第13話 リナ
治癒室の前は、少し騒がしかった。
怪我人の呻き声ではない。
泣き声でもない。
怒っている声だった。
「だから、勝手に決めないでって言ってるでしょ!」
若い女性の声。
よく通る。
怒鳴っているのに、妙に耳に残る声だった。
伊織が廊下を曲がると、治癒室の扉の前に人だかりができていた。
エルナが困った顔で立っている。
治癒師が額を押さえている。
ギルドの若いハンターが二人、どうしていいか分からずに固まっていた。
その中心に、一人の女性がいた。
背は、アリアより少し低い。
二十歳前後だろう。
茶色がかった柔らかい髪。
丸みのある頬。
大きな瞳。
頭の上には、狸に似た小さな耳がある。
腰の後ろでは、ふさりとした尻尾が不機嫌そうに揺れていた。
かわいい。
そう言えば済む容姿だった。
だが、目つきは鋭い。
人懐っこそうな顔をしているのに、今は全身で警戒している。
小動物のように見えて、噛む気はある。
伊織はそう判断した。
女性は伊織に気づくと、ぴたりと声を止めた。
大きな目が、伊織を上から下まで見る。
黒い服。
右手の手袋。
革ジャケット。
そして、足元のクロ。
女性の耳がぴくりと動いた。
「……あなたが、東伊織?」
「ああ」
「黒い服。無愛想。犬連れ。うん。たぶん合ってる」
「説明が雑だな」
「合ってるでしょ」
「否定はしない」
女性は一歩近づいた。
エルナが慌てて止めようとする。
「リナさん、まだ東さんは訓練の後で――」
「大丈夫。殴らない」
「殴る予定があったんですか」
「少しだけ」
エルナが青ざめた。
伊織は表情を変えなかった。
「殴る理由は」
「勝手に子供たちを助けて、勝手にギルドで保護して、勝手にこれからどうするか決めようとしてるから」
「助けたことも怒るのか」
「助けたことは怒ってない!」
女性は即答した。
それから少しだけ声を落とした。
「……助けてくれたことには、感謝してる」
「なら」
「でも、それとこれとは別」
女性は伊織の目をまっすぐ見た。
「私はリナ。あの子たちの姉代わり。血は繋がってないけど、あの子たちを守ってきたのは私」
「そうか」
「そうか、じゃない」
「他に何と言えばいい」
「もっと、こう、事情を聞くとか」
「聞く」
「今さら?」
「今から」
リナは口を開きかけて、止まった。
伊織の返しが予想外だったのか、少しだけ目を瞬かせる。
アリアが伊織の隣に立った。
「あなたが、リナさんですね」
リナの視線がアリアへ移る。
一瞬、空気が変わった。
アリアは銀髪のエルフだ。
背筋が伸び、顔立ちは整っている。静かに立っているだけで、周囲の空気が少し澄む。
一方のリナは、丸くて柔らかい。
明るい茶色の髪。
大きな目。
ふわりとした耳と尻尾。
表情がよく動く。
綺麗と、かわいい。
二人は、同じ方向の美しさではなかった。
リナはアリアを見上げるようにして言った。
「あなたは?」
「アリア=シルヴェインです。東さんと行動を共にしています」
「ふうん」
リナの耳が少し倒れた。
「東さん、ね」
「何ですか」
「別に。距離近いなって思っただけ」
アリアの表情は変わらなかった。
だが、ほんのわずかに目が細くなった。
「行動を共にしているので」
「そういう意味じゃないんだけど」
「では、どういう意味ですか」
「綺麗な人って怖いね」
「質問に答えていません」
「答えたら怒りそう」
「怒っていません」
「もう怒ってる顔だよ?」
アリアは黙った。
伊織は二人を見ていた。
面倒な気配がする。
クロが伊織の足元で鼻を鳴らした。
たぶん同意している。
「リナ」
伊織が言った。
「まず話を聞く」
「命令?」
「提案だ」
「顔が命令っぽい」
「よく言われる」
リナは伊織をしばらく見た。
それから、ふっと肩の力を抜いた。
「……分かった。話す。でも、あの子たちの前では話さない」
「理由は」
「怖がらせたくない」
「分かった」
リナは少しだけ驚いた顔をした。
「聞かないんだ」
「聞いた。答えも聞いた」
「変な人」
「よく言われる」
アリアが小さく言った。
「本当によく言われていますね」
「らしい」
リナは伊織とアリアを交互に見た。
そして、少しだけ口元を緩めた。
「なるほど」
「何が」
伊織が聞く。
「ううん。何でもない」
その言い方に、アリアの目がまた少し細くなった。
◆
話し合いは、ギルドの小会議室で行われた。
古い木の机。
四脚の椅子。
壁に貼られた南部街道の地図。
窓の外には訓練場が見える。
伊織、アリア、リナ、エルナ。
クロは伊織の足元に座った。
ガルドも途中から来たが、リナを見るなり「ああ、面倒そうだな」と呟いて壁際に立った。
「失礼じゃない?」
リナが言う。
「褒めてる」
「絶対に違う」
「俺なりには褒めてる」
「じゃあ、あなたの褒め方は下手」
「よく言われる」
ガルドは椅子に座らず、壁にもたれた。
リナは机に両手を置いた。
怒りはまだ残っている。
だが、治癒室の前よりは落ち着いていた。
「まず確認する」
伊織が言った。
「リオとニムを知っているんだな」
「知ってる。二人とも、私の家族みたいなもの」
「血縁ではない」
「うん。でも、家族」
リナはそこだけ、はっきり言った。
伊織は頷いた。
「他の子供たちも?」
「みんなじゃない。でも、何人かは私が面倒を見てた。南門の外れに、獣人や身寄りのない子たちが集まる場所があるの。ちゃんとした孤児院じゃない。ただ、雨風をしのげるだけの場所」
「そこから攫われたのか」
「うん」
リナの尻尾が、膝の横でぎゅっと丸まった。
「鉄鎖団は最初、食べ物を配ってた。仕事もあるって言ってた。荷運びとか、掃除とか、簡単なやつ。子供たちは喜んだ。お腹が空いてたから」
エルナが顔を伏せた。
アリアは静かに聞いている。
「でも、何人か戻らなくなった」
リナの声が低くなる。
「探したら、鉄鎖団の倉庫に出入りしてる連中を見つけた。リオが先に調べて、ニムが捕まった。リオは弟を助けようとして、逆に捕まった。私は逃げた」
最後の言葉は、硬かった。
「逃げたんじゃない」
エルナが言った。
「リナさんは助けを求めに来たんです」
「来るのが遅かった」
リナは自分の手を見た。
「私がもっと早く動いていれば、あの子たちは檻に入れられずに済んだ」
「それは違う」
アリアが言った。
リナが顔を上げる。
「あなたが悪いのではありません。悪いのは、子供たちを騙し、攫い、売ろうとした者たちです」
「正論だね」
リナは少しだけ笑った。
笑ったが、目は笑っていなかった。
「でも、正論で夜は眠れないよ」
アリアは言葉を失った。
伊織はリナを見た。
その言葉は、分かる。
正しいことと、楽になることは違う。
誰が悪いか分かっていても、胸に残るものは消えない。
南条のことを思い出しかけて、伊織は右手を握った。
黒い粒子は出ない。
ただ、少し冷たかった。
「リナ」
伊織は言った。
「お前は逃げたんじゃない」
「何で分かるの」
「逃げただけの奴は、ここに戻ってこない」
リナの耳が、わずかに動いた。
伊織は続けた。
「お前は戻ってきた。怒鳴ってでも、子供たちの場所を確かめに来た。なら、逃げただけじゃない」
リナは黙った。
大きな瞳が、伊織を見ている。
アリアも、伊織を見ていた。
伊織は言いすぎたかと思った。
だが、取り消す言葉でもない。
リナは目を逸らした。
「……そういうこと、さらっと言うんだ」
「事実だ」
「ずるい」
「何が」
「何でもない」
リナは頬を少し赤くして、尻尾をぱたんと揺らした。
アリアがその様子を見ていた。
静かな顔。
だが、空気が少し冷えた気がした。
クロが伊織の足元で小さく鳴いた。
面倒が増えた。
そう言っているようだった。
◆
リナが持ってきた情報は、予想以上に具体的だった。
彼女は怒るためだけに来たわけではなかった。
机の上に、手描きの地図が広げられる。
南門の外れ。
古い水路。
廃屋。
獣人たちの集まる路地。
鉄鎖団が使っている別の物置。
リナは指で地図を叩いた。
「倉庫三番は潰れた。でも、鉄鎖団はまだこの街に残ってる」
「根拠は」
伊織が聞く。
「匂い」
「匂い?」
「狸系の半獣人は鼻が利くの。犬ほどじゃないけど、人間よりはずっと」
リナは少し得意げに鼻を鳴らした。
クロが顔を上げた。
リナと目が合う。
「何?」
クロは鼻を鳴らした。
「今、馬鹿にした?」
「していない」
伊織が言うと、リナはクロを指差した。
「絶対した。犬ってそういう顔するもん」
「クロは犬じゃない」
「じゃあ何?」
「クロだ」
「答えになってない」
クロは満足そうに顔をそむけた。
リナは唇を尖らせる。
「かわいくない犬」
クロが低く唸った。
「かわいくないけど、賢そう」
クロの唸りが少し弱まった。
「褒めると分かるんだ」
リナが笑う。
クロは迷惑そうに目を逸らした。
アリアがそれを見て、少し複雑そうな顔をした。
クロはアリアが撫でるまでにかなり時間がかかった。
リナは初対面でこの距離だ。
伊織は何となく、その違いがアリアに引っかかっていると察した。
察したが、何をすればいいかは分からない。
「話を戻せ」
伊織は言った。
「はいはい」
リナは地図へ視線を戻す。
「昨日の夜、南門の外で鉄鎖団の匂いを追った。倉庫から逃げた連中の何人かが、この辺りへ行ってる」
指が、街の南東を示す。
「古い陶器工房?」
エルナが地図を覗き込む。
「廃業して十年以上経っています。今は誰も使っていないはずです」
「使ってる。少なくとも、夜に人が出入りしてる」
ガルドが腕を組んだ。
「鉄鎖団の残党か」
「たぶん。でも、変なのも混じってた」
「変なの?」
アリアが聞く。
「薬の匂い。鉄の匂い。あと、すごく嫌な匂い」
「嫌な匂いだけでは分かりません」
「そう言われても、嫌な匂いは嫌な匂いなの」
リナは少し考えた。
「濡れた石みたいな、焦げた毛皮みたいな、血が古くなったみたいな匂い」
アリアの表情が変わった。
「魔獣処理薬かもしれません」
「何だそれは」
伊織が聞く。
「魔獣を興奮状態にしたり、逆に意識を鈍らせたりする薬です。通常は研究機関か大型ギルドで管理されるものです」
「オルドレインか」
「可能性はあります」
部屋の空気が重くなった。
セヴラン。
白い手袋の研究者。
子供を検体と呼んだ男。
リナは伊織たちの反応を見て、表情を硬くした。
「何か知ってるの?」
「少しな」
伊織が答える。
「その工房には、まだ子供がいる可能性があるか」
リナは少し黙った。
そして、頷いた。
「ある。倉庫から移された子がいるかもしれない。私が知ってる子で、まだ見つかってない子が二人いる」
「名前は」
「ミナとトト。双子。狐系の半獣人。まだ十歳」
リナの声に、怒りが戻る。
「あの子たちが、どこにもいない」
伊織は地図を見た。
古い陶器工房。
倉庫三番の次の拠点。
鉄鎖団残党。
魔獣処理薬。
オルドレインの影。
見つかっていない子供。
十分だった。
「行く」
伊織が言うと、アリアがすぐに言った。
「今すぐは駄目です」
「なぜ」
「あなたは午前中、鋼鉄の具現の訓練をしました。魔力消費が残っています。特にアイギスの試用でかなり削れています」
「動ける」
「それは大丈夫とは違います」
伊織は黙った。
自分の言葉を返された。
リナが二人を見ていた。
「ねえ」
「何だ」
「あなたたち、いつもそんな感じ?」
「どんな感じだ」
「怒ってるみたいで、心配してる感じ」
アリアが少しだけ目を逸らした。
「今は作戦上の判断です」
「ふうん」
リナはにやりと笑った。
「作戦上、ね」
「何ですか」
「別に」
「別に、という顔ではありません」
「綺麗な人って、意外と分かりやすいんだね」
アリアの眉が動いた。
エルナが慌てて間に入る。
「あ、あの、まずはギルドマスターに報告しましょう。正式に調査隊を組む必要があります」
「そうだな」
ガルドが頷いた。
「東一人で突っ込ませるのは危ねえ」
「俺一人とは言っていない」
「顔が言ってた」
伊織は否定しなかった。
リナが机に身を乗り出す。
「私も行く」
「駄目だ」
伊織が即答した。
「早っ」
「危険だ」
「だから行く」
「その理屈は昨日から何度も聞いている」
アリアが横で小さく咳払いした。
リナはアリアを見る。
「あなたも言うんだ?」
「状況によります」
「ずるい」
「何がですか」
「自分は行くのに、私は駄目って顔してる」
アリアは言葉に詰まった。
伊織はリナを見た。
「戦えるのか」
「逃げるのは得意」
「戦闘は」
「弱い相手なら蹴れる。強い相手なら逃げる」
「正直だな」
「嘘ついて死ぬよりいいでしょ」
「それはそうだ」
リナは胸を張った。
「それに、私の鼻がいる。工房の中に子供たちがいるなら、匂いで分かる」
「危険を理解しているか」
「してる」
「捕まれば、次は助けられるとは限らない」
「分かってる」
「分かっていて行くのか」
「私が行かないで、誰があの子たちを見つけるの?」
リナの声は震えていなかった。
怒っている。
だが、怖くないわけではない。
それでも行くと言っている。
伊織はその目を見た。
止める言葉は、ある。
危険だ。
足手まといだ。
ここにいろ。
大人に任せろ。
だが、リナはその言葉を何度も聞かされてきたのだろう。
大人はいつもそうやって、助けた顔して勝手に決める。
さっきの叫びが、伊織の耳に残っていた。
「条件がある」
伊織は言った。
リナの耳が立つ。
「勝手に動くな。俺かアリアの指示に従え。危険になったら逃げろ。子供を見つけても、一人で助けに行くな」
「注文が多い」
「飲めないなら置いていく」
「……分かった」
「本当か」
「本当」
リナは少しだけ不満そうに言った。
「ただし、あなたたちも勝手に決めないで。私に関係あることは、私にも聞いて」
伊織は頷いた。
「ああ」
リナは一瞬、また驚いた顔をした。
それから、小さく笑った。
「変な人」
「三回目だ」
「数えてたんだ」
「聞こえている」
「ふふ」
リナは初めて、怒りではない笑顔を見せた。
柔らかく、明るい笑顔。
耳が少し揺れ、尻尾がふわりと動く。
アリアが、その笑顔を見ていた。
そして、なぜか記録板を少し強く閉じた。
ぱたん、と音がした。
伊織が振り向く。
「どうした」
「何でもありません」
「そうか」
「はい」
何でもない声ではなかった。
だが、伊織には理由が分からなかった。
リナは口元を隠して、少し楽しそうにしていた。
クロがため息のように鼻を鳴らした。
◆
ヴォルフへの報告は、すぐに行われた。
ギルドマスター室。
机の上に、リナの地図が広げられる。
ヴォルフは黙って話を聞いた。
鉄鎖団残党。
古い陶器工房。
魔獣処理薬の匂い。
未発見の双子。
リナの同行希望。
すべてを聞き終えた後、ヴォルフは低く言った。
「調査隊を出す」
「私も行く」
リナが即座に言った。
ヴォルフは彼女を見る。
片目だけの視線なのに、圧が強い。
普通なら怯む。
リナは少し耳を伏せたが、目は逸らさなかった。
「理由は」
「匂いを追える」
「戦えるか」
「逃げられる」
ヴォルフの口元がわずかに動いた。
「正直だな」
「嘘は嫌い」
「なら、条件つきだ。東とアリアの指示に従え。単独行動は禁止。危険を感じたら下がる」
「同じこと言われた」
「なら、二度聞け」
「……分かった」
ヴォルフは伊織を見た。
「東」
「ああ」
「お前は前に出すぎるな」
「努力する」
アリアが横から言った。
「その返事は信用できません」
ヴォルフが頷いた。
「同感だ」
「ギルドマスターまで」
「信用は積み重ねだ」
伊織は返事をしなかった。
リナが小さく笑った。
「みんなに心配されてるんだ」
「監視されている」
「愛されてるね」
アリアがすぐに言った。
「監視です」
「早い」
「必要な訂正です」
「ふうん」
リナはにこにこしている。
アリアは無表情に戻ろうとしている。
戻りきれていない。
ヴォルフは二人を見て、少しだけ面倒そうな顔をした。
ガルドは肩を震わせて笑いをこらえていた。
「作戦は夕刻だ」
ヴォルフが言った。
「日中は目立つ。夕方、搬入口が影になる時間に接近する。正面からは入らん。まず周囲を確認し、子供の存在が確定すれば救出を優先する」
「ゼクトは」
伊織が聞く。
「出る可能性はある」
ヴォルフの声が重くなった。
「だが、今は捕まえに行くな。目的は救出と情報だ」
「分かった」
「本当か」
「本当だ」
ヴォルフはしばらく伊織を見た。
「……少しはましな返事になったな」
リナがアリアに小声で聞いた。
「前はそんなにひどかったの?」
「はい」
「即答なんだ」
「はい」
伊織は聞こえていたが、何も言わなかった。
◆
作戦開始までの数時間、リナは治癒室で子供たちと過ごした。
伊織は少し離れた廊下から、その様子を見ていた。
リナは怒っていた時とは別人のようだった。
ニムの頭を撫で、リオに水を渡し、泣きそうな小さな子の耳元で何かを囁いている。
子供たちは、リナを見ると安心した顔をした。
姉代わり。
その言葉は嘘ではない。
クロが伊織の隣に座っている。
「どう見る」
伊織が聞くと、クロはリナを見たまま鼻を鳴らした。
悪くない。
そんな反応に見えた。
「そうか」
アリアが隣に来た。
「リナさん、子供たちには優しいですね」
「ああ」
「距離も近いです」
「そうだな」
「誰にでも近いのでしょうか」
「知らない」
「……そうですか」
伊織はアリアを見た。
横顔はいつも通り綺麗だった。
だが、少しだけ機嫌が悪いように見える。
「疲れているのか」
「違います」
「頭痛か」
「違います」
「では何だ」
「何でもありません」
まただ。
何でもない、という言葉は、最近あまり信用できない。
伊織は少し考えた。
「リナが苦手か」
アリアは一瞬だけ黙った。
「苦手、というほどではありません」
「そうか」
「ただ、少し……距離感が独特ですね」
「そうだな」
「あなたも、もう少し警戒した方がいいと思います」
「している」
「本当に?」
「ああ」
アリアは伊織を見た。
「リナさんに笑われていました」
「笑うくらいはするだろ」
「ずいぶん楽しそうでした」
「そうか」
「そうです」
伊織は分からなかった。
何が問題なのか。
クロが小さく鳴いた。
呆れているように聞こえた。
アリアはそれを見て、深く息を吐いた。
「……もういいです」
「何が」
「何でもありません」
三度目だった。
伊織は、何かを間違えているらしい。
だが、何を間違えたのかは分からない。
その時、リナが治癒室から顔を出した。
「あ、いた」
彼女は伊織に近づく。
自然な距離が近い。
伊織の腕に触れるほど近くで止まる。
アリアの視線が、その距離に落ちた。
「イオリさん」
「何だ」
「この後、行くんでしょ」
「ああ」
「お願いがある」
「聞く」
リナは一瞬、真面目な顔になった。
「ミナとトトがいたら、最初に私を行かせて。あの子たち、知らない大人が怖いの。私の声なら出てきてくれる」
「危険なら駄目だ」
「でも」
「安全を確認してからだ」
「……分かった」
「約束できるか」
「できる」
リナは頷いた。
そして、少しだけ笑った。
「やっぱり怖そうなのに優しいね」
「別に」
「そういうところ」
リナは楽しそうに言った。
アリアが横で静かに言った。
「作戦前です。あまり気を抜かない方がいいと思います」
「あ、ごめんなさい」
リナは素直に謝った。
だが、口元は少し笑っている。
「アリアさんって、イオリさんのことになると真面目なんだね」
「作戦上、必要なことです」
「うん。そういうことにしておく」
「どういう意味ですか」
「秘密」
リナは尻尾を揺らして治癒室へ戻っていった。
アリアは黙った。
伊織も黙った。
クロがまた、鼻を鳴らした。
今回は、はっきりと呆れていた。
◆
夕刻。
ダストヘイブンの街が赤く染まり始めた頃、調査隊は南東の旧陶器工房へ向かった。
メンバーは、伊織、アリア、クロ、ガルド、リナ。
そして後詰めとして、数名のハンターが離れてつく。
リナはフード付きの外套を羽織っていた。
狸耳を隠すためだ。
尻尾も腰布で巻いている。
だが、完全には隠せていない。
歩くたびに、ふさりとした尻尾の先が揺れる。
「隠れていないぞ」
伊織が言うと、リナは振り返った。
「じゃあ見ないで」
「揺れている」
「尻尾は勝手に揺れるの」
「そうか」
「アリアさん、今この人、尻尾見てました」
アリアが伊織を見る。
「見ていたんですか」
「視界に入った」
「そうですか」
「そうだ」
「……そうですか」
ガルドが後ろで肩を震わせている。
「楽しそうだな」
伊織が言うと、ガルドは咳払いした。
「いや、別に」
「顔が笑っている」
「気のせいだ」
クロだけが真面目に前を見ていた。
やがて、街の喧騒が遠ざかる。
古い工房地区。
崩れかけた煙突。
使われなくなった窯。
割れた陶器の破片。
風に揺れる古い布。
リナの表情が変わった。
耳が外套の下で動く。
「匂う」
声が低くなる。
「鉄鎖団か」
伊織が聞く。
「うん。あと、薬の匂い。昨日より濃い」
アリアも目を細める。
「魔力反応があります。弱いですが、複数」
「子供か」
「断定はできません」
リナが工房の奥を見た。
「いる。たぶん、いる」
伊織は右手を開いた。
スタングレネード。
鋼線拘束具。
黒鋼盾。
未完成の黒鋼警棒。
今日覚えた形を思い出す。
だが、まだ出さない。
まずは見る。
選ぶ。
出すか、出さないかを選ぶ。
それが今日の練習だった。
クロが低く唸った。
工房の奥。
割れた窯の影で、何かが動いた。
人影。
一つではない。
そして、その向こうから、子供の小さな声が聞こえた。
「……リナ姉?」
リナの顔色が変わった。
「ミナ……?」
伊織は即座にリナの腕を掴んだ。
飛び出そうとしたリナが止まる。
「離して」
「罠かもしれない」
「でも、今の声――」
「分かっている。だから止まれ」
リナは唇を噛んだ。
目に涙が滲む。
それでも、伊織の手を振りほどかなかった。
アリアが小さく言った。
「東さん」
「ああ」
伊織は右手を前に出した。
銃ではない。
まずは、目を奪う。
殺すためではない。
助けるために、止める。
黒い粒子が、掌に集まった。
小さな黒い円筒が、静かに形を取る。
スタングレネード。
夕闇の中で、鋼鉄が冷たく光った。




