表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
14/69

第12話 鋼鉄の制御

 朝が来る前に、伊織は目を覚ました。


 宿の天井は、まだ暗い。


 窓の外には、二つの月が薄く残っている。街は静かだった。酒場の笑い声も、馬車の音も、鍛冶場の槌音もない。


 その静けさの中で、右手だけが冷たかった。


 伊織は手を開いた。


 何もない。


 指は動く。

 痛みもない。

 だが、奥に鋼鉄の感触が沈んでいる。


 昨日、ゼクトと刃を交えた。


 黒い鎖。

 短い曲刀。

 軽口。

 獣のような目。


 ガルドでさえ、噂以上だったと言った。


 伊織はゼクトを止められなかった。


 鋼鉄の具現も出さなかった。


 いや、違う。


 出せなかった。


 ギルドの中だった。

 人が多かった。

 アリアにも影響するかもしれなかった。

 相手を殺してしまうかもしれなかった。


 理由はある。


 だが、理由があることと、足りなかったことは別だ。


 伊織は右手を握った。


 ゼクトの刃が喉元に迫った感覚が、まだ残っている。


 次に同じ状況になった時、どうする。


 銃を出すのか。


 撃つのか。


 殺すのか。


 それとも、また迷うのか。


「……面倒だな」


 呟くと、足元でクロが目を開けた。


 黒い犬は、こちらを見ている。


 眠っていたはずなのに、起きていたような目だった。


「起こしたか」


 クロは鼻を鳴らした。


 違う、と言っているようだった。


 伊織はベッドから降りた。


 革ジャケットを羽織り、手袋を手に取る。


 右手用の黒い手袋。


 アリアが買ってきたものだ。


 まだ新しいはずなのに、掌のあたりが少し擦れている。


 鋼鉄の具現を使った時、何かが手袋の内側を焼いたのかもしれない。


 伊織は手袋をはめた。


 革が冷たい。


 悪くない。


「行くぞ」


 クロが立ち上がった。


 宿の廊下に出る。


 まだ誰も起きていない。


 そう思った。


 だが、廊下の先に人影があった。


 アリアだった。


 白と銀の軽装。髪は簡単に結ばれている。右腕の包帯はまだ残っているが、昨日より動きは良い。


 手には小さな革袋と、水筒。


「おはようございます」


「早いな」


「あなたが早すぎるだけです」


「寝ていろと言ったはずだ」


「今日は治癒師から外出許可をもらっています」


「魔力感知は」


「広域では使いません」


「狭域は」


「必要最低限です」


「昨日も聞いたな」


「今日も同じ答えです」


 アリアは少しだけ胸を張った。


 伊織はその顔を見た。


 言っても無駄だと分かった。


「どこまで知ってる」


「訓練場へ行くつもりでしょう」


「なぜ分かった」


「昨日のあなたの顔です」


「顔に出るか」


「右手に出ます」


 アリアは伊織の右手を見た。


「ゼクトに対して、鋼鉄の具現を使えなかったことを気にしている。違いますか」


「違わない」


「では、私も行きます」


「危険だ」


「だから行きます」


「その理屈は昨日も聞いた」


「今日も同じです」


 クロが二人の間に座った。


 どちらの味方でもない、という顔だった。


 伊織は短く息を吐いた。


「無理はするな」


「あなたもです」


「考えておく」


「それは駄目です」


 アリアは即答した。


「今日は、練習です。無茶ではありません」


「違いは」


「事前に止める人間がいるかどうかです」


 伊織はクロを見た。


 クロは鼻を鳴らした。


 たぶん同意している。


「三対一か」


「はい」


「まだ何も言っていない」


「言う前から分かります」


 アリアは歩き出した。


 伊織は少し遅れて、その隣に並んだ。


 クロが足元を歩く。


 夜明け前の廊下に、三つの足音が響いた。



 ギルド裏の訓練場は、まだ誰も使っていなかった。


 赤い砂を固めた広場。

 木製の標的。

 丸太で作られた障害物。

 剣の素振り用の人形。


 伊織がハンター登録試験を受けた場所だ。


 あの時は、銃などなかった。


 鋼鉄の具現も、まだ形になっていなかった。


 だが、今は違う。


 伊織の右手には、確かに何かがある。


 アリアは訓練場の端に、持ってきた革袋を置いた。


 中から、小さな記録板、魔力測定用の結晶、包帯、薬包を取り出す。


「準備が良いな」


「あなたが準備をしないので」


「している」


「短剣と手袋だけでは、研究も治療もできません」


「研究する気か」


「観察です」


「同じだろ」


「違います。研究は体系化を目的とし、観察は現象の把握を目的とします」


「そうか」


「聞いていませんね」


「少し聞いた」


「それで十分です」


 アリアは記録板を持った。


 表情が研究者のそれに変わる。


 だが、完全にそうではない。


 心配も混じっている。


 伊織には、それが分かるようになっていた。


「まず確認します」


 アリアが言った。


「今日の目的は、鋼鉄の具現を強くすることではありません」


「分かっている」


「本当に?」


「鋼鉄に呑まれないための練習だ」


 アリアは少しだけ目を見開いた。


 それから、小さく頷いた。


「はい。それが一番正しいと思います」


 伊織は右手を開いた。


 朝の冷気が手袋越しに触れる。


「どうする」


「まずは、出さない練習です」


「出す練習ではなく?」


「はい」


 アリアは真顔で言った。


「あなたは危険を感じた時、右手が勝手に反応します。昨日のゼクト戦でもそうでした。必要なのは、反射的に鋼鉄を出すことではなく、出すか出さないかを選ぶことです」


「選ぶ」


「はい。力の制御とは、出力を上げることではありません。止められることです」


 伊織は右手を見た。


 止める。


 その言葉は、思ったより重かった。


 銃は、撃つためのものだ。


 だが、撃たない判断も含めて銃の扱いだ。


 それは、元の世界で何度も叩き込まれたことだった。


 指を引き金にかけるな。

 撃つべき時以外は撃つな。

 撃つなら、迷うな。

 撃たないなら、最後まで撃つな。


 忘れていたわけではない。


 ただ、この世界に来てから、鋼鉄の具現はあまりに異質すぎた。


 武器であり、魔法であり、記憶であり、傷でもある。


 だから、扱い方を見失っていた。


「分かった」


 伊織は言った。


「出さない練習からだ」



 最初の訓練は単純だった。


 伊織が右手に意識を向ける。


 鋼鉄の感触を思い出す。


 ただし、形にしない。


 アリアは少し離れた場所で、測定結晶を見ている。


 クロは伊織の斜め前に座っていた。


 見張りのように。


 伊織は目を閉じた。


 重さ。

 冷たさ。

 引き金。

 黒い金属。

 炎を裂いた一撃。

 セヴランの腕を止めた鋼線。

 ゼクトの刃が喉元に迫った瞬間。


 右手の奥に、何かが集まる。


 黒い粒子。


 鋼鉄の気配。


 指先が熱くなる。


 形が出ようとする。


 伊織は息を吐いた。


 出すな。


 まだ出すな。


 粒子が指先に滲んだ。


 アリアが言った。


「出ています」


「分かってる」


「止めてください」


「やってる」


 粒子が増える。


 手袋の表面に、黒い光が走る。


 伊織は奥歯を噛んだ。


 力で押さえ込もうとする。


 その瞬間、右手が凍るように冷えた。


「っ」


 膝が揺れた。


 クロが立ち上がる。


 アリアが一歩前に出た。


「駄目です。押さえ込まないでください」


「押さえ込むな?」


「はい。押さえ込むのではなく、流してください」


「どういう意味だ」


「魔力制御に近い考え方です。力を消そうとすると反発します。方向をずらしてください」


「魔力は使えない」


「でも、意識は使えます」


 アリアは真剣だった。


「今、あなたは銃を思い出しましたね」


「ああ」


「では、別のものを思い出してください。殺すものではなく、止めるものでもなく、ただ握るだけのもの」


「握るだけ」


 伊織は目を閉じた。


 銃から離れる。


 引き金から離れる。


 反動から離れる。


 別の記憶を探る。


 右手にあったもの。


 冷たい金属ではないもの。


 南条が投げてよこした缶コーヒー。

 訓練後に握ったタオル。

 古い携帯端末。

 中学の頃、誰にも見せずに持っていた錆びたキーホルダー。


 そして、クロの頭を撫でた感触。


 温かい毛。


 ざらついた舌。


 生き物の重さ。


 右手の粒子が弱まった。


 黒い光が消えていく。


 冷たさも、少し引いた。


 伊織は目を開けた。


 右手には何もない。


 だが、暴れてはいない。


 アリアが測定結晶を見て、小さく息を吐いた。


「成功です」


「これでか」


「はい。出さないことに成功しました」


 伊織は右手を見た。


 何も出ていない。


 それが、成功。


 奇妙な感覚だった。


 クロが近づき、右手を嗅いだ。


 それから、鼻先を押しつける。


 温かい。


「……お前のおかげか」


 クロは鼻を鳴らした。


 当然だ、と言っているようだった。


 アリアが少しだけ笑った。


「クロは優秀ですね」


「調子に乗る」


「もう乗っていると思います」


 クロは顔をそむけた。


 伊織は少しだけ息を吐いた。


 練習は、まだ始まったばかりだった。



 次の訓練は、形を選ぶことだった。


 アリアは木製の標的を三つ並べた。


 一つは中央。

 一つは右。

 一つは奥。


 距離はそれぞれ違う。


「今回は出します。ただし、最初から銃を出さないでください」


「どう選ぶ」


「目的を先に決めます」


 アリアは指を一本立てた。


「殺すのか。止めるのか。縛るのか。目を奪うのか。守るのか」


「目を奪う?」


「昨日あなたが言っていました。突入時に、相手の視界と動きを奪う道具がある、と」


「ああ」


 スタングレネード。


 閃光と爆音で相手の感覚を一時的に奪う制圧具。


 殺すものではない。


 だが、使い方を間違えれば危険だ。


 狭所。

 突入。

 人質。

 数秒の優位。


 SAT時代、伊織はその効果も危険も叩き込まれている。


「まず、それを試してください」


 アリアが言った。


「銃より危険は少ないはずです。ただし、私とクロから離れて」


「分かった」


 伊織は訓練場の中央へ歩いた。


 木製の標的が三つ。


 敵ではない。


 だが、伊織はその向こうに扉を思い浮かべた。


 閉じられた扉。

 中にいる犯人。

 怯える人質。

 突入までの秒読み。


 銃ではない。


 まず動きを奪う。


 殺す前に、止める。


 右手に黒い粒子が集まった。


 今度は拳銃の形ではない。


 掌の中に、小さな筒が生まれる。


 黒い円筒。


 実物よりも少し重い。

 表面は艶のない黒。

 指に馴染む溝がある。


「出ました」


 アリアが少し離れた位置で言った。


「何ですか、それは」


「スタングレネード」


「すたん……?」


「閃光と音で相手を止める道具だ。殺すためじゃない」


「音も出るんですか」


「出る」


 アリアは一歩下がった。


「先に言ってください」


「言った」


「足りません」


「耳を塞げ。クロもだ」


 アリアは慌てて耳を塞いだ。


 クロは伊織を見てから、アリアの後ろへ下がった。


 伊織は標的の中央へ向けて、黒い円筒を投げた。


 投擲の感覚は、身体が覚えている。


 距離。

 角度。

 跳ね方。


 円筒が標的の前に落ちる。


 次の瞬間、白い光が弾けた。


 音は、本物より抑えられていた。


 だが、空気が震えた。


 標的の周囲に砂が舞う。


 アリアが目を細め、クロが耳を伏せる。


 伊織は光を見ない位置にいた。


 癖だ。


 爆ぜた後、数秒の沈黙。


 黒い円筒は粒子になって消えた。


「……成功か」


 伊織が呟く。


 アリアは耳から手を離し、少し不満そうに言った。


「非常に乱暴な道具ですね」


「そうだ」


「でも、殺傷性は低い」


「ああ」


「そして、広範囲の相手を一瞬止められる」


「使い方次第だ」


 アリアは記録板に書き込んだ。


「頭痛は、ほとんどありません」


「響かないのか」


「銃より弱いです。ただし、光と音への物理的な影響は別です。近くで使われたら普通に迷惑です」


「すまない」


「次からはもっと離れてください」


「分かった」


 クロが低く鼻を鳴らした。


 文句があるらしい。


「お前にも悪かった」


 クロは顔をそむけた。


 アリアはまだ少し耳を押さえている。


「これが、あなたの元の世界の制圧道具ですか」


「ああ」


「殺す前に、止める」


「そうだ」


 アリアは伊織を見た。


「それは、あなたらしいですね」


「そうか」


「はい。あなたは殺すことを知っている。だから、殺さずに済む道具も覚えている」


 伊織は返事をしなかった。


 右手を見た。


 鋼鉄の具現は、銃だけではない。


 そのことが、少しずつ形になり始めていた。



 三つ目の訓練は、拘束だった。


 捕獲網ではない。


 網では、伊織の中で鋼鉄の輪郭が薄い。


 もっと細く、硬く、冷たいもの。


 鋼線。


 相手の腕や足に絡みつき、動きを止めるためのもの。


 伊織は、セヴランに向けた時の感覚を思い出した。


 黒い網に見えたあれは、実際には網ではなかった。


 細い鋼線の束。


 何本もの黒い線が空中でほどけ、相手の腕に絡みつく。


 切るためではない。


 縛るための鋼鉄。


「次は、右の標的です」


 アリアが言った。


「縛るだけで、壊さないでください」


「難しい注文だな」


「それが練習です」


「分かった」


 伊織は右手を前に出した。


 黒い粒子が集まる。


 手の中に短い筒が生まれる。


 さっきのスタングレネードとは違う。


 握る形。


 発射口は細い。


 中に何かが巻かれている感覚がある。


 鋼線拘束具。


 伊織が名前を決めたわけではない。


 だが、そう呼ぶのが一番近かった。


「放つ」


 伊織は引き金に似た突起を押した。


 細い黒線が走った。


 一本ではない。


 複数の鋼線が空中で広がり、右の標的に絡みつく。


 標的は軋んだ。


 線が強く締まる。


 木が割れそうになる。


「強すぎます!」


 アリアが叫んだ。


 伊織は右手を引いた。


 鋼線が緩む。


 標的は倒れずに済んだ。


 だが、表面に深い溝が残っている。


 伊織は眉をひそめた。


「縛るつもりだった」


「締めすぎです」


「加減が難しい」


「対象が人間なら骨が砕けます」


「だろうな」


 アリアは記録板を叩くように書いた。


「鋼線拘束具は使用可能。ただし制御が未熟。現時点では危険」


「使えないか」


「使えます。ただし、使い方を選ぶべきです。武器を落とす、足場に絡める、逃走経路を塞ぐ。直接、人の体に巻くのはまだ危険です」


「なるほど」


「なるほど、ではありません。かなり危険です」


「分かった」


「本当に?」


「ああ」


 クロが鼻を鳴らした。


 疑っている。


 伊織は鋼線拘束具を見た。


 黒い粒子になって崩れていく。


 便利だ。


 だが、便利なものほど危ない。


 それも、よく知っていた。



 訓練場の入口から、声がした。


「朝から物騒なもん出してんな」


 ガルドだった。


 肩に包帯を巻いている。


 昨日ゼクトに裂かれた傷だ。


 大斧は背負っていない。


 だが、歩き方はいつも通りだった。


「休んでいろ」


 伊織が言うと、ガルドは鼻で笑った。


「お前に言われるとはな」


「流行っているな、その返し」


「お前が言われるようなことばっかしてるからだ」


 ガルドは訓練場に入り、鋼線の跡が残った標的を見た。


「さっきのは何だ」


「鋼線拘束具」


「名前がもう物騒だな」


「殺す道具ではありません」


 アリアが言った。


「ただし、今はまだ危険です」


「つまり、東に持たせるには早いと」


「はい」


「はっきり言うな」


 伊織が言うと、アリアは真顔で返した。


「必要なので」


 ガルドは笑い、次に伊織を見た。


「で、ゼクト対策は?」


「これからだ」


「なら、俺も混ぜろ」


「怪我は」


「浅い」


 伊織とアリアが同時にガルドを見た。


 ガルドは眉を上げた。


「何だ」


「その言葉は信用できない」


 伊織が言うと、アリアが頷いた。


「はい」


 ガルドは少し黙った。


 それから、大きく笑った。


「お前にそれを言われる日が来るとはな」


 ガルドは訓練場の端に置かれた木製の訓練斧を手に取った。


「ゼクトは速い。鎖で視線を散らし、足場を崩し、懐に入ってくる。銃を構える前に切られる」


「分かっている」


「だからまず、一撃を受ける手段がいる」


 伊織は右手を見た。


 受ける手段。


 盾。


 現実の防弾盾なら、記憶はある。


 重く、硬く、前に立つための装備。


 だが、伊織の中にはもう一つの盾の記憶があった。


 現実には存在しない盾。


 VRゲーム『STEEL REQUIEM』。


 狭い廃墟内での近接戦。


 銃弾、榴弾の破片、爆風を受けるための小型防御装備。


 軽量。

 薄型。

 破壊不能。


 もちろん、ゲームの中の話だ。


 だが、この世界の鋼鉄の具現は、現実の記憶だけに反応しているわけではない。


 VRの戦車。

 ドローン。

 重火器の運用。


 それらも、伊織の中では確かな記憶として残っている。


「試す」


 伊織は言った。


「何をですか」


 アリアが警戒した顔をする。


「盾だ」


「普通の盾ですか」


「いや。ゲームの盾だ」


「ゲーム」


 アリアの目が光った。


「詳しく」


「後でだ」


「今でも構いません」


「今は練習中だ」


「それも観察対象です」


「顔が研究者になってるぞ」


 アリアは少しだけ咳払いした。


「……続けてください」


 伊織は訓練場の中央に立った。


 ガルドが木斧を構える。


「本気では打たん」


「それでいい」


「出せなかったら避けろ」


「ああ」


 伊織は右手を前に出した。


 銃ではない。

 鋼線でもない。

 閃光でもない。


 盾。


 だが、現実の防弾盾ではなく、VRで使った黒い盾を思い出す。


 黒い薄板。

 軽い。

 だが壊れない。

 銃弾も破片も爆風も受け止める防御装備。


 ゲーム内での名前は、アイギス・プレート。


 黒い粒子が広がる。


 手の前に薄い板が生まれる。


 最初は揺らいでいた。


 だが、輪郭が固まる。


 艶のない黒。


 金属とも結晶ともつかない質感。


 盾というには薄い。

 だが、確かにそこにある。


 アリアが息を呑む。


「これは……魔法障壁ではありません。物質です。でも、通常の金属でもない」


「来い」


 伊織が言う。


 ガルドが踏み込んだ。


 木斧が盾に当たる。


 鈍い音。


 盾は壊れなかった。


 傷もつかない。


 衝撃も、腕には来なかった。


 代わりに、胸の奥から何かが抜けた。


「……っ」


 息が詰まる。


 一瞬、視界が白く揺れた。


 盾は無事だ。


 伊織の腕も無事だ。


 だが、体の奥から熱を削られたような感覚があった。


 ガルドがすぐに斧を引いた。


「大丈夫か」


「腕はな」


「腕は?」


「中身を持っていかれた」


 アリアが駆け寄った。


「魔力消費です」


「分かるのか」


「はい。今、盾が衝撃を受けた瞬間、あなたの魔力が大きく減りました」


 アリアは測定結晶を見つめる。


「この盾は、衝撃を身体ではなく魔力で受けています。盾そのものは壊れない。でも、受けた力の分だけ、あなたの魔力を消費する」


「不壊だが、無料ではないか」


「その通りです」


 アリアは真剣な顔で言った。


「軽い攻撃なら問題ありません。ですが、強い一撃を受ければ、その分だけ魔力を削られます。連続で受ければ、盾が壊れる前にあなたが倒れます」


 ガルドが木斧を見た。


「俺の軽い一撃でそれか」


「軽いのか、今の」


「軽い」


「そうか」


 伊織は右手の黒い盾を見た。


 薄く、硬く、美しい。


 だが、その奥に空腹のようなものがある。


 攻撃を受ければ、こちらの魔力を食う。


 黒鋼盾アイギス


 守る盾。


 同時に、守るほど自分を削る盾。


「使いどころを間違えるな、ということですね」


 アリアが言った。


「ああ」


 伊織は盾を消した。


 黒い粒子がほどけ、朝の空気に溶けていく。


「名前は?」


 アリアが聞いた。


「ゲームでは、アイギス・プレート」


「では、黒鋼盾アイギスで記録します」


「名前を変えるのか」


「この世界の分類名です」


「そうか」


 クロが盾の消えた空間を嗅いだ。


 それから、伊織を見て低く唸る。


 魔力を削られたことが分かったのかもしれない。


「大丈夫だ」


 クロは信じていない顔をした。


 アリアも同じ顔をしていた。


「二対一か」


「ガルドさんもこちらです」


 アリアが言う。


 ガルドは頷いた。


「今のは危ねえ。盾が壊れねえからって、受け続けりゃお前が先に潰れる」


「分かっている」


「本当か」


「たぶん」


「そこは言い切れ」



 最後に伊織が試したのは、警棒だった。


 銃ではない。

 盾でもない。

 鋼線でもない。


 もっと近い距離で、相手を殺さず制圧するための道具。


 SAT時代の訓練で触れた警棒。

 VRゲーム内で使った近接制圧装備。

 その二つの記憶が混ざる。


 光の刃ではない。


 刃は要らない。


 必要なのは、受け、払え、落とせるもの。


 ゼクトの鎖を打ち、刃を逸らし、関節を崩すための黒い棒。


 黒鋼警棒。


 伊織は右手を握った。


 黒い粒子が集まる。


 細長い輪郭が生まれる。


 艶のない黒。

 伸縮式の警棒に似た形。

 手首に馴染む重さ。


 だが、握った瞬間、形が歪んだ。


 警棒はひび割れるように崩れ、黒い粒子になって消えた。


「……まだ無理か」


 アリアが記録板から顔を上げる。


「今のは?」


「警棒だ」


「警棒?」


「殺すためじゃない。止めるための道具だ」


 アリアは少し考えた。


「黒鋼警棒ですね」


「名前がいるのか」


「必要です。分類できませんから」


「未完成だ」


「未完成でも、分類は必要です」


 ガルドが腕を組む。


「ゼクト相手には、それが一番要るかもしれねえな」


「なぜ」


「銃は間に合わん。盾は受けるだけだ。鋼線は絡める前に切られる可能性がある。なら、近距離で鎖を払える武器がいる」


「黒鋼警棒か」


「ああ。完成すればな」


 伊織は右手を見た。


 まだ感触は残っている。


 だが、形にはならない。


 記憶が弱いのか。

 目的が曖昧なのか。

 自分がまだ近接で殺さず制圧する形を信じきれていないのか。


 分からない。


 ただ、必要なのは分かった。


 ゼクトと次にやるなら、銃だけでは足りない。


 盾だけでも足りない。


 黒鋼警棒が必要になる。


 その予感があった。



 訓練は昼前まで続いた。


 伊織が今日、形にできたものは四つ。


 出さない制御。


 スタングレネード。


 鋼線拘束具。


 黒鋼盾アイギス


 そして、未完成の黒鋼警棒。


 どれも完全ではない。


 スタングレネードは音と光の加減が難しい。

 鋼線拘束具は締めすぎる。

 アイギスは壊れないが、受けた威力の分だけ魔力を削る。

 黒鋼警棒はまだ形を保てない。


 それでも、昨日とは違う。


 鋼鉄の具現は、銃だけではない。


 撃つだけではない。


 止める。

 縛る。

 眩ませる。

 守る。

 受ける。


 選択肢が増えた。


 それは、強くなったというより、少しだけ人間に戻った感覚に近かった。


 伊織は訓練場の端に座り、水を飲んだ。


 右手は重い。


 冷たい。


 だが、昨日のように自分のものではない感覚は薄い。


 少しだけ、戻ってきた。


 アリアは隣に座って記録を整理している。


 クロは伊織の足元で丸まっていた。


 ガルドは肩を押さえながら、木製の訓練斧を片づけている。


「お前ら、午後は休めよ」


 ガルドが言った。


「お前もな」


 伊織が返す。


「俺は少し飲む」


「それは休養か」


「俺にとってはな」


 アリアが顔を上げた。


「飲みすぎないでください」


「はいはい」


「返事が軽いです」


「東よりは信用できるだろ」


 アリアは少し考えた。


「同程度です」


「ひでえな」


 伊織は水筒を置いた。


 その時、訓練場の入口にエルナが現れた。


 少し慌てている。


「東さん、アリア様、ガルドさん」


「何かあったか」


 伊織が立ち上がる。


 エルナは息を整えながら言った。


「治癒室の子供たちのことで、少し問題が」


 アリアの表情が変わった。


「容体が悪化したのですか」


「いえ、そうではありません。全員、命に別状はありません。ただ……」


 エルナは少し言いにくそうにした。


「知らない女性が、治癒室に入り込んでいました」


「女性?」


「はい。半獣人の方です。年は二十歳前後でしょうか。子供たちの姉代わりだと言っています」


 伊織とアリアは顔を見合わせた。


「名前は」


 伊織が聞く。


「リナ、と名乗っています」


 エルナは続けた。


「それで、その方が東さんに会わせろと言っています」


「俺に?」


「はい」


 エルナは困った顔をした。


「助けてもらった礼を言いたい、という感じではありません。むしろ……怒っています」


「怒っている?」


「はい」


 その時、ギルドの方から大きな声が響いた。


「だから、あの黒い服の人を呼んでって言ってるでしょ!」


 若い女性の声だった。


 怒っている。


 確かに怒っている。


 だが、どこかよく通る、明るさの残った声だった。


「リオとニムをどこに連れていく気!? 説明しなさいよ!」


 アリアが小さく瞬いた。


 ガルドが苦笑した。


「元気そうだな」


「だな」


 伊織は右手を見た。


 今日は、鋼鉄を制御する練習をした。


 殺さないために。

 守るために。

 呑まれないために。


 だが、どうやら次に必要なのは、鋼鉄ではないらしい。


 伊織は短く息を吐いた。


「行くか」


 クロが立ち上がった。


 アリアも記録板を閉じる。


「はい」


 ギルドの方から、また女性の声が響いた。


「大人はいつもそうやって、助けた顔して勝手に決めるんだから!」


 伊織は歩き出した。


 面倒が増えた。


 そう思った。


 だが、不思議と足は止まらなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ