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第14話 旧陶器工房

 割れた窯の影で、人影が動いた。


 夕暮れの光は、旧陶器工房の奥までは届かない。崩れかけた煙突。積まれたままの薪。割れた皿の破片。焼き物の土と灰の匂い。


 その奥から、小さな声が聞こえた。


「……リナ姉?」


 リナの顔色が変わった。


「ミナ……?」


 彼女は反射的に飛び出そうとした。


 伊織は、その腕を掴んだ。


「離して」


「罠かもしれない」


「でも、今の声――」


「分かってる。だから止まれ」


 リナの耳が外套の下で震えていた。尻尾も隠しきれず、腰布の中で大きく揺れている。


 行きたい。


 今すぐ駆け寄りたい。


 その感情が、全身から出ていた。


 だが、彼女は伊織の手を振り払わなかった。


 唇を噛み、目に涙を浮かべながら、それでも踏みとどまった。


「……本当にいる」


 リナは掠れた声で言った。


「ミナの匂いがする。トトもいる。薬の匂いもする」


 アリアが目を細めた。


「魔力反応もあります。弱い反応が二つ。ですが、その近くに別の反応があります」


「鉄鎖団か」


 ガルドが低く言う。


「はい。少なくとも三人。奥にもう一つ、魔法具の反応があります」


 伊織は右手を開いた。


 銃ではない。


 まずは、止める。


 殺すためではない。


 助けるために、動きを奪う。


 黒い粒子が掌に集まり、小さな円筒を形作った。


 スタングレネード。


 前回の訓練より、形は安定していた。


 表面は艶のない黒。手の中に収まる大きさ。指先に、投げる角度と距離が自然に浮かぶ。


「耳を塞げ」


 伊織が言った。


 アリアはすぐに耳を押さえた。


 ガルドも眉をひそめながら従う。


 リナは一瞬遅れた。


 伊織は視線だけで促す。


「光と音が来る。目を閉じろ」


「分かった」


 リナは両手で耳を押さえ、ぎゅっと目を閉じた。


 クロはアリアの足元に下がり、耳を伏せる。


 伊織は窯の影へ向けて、黒い円筒を投げた。


 投擲の感覚は、身体が覚えている。


 手首の角度。

 落下位置。

 跳ね方。

 爆ぜるまでの間。


 円筒は割れた陶器の上で一度跳ね、窯の入口の内側へ転がった。


 次の瞬間、白い光が弾けた。


 爆音は、本物より抑えられている。


 それでも、工房の空気が震えた。


「ぐあっ!」


「何だ、今の――!」


 男たちの怒号が上がる。


 伊織はもう走っていた。


 光を見る位置にはいない。


 踏み込む。

 低く入る。

 声の位置を拾う。


 一人目は目を押さえて膝をついていた。


 伊織は手首を打ち、短剣を落とさせる。そのまま肘を極め、床へ倒した。


 二人目は弩を構えようとしていた。


 だが、焦点が合っていない。


 伊織が間合いを詰める前に、ガルドの木槌のような拳が男の腹に入った。


 男は声もなく崩れた。


「便利だな、今の」


 ガルドが言った。


「近くで受けたくはねえが」


「俺もだ」


 三人目は奥へ逃げようとしていた。


 アリアの風が足元を払う。


 男は転び、クロがその前に立った。


 牙を剥く。


 男は悲鳴を上げ、両手を上げた。


「殺すな」


 伊織が言うと、クロは低く唸るだけで噛まなかった。


 リナが駆け込んでくる。


「ミナ! トト!」


「待て」


 伊織は短く言った。


 リナは止まった。


 肩で息をしている。


 顔は泣きそうだったが、止まった。


 さっき条件を飲んだことを覚えていた。


 伊織は少しだけ頷いた。


「よく止まった」


「……褒めるなら後にして」


「そうだな」


 リナは目を閉じ、鼻を動かした。


 狸系の耳が外套の下でぴくりと動く。


「奥。窯の裏じゃない。下にいる」


「下?」


「地下の焼成室。昔の工房には、地下で温度を調整する通路があるの。そこから匂いが上がってる」


 アリアが床を見る。


 割れた陶器の破片。古い灰。崩れた棚。


 その下に、わずかな魔力の線が走っていた。


「隠し扉があります」


「開けられるか」


「魔法鍵ではありません。物理です」


 ガルドが近づき、床に手をかけた。


「なら任せろ」


 重い陶器棚を横へずらす。


 床板の一部に、黒い取っ手があった。


 ガルドが引く。


 軋んだ音とともに、地下への階段が現れた。


 むっとした空気が上がってくる。


 湿った土。古い灰。薬品。血。


 そして、子供の匂い。


 リナが息を呑んだ。


「いる」


 伊織は頷いた。


「俺が先に行く。アリアは後ろ。リナはその後ろ。ガルドは最後尾」


「私は?」


「俺の合図まで声を出すな」


「でも、あの子たちが怖がったら――」


「その時はお前の声がいる。だから今は温存しろ」


 リナは悔しそうに口を結んだ。


 だが、頷いた。


「分かった」


 伊織は階段を降りた。



 地下焼成室は、想像より広かった。


 古い窯の下に作られた空洞。壁は煤け、天井は低い。ところどころに古い通気孔があり、そこから夕方の赤い光が細く差し込んでいる。


 部屋の中央には、粗末な台があった。


 その上に、薬瓶が並んでいる。


 鉄鎖団のものではない。


 整いすぎている。


 ラベルも、瓶の形も、保管の仕方も。


 アリアが小さく言った。


「オルドレイン式の保存瓶です」


「セヴランか」


「おそらく」


 リナが低く唸るように言った。


「ここで、あの子たちに何をする気だったの」


 答えは、誰も言わなかった。


 部屋の奥から、かすかなすすり泣きが聞こえた。


 リナの体が震える。


「ミナ。トト」


 今度は伊織も止めなかった。


 ただ、右手を開いたまま周囲を見る。


 リナが一歩前へ出る。


「ミナ、トト。リナだよ。迎えに来た」


 物陰で何かが動いた。


 割れた大きな壺の裏。


 そこから、小さな狐耳が見えた。


「リナ姉……?」


 女の子の声。


 続けて、もう一つの影。


 男の子だろう。小さな手が、女の子の服を掴んでいる。


 リナはその場に膝をついた。


 近づきすぎない。


 手を伸ばしすぎない。


 声だけを、やわらかくした。


「うん。リナだよ。遅くなってごめんね」


「こわかった」


「うん」


「トト、声出せなくなった」


「うん。もう大丈夫。迎えに来たから」


 ミナと呼ばれた少女が壺の裏から出てきた。


 狐耳。細い腕。破れた服。


 その首元には、薄い赤い印があった。


 魔法印。


 アリアの表情が変わる。


「待ってください。首元に術式があります」


 リナが振り返る。


「何それ」


「強制睡眠か、追跡か……いえ、違う。これは――」


 アリアの声が硬くなった。


「魔獣処理薬の反応を安定させるための補助印です」


「つまり?」


 伊織が聞く。


「薬を入れられています」


 リナの顔から血の気が引いた。


 その時、地下室の奥で拍手が響いた。


 一度。


 二度。


 乾いた音。


「ご名答」


 煤けた柱の影から、一人の男が出てきた。


 鉄鎖団の男。


 だが、下っ端ではない。


 上質な黒い革鎧。左手首には鉄の鎖。腰には短剣と弩。


 片目に細い傷がある。


「機構のエルフは、よく見えるらしいな」


 ガルドが斧を構えた。


「出てきやがったか」


 男は笑った。


「出てきたんじゃねえ。待ってたんだよ。黒い服の異邦人と、逃げたガキどもの姉貴分をな」


 リナが歯を食いしばる。


「誰が姉貴分よ」


「違うのか? 餌を撒けば戻ってくると思ったぜ。実際、戻ってきた」


 伊織はリナの肩を押さえた。


 彼女は飛びかかりそうだった。


「落ち着け」


「でも――」


「分かってる」


 男の後ろで、さらに二人の鉄鎖団員が現れた。


 そのうち一人が、トトの腕を掴んでいた。


 小さな狐耳の少年。


 顔色が悪い。声を出そうとしても、喉が震えるだけだった。


 リナの目が見開かれる。


「トト!」


「動くな」


 男が弩を構えた。


 狙いはトトではない。


 リナだ。


「半獣人の鼻は便利だな。だが、便利なものは高く売れる。お前も一緒に来い」


「ふざけないで」


「ふざけてねえよ。お前みたいなのは、客が喜ぶ」


 その言葉で、伊織の右手が冷えた。


 黒い粒子が出かける。


 銃ではない。


 撃てば、少年に当たる可能性がある。


 スタングレネードも近すぎる。子供に影響する。


 鋼線拘束具も、制御が甘い。


 トトを巻き込む危険がある。


 なら。


 伊織は一歩前へ出た。


「その子を離せ」


「嫌だね」


 鉄鎖団の男は笑った。


「お前、撃てねえだろ。倉庫で見たぜ。人間相手だと迷う。ガキが近くにいれば、なおさらだ」


「見ていたのか」


「全部じゃねえ。だが十分だ。黒い銃も、黒い線も、出すには条件があるんだろ」


 男の目は笑っていた。


 だが、声には警戒がある。


 伊織を舐めているわけではない。


 知ったうえで、人質を使っている。


 面倒な相手だ。


 トトの腕を掴んだ男が短剣を抜いた。


 小さな首元に刃が近づく。


 リナが息を止めた。


 アリアの魔力が揺れる。


 ガルドも動けない。


 伊織は右手を見た。


 出せるもの。


 今、必要なもの。


 殺すものではない。

 眩ませるものでもない。

 縛るものでもない。


 守るもの。


 次の瞬間、弩が鳴った。


 男はリナを狙っていた。


 伊織は横へ踏み込んだ。


 銃ではない。


 撃つより先に、守る。


 黒い粒子が右手の前で広がる。


 薄い黒い板。


 黒鋼盾アイギス


 矢が盾に当たった。


 硬い音が地下室に響く。


 盾には傷ひとつつかない。


 だが、伊織の胸の奥から、ごっそりと熱が抜けた。


「……っ」


 膝が沈みかける。


 だが、倒れない。


 リナの前に立ったまま、伊織は盾を維持した。


「イオリさん!」


 リナが叫ぶ。


 アリアも声を上げた。


「東さん、連続使用は駄目です!」


「分かってる」


 分かっている。


 盾は壊れない。


 だが、受けるたびに魔力を食う。


 ガルドの軽い一撃でさえ、あれだけ削られた。


 弩の矢ならまだ耐えられる。


 だが、連続で受ければ危ない。


 鉄鎖団の男が目を見開いた。


「何だ、その盾」


「さあな」


 伊織は盾を消した。


 長く維持しない。


 使うのは、一瞬でいい。


 リナを守るための一撃。


 それだけで十分だった。


 男が二射目を構える前に、アリアの風が弩を弾いた。


 ガルドが踏み込む。


「おらあっ!」


 大斧の柄が、男の腹に入った。


 男は壁に叩きつけられ、動かなくなる。


 残る二人のうち、一人がトトを盾にしようとした。


 リナが叫んだ。


「トト、耳を塞いで!」


 トトは反射的に耳を押さえた。


 ミナも壺の裏で耳を塞ぐ。


 伊織は瞬時に判断した。


 距離。

 角度。

 位置。


 スタングレネードは使えない。


 近すぎる。


 だが、音ではなく光だけなら。


 右手が黒く光った。


 小さな円筒が生まれかける。


 伊織はそれを握り潰すように、出力を抑えた。


 完全なスタングレネードではない。


 閃光だけ。


 短く、狭く、視線を奪うだけ。


 右手の中で白い光が弾けた。


 鉄鎖団の男が目を押さえる。


「ぐっ!」


 その一瞬で、クロが走った。


 男の手首に噛みつく。


 短剣が落ちる。


 伊織は踏み込み、男の顎を打った。


 倒れる。


 トトが床に崩れそうになる。


 リナが駆け込んだ。


「トト!」


 今度は止めなかった。


 リナはトトを抱きしめた。


 ミナも壺の裏から飛び出し、リナにしがみつく。


「リナ姉……っ」


「ごめん。遅くなってごめんね」


 リナは二人を強く抱きしめた。


 耳も尻尾も、震えていた。


 涙が頬を伝っている。


「もう大丈夫。もう、どこにも行かせない」


 伊織は少し離れた場所で、その光景を見ていた。


 右手は冷たい。


 胸の奥が空っぽに近い。


 だが、立っている。


 アリアが隣に来た。


「大丈夫ですか」


「立てる」


「それは大丈夫とは違います」


「知ってる」


「なら座ってください」


「まだだ」


「東さん」


「まだ終わっていない」


 伊織は倒れた鉄鎖団の男を見る。


 気絶している。


 もう一人、奥へ逃げた男がいる。


 その男は、通路の先で何かを起動しようとしていた。


 床に置かれた魔法具。


 赤黒い光。


 アリアの顔が変わった。


「薬品庫に火を入れるつもりです!」


 証拠隠滅。


 いや、それだけではない。


 ここで薬品が燃えれば、子供たちにも影響が出る。


 伊織は右手を上げた。


 鋼線拘束具。


 だが、距離がある。


 狙いは男ではない。


 手元の魔法具。


 締めるな。

 砕くな。

 絡めて、引け。


 黒い粒子が短い筒を形作る。


 右手が悲鳴を上げるように冷えた。


 それでも、伊織は撃った。


 細い黒い鋼線が走った。


 男の腕ではなく、魔法具に絡みつく。


 引く。


 魔法具が床を滑り、男の手から離れた。


「なっ――」


 ガルドが追いつき、男を殴り倒した。


 魔法具は伊織の足元で赤黒い光を失った。


 鋼線拘束具が崩れる。


 右手から力が抜けた。


 今度こそ、膝が落ちた。


 アリアが支える。


「だから、無理は駄目だと言いました」


「人には使っていない」


「そういう問題ではありません」


「使い方は、少し分かった」


「倒れながら言うことではありません」


 リナが双子を抱いたまま、こちらを見る。


 その目に、怒りはなかった。


 驚きと、困惑と、少しだけ別の感情が混じっている。


「……本当に、助けるんだ」


 リナが呟いた。


「何を今さら」


 伊織は言った。


「約束した」


 リナは何も言えなかった。


 アリアの視線が、リナと伊織の間を一瞬だけ動いた。


 それから、伊織の腕を支える手に少しだけ力が入った。


「東さんは、今は座ってください」


「今は?」


「今すぐです」


「分かった」


 伊織は床に座った。


 クロが近づき、伊織の右手を嗅いだ。


 そして、不満そうに低く鳴いた。


「悪かった」


 クロは信じていない顔をした。



 旧陶器工房の制圧は終わった。


 ミナとトトは無事だった。


 首元の魔法印は、アリアが応急的に封じた。薬の影響は残っているが、命に関わる状態ではない。


 リナは二人から離れなかった。


 ミナの髪を撫で、声の出ないトトの手を握り、何度も何度も「大丈夫」と言った。


 自分に言い聞かせているようにも見えた。


 ガルドと後詰めのハンターたちは、工房内の証拠を集めていた。


 薬瓶。

 魔法具。

 鉄鎖団の帳簿。

 オルドレイン式の保存箱。

 未使用の魔法印具。


 アリアは保存箱を調べながら、顔を曇らせていた。


「これは、子供たちの魔力適性を測るための器具です」


「適性」


 伊織が言う。


「魔獣処理薬への耐性、魔力反応、身体変化の有無……そういうものを調べるための」


 リナが双子を抱く腕に力を入れた。


「そんなもの、調べてどうするの」


 アリアは少し迷った。


 だが、誤魔化さなかった。


「実験対象を選別するためです」


 空気が冷えた。


 リナの顔から感情が消えた。


 かわいい系の柔らかい顔立ちから、温度が抜ける。


「オルドレインって、何なの」


 アリアは答えなかった。


 答えられなかった。


 伊織はアリアを見た。


 責められているわけではない。


 だが、アリアにとっては刺さる言葉だった。


 オルドレイン。


 父の組織。


 自分が逃げてきた場所。


 そして、今も子供たちに手を伸ばしているもの。


 アリアの手が、わずかに震えていた。


 伊織は短く言った。


「アリアのせいじゃない」


 アリアが顔を上げる。


 リナも伊織を見る。


「でも――」


「違う」


 伊織はそれだけ言った。


 アリアは唇を結んだ。


 何かを言おうとして、やめた。


「……ありがとうございます」


「事実だ」


 リナは二人を見ていた。


 何かを察した顔だった。


 だが、今は何も言わなかった。


 代わりに、双子を抱き寄せた。


「私は、あの子たちを守る。相手が鉄鎖団でも、オルドレインでも」


「一人では無理だ」


 伊織が言う。


 リナはすぐに言い返そうとして、止まった。


 そして、少しだけ不満そうに言った。


「……分かってる」


「ならいい」


「でも、私に何も言わずに決めるのは無し」


「ああ」


「本当に?」


「ああ」


 リナは伊織を見た。


 それから、小さく笑った。


「変な人」


「四回目だ」


「数えてるの、やっぱり変」


 リナの尻尾が少しだけ揺れた。


 アリアが静かにその尻尾を見ていた。


 何か言いたげだったが、言わなかった。


 クロがその間で鼻を鳴らした。



 工房の奥に、隠された小部屋があった。


 壁の一部が外れ、その奥に狭い書庫のような空間がある。


 中には、焼かれかけた書類が散らばっていた。


 ガルドがそれを拾い上げる。


「見ろ」


 紙には、鉄の鎖の紋章が押されていた。


 そして、その横に別の印。


 歯車と塔。


 オルドレインの印。


 アリアの顔が強張る。


「やはり……」


 伊織は壁を見た。


 そこに、黒い鎖で削ったような傷があった。


 文字だ。


 乱暴で、深い。


 ――黒鉄の異邦人へ。


 伊織は無言で読み進めた。


 ――次は、子供のいない場所でやろうぜ。


 差出人の名はない。


 だが、分かる。


 ゼクト。


 ガルドが舌打ちした。


「やっぱり見てやがったか」


「近くにいたのか」


「かもしれん。少なくとも、ここを知っていた」


 アリアが文字を見つめる。


「これは挑発です」


「ああ」


 リナが不安そうに伊織を見た。


「行くの?」


「今は行かない」


「今は?」


「場所を選ぶ」


 アリアがすぐに言った。


「それでも、行く前提なんですね」


「来るなら迎え撃つ」


「またそれですか」


「前にも言った」


「覚えています。だから困っています」


 伊織は壁の文字を見た。


 子供のいない場所でやろうぜ。


 ゼクトらしい。


 軽い。

 ふざけている。

 だが、そこに妙な線引きがある。


 子供を巻き込まない。


 その言葉だけで、ゼクトを信用する気にはなれない。


 だが、完全な外道ではないことも分かってしまう。


 だから厄介だ。


 伊織は右手を握った。


 黒鋼警棒は、まだ形にならない。


 アイギスは使えるが、受けるほど魔力を削る。


 鋼線拘束具は危険すぎる。


 スタングレネードは、場所を選ぶ。


 ゼクトとやるには、まだ足りない。


 それでも、いつか来る。


 その時までに、選べるようにならなければならない。


 撃つか。

 守るか。

 止めるか。


 殺さずに、勝つか。


 夕暮れの工房に、砂混じりの風が吹き込んだ。


 壁の黒い文字が、赤い光の中で鈍く沈んでいる。


 伊織はその文字を見たまま、静かに言った。


「次は、こっちが場所を選ぶ」


 クロが低く鳴いた。


 アリアは何も言わず、ただ頷いた。


 リナは双子を抱きしめたまま、伊織の背中を見ていた。


 その目には、もう怒りだけではない光があった。

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