第11話 黒鎖の男
地下へ戻ると、捕虜の一人が死んでいた。
泡を吹き、目を見開いたまま。
治癒師が首を振る。
助からなかった。
他の捕虜たちは怯えきっている。
さっきまで笑っていた男も、今は黙って震えていた。
ヴォルフは低い声で指示を出した。
「全員の口内と皮膚を調べろ。毒針、魔法印、呪符の可能性がある。治癒師を増やせ」
エルナが走っていく。
ガルドは壁を殴った。
鈍い音が地下に響く。
「くそが」
伊織は死んだ男を見ていた。
敵だった。
子供を売ろうとしていた連中の一人だった。
同情する理由はない。
だが、組織に口を塞がれ、恐怖に震えたまま死んだ。
それも事実だった。
ゼクトは殺していない。
だが、同じだ。
伊織はそう言った。
ゼクトは一瞬だけ、その言葉に反応した。
あの男は、自分がどこにいるか分かっている。
分かった上で、鎖を引きずっている。
それが厄介だった。
ガルドが、裂かれた肩を押さえながら低く言った。
「……噂以上だったな」
伊織はガルドを見た。
ガルドの顔には、怒りだけではないものがあった。
悔しさ。
警戒。
そして、わずかな焦り。
「次にやる時は、俺一人じゃ止めきれねえかもしれん」
「お前でもか」
「ああ」
ガルドは苦々しく笑った。
「腹立つことにな」
その言葉で、地下室の空気がさらに重くなった。
ガルドは強い。
伊織も、それは分かっている。
そのガルドが、真正面から認めた。
ゼクトは、それほどの相手だった。
アリアが伊織の隣に立った。
「右手は」
「出していない」
「出しかけました」
「ああ」
「でも、止めました」
「ああ」
アリアは少しだけ息を吐いた。
「よかったです」
「よかったのか」
「はい。あなたが、選んだから」
伊織は右手を見た。
血はついていない。
だが、冷たい。
ゼクトの刃が喉元へ迫った時、鋼鉄の具現は出かけた。
出せた。
あの瞬間、銃でも、網でも、何かしらの形を取ろうとしていた。
だが、出さなかった。
ギルド内には人が多かった。
アリアにも影響するかもしれなかった。
何より、自分はまだその力を制御できていない。
出さなかったのではない。
出せなかったのだ。
伊織はその事実を、静かに噛みしめた。
「ゼクト」
伊織は呟いた。
「強いですね」
アリアが言った。
「ああ」
「でも、ただの殺し屋ではありません」
「分かるのか」
「言葉に迷いがありました」
「お前も見ていたか」
「はい」
アリアは地下の階段を見上げた。
「鉄鎖団の中にも、割り切れていない者がいるのかもしれません」
「だから厄介だ」
「はい」
完全な悪なら、分かりやすい。
斬ればいい。
撃てばいい。
止めればいい。
だが、ゼクトは違う。
汚い組織にいながら、汚いと分かっている。
子供を売ることを肯定しない。
だが、止めない。
逃げない。
組織の鎖に繋がれたまま、刃を振るう。
伊織は、それを許せないと思った。
同時に、どこかで理解もしてしまった。
命令。
組織。
逃げられない立場。
自分では止められない流れ。
そういうものが、人をどう削るか。
伊織は知っている。
知っているからこそ、腹が立った。
◆
夕方。
壊れたギルドの扉は、応急処置として板で塞がれた。
食堂の床には、まだ戦闘の傷が残っている。
砕けた椅子。
斬られた柱。
鎖で削られた床。
ゼクトがいた痕跡は、どこにでも残っていた。
エルナは疲れた顔で帳簿をつけている。
若いハンターたちは扉の修理を手伝っていた。
ガルドは地下の見張りについた。
ヴォルフはギルドマスター室で、鉄鎖団とオルドレインに関する報告書を書いている。
伊織は外に出た。
夕方の風が、砂を運んでくる。
クロが隣に座る。
しばらくして、アリアも出てきた。
「休めと言う顔ですね」
「言う前に分かるなら休め」
「それは嫌です」
「だろうな」
アリアは伊織の隣に立った。
二つの太陽が沈みかけている。
赤い光が、ダストヘイブンの壁を染めていた。
「ゼクトは、また来ますね」
「ああ」
「次は、もっと危険です」
「だろうな」
「どうしますか」
伊織は答えなかった。
右手を見た。
今日は、出さなかった。
出せたはずだった。
だが、出さなかった。
それで良かったのかは分からない。
ゼクトを止められなかった。
捕虜の一人は死んだ。
情報の一部は失われた。
だが、ギルド内で銃を使えば、もっと悪い結果になったかもしれない。
伊織はまだ、自分の力を制御できていない。
それを、改めて思い知らされた。
「強くなる必要があるな」
伊織は言った。
アリアが伊織を見る。
「鋼鉄の具現を、ですか」
「それもある」
「他には」
「俺自身が」
アリアは少し黙った。
それから、小さく頷いた。
「では、練習しましょう」
「今からか」
「明日からです。今日は休んでください」
「お前もな」
「はい」
素直な返事だった。
伊織は少しだけ驚いた。
アリアはそれに気づいたらしい。
「何ですか」
「いや」
「私も学習します」
「そうか」
「はい」
クロが鼻を鳴らした。
どちらも怪しい、と言っているようだった。
伊織とアリアは同時にクロを見た。
クロは顔をそむけた。
その時、ギルドの入口に何かが投げ込まれた。
乾いた音。
伊織が振り向く。
床に落ちていたのは、黒い鎖の欠片だった。
先ほどのものとは違う。
その鎖には、小さな紙片が結ばれていた。
伊織は拾い上げる。
紙には、乱暴な文字で一文だけ書かれていた。
――次は、外でやろうぜ。黒鉄の異邦人。
差出人の名はない。
だが、分かる。
ゼクトだ。
伊織は紙を握り潰した。
右手ではなく、左手で。
アリアが静かに言った。
「挑戦状ですね」
「らしいな」
「受けるんですか」
「受けない」
伊織は即答した。
アリアが少しだけ安心した顔をした。
だが、伊織は続けた。
「あいつが来るなら、迎え撃つ」
アリアはため息をついた。
「結局、似たようなものです」
「違う」
「どこが」
「場所を選ぶ」
アリアは少し考えた。
「それは、大事ですね」
「ああ」
伊織は夕陽の中、黒い鎖の欠片を見た。
鉄鎖団。
オルドレイン。
セヴラン。
ゼクト。
面倒な敵が増えた。
だが、その中で一人だけ、少し違う男がいる。
鎖に繋がれていると笑った男。
汚い組織を汚いと知りながら、その中で刃を振るう男。
伊織は、その男を許せないと思った。
そして、もう一度会うことになるとも思った。
右手の奥で、鋼鉄が静かに冷えていた。
出せるだけでは足りない。
撃てるだけでは足りない。
殺せるだけでは、何も守れない。
伊織は左手の中で、黒い鎖の欠片を握りしめた。
明日から、練習が必要だ。
鋼鉄を呼ぶ練習ではない。
鋼鉄に、呑まれないための練習が。




