第141話 火は消えていない
王都へ戻る道には、白い兵器が立っていた。動かない。街道の端。崩れた石壁の前。片脚を溝へ落としたまま。盾を上げた姿勢で。まるで戦いの途中だけを切り取って、そこへ置いてきたようだった。
伊織は一体の横を通り過ぎる。胸部の光は消えている。観測部も。機械音もない。
「本当に止まっています」
アリアが言った。「今はな」
「また再起動すると?」
「分からない」
「クラウスに確認します」
「ああ」
クロは二人の間を歩いていた。最初の数百メートルは抱えていたが、途中で自分から降りた。歩き方は遅い。時折、後ろ脚がふらつく。それでも抱き上げようとすると、鼻を鳴らして拒否した。
「似ていますね」
アリアが言った。「誰に」
「あなたです」
「クロの方が素直だ」
黒い犬が伊織を見る。「何だ」
鼻が鳴る。「否定する?」
もう一度。アリアの口元が緩んだ。「二対一です」
「数えるな」
「以前も言いました」
「そうだったか」
「覚えていない?」
「大切なことは覚えてる」
「それは大切ではない?」
「微妙だな」
「東さん」
「冗談だ」
アリアが一瞬だけ黙る。「冗談を言えるくらいには戻ったのですね」
伊織も黙った。自分では気づかなかった。右肩は痛い。左腕は重い。魔力もほとんど残っていない。それでも、頭の中を埋めていた戦術線が消えている。次に誰をどこへ動かすか。どこへ撃つか。何秒稼ぐか。考えなくていい。少なくとも、今は。
王都の北壁が見える。崩れている。北門の上部には大きな亀裂。街道には焼けた跡。倒れた馬車。砕けた盾。血。それでも、人が動いていた。負傷者を運ぶ者。石を退ける者。水を配る者。倒れた古代兵器から距離を取り、縄を張る王都兵。
「止まった機体へ近づくな!」
「負傷者が先だ!」
「北門はまだ使うな! 東門へ回せ!」
声。声。声。世界はうるさかった。伊織は少しだけ息を吐く。悪くない。
「東!」
遠くから声。伊織は振り返った。黒い旗。半分ほど裂けている。ゼクトが歩いてくる。外套はぼろぼろ。額から血。左頬に新しい傷。剣は鞘へ戻っていた。
「生きてたか」
伊織が言う。「第一声がそれか」
「死んでると思ってた」
「借りを残したまま死ねるか」
ゼクトは伊織の右肩を見る。「お前の方が酷いな」
「まだ動く」
「その台詞はやめろ」
伊織がゼクトを見る。「誰に言われた」
「百人くらい」
「増えたな」
「お前のせいだ」
ゼクトの後ろ。鉄鎖団。全員ではない。だが、多い。歩ける者は歩いている。負傷した者は仲間へ肩を貸されている。旗を捨てた者も。拾った者も。同じ方向へ戻ってきている。
「死人は」
伊織が聞いた。ゼクトの顔から笑みが消える。「いる」
短い。「何人」
「まだ分からん」
「そうか」
「ああ」
それ以上は言わない。勝ったから全員助かったわけではない。戦場は、そんな都合のいい場所ではない。
「お前は」
ゼクトが聞く。「何を撃った」
「いろいろ」
「空から五本落ちてきたぞ」
「ああ」
「あれは何だ」
「説明すると長い」
「酒を飲みながら聞く」
「俺は飲まない」
「なら飯でもいい」
「高くつくぞ」
「借りに足しておけ」
「まだ取るつもりか」
「当然だ」
ゼクトはアリアを見る。「王女も無事か」
「アリアです」
「そうだったな」
「覚えていましたか」
「大切なことは覚える」
アリアが伊織を見る。「流行っていますね」
「俺じゃない」
ゼクトが笑う。「ところで黒いのは」
クロが低く唸る。「元気そうだな」
黒い鼻が鳴る。「触っていいか」
クロは一歩下がった。「嫌らしい」
「分かるのか」
「顔で」
「犬の?」
「長い付き合いだ」
ゼクトはしゃがまない。手も出さない。「なら、また今度にする」
また今度。自然に出た言葉。伊織は何も言わない。ゼクトも気づかない。それでいい。
「エルマーは」
「採石場」
「生きてる?」
「しぶとい」
「ならいい」
「リゼとかいう風使いも生きてる。腰を抜かしてるがな」
「負傷は」
「軽い」
「王都兵は」
「数えてる途中だ」
ゼクトが北門を見る。「勝ったなんて顔をしてる奴はいない」
「必要ない」
「ああ」
「生きてる奴から先にやることがある」
「珍しく気が合うな」
「いつもだろ」
「気持ち悪いことを言うな」
ゼクトは笑い、伊織の左肩を軽く叩いた。右ではない。
「食堂へ行くんだろ」
「ああ」
「あとで行く」
「借り?」
「飯だ」
「金を払え」
「借りにしておけ」
「増える一方だな」
「生きてりゃ返せる」
ゼクトは鉄鎖団へ戻る。途中で振り返らない。黒い旗だけが、人の間へ消えていく。
◆
採石場には、水が溜まっていた。MLRSで破壊した貯水槽から流れた水。泥。白い兵器。その中を、エルマーが歩いていた。左腕は吊ったまま。右手には短槍。杖代わりにしている。
「遅い」
伊織が言った。「誰が」
「戻るのが」
「お前に言われたくない」
「確かに」
エルマーは伊織を見る。次にアリア。クロ。
「終わった?」
「多分」
「その答えは信用できんな」
「クラウスに確認する」
「あの爺さん、生きてるのか」
「ああ」
「敵じゃなかったのか」
「途中まで」
「面倒な話だな」
「説明すると長い」
「食堂で聞く」
「さっきも言われた」
「誰に」
「ゼクト」
エルマーが嫌そうな顔をする。「一緒に飯を食うのか」
「嫌?」
「武器は置かせろ」
「それは賛成だ」
「お前もな」
「俺?」
「拳銃」
伊織は左手を見る。グロック17はもうない。礼拝堂を出るときに解除した。
「今はない」
「ならいい」
採石場の岩棚。リゼが座っている。膝を抱えて。顔は白い。伊織を見ると、立とうとした。脚が震える。
「そのままでいい」
「でも」
「座ってろ」
「命令ですか」
「頼み」
リゼは座り直した。「怖かったです」
「ああ」
「途中から、何をしているのか分からなくなりました」
「ああ」
「逃げたかった」
「普通だ」
「それでも残りました」
「見てた」
「本当に?」
「ドローンで」
リゼの目が少し大きくなる。「空にいた小さいの」
「ああ」
「あれ、東さんだったのですか」
「目だけな」
「気持ち悪いですね」
「よく言われる」
言ってから、伊織は眉を寄せた。また使った。アリアが横から見ている。
「何だ」
「何も」
「言いたそうだな」
「自覚したなら結構です」
リゼが笑った。疲れた笑い。それでも笑える。
「アリア様」
「アリアでいいです」
「無理です」
「なぜ」
「無理です」
「そうですか」
アリアは少し残念そうだった。「風、助かりました」
リゼが顔を上げる。「私の?」
「はい」
「私、ほとんど逸らせませんでした」
「それでもです」
アリアは自分の手を見る。「真正面から止めなくていい。少しずらせばいい。それを私も誰かに教えてもらいました」
伊織を見る。「誰でしょう」
「知らない」
「本当に?」
「覚えてない」
「大切なことでは?」
「今は休め」
アリアの口元が緩む。「逃げましたね」
リゼも笑った。「また教えてください」
「私が?」
「風の使い方」
アリアは少し考える。「私も、まだ覚えている途中です」
「なら一緒に」
「はい」
また。次。自然に生まれる。
「戻るぞ」
伊織が言う。エルマーが短槍を肩へ担ぎかけ、左腕の痛みに顔を顰める。
「食堂か」
「ああ」
「飯は残ってるかな」
「リナなら作ってる」
「根拠は」
「煙が出てる」
王都。遠く。食堂の方角から、細い煙が上がっている。エルマーが笑った。
「十分だな」
◆
時計塔は、食堂の手前で止まっていた。伊織の計算どおり。完全には。塔の上部は広場へ倒れ、鐘が半分地面へ埋まっている。石材が街路を塞ぎ、二体の古代兵器もその向こうで停止していた。
食堂は残っている。窓は半分割れている。扉には傷。外壁の一部が剥がれている。煙突。煙。伊織は足を止めた。
「東さん?」
「残ってる」
「はい」
「食堂」
「ええ」
声にすると、思っていたより胸に来た。建物だからではない。そこに人がいる。
扉が開く。リナ。髪は乱れている。頬に煤。手には木杓子。伊織を見る。アリア。クロ。エルマー。後ろの人々。木杓子を下ろした。
「おかえり」
伊織は少しだけ黙った。「ああ」
それだけ。リナの目が伊織の右肩へ行く。
「座って」
「先に」
「座って」
「話が」
「座って」
三回。「分かった」
「素直になったね」
「最近、少し」
リナが木杓子を振り上げる。「冗談だ」
「覚えたね」
アリアが伊織を見る。「今日は多いですね」
「疲れてるんだ」
「言い訳です」
クロが食堂へ入る。自分の寝床。匂いを嗅ぐ。少し破れている。それでも、その上へ身体を丸める。すぐに目を閉じた。
「クロ」
リナが近づこうとする。伊織が手で止める。
「寝かせろ」
「怪我は」
「疲れてるだけだと思う」
「クラウスに見てもらった?」
「まだ」
「まだ?」
「あとで来る」
食堂の空気が止まる。「誰が」
エルマー。「クラウス」
「ここへ?」
「ああ」
「敵だった爺さんが?」
「今は違う」
「何があったんだ」
「説明すると」
「長い?」
リナが先に言った。「ああ」
「なら食べながら」
鍋。まだ火が入っている。煮込み。以前と同じではない。材料は残り物。量を増やすため、水も多い。それでも温かい。
「食べられる人から食べて」
リナが言う。「怪我人が先」
「俺は」
「怪我人」
「アリアは」
「怪我人」
「エルマー」
「怪我人」
「全員か」
「今日はね」
アリアが椅子へ座る。身体から力が抜ける。「やっと座れます」
「寝てもいいぞ」
「食べてからです」
「甘い物はない」
「今は温かいものがいいと言いました」
「覚えてた?」
「大切なことは覚える」
アリアが微笑む。「そうでしたね」
リナが皿を置く。湯気。匂い。スプーン。伊織は左手で持つ。右は使えない。一口。熱い。塩気。少し薄い。肉はほとんどない。野菜も煮崩れている。
「どう?」
リナが聞く。「美味い」
即答。リナが伊織を見る。「珍しい」
「今日はな」
「いつも言えばいいのに」
「考えとく」
「次もね」
「ああ」
アリアが隣で食べる。ゆっくり。一口。目を閉じる。「美味しいです」
「ありがとう」
「東さんより素直だね」
「比較するな」
外。人の声。負傷者。王都兵。鉄鎖団。まだ片づけは終わっていない。死者もいる。これから数えることになる。壊れた家。崩れた壁。止まった古代兵器。全部残っている。それでも。食堂では鍋が煮えている。誰かが次の皿を用意している。火は消えていない。
扉が開いた。アルド。剣を杖代わりにしている。左額から血。
「父上」
アリアが立とうとする。「座っていろ」
「でも」
「王命だ」
「ずるいですね」
「たまには使わせろ」
アルドは娘を見る。長い。「無事でよかった」
アリアの目が僅かに揺れる。「父上も」
「ああ」
「あとで話すと」
「覚えている」
「今、話しますか」
アルドは周囲を見る。負傷者。リナ。伊織。クロ。湯気。
「あとでいい」
「また?」
「ああ」
「本当に来ますね」
「次は作る」
アリアは少し黙り、頷いた。「では、あとで」
アルドも椅子へ座る。リナが皿を出す。「王様も同じね」
「構わん」
「薄いよ」
「構わん」
「肉少ないよ」
「構わん」
「素直だね」
「今日はな」
伊織とアルドの視線が合う。「似てる」
リナが言った。「やめてくれ」
二人同時。アリアが笑った。声を出して。長くはない。でも、確かに。その笑いが食堂に残る。
扉。再び開く。今度は誰もすぐに振り返らなかった。
「ずいぶんな歓迎だ」
老人の声。伊織が顔を上げる。クラウス。入口。杖代わりの金属棒。白い外套は汚れている。顔は疲れている。それでも立っている。背後には王都兵が二人。
「戻れたのか」
伊織が言う。「観測所の保守路を使った」
「片道じゃなかった?」
「転送が片道だ」
「先に言え」
「聞かれなかった」
「面倒な爺だ」
「お前ほどではない」
リナが二人を見る。「知り合い?」
「最近」
「敵だった」
エルマーが言う。「今は?」
「面倒な爺」
伊織。「評価が雑すぎませんか」
アリア。
クラウスは食堂の中を見る。机。椅子。鍋。クロ。人。火。少しだけ、立ったまま動かない。
「何だ」
伊織が聞く。「いや」
「座れ」
「いいのか」
「何が」
「私が」
誰もすぐに答えない。答えたのはリナだった。「怪我人?」
「......そう見えるか」
「見える」
「なら」
「座って」
クラウスは椅子を見る。「金は」
「あとで」
「持っていない」
「働いて返して」
「何を」
「まず皿洗い」
老人がリナを見る。伊織を見る。アリア。「ここは」
「食堂」
リナが言う。「食べる人が座る場所」
クラウスはゆっくり椅子へ座った。皿。煮込み。湯気。しばらく見ている。
「甘い物ではないな」
アリアが言った。「研究室に残っています」
「焦げたものが」
「ああ」
「食べに戻りますか」
クラウスはスプーンを持つ。手が僅かに震える。「戻る」
今度は迷わなかった。
「明日?」
伊織が聞く。「ああ」
「次があるな」
クラウスは伊織を見る。「あるらしい」
煮込みを口へ運ぶ。熱い。老人の眉が動く。
「どうです」
リナ。「熱い」
「味」
「......悪くない」
伊織が言う。「褒め方を知らないのか」
「お前に言われたくない」
アリアが笑う。リナも。エルマー。アルドまで僅かに。クロは寝たまま。尾だけが一度、床を叩いた。
食堂の外では、まだ鐘が鳴っている。負傷者を運ぶ声。瓦礫を動かす音。泣き声。誰かを呼ぶ声。失ったものは戻らない。明日になれば、数えることになる。それでも今。鍋が鳴っている。皿が置かれる。誰かが食べる。次の皿を待つ人がいる。
伊織はスプーンを置いた。「リナ」
「何」
「おかわり」
一瞬。リナが目を丸くする。「珍しい」
「ある?」
「あるよ」
皿を受け取る。温かい。アリアが隣を見る。「私もお願いします」
「はいはい」
クラウスが小さく言った。「私も」
リナが振り返る。「聞こえない」
「......もう一杯」
「あるよ」
三つの皿。湯気。朝。
帰る場所という言葉を、伊織は口にしなかった。もう、言葉にしなくても分かっていた。ただ、その音の中にいた。




