第140話 また行こう
地面が戻った。伊織は左足から着地した。石。砂。崩れた礼拝堂の床。右肩へ衝撃が走り、膝が沈む。拳銃を握った左手を地面へつく寸前、アリアが腕を掴んだ。
「東さん」
「立てる」
「痛みは」
「かなり」
「なら、まだ動いています」
「ああ」
クロも転送円から転がり出た。黒い身体が石床を滑り、崩れた柱へぶつかる前に前脚を踏ん張る。
「クロ」
鼻が鳴る。弱い。だが、立っている。転送円が背後で消えた。光。音。第一観測所へ戻る道がなくなる。
礼拝堂跡。天井は半分崩れ、夜明け前の空が見えていた。その中央。白い核が浮かんでいる。高さは王城の塔ほどではない。直径も数メートル。それでも、周囲の空間そのものを押し退けるような圧力があった。輪。何重もの白い線。中心には、黒い点。小さい。拳銃の照準へ収まるほど。だが、同じ場所には留まっていない。白い輪の内部を滑るように移動し、現れ、消える。
「見えるか」
伊織が尋ねる。「中心の黒いものですか」
アリアが答えた。「ああ」
「見えます。ただ、位置が定まりません」
クロが低く唸る。黒い毛が逆立つ。
「境界そのものか」
白い核は、この世界へ完全には定着していない。物体ではない。固定機構の出力。古代兵器二十三体の意識。管理権限。それらが一つへ集まり、形を得ようとしている途中。だから撃てない。弾丸を当てる場所がない。
『臨時統括核を構築』
『戦術系統を統合』
『固定工程を再開』
空から声が降る。王都全域。白い兵器が同時に動いた。ドローンの視界はもうない。だが、地面から伝わる振動だけで分かる。二十三体。同じ歩幅。同じ瞬間。王都へ向かっている。
「完成まで」
アリアが聞く。「クラウスは三分と言っていた」
「転送に一分」
「ああ」
「残り二分」
「もう少し減ってる」
「では、一分半」
「多分な」
「今はそれでいいです」
アリアは双剣を抜いた。右。左。銀紫の髪が、白い核から流れる風に持ち上がる。
「どう撃ちます」
「まだ撃てない」
「では、近づく?」
「ああ」
「どこまで」
「外さない距離まで」
礼拝堂の外。白い足音。近い。三方向。北。東。南。地上の古代兵器すべてがここへ来るわけではない。統括核は、動かなくても全機を支配できる。それでも近くにいた機体が、核を守るため集まり始めている。崩れた外壁の向こうへ、白い盾が見えた。一体。続いて刃機。四脚型。少なくとも三体。
「来ます」
「止めなくていい」
「通さないだけですね」
「ああ」
「何秒」
「三十」
「長いです」
「二十?」
「十五で」
「根拠は」
「今、決めました」
「それでいい」
三人は礼拝堂の中央へ走った。白い核。距離五十メートル。外壁を盾機が破る。石。木材。白い装甲。以前より速い。固定出力で強化され、損傷していた部位まで無理やり動いている。
盾機は伊織を見ない。核と伊織の間へ入る。それだけ。射線を塞ぐ。
「正面に立ちました」
「読まれてる」
「では横へ」
「核も動く」
黒い点が輪の内側を滑る。伊織の移動に合わせるように。視線。照準。すべて読んでいる。
『精密射撃を予測』
『射線遮断を優先』
「拳銃まで覚えてる」
「今まで、何度も見せましたから」
「撃つだけじゃ無理だな」
盾機が突進する。アリアが前へ出た。
「私が開きます」
「正面から受けるな」
「分かっています」
盾。横薙ぎ。アリアは後ろへ退かない。風を足元へ集める。身体を沈める。白い盾の下。滑る。双剣。右剣を盾の内側へ。左剣を床へ突き立てる。
「東さん、右へ!」
風が盾の内側から上へ抜ける。巨体は浮かない。だが、盾の角度が僅かに変わる。視界。白い核。一瞬だけ見える。黒い点。左上。伊織は撃たない。
「なぜ!」
アリアが叫ぶ。「動いてる!」
黒い点が消える。別の場所へ。撃てば外す。弾丸は一発ではない。具現し直せば撃てる。それでも。最後の一発は、一発でなければならない。
刃機がアリアへ走る。伊織は拳銃を構える。狙いは機体ではない。床。刃機の前。一発。石が欠ける。機体は避ける。落下。地盤。学習済み。ほんの半歩、進路がずれる。アリアの横を通るはずだった刃が、盾機の背中へ当たった。白い機体同士がぶつかる。
「今です!」
アリアが盾機から離れる。射線。白い核。開いた。黒い点。今度は中心近く。伊織は照準を合わせる。指。止まる。
「まだだ」
「見えています!」
「見えてるだけだ」
クロが白い核へ走る。
「クロ!」
黒い犬は止まらない。核。距離二十メートル。白い波が広がる。クロの前脚が一瞬遅れる。それでも進む。黒い揺らぎ。足元。核へ。
「何を」
アリアが息を呑む。クロは核を壊そうとしていない。定着させる。この世界へ。動き続ける黒い点。白い輪。存在する場所そのものを、固定する。
「クロ!」
伊織が叫ぶ。黒い犬は一度だけ振り返った。行ける。そう言うように鼻を鳴らす。黒い揺らぎが、核の周囲へ広がる。白い輪が震える。
『境界定着を検知』
『守護獣を排除』
四脚型が背部機構を開いた。礼拝堂の外。射撃。狙いはクロ。
「アリア!」
「はい!」
彼女は核ではなく、空を見る。四脚型。発光部。射線。白い光が収束する。風で逸らせない。固定出力。なら、撃つ前。
アリアは双剣を地面へ突き立てた。両手を前へ。風。礼拝堂の崩れた柱。砂。布。破片。全部を巻き上げる。四脚型の観測前へ。
『視界補正』
「補正されます!」
「一秒でいい!」
伊織は叫ぶ。アリアが歯を食いしばる。風。もう魔力はほとんど残っていない。それでも、観測光の前へ砂を送り続ける。四脚型が撃つ。射線。クロの右。白い光が礼拝堂の柱を砕く。破片が飛ぶ。アリアが風で横へ流す。
クロは動かない。黒い揺らぎ。白い核。重なる。黒い点の移動が遅くなる。
「止まります!」
「まだだ」
完全ではない。輪の中。黒い点。右。左。中心。動く範囲が狭くなっただけ。刃機が伊織へ向かう。盾機も立ち直る。クロを守る者はいない。アリアは四脚型を抑えている。伊織。右肩。左手。拳銃。敵二体。白い核。全部を同時には見られない。
「東さん!」
「分かってる!」
盾機。正面。刃機。左。伊織は盾機へ走った。核から離れる方向。古代兵器の観測が追う。
『射撃対象を移動』
『核防衛を継続』
盾機が伊織を追う。刃機も。核の前が開く。
「アリア、今だ!」
「何を!」
「核へ行け!」
彼女は一瞬だけ迷った。四脚型。観測妨害。風を止めれば、クロが撃たれる。
「私が離れれば」
「撃たせない!」
伊織は盾機と刃機の間へ入る。「来い!」
拳銃。盾機の観測光。一発。火花。刃機の膝。二発。装甲は抜けない。だが、二体の脅威判定が伊織へ集中する。四脚型も照準を変える。最も高い攻撃対象。伊織。
『精密射撃対象を最優先排除』
「東さん!」
「行け!」
アリアが核へ走る。クロの隣。二人。白い核。アリアは風を核の周囲へ流す。攻撃ではない。位置。空気が消える場所。黒い点が存在する座標を探る。
「クロ、もう少しです!」
黒い犬の脚が震える。前脚が床へ沈む。黒い揺らぎが薄くなる。アリアが片手をクロの背へ置く。通常魔力。残り。流す。
「使うな!」
伊織が叫ぶ。「必要です!」
「倒れるぞ!」
「あとで倒れます!」
「今倒れるな!」
「分かっています!」
白い核。動きがさらに遅くなる。黒い点。中心から、指一本分だけ右。アリアの風がそこへ集まる。見えない目印。
「位置が定まりました!」
伊織は振り返る。核。距離三十メートル。間。盾機。刃機。二体。射線を塞ぐ。四脚型。背後。発光機構。撃たれる。右肩。動かない。左手だけ。拳銃。
「射線を作ります!」
アリアがクロから手を離した。双剣。一本。投げる。伊織ではない。盾機の足元。剣が石へ刺さる。風。引く。盾機の右足が一瞬浮く。機体が傾く。刃機が横へ避ける。二体の間。狭い。拳銃一発が通るだけの隙間。
「今です!」
伊織は構える。左手。照準。隙間。白い核。黒い点。アリアの風が位置を示す。クロが境界を固定する。指揮中枢。すべてが一つの線へ重なる。
四脚型が撃つ。白い光。伊織の背中。逃げれば射線を失う。撃つ。先に。呼吸。グロック17。スライド。薬室。確認する必要はない。具現したばかり。それでも、親指が動く。身体が覚えている。
落ち着く。雨。車。SAT。南条。あの店。また行こうな。最後まで、次があると思っていた男。次を失った男。次を守ろうとして、全部止めようとした男。食堂。リナ。アリア。クロ。帰る場所。
伊織は引き金へ指をかける。白い光が背後へ迫る。
「東さん!」
「分かってる」
黒い点。止まった。今。銃声。一発。弾丸は、盾機と刃機の間を通った。アリアの風が作った空間。クロが固定した境界。白い輪。中心。黒い点。命中。
音は小さかった。金属を撃った音ではない。薄い氷へ針を刺したような、乾いたひび割れ。黒い点から線が走る。白い輪。一周。二周。すべてへ。
『統括核損傷』
『戦術系統との接続を喪失』
『固定工程を――』
声が途切れた。白い核が割れる。光。静か。爆発はない。輪郭だけが崩れ、細かな粒子となって空へ散っていく。
伊織の背後へ迫っていた射撃も消えた。四脚型の発光機構。暗くなる。盾機。止まる。刃機。振り上げていた腕を残したまま、動かなくなる。
王都。地面を伝えていた振動が止まった。二十三体。すべて。白い装甲から光が消える。
伊織は拳銃を下ろした。左手。震えている。力が抜ける。膝。床へつく。
「東さん!」
アリアが走る。伊織の前へ滑り込む。肩。触れない。左腕を支える。
「撃てた」
「見ていました」
「外してない?」
「外していません」
「そうか」
クロが核のあった場所で倒れた。
「クロ!」
二人が駆け寄る。黒い身体。動かない。伊織の呼吸が止まる。
「クロ」
手。首元。温かい。胸。呼吸。浅い。ある。黒い鼻が僅かに動く。
「寝てるだけか」
尾が一度。床を叩く。「心配させるな」
もう一度。弱い。アリアが膝をつく。クロの背へ手を置こうとして、止める。魔力はない。ほとんど。
「大丈夫です」
彼女は言った。自分へ言い聞かせるように。「戻れば、休めます」
「ああ」
「食堂へ」
「ああ」
アリアの身体が傾く。伊織が左腕で支えた。
「お前も」
「少し、休みます」
「正直だな」
「約束しました」
二人。一頭。崩れた礼拝堂。古代兵器三体。動かない。空。夜明け。白い光は消えている。代わりに、東の空が少しずつ明るくなっていた。
「終わったのでしょうか」
アリアが尋ねる。「多分」
「また多分ですか」
「クラウスに確認する」
「帰っていれば」
「帰る」
「なぜ分かるのです」
「菓子が残ってる」
アリアの口元が僅かに緩む。「焦げているのでしょう」
「ああ」
「それでも?」
「食べるって言った」
遠く。王都。鐘が鳴った。一度。間。二度。今度は遅れない。同じ間隔。時間が流れている。
伊織は空を見た。日本。帰る方法。まだある。決めていない。それでも。今は帰る場所がある。
「戻るぞ」
伊織が言った。「はい」
アリア。クロはまだ立てない。伊織は黒い身体を左腕で抱えようとする。右肩。無理。アリアが反対側へ手を入れる。
「一緒に」
「ああ」
二人でクロを持ち上げる。重い。温かい。生きている重さ。
礼拝堂の外へ出る。王都。煙。崩れた壁。倒れた時計塔。止まった古代兵器。人々。動いている。食堂の方向。遠い。歩ける。
「東さん」
「何だ」
「帰ったら」
「ああ」
「何か食べたいです」
「甘い物?」
「温かいものです」
「リナに頼め」
「あなたも食べますか」
「多分」
アリアが伊織を見る。「必ずです」
「分かった」
「何を」
「一緒に食べる」
アリアは前を向いた。頬が僅かに赤い。
「約束です」
「ああ」
三人は、朝の王都へ歩き始めた。黒い鎖の旗が、遠くで再び上がる。王都軍の旗。冒険者たちの声。食堂の煙突。煙が上がっている。火は消えていない。次の飯を作るための火だった。




