同時に、鉄鎖団の中にいる誰かへの意思表示にも見えます」


 ガルドが眉を寄せた。


「あいつなりの線引き、ってやつか」


「はい」


 ヴォルフは重く息を吐いた。


「厄介な男だ」


「行く」


 伊織が言った。


 アリアがすぐにこちらを見た。


「東さん」


「一人では行かない」


 アリアの言葉が止まる。


 伊織は続けた。


「俺、アリア、クロ。ガルドも来るなら助かる」


「当たり前だ」


 ガルドが即答した。


「お前一人で行かせるかよ」


 ヴォルフはしばらく伊織を見た。


「目的は討伐ではない」


「ああ」


「捕獲できれば捕獲。無理なら撤退。ゼクトを追って深追いするな」


「分かった」


 アリアが伊織の横顔を見ていた。


「本当に?」


「本当だ」


「……少しは信用します」


「少しだけか」


「積み重ねです」


 ヴォルフが低く笑った。


「その通りだ」



 深夜。


 南門の外は、昼間とは違う寒さがあった。


 砂を含んだ風が低く流れ、草のない荒地を撫でていく。


 遠くに、使われなくなった石切場の影が見えた。崩れた石柱。割れた階段。枯れ井戸。


 二つの月は雲に隠れ、周囲は暗い。


 伊織は足を止めた。


 右手には黒い手袋。


 腰には短剣。


 隣にはアリア。


 少し後ろにガルド。


 足元にクロ。


 リナはいない。


 子供たちのそばに残った。


 それでいい。


 ここは、子供のいない場所だ。


「来ています」


 アリアが囁いた。


「魔力反応は薄いです。でも、金属の反応が複数。鎖です」


 クロが低く唸る。


 その声に応えるように、暗闇の奥から鎖の擦れる音がした。


 じゃらり。


 乾いた音。


 枯れ井戸の縁に、一人の男が座っていた。


 黒い外套。

 黒い革鎧。

 両腕に巻かれた黒い鎖。

 腰の曲刀。


 ゼクトだった。


「来たな」


 軽い声。


 まるで待ち合わせに遅れた友人へ声をかけるようだった。


「律儀だな、黒鉄の異邦人」


「誘ったのはお前だ」


「そりゃそうだ」


 ゼクトは井戸の縁から軽く飛び降りた。


 足音はほとんどない。


 ガルドが斧を構える。


「今日は逃がさねえぞ」


「怖いねえ、大斧のガルド」


「その呼び方をやめろ」


「気に入ってるんだがな」


 ゼクトは笑い、次にアリアを見る。


「銀髪の姫さんも来たか」


「その呼び方もやめてください」


「注文が多いな」


「あなたが不快な呼び方ばかりするからです」


「そりゃ悪い」


 悪いと思っていない声だった。


 クロが唸る。


 ゼクトはクロを見ると、少しだけ目を細めた。


「そいつもいるのか。いいね。だが今日は犬とはやらねえ」


「クロだ」


 伊織が言う。


「名前くらい覚えろ」


 ゼクトは一瞬きょとんとした。


 それから笑った。


「そういうところ、嫌いじゃねえよ」


「俺はお前が嫌いだ」


「だろうな」


 ゼクトは肩をすくめた。


 伊織は一歩前に出た。


「なぜ子供のいない場所を選んだ」


「巻き込むと面倒だから」


「それだけか」


「それだけだ」


 ゼクトは軽く言った。


 だが、目は笑っていなかった。


「子供を売る組織にいる男の台詞じゃないな」


「その話、好きだな」


「嫌いだからだ」


「俺も好きじゃねえよ」


 ゼクトの声から、少しだけ軽さが消えた。


「ガキを攫って薬漬けにする仕事なんざ、反吐が出る」


「なら止めろ」


「止められるなら、もう止めてる」


「逃げろ」


「逃げられるなら、もう逃げてる」


 前にも聞いた言葉。


 だが、今夜のゼクトは少し違った。


 軽口の奥に、苛立ちが見える。


 アリアが静かに言った。


「あなたは、自分が間違っていると分かっている」


「賢いな、姫さん」


「なら、なぜ続けるのですか」


 ゼクトは笑った。


「鎖ってのはな、見えてる分だけじゃねえんだよ」


 両腕の黒鎖を鳴らす。


「首にも、腹にも、昔にも、約束にも絡んでる。一本切ったくらいじゃ逃げられねえ」


 伊織は黙って聞いていた。


 ゼクトは伊織を見る。


「東伊織。お前なら分かるんじゃねえのか」


「何を」


「命令ってやつだ。組織ってやつだ。守るためだと言われて、汚い仕事を飲み込む感覚だよ」


 伊織の右手が冷えた。


 南条の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎる。


 命令。

 現場。

 判断。

 間に合わなかった背中。


「一緒にするな」


 伊織は低く言った。


 ゼクトは笑みを消した。


「そうか」


「ああ」


「なら、試すか」


 黒い鎖が地面に落ちた。


 じゃらり、と音がする。


「子供はいない。人質もいない。邪魔も少ない。お前が何を選ぶか見せろ」


 伊織は右手を開いた。


 銃。


 出せる。


 今なら撃てる。


 だが、それで終わるのか。


 ゼクトを撃ち殺せば、鉄鎖団の鎖は切れるのか。


 違う。


 ゼクトは敵だ。


 だが、ここで殺して終わる相手ではない。


「撃たねえのか」


 ゼクトが言う。


「撃たせたいのか」


「半分な」


「残りは」


「お前が撃たずにどこまでやれるか見たい」


 伊織は短く息を吐いた。


 面倒な男だ。


 だが、伊織自身も知りたかった。


 銃を使わず、どこまで止められるのか。


 右手の奥に、細長い鋼鉄の感触が沈んでいた。


 訓練場で、一度だけ輪郭を結びかけた黒い警棒。


 殺すためではない。


 受け、払い、落とすための道具。


 ゼクトとやるなら、必要になる。


 伊織は右手を握った。


 黒い粒子が滲む。


 銃ではない。


 盾でもない。


 鋼線でもない。


 近接で受け、払い、落とすための道具。


 黒い棒。


 だが、形はまだ揺らいでいる。


 ゼクトが目を細めた。


「何か出す気だな」


「さあな」


「いいねえ」


 ゼクトが動いた。


 速い。


 鎖が地面を走る。


 月明かりを受け、黒い線が蛇のようにうねった。


 伊織は横へ跳ぶ。


 足元の砂が弾ける。


 鎖は地面を打ち、すぐに軌道を変えた。


 右から。


 いや、違う。


 背後から。


 伊織は振り返らず、身を沈めた。


 鎖が頭上を通過する。


 その瞬間、ゼクトが懐に入っていた。


 曲刀。


 喉元。


 昨日と同じ軌道。


 伊織の右手が熱を持つ。


 黒い粒子が細長い形を作りかける。


 間に合え。


 刃が迫る。


 黒い棒が、伊織の手の中で一瞬だけ形を取った。


 黒鋼警棒。


 完全ではない。


 だが、確かにあった。


 伊織はそれで曲刀を弾いた。


 金属音。


 火花。


 ゼクトの目が見開かれる。


「へえ」


 次の瞬間、警棒はひび割れるように崩れた。


 黒い粒子になって消える。


 伊織は舌打ちする暇もなく後ろへ下がる。


 ゼクトの鎖が足首を狙った。


 伊織は跳び、着地と同時に短剣を抜く。


「今の、いいな」


 ゼクトが笑った。


「銃じゃねえ。盾でもねえ。近接用か」


「見れば分かるだろ」


「まだ不安定だな」


「ああ」


「なら形にしろよ。今ここで」


「注文が多い」


「俺は待つのが苦手でな」


 ゼクトが踏み込む。


 速い。


 伊織は短剣で受けず、体をずらした。


 アリアが後方から風を放つ。


 ゼクトの鎖の軌道がわずかに逸れる。


「おっと」


 ゼクトは笑いながら鎖を引き戻す。


「姫さん、邪魔がうまいな」


「その呼び方をやめなさい」


「怒った顔もいいねえ」


 次の瞬間、ガルドの斧がゼクトの横を薙いだ。


 ゼクトは身を反らして避ける。


 斧の風圧が外套を裂いた。


「怖っ」


「軽口叩く余裕があるか」


「あるから叩いてる」


 ゼクトはガルドの斧に鎖を巻きつけた。


 引く。


 ガルドは踏ん張る。


 地面がえぐれる。


 その隙に、伊織は右手を前に出した。


 鋼線拘束具。


 だが、ゼクトの身体には巻かない。


 危険だ。


 狙うのは、鎖。


 黒い短筒が一瞬だけ形を取る。


 細い鋼線が走った。


 ゼクトの鎖に絡みつく。


「お」


 ゼクトが目を輝かせる。


 伊織は引く。


 ゼクトの鎖の動きが一瞬止まった。


 ガルドが斧を引き抜く。


「助かった」


「一瞬だけだ」


 その通りだった。


 ゼクトが手首を返す。


 黒鎖が鋼線を巻き込み、力任せに引きちぎった。


 鋼線拘束具が粒子になって崩れる。


 右手が冷えた。


「脆いな」


 ゼクトが言う。


「未熟なんでな」


「いいじゃねえか。伸びしろだ」


「褒めるな」


「褒めてんだよ」


 ゼクトは笑った。


 だが、その笑みは楽しげなだけではなかった。


 何かを急いでいるようにも見える。


 アリアが小さく言った。


「東さん、長引かせてはいけません。周囲に別の反応があります」


「鉄鎖団か」


「いえ……遠くに複数。見張られている可能性があります」


 ゼクトの表情が、ほんの一瞬だけ変わった。


 伊織はそれを見逃さなかった。


「お前も監視されているのか」


 ゼクトは笑った。


「鋭いな」


「誰に」


「俺が話すと思うか?」


「話さないだろうな」


「分かってるじゃねえか」


 ゼクトの声が軽くなる。


 だが、答えにはなっていない。


 鉄鎖団の中で、ゼクトも完全に自由ではない。


 それは分かった。


「ゼクト」


 伊織は言った。


「お前は何をしたい」


「戦いたい」


「それだけじゃないだろ」


 ゼクトは黙った。


 ほんの一瞬。


 次に、笑った。


「今は、それだけでいい」


 鎖が再び走った。


 今度は速さが違う。


 本気に近い。


 伊織は黒鋼盾アイギスを出しかけた。


 だが、連撃を受ければ魔力を削られる。


 盾だけでは負ける。


 なら、受けるのは一発だけ。


 伊織は右手の前に黒い薄板を出した。


 鎖の一撃を受ける。


 盾は傷つかない。


 胸の奥から魔力が抜ける。


「っ」


 だが、受けた。


 次の一撃は受けない。


 アイギスを消し、伊織は前へ出た。


 ゼクトの懐へ。


 黒鋼警棒を思い出す。


 さっき一瞬だけ形になった。


 なら、もう一度。


 受ける。

 払う。

 落とす。


 殺すためではない。


 止めるための鋼鉄。


 右手に黒い粒子が集まる。


 細長い輪郭。


 手首に馴染む重さ。


 黒鋼警棒。


 今度は、少しだけ長く形を保った。


 伊織はゼクトの曲刀を打った。


 一撃。


 刃が横へ逸れる。


 二撃目。


 ゼクトの手首を狙う。


 ゼクトは笑いながら引いた。


「いいねえ!」


 鎖が横から来る。


 伊織は警棒で払おうとした。


 だが、そこまでだった。


 警棒にひびが入る。


 形が崩れる。


 黒い粒子が散った。


 鎖が伊織の肩を打った。


 衝撃。


 体が横へ飛ぶ。


 地面を転がる。


「東さん!」


 アリアの声。


 クロが走る。


 伊織は片膝をつき、立ち上がった。


 肩が痺れている。


 骨は折れていない。


 だが、重い。


「浅い」


 伊織が言うと、アリアが怒った声で返した。


「信用できません!」


「今のは本当に浅い」


「後で確認します」


 ゼクトは笑っていた。


 だが、先ほどより距離を取っている。


「今の、使えるようになったら面倒だな」


「なら待て」


「嫌だね」


 ゼクトは鎖を引いた。


 だが、その時。


 遠くで鳥の鳴き声のような音がした。


 一度。


 短く。


 ゼクトの顔から笑みが消えた。


 アリアが反応する。


「合図です」


 ガルドが斧を構え直した。


「仲間か」


「監視だよ」


 ゼクトは吐き捨てるように言った。


 初めて、軽さが完全に消えた。


「面倒くせえ」


 ゼクトは伊織を見る。


「今日はここまでだ」


「逃げるのか」


「逃げるさ。鎖に繋がれてる犬にも、戻る場所くらいはある」


 ゼクトは黒鎖を腕に巻き直す。


「東伊織。黒い棒、ちゃんと形にしとけ」


「何のために」


「次は、それを折る」


「折らせない」


「いい返事だ」


 ゼクトは笑った。


 だが、その笑みは少しだけ疲れていた。


「それと、一つだけ教えてやる」


 伊織は黙って聞いた。


「ヴァルターって名前に気をつけろ。あいつは俺みたいに線なんか引かねえ」


「鉄鎖団の幹部か」


「お前らが思ってるより、近くにいる」


 ゼクトは一歩下がる。


「子供も、女も、犬も関係ねえ。使えるものは全部使う。あいつはそういう男だ」


 クロが低く唸った。


 伊織の目が細くなる。


「なぜ教える」


「さあな」


 ゼクトは肩をすくめる。


「俺にも、気に食わねえことくらいあるんだよ」


 黒い煙玉が地面に落ちた。


 アリアが叫ぶ。


「煙幕!」


 黒煙が広がる。


 伊織は踏み込もうとした。


 だが、アリアの声が止めた。


「東さん、深追いは駄目です!」


 伊織は足を止めた。


 煙の向こうで、鎖の音が遠ざかる。


 じゃらり。


 じゃらり。


 やがて、音は消えた。


 煙が晴れた時、ゼクトはいなかった。


 地面には、黒い鎖の欠片が一つ落ちていた。


 その横に、短い文字が刻まれている。


 ――次は、そいつで来い。


 ガルドが吐き捨てた。


「ほんとに面倒な野郎だな」


「ああ」


 伊織は黒鎖の欠片を拾い上げた。


 右手は冷たい。


 黒鋼警棒は、まだ安定しない。


 だが、一瞬だけ形になった。


 ゼクトの刃を弾いた。


 それだけでも、前とは違う。


 アリアが伊織の肩を見た。


「戻ったら手当てします」


「ああ」


「逃げないでください」


「逃げない」


「本当に?」


「本当だ」


 アリアは少しだけ息を吐いた。


「少しは信用します」


 クロが伊織の右手に鼻を押しつけた。


 不満そうだった。


「分かってる」


 伊織は言った。


 分かっている。


 まだ足りない。


 ゼクトも、ヴァルターも、鉄鎖団も。


 この先、銃だけでは足りない。


 殺す力だけでは、守れない。


 子供のいない場所で、伊織は初めて黒鋼警棒を掴んだ。


 不安定で、脆く、すぐに崩れた。


 それでも、確かに掴んだ。



 ギルドに戻った時、リナは治癒室の前で待っていた。


 ミナとトトは眠っているらしい。


 リナは伊織の肩を見るなり、耳を伏せた。


「怪我してる」


「浅い」


 アリアが即座に言った。


「信用しないでください」


「うん、しない」


 リナは即答した。


 伊織は黙った。


 ガルドが横で笑う。


「信用ねえな」


「積み重ねらしい」


 伊織が言うと、アリアが頷いた。


「はい」


 リナは伊織の前に立った。


 いつもの近い距離。


 だが、今日は少しだけ遠慮があった。


「ゼクトに会ったの?」


「ああ」


「倒した?」


「逃げた」


「そっか」


 リナは少しだけ息を吐いた。


 安心したのか、残念だったのかは分からない。


「ゼクトは、子供を巻き込まなかった?」


「ああ」


「変な人だね」


「そうだな」


「でも、鉄鎖団なんだよね」


「ああ」


 リナは唇を噛んだ。


「じゃあ、やっぱり敵だ」


「そうだ」


 伊織は頷いた。


 ゼクトが何を考えていようと、今は敵だ。


 それは変わらない。


 だが、殺して終わる敵でもない。


 リナは伊織の右手を見た。


「何か掴めた?」


「少しな」


「何を?」


「警棒」


「けいぼう?」


「止めるための道具だ」


 リナは少し首を傾げた。


「イオリさんって、ほんとに変」


「五回目だ」


「数えないでよ」


 リナは小さく笑った。


 その笑顔を見たアリアが、静かに伊織の肩へ手を伸ばした。


「手当てします。今すぐ」


「ここでか」


「治癒室です」


「分かった」


 アリアの声はいつもより少し硬い。


 リナはそれを見て、何かを察したようににこりとした。


「アリアさん、ちゃんと見張っててね。この人、絶対逃げるから」


「はい。逃がしません」


「頼もしい」


「当然です」


 伊織は二人を見た。


 何か、別の戦いが始まっている気がした。


 だが、今は考えないことにした。


 肩が痛い。


 右手が冷たい。


 胸の奥には、まだゼクトの言葉が残っている。


 ヴァルター。


 線を引かない男。


 子供も、女も、犬も関係ない男。


 鉄鎖団の次の影は、もう近くにいる。


 伊織は黒鎖の欠片を握った。


 次に来る敵は、ゼクトより分かりやすいかもしれない。


 だが、分かりやすい敵ほど、容赦がない。


 右手の奥で、不完全な黒鋼警棒の感触が静かに沈んでいた。


 次こそ、形にしなければならない。


 殺すためではなく。


 守るために。

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